見出し画像

Kindleに本気で取り組んで9ヶ月、これまでのこと、これからのこと


こんにちは瑛太です。
本気でKindleに挑戦してから、早いもので9ヶ月が経ちました。

後発組なのにすごいとか、Kindleの新星とか、最近言われるようになりました。

でも、実際は泥臭く、かっこ悪く副業に取り組んで、一人ではなかなか上手くいかず、沢山の方々に支えて頂きながらなんとかここまで来ています。

恥ずかしいけど、僕一人でここまで来たとは口が裂けても言えません。全ての人間が開拓者のように一人で全部できるというわけではないと思います。

僕のように上手くいかなくて燻ってる人も、きっといるんじゃないかと思います。

ただ一つだけいえるのは、どんなに歳をとっても苦しんで、もがいてる姿のほうがカッコいいぞということ。

友人が最近ゴルフを始めました。
インスタには、休日に友人同士でのんびりゴルフを楽しむ風景があがっていました。

そんな姿よりも、寝る間も惜しんで人生変えようとパソコンに向かって必死で文字を打っている自分のほうがかっこいいと思えているということ。

大人になると時間の進みが早いとよく言いますよね。実際僕もそうだけど、これまでの時間の進み方と、この9ヶ月間の速さの質は全く違います。

1分、1秒がもったいなくて、睡眠時間も惜しむほど夢中で駆け抜けた時間でした。

この9ヶ月間で僕の人生は180度変わりました。

▶︎情報発信を始める以前の僕の人生

  • 両親の離婚、貧乏な生活、いじめを経験した幼少期。真面目に”普通”に生きることが親孝行だった

  • 激務により100,000人に1人の病気を経験。自分は会社の歯車で代わりはいくらでもいると知る

  • 副業に挑戦するたび挫折。稼げない、書けない、嫉妬、自己否定の連続の日々

  • お小遣い3万円をチビチビやりくり。家族と遊びに出かけても財布のことばかりが気になる

▶︎本格的に情報発信を始めて9ヶ月経った今

  • 副業収入100万円突破

  • Kindleからの印税50万円突破

  • 最高月収40万円突破

  • クライアントに感謝されながらビジネスを展開できている

  • 家族ディズニーでお腹いっぱい好きなものを食べられるようになった

  • 今までの人生の中で今が一番楽しいと思えるようになった

コンプレックスだらけの過去に比べて、僕を取り巻く環境や心の持ち方は、天と地の差と言えるほど変化しました。

人生を振り返っても、短期間でここまで自分を変えられた事は今までありませんでした。それくらい濃い9カ月間だったと思います。

何をやってもうまくいかず、特別な成果も得られない。人に必要とされている感覚が持てず、自分の代わりはいくらでもいると卑下し続けていた人生。

それでも、この人生を変えたいとギリギリのところで踏ん張り続け、やっとのことで明るい未来への糸口が見つかりました。

今回は、もっと僕のことを知ってもらえればと思い、今までの人生を物心ついた時から振り返り、どんな人生を歩んできたかを書いていきます。

最後までお読み頂けると嬉しいです。

母の財布にお金を入れる少年

1991年1月、僕は3人兄妹の次男として生まれました。

僕はおとなしい性格で、駄々をこねて意思表示することもなく、おっとりした手のかからない子供だったそうです。

今考えると、親を喜ばせたかったんだと思います。
それが僕の場合「おとなしくいること」だったんです。

車の中で眠ると、両親は「たくさん寝てえらいなあ〜」と言っていたので、目をつむって寝たふりを続ける、そんな子供でした。

僕の幼少期は幸せだったか、といわれると少しだけ疑問です。
愛されていたという自覚はあるけど、両親の喧嘩は日常茶飯事だったし、母親の暗い表情をみることが多かったからです。

まだ子供だった僕は、母親に対して何もしてあげられないことにふがいなく感じていました。

両親が喧嘩をしていた理由は「お金」です。
子どものころ住んでいた家はとても大きなモデルハウスでした。

父親は建築会社の社長をやっていて、全盛期はテレビCMにも出ていたそうです。

ただ、僕の記憶に残っているのは、父親が家計にお金を入れず、母親が途方に暮れている姿。

父親が家に帰ると母親は怒鳴って口論がはじまる。そんな日々でした。

父は次第に家に帰ってこなくなりました。
僕が覚えている父の姿は、母が早朝パートに出かけた朝、床にあぐらをかいて新聞を読む父親の姿です。

僕は人生において、かっこよく働く父親像というものを見たことがありません。

小学生になったころ、母親はなんとか兄妹を育てるため、工場清掃と食品配達のパートを掛け持ちしはじめました。

生活は厳しかったですね。
大きなモデルルームに住んでいる割には、スーパーでお菓子を買ってもらった経験が一切ないほどです。

母親はいつも、思いつめた表情をしていました。
僕はその姿をみてられなくて、貯金箱からなけなしのお金をお母さんのお財布にこっそり入れていました。

家の近くには母方のおじいちゃん、おばあちゃんがいて、毎日の晩御飯は祖父母のおうちに通って、おばあちゃんの手料理を食べさせてもらっていました。

子どもの頃の記憶が暗いことばかりじゃないのは、おばあちゃんの食事が、あったかくて、やさしくて、愛されていたことが身に染みて伝わってきていたからです。

この食事がなかったら、僕は今頃どのようになっていたかわかりません。僕はおじいちゃん、おばあちゃんに人生を救われています。

僕の言葉遣いはよく「やわらかいね」とか「やさしいね」と言われるのですが、その理由は祖父母の言葉遣いを真似しているからです。

娘が生まれた今、この言葉遣いで子供に接することができることを誇りに思っています。

母親は僕たち兄弟に「誠実に育つように」と、小学1年生のころから剣道を習わせてくれていました。

自らやりたいと言ったわけではないのですが、剣道場には同い年のメンバーが5人いて、一緒に練習するのが楽しかったのを覚えています。

剣道の道具ってすごく高いんです。
面、小手、胴、竹刀、道着、袴、全て揃えると、最低でも5万以上はかかると思います。

当時はネットも普及していませんでしたから、購入できる場所と言えば武道具店くらい。どうやって集めてくれたのかはわからないけど、僕は剣道をすることが出来ました。

小学5年生のころに事件が起こります。
ベッドで寝ていると、2階のリビングから「人殺し!!」と叫び声が聞こえたのです。

飛び起きてリビングに行くと、父親が母親を殴っていました。

父の顔が真っ白だったので、自分のふがいなさと母親からの暴言に耐えられなくなり、パニックになったのだと思います。

結局、人が死ぬとかではなかったですが、未だにこの声は耳の中に鮮明に残っています。

母は「子どもたちに謝れ!」と怒鳴りました。
父は膝をつき、僕たち兄弟を抱きしめて「ごめんね、ごめんね」といっていました。

なぜこうなったのか。
全てはわからないし知り得ないのだけど、子供ながらに、両親は離婚すると悟っていました。

ほどなくして、僕たち兄妹は母親と一緒に家を出て、2Kのアパートに移り住みました。

おそらく、離婚前は借金もあったのでしょう。今までお菓子すら買えなかった生活だったので、母が「チョコ棒」を買ってきてくれたときは驚いたのを覚えています。

離婚したことで母親の表情はすこし明るくなり、内心ホッとしたのを覚えています。

楽しくない学校生活を剣道で発散していた

僕の中学時代は剣道に熱中していました。

月・水・土で部活動、火・木で道場稽古、水・金・日で他の道場に出稽古のような感じで、週8回練習をするようなストイックな日々でした。

ただ、これだけの練習量も苦ではありませんでした。
中学の部活では自主的に練習内容や頻度を組み立てる事ができるようになったからです。

ただ、ちょっとした悪ふざけから、僕はいじめられるようになりました。

部活の練習後、部活のメンバーが持っていたスポンジ製のキーホルダーを面白半分でちぎって遊んでいたのですが、そのキーホルダーは不良グループの仲間同士で買ったものだったらしく、僕はグループから嫌がらせを受けるようになります。

僕は目が大きいので「デメキン」と罵られたり、授業中に消しゴムを投げられたり、昼休みに突然首を締められたり。僕は太刀打ちすることもなく、ただただやり過ごすように過ごしました。

学校の中では、勉強に集中する以外にやり過ごす方法が思いつきませんでした。

その後いじめは数か月でおさまりましたが、クラス全員が僕のことを嫌っているように思えて、昼休み中は机に突っ伏して誰とも目があわないように寝ていました。

学校が楽しくない分、僕は剣道を心のよりどころにしていました。
練習漬けの毎日はむしろ好都合。稽古に没頭することが僕のストレス発散になっていたのです。

努力をしたというつもりはないですが、このとき僕は札幌市3位などの成績をおさめていました。

兄も剣道をしていて、すでに高校で剣道部に所属していました。
高校の剣道部の顧問が僕の試合を見ていてくれたようで、試合終わりの僕に「うちの高校に入学しろよ〜」と声をかけてくれました。

僕は認められた事が嬉しく、兄と同じ高校に入学することを決めました。

入学した当時の高校の剣道部は、インターハイのシード権を勝ち取るため実力をつけている時期でした。顧問はいろんな高校に電話営業をし、練習試合を取り付け、函館、釧路、青森などの大会に出場。北海道の各地から強い人間を引き抜いて競わせるような雰囲気でした。

レギュラー争いが激しく、大会前は毎日のように総当たり戦を繰り返していました。大柄の高校男子の力が強く、骨格が細い僕は防具をつけていても打撲だらけ。本州の大会に挑む際は、内地の気温に慣れるため真夏の道場でストーブをつけて試合したりもしました。

僕は次第にこの毎日にうんざりし、レギュラー争いに参加しなくなりました。何度も何度も何度も試合をしても、一向にレギュラーを勝ち取る未来が見えなかったからです。

はじめて剣道で「自分には才能がない」と痛感した高校生活でした。個人としては挫折しましたが、貪欲に勝ちにこだわる姿勢は高校時代に嫌でも叩き込まれました。

結局僕は12年間剣道をしてきたことになります。今この文章を書いている自分は33歳ですから、人生の3分の1は剣道でできているといっても過言ではありません。

高校に入ると進路についての話題が自然と増えます。
母からは「サラリーマンとして大手に入りなさい」「安定がいちばん、父親のようには絶対にならないで」、そう言われながら育ってきたし、僕自身、起業した父が楽しそうに仕事をしている姿はみた事がなかったので、真面目に勉強してサラリーマンとして就職しようと心に決めていました。

勉強が嫌いじゃない僕は、学年の中でも成績はいいほうでした。期末テストの点数が廊下に貼りだされ、ランキング10位以内に自分の名前が掲載されるのが快感だったのを覚えています。

内申点は5点満点中4.9だったため、指定校推薦で大学に進学できました。みんながセンター試験に必死の中、僕は運転免許取得のために自動車学校に通っていました。ちょっとずるいのも僕の性格の一部ですね。

暗い価値観がひっくり返った大学時代

大学時代。
僕は剣道を卒業し、北海道で盛んな「よさこいソーラン」をはじめました。
よさこいソーランとは、北海道の民謡に合わせてソーラン節のフレーズを使いながら、音や振り付けで会場を盛り上げるものです。100人規模で行う群舞のようなものですね。

札幌では毎年6月の初夏に「よさこいソーラン祭り」を開催します。
全道から数百チーム、全国から参戦するチームもある程の大きなイベントです。

大学にはこの「よさこいソーラン」のサークルがありました。学生のよさこいサークルは一般的には「THE大学生活」というおちゃらけたイメージが強いのです。

でも、うちのチームは違いました。もともとは「楽しければいいよね」というチームだったのですが「やっぱやるからには勝ちたいよね」という方針転換の時期だったのです。

僕たちの目標は「よさこいソーラン祭り」で500チーム以上が参加する中の上位10チームだけが参加できる「ファイナルコンテスト」に出場するというものでした。ファイナルコンテストはテレビ中継されるほどで、どさんこなら一度はみた事があります。

先輩たちが少しずつチームの雰囲気を変えてきた、その改革の中の3年目に僕はチームに参加しました。ダンスの振り付けも本格的にダンススタジオの講師にお願いし、音楽制作はラジオ局にプロデュースを依頼。学生ながら大人に対して営業活動をするような生活です。

毎日毎日体育館で練習し、練習後は夜の公園に移動して練習を重ねました。学校から家までは電車を乗り継いで1時間半ほどかかるので、僕はほとんど家に帰らず、学校近くの友だちの家に寝泊まりしていました。

練習の日々なのでバイトができず、驚くほどお金がない貧乏学生でした。
一日使えるのは200円ほど。仲間も僕と同じようにバイトをしていなかったので、スーパーで400g200円のパスタを買い、塩コショウや焼肉のたれで食べたりしていました。大学生の男子が満腹食べて、一人当たり40円ほどです。

パスタをほおばりながら「あの演出はもっとこうしたほうがいい」とか「ここの振付はもっとこうしたらいい」とか、暇さえあればどうしたらチームが勝てるのかを議論しあっていました。

今まで、家族と過ごしていた貧乏生活の劣等感とは違い、お金がなくても本当に楽しくて、まさに青春を味わったなと思います。

このような生活をしていてもなかなか成果が出るものではありません。
大学2年、大学3年と悔しい思いをし続けたのですが、それでもなお勝ちたいと取り組んだ結果、大学4年生の時、夢のファイナルコンテストまで行くことができました。

チーム全員が叫びにも似た声で泣き崩れました。僕自身も、人生においてこれほどまで嬉しかった出来事は他になく、あまりの感動に足に力が入らず膝立ちの状態で、泣きながら仲間たちと成果を称え合いました。

この経験が僕の人生において大きな成功体験で、ブラッシュアップを続けながら取り組み続けることの重要性を教えてくれました。この日々の中で出会った仲間とは、卒業してから10年以上たった今でも唯一連絡を取り合っています。

「お金、人間関係、努力、青春」過去の価値観が全てひっくり返り、人生が好転した大学生活でした。

悔しさを戦略で見返す就活生

楽しかった学生生活も佳境となり、いよいよ就活の時期。
その前に話しておきたいのが東日本大震災の経験です。

僕は大学3年の時にこの震災を経験しています。
実家の食器たちがパリン!パリン!と割れる音に恐怖を感じながら、テーブルに潜り込み地震がおさまるのをじっと待ったのを覚えています。

テレビの映像は地獄のようでした。
水道も電気もガスも使えず、避難所で苦しむ人たちの表情が目に焼きついています。僕は「就職するならインフラ関係にいこう」と漠然と考えるようになりました。

そして新聞で読んだ一つの記事が僕の就職先を選ぶきっかけになりました。

「小売店は社会のインフラ」

その記事にあったのはおにぎりやパンを幸せそうに食べる被災地の方々の写真です。この記事に感銘を受けた僕は小売業界に進むことを決意します。

大本名として、北海道に根差した大手小売業に応募しました。
友人も一緒に応募していて、その子は早々に落選したと連絡をもらっていました。

一方、僕は一つまた一つと面接をクリアし、いよいよ最終面接。
最後は集団面接で、問題なく受け答えができたと内定を確信しました。

しかし、蓋を開けてみると僕ではなく、落選したはずの友達が内定をもらっていたのです。

「え…?なんだこれ、何かの間違いだろ…」

友達は落選後、企業から改めて面接したいとメールがきており、敗者復活戦のような形で面接を進めていたらしいです。

一度落ちたはずの友達が内定し、順当に進んだ僕が落選。この状況が悔しくて悔しくて、部屋の枕を叩きながら叫びました。友人とその会社を見返したくて、日本トップクラスの企業を受けることにしたのです。

大手企業は面接のステップが多く、グループディスカッション、個人面接をクリアし、3次面接までたどり着きました。

最終面接は確認の意味がほとんどだと聞いていたので、実質この面接が合否の分け目となります。

僕は切り札を用意していました。
大学のメンバーに自主的にアンケートをとり、「カスタマーがもつ不満」をまとめた資料を作成して面接官に提出しました。

面接官は驚いていました、そりゃそうですよね。
自主的に資料を作って提出するような姿勢の学生はそういないだろうし、内定者を選ぶ時に「資料を提出してきた人とそうでない人」に分かれるからです。ぼくは無事内定をゲットしました。

かっこよく書いたけど、内心は藁にもすがる思いでした。

泥臭い営業活動とマネジメントへの挫折

無事入社した僕は、実店舗に配属されました。
モノを売るということは、本当に奥が深くて楽しいのです。

お店の雰囲気、店員の接客態度、プラス一点の声かけ、清掃、展示の仕方、ボリューム感、値札の取り付け、販促物、ライトの当て方、集客動線などなど、あらゆる取組みが「販売数」という数字として成果に現れます。

僕が配属されたのは札幌の僻地にある観光スポットに隣接されたお店で、昼は観光客で長蛇の列になるほどでした。

しかし夜になると、1時間に一組お客様が来るか来ないか。
お昼の賑わいの割には苦しい経営が続いていたのです。

この状況の中どうやって売上を作るか、こんなことを考え続けていました。
集客の手は尽くしている状況。お店の中でどれだけ待っていてもお客様は来ない。

そうなったら、もう自らが営業に行くしか方法はない。新しいキャッシュポイントを作るしかなかったのです。

「なんでもお持ちするので、なにか欲しいものありませんか?タバコ1つからでも構いません。」
そんな営業周りをたった一人でしていました。

僻地での取り組みは会社にはなかなか伝わりません。
そもそも出世にはあまり興味はありませんでした。
ただ単純にどうやったらお店がよくなるのか、だけを考えていました。

ある日、たまたま来ていた僕のトレーナー(教育係)がお店にこられて、僕がお店の中にいないことを従業員さんに確認したことで、取り組みが会社に伝わっていきました。

その後、知らないところで成果を出す「隠れキャラ」と呼ばれるようになり、その後も地味で地道な活動が認められて、道内の看板店舗の店長に抜擢されました。

正直、「こんな僕でもできるのだろうか…」
と言うような、嬉しさ3割・不安7割といった感じでした。

配属されたのは北海道支部の事務所下の店舗で、会社のお偉いさんが毎日のように買い物しにきます。

ことあるごとに「ここがだめだ、あれがダメだ」と部長に叱られながらの店舗運営。

しかも配属されたタイミングが最悪で、僕を含めて店長が3人いたのです。
前任の店長と、ステップアップのために入店していた大ベテランの店長、そして僻地から飛んできた僕です。

立場が弱いのは明確で、僕の発言はお店の従業員さん、副店長には伝わりません。お店というものは、トップが揺らぐと突然にガタガタと崩れ落ちるんですね。コントロールが効かなくなり、不正、不正、不正と不祥事が連続しました。

僕はストレスで眠れない日々が続きました。
多くは語れないですが、会社員人生の中で最も辛い期間。これまで僕は個人で売上を上げてきたけど、マネジメント側に立って初めて挫折を経験しました。

僕は降格し、もう一度副店長としてリスタートしました。

今までの日々で積み上げてきたスキルとマネジメントの教訓から、どこの地域に異動しても成果をあげることができたのです。その後無事に店長に昇格し経営技術を学びます。

自分が死ぬとき誰に見送られたいかを考えた

3年半の店舗経験を経て、僕は7店を受け持つ経営コンサルタントとしてデビューしました。

今考えると、お店の現状を分析し、売上利益をあげるための店内体制の構築、キャンペーンで爆発させるための事前準備など、副業にも通ずる仕事をこの期間で習得しています。

僕は一度マネジメントに挫折して、店舗経験が長かったぶん、体験ベースのアドバイスで、すぐにお店に結果を出すことができました。出だしから会社・お店に信頼されながら、順風満帆なスタートをきることができたのです。

しかし、人生は甘くないですね。
僕はこの時期に人生における価値観が大きく変わる体験をします。

26歳の夏。僕は仕事に熱中していて、朝5時半に仕事を始め、夜は23時まで働くこともありました。信頼される事が嬉しく、やればやるほど成果が出る仕事が楽しかったのです。一人暮らしだったこともあり、生活の9割は仕事をして過ごしていました。

夏のボーナスが支給されるころです。
会社の地区メンバーで飲み会がありました。

僕が働いていた十勝・帯広は、食べ物は本当に美味しくて、お肉・お魚・お野菜、素材全てが上質でした。鶏肉も最高で、新鮮な鶏肉を少し炙ったお刺身に、北海道原産の山わさびをたっぷり乗せた「とりわさ」、これを口いっぱいに頬張ってビールで流し込むと、これがまた絶品なのです。

ただ、この食事が僕の人生の軌道を変えることになります。

僕は飲み会の翌日から1週間の夏休みをとっていて、その日は地元札幌に帰る日でした。

しかし、38.7℃の高熱、腹痛と嘔吐、下痢などの胃腸炎の症状に苦しんだのです。トイレに篭りっぱなしの1日でしたが、翌朝にはすっかり回復。無事札幌に帰省して、友達とビアガーデンに行ったり、当時流行っていたポケモンGOをしながら休日を満喫しました。

ただ、夏休み最終日。僕は体にある異変を感じました。

実家のお風呂には10センチ程の段差があるのですが、その段差を登る足に力が入らなかったんです。その時は「ん?なんか違和感があるな」程度の感覚でした。

明日から仕事に戻るので、気にせずに帯広に車を走らせました。
ただ、明らかに身体の様子がおかしいのです。

しだいに握力がなくなり、足の指に力が入らなくなっていきました。途中トイレ休憩のために車を降りたときも、階段が思うように登れません。身の危険を感じたため、帯広についてから夜間病院に足を運びました。

夜間病院、そこで簡易的な検査をしてもらいました。
その間にも、身体の異常は進行する感覚が続きました。

研修医のネームプレートをかけた先生からの診断は「栄養不足」でした。

「数字を見る限り、特に異常はありません」
「美味しいものを食べてくださいね」
そう告げられました。

「本当かな…明らかに身体が変なんだけど…」
「でも、病院の先生が言うならそうなのか…」

そう思いながら、後輩を誘って食事、帯広の部屋に戻り、不安な思いを抱きながら眠りました。

翌朝、僕の体はすでにほとんど動かなくなっていました。
足を曲げると膝が抜けてしまうので、棒のようにしてなんとか歩くほかありません。

僕の部屋は二階にあります。
朝イチで対応しなければいけないタスクがあり、仕事に向かおうと出発するも、足に力が入らず階段から転がり落ち、手足を擦りむき、ここでギブアップ。救急車を要請し、病院へ向かいました。

市立病院に運ばれ、病院の先生に症状を伝えた瞬間

「即入院です、家族に電話してください」

そう告げられました。電話先の母親は状況を把握するのに精いっぱいの様子。

その後検査が始まります。体内にあるずい液を採取するため、太い注射を背骨に刺されました。これがめちゃくちゃ痛くて、身体がビクッと無意識に反応してしまいます。額に脂汗をかきながら、何とか検査を終えました。

告げられた病名は

「ギランバレー症候群」

免疫システムが自分の運動神経、感覚神経を敵とみなし攻撃する10万人に1人の確率で発生する病気です。しだいに身体が動かなくなっていたのは、運動神経が免疫に破壊されていたからです。

ガラガラと担架で運ばれながら、看護師さんから「頑張ろうね…!」と手を握られました。優しく接してくれるけど、その優しさ=病気の重さを伝えてくれるように感じました。

僕は絶望感というよりもなるようにしかならないという感覚でした。運転中にある程度の絶望を味わったし、身体の異変は明らかだったので受け入れるしかなかったのです。

ただ、不幸中の幸いもありました。
病気は診察の時点でステージ4。
あと数時間遅れていたら、横隔膜が停止し、呼吸ができず死んでいたそうです。

会社のメンバーが「おいおい大丈夫か?」と病室にお見舞いにきてくれました。夏本番の繁忙期に僕が離脱することで、お店やメンバーに多大なる迷惑をかけていたので、申し訳ありません、申し訳ありませんと頭を下げ続けました。

「こっちは大丈夫だから、治療に専念してね」

チームのメンバーの優しさがすごく嬉しくて、満たされた気持ちになりました。

しかし、当たり前ですが仕事は僕のことを待ってはくれません。
僕はベッドで仕事用のノートパソコンを広げ、毎日確認していました。会社は僕の状態を確認後、すぐに担当エリアを入れ替え、僕の代わりの人材を配置しました。

わかってはいたけど、正直ショックで、なんとも言えない孤独感。
重たい石がお腹の中に沈んでいくような気持ちになりました。

「そっか、そうだよな。自分は会社の歯車でしかなかったんだ」

本気でそう思いました。強いネガティブ感情ではなくて、改めて悟ったような感じです。

これが現実。

会社のメンバーはひとり、またひとりとお見舞いには来なくなって、ついには誰もこなくなりました。

これが会社員。これが歯車です。

それから、毎日毎日毎日毎日、点滴を打ちながら病室の天井を見る生活が始まりました。

睡眠、食事、睡眠、食事。

「自分は一生このまま体が動かないのか…?」
「え、彼女だってろくにいたこともないのに」
「仕事だってそのままだし、中途半端で迷惑かけてるし」
「貯金だって全然ないし、この先治療が長引いたらまじで死ぬしかないかもな」

そんなことをグルグルぐるぐると考えていました。

ただ、毎日欠かさずにお見舞いにきてくれる存在がいました。
それが、家族です。

母と妹は仕事を休んで札幌から帯広に駆けつけてくれて、僕が住んでいた部屋に泊まり込みながら僕の看病をしてくれました。

毎日なにか食べたいものはないか、欲しいものはないかと確認してくれて、僕のメンタルまでケアしてくれていました。普段は家族の大切さに気が付かないけど、こんなときに本当に気付かされます。

僕がいま家族を第一優先に考えているのは、このとき”自分が死ぬとき誰に見送られたいか”を考えたからです。そして、”死ぬ時に手を握ってくれるのはきっと家族だけ”だからです。

だったら、仕事よりも家族を幸せにする方がよっぽどいい。
身近な人たちに惜しまれながら、感謝を伝えて死にたい。
そう思ったのです。

病気の進行は無事止まり、入院から1ヶ月後、集中治療室から札幌のリハビリ病院へ転院しました。

資産1億円という目標が漠然とできた

リハビリ病院に転院、そこからは死ぬほど辛いリハビリが待ち構えていました。

僕は1ヶ月以上寝たきりの状態だったので、全身の筋肉は落ちきっていました。腕を動かそうとしても、神経も電気が送られている感覚だけで、実際には全く動いていません。こんな状態からのリハビリスタートです。

毎日毎日、作業療法士・理学療法士の方々からマッサージを受けながら、1ミリ単位で神経を回復させていく日々です。

なんとか立ち上がれるようになると、次は補助器具をつけて、棒に掴まり歩く練習をしました。一歩あるいては膝の力が抜けて崩れ落ち、また挑戦する。まるでよく見るドラマのワンシーンのようですよね、この風景が自分の身にも起こったのです。

ベッドに戻ると足がつり、ねじれるような痛みで眠れない日もありました。

リハビリ病棟は高齢者ばかり、その中にポツンと26歳の自分がいます。
だから、ご飯も高齢者向けの薄味の食事で味気がありません。

会話する人もいない、夢中になれるものもない。

ただただ、身体の回復を信じて、時がすぎるのをじーっと待つ時間が流れました。

「病院のベッドでも仕事ができたらなあ」
「今動くとしたら指くらいか」
「パソコン一台で仕事が完結すれば最高なんだけどな」

そんなことを考えていました。

ただ、その時は漠然と考えていただけで、実際にはプロスピというスマホの野球ゲームをもくもくとするだけの毎日です。余談ですが、当時は「逃げ恥」がブームになっていて、僕はこのドラマを消灯後の真っ暗な病室でひとりみていたのを覚えています。

このような日々を1年以上、毎日毎日毎日毎日毎日繰り返し、やっとのことで補助ギブス&松葉杖で歩けるようになりました。ぼくは病院を退院し、自宅で暮らしながらリハビリ通院する生活に切り替えました。そのタイミングで、仕事復帰も視野に入れました。

自分でバスに乗れるようになり、自分で歩いて目的のものを持つ。自分の足で歩く事がいかに素晴らしいことか。これは僕だけしかわからない感覚ですが、こんなに楽しいことはありません。歩きながら目に映る景色は、今までの人生とは確実に違い、全てが魅力的に見えました。

病院の外での生活にも慣れ、落ち着いたタイミングで事務職として復職しました。

配属されたのが部長クラスの資料を作成するチーム。1,000店舗以上のデータを分析し、言語化する仕事です。

僕はここでスライド作成、最低限のデザイン技術、エクセルの表計算などの事務スキルを習得しています。また、部長クラスともなると歓送迎会も盛大で、サプライズ動画の作成なども仕事のひとつとなりました(もちろん業務外)

仕事ができるというだけで楽しくて、人と生産的なことを話せるというだけで楽しかったです。

僕はもともと入社当時から資料を作ることに興味をもっていて、いつかかっこいい資料が作れるようになりたいと思っていました。だから資料に関わる仕事ができて、本当に楽しかったのを覚えています。

チームの先輩は、デザインの本なども読み漁るほどの仕事中毒で、資料の表現はずば抜けていました。そこで表現の技術を学んでいます(Kindleの表紙にこだわるのそのせいですね)

僕は事務職として働き、リハビリを続けながら少しずつ身体が回復し、28歳のときに営業職に戻ることを決意しました。

会社からの配慮もあり、自宅から通える距離のエリアを担当しました。
ただ、病気前までの熱度で働くことはできず、どこかで「自分は歯車で代わりはいくらでもいる」という感覚を抱えて仕事をしていました。

そんなある日、チームの先輩と雑談をしているときに「投資」の話になり、先輩は米国株の投資に取り組んでいるというお話しを聞きました。

それから僕は投資について調べるようになり、投機的な投資ではなく、資産を増やすための投資に魅力を感じるようになりました。

投資をすることで、過去お金に苦しんできた人生を少しは解消できるのでは?この漠然としたお金の不安を解消できるのでは?と思ったんです。

この時期、FIREという言葉が流行り始めています。経済的に自立し、仕事を早期リタイアすることですね。僕はリタイアすることよりも、この”経済的自立”のほうに興味を持ちました。年利4%で運用し、その利息で生活する。いわゆる”4%ルール”ですね。

これが実現できれば将来お金の心配をする必要がなくなります。少なくなるという方があっているかもしれませんね。

この生活を実現するために必要な資産を調べると、僕の生活水準だと最低でも1億円の資産を持っていないと生活は成り立たないと理解できました。

「1億円…」

どう考えたって、今の収入では現実的に無理がある。だからといって、会社の歯車として上司にペコペコしながら出世したくない。

ここらへんから「副業をしたい」という意識が芽生えてきました。
このころは彼女もできて、同棲もはじめて、生活の変化が激しいじきでした。

そんな時、上司から電話がかかってきます。

「東京に辞令でてるよ?」
「人が足りないから今すぐにでもこっち来てほしいんだって」

突然の辞令に驚きました。

ただ、この辞令は、当時僕が資料チームとして活動している中で、こいつは見込みがあるぞという理由で呼ばれたものでした。自分の代わりはいくらでもいるという想いで仕事をしてきた僕ですから「あなたが必要だ」という言葉に胸をうたれました。

彼女にそのことを話し、これを機に結婚することに。
即指輪を買い、即入籍。辞令の電話をもらってから1週間後に東京行きの飛行機に乗りました。

挫折だらけの副業人生

東京での生活をスタートすると同時に、僕はフードデリバリーの副業をはじめました。

今のような文章による副業に挑戦しなかったのは、漠然と副業=デリバリーという思い込みがあったからです。

当時、缶コーヒーBOSSのテレビCMで副業デリバリーをしている風景が記憶に残っていたので、まずはここからと思い挑戦しました。

ただ、僕はすぐにこの選択を間違ったと痛感します。そもそも僕の身体は普通に歩ける程度で、ちょっと無理すると疲れてしまうレベルでした。

そんな中、太陽が燦々と降り注ぎ、熱くなったアスファルトから熱気がたちこむ道路の上を、僕はゼーゼーと汗をぼたぼた垂らしながら、ママチャリを運転していました。

フードデリバリーってよく四角いバッグを持っていますよね。
あれって実は、会社から支給されるわけではなく、自分で買うものなんです。

ネットを調べると、安くて最低4,000円ほどでした。僕はお小遣い制だったので、この金額すら払うのをためらったのです。

僕は家から持ってきたブランケットに食事をつつみ、ママチャリのカゴに入れてゆっくりと配達しました。

東京は坂道多くて、ママチャリで配達するには最悪の環境です。
どれだけ配慮しながら配達しても、食事が傾いてしまいます。

デミグラスオムライスのソースが容器からはみ出し、お客様から冷たい視線をもらったこともありました。

しんどい思いをしながら配達した給料は1時間自転車を走らせて700円ほど。
バイクならうまみがあるかもしれませんが、自転車での配達は給料に見合うとは思いませんでした。

「こんなにしんどいのにこれだけか…」

そんなことを考えていた配達の帰り道、疲労が溜まっていたせいで自転車ごと倒れ、ひじをすりむき血が流れました。
帰宅すると、妻はあきれた顔。

「なんでそこまでするの?生活は困ってないでしょ、そもそも本業に支障が出たら元も子ももないんじゃない?」

そう言われて僕は反論できず、副業禁止だからねと釘を刺されました。

でも、僕はやっぱりやりたかったんです、もう目標を掲げてしまったから。
このときは僕が何を考えて副業に挑戦しているのか伝えられませんでした。

諦められなかった僕は、妻に隠れて家でできる副業を調べ始めました。
ブログ、WEBライター、アンケート回答、、、

YouTubeを調べていると「マナブさん」という方を知りました。
その方はセブ島に暮らしていて、ブログだけで生きている方。

あまりにも淡々と話しているので、僕にもできるかな?と思いブログへの挑戦を決意。最安値のパソコンを購入しました。

しかし、ここでもまた挫折を味わいます。
ブログ副業の存在すら知らなかった僕にとって、わからない用語が多すぎました。

ドメイン?サーバー?意味がわからなくて都度調べます。
ドメインはインターネット上の住所で、サーバーは土地で…

どの記事、どの動画を調べても同じような説明ばかりでよくわかりません。

「初心者はWordPress一択!おすすめはエックスサーバー!」

YouTube動画では、みんな同じことを言っていたので、僕は脳死でWordPressとエックスサーバーの年間契約をしました。

少しずつ理解をしながら進めても、また新たに疑問が生まれます。

「メールアドレスを取得する意味ってなに?」
「テーマデザイン?プラグイン?CSS?」

調べものだけで何十時間も費やし、やっとの思いで記事を各下準備ができました。ここまでくるのに、パソコンを購入して取り組み始めてから2週間がすぎていたのです。

「これをみんなやってるの…?」
「自分て劣ってるのかな」

そう思いながら、1文字も書かずに疲れ切っていました。

そしていざ、ブログを書こうとテキストエディタに向かうと。

「あれ、手が動かない」
「何を書きたいんだっけ」
「お金ばかり使ったけど結局どうやって稼ぐんだっけ」

頭が真っ白になりました。
これまで、ブログを書けば稼げると思考停止て準備したけど、そもそも”何を書くか”という本質的なところがズッポリと抜けていたんです。

僕はとりあえず、身の回りのことを書き始めました。
「お小遣いの使い方」とか「使っている水筒の紹介」とか。
この文章を書いている今でもつまらなすぎて謎の汗が出てきます。

当時、書いている自分自身ですら「こんなん誰が見るんだ」と思っていました。

こんな感じで3週間、頑張って記事を書きましたが、アクセスは数名。
一切収入を得られないだけでなく、サーバーとドメインの年間契約と多大な時間をロスしました。

ただ、「書く仕事」というのは、僕が理想としていた「病室の中でもパソコン一つでできる仕事」にピッタリと当てはまっていて、この仕事をなんとか軌道に乗せたいと思いました。

「書くことが決まらないなら、与えられた記事を書けばいいのでは?」

そう思い、次はランサーズでWEBライターの仕事を探しました。
「初心者様大歓迎!」と書かれた文字単価0.3円の仕事を見つけたので応募。

内容は800文字以上の記事を作成するというものでした。

僕は土日の2日間、悩みながらもやっとの思いで記事を書き上げました。
時間にすると12時間ほどですね。

そこで得た利益はなんと「240円」でした。
時給20円…

「こんなんじゃフードデリバリーの仕事の方がよっぽどいいよ…」
「肉体労働するしかないのかな…」

そんなことを考えながら悩む日々を送っていたある日、YouTubeでみていると、マナブさんが本を書いていると知りました。

「億を稼ぐ積み上げ力」という本です。

そこで僕は、人生初めて「Kindle」をつかい、電子書籍の形で本を読みました。また、月額980円を払えば、雑誌、マンガ、小説、ビジネス書、写真集、週刊誌などが見放題と知り、これは会社員の味方だ!そう思いすぐにKindle unlimitedに契約しました。

そこで、たまたまこんな本を見つけました。
「副業初心者のためのKindle集客術」

この本を読み、著者のないとさんは副業で電子書籍を出版していると知りました。

「え、一般人でも本を出せるの!?」
しかも、1ページ読まれると0.5円の収入を得られる…

「文章で全く成果が出なかった僕でも、もしかしたらお金を稼げるかもしれない。」

そう思い、Kindle出版に挑戦することをきめました。

僕はKindle unlimitedを使って、どんなものが出版されているのかリサーチをしました。

当時、Kindle業界は「固定レイアウト」という、ページを画像化する出版方式が流行っていました。文字が大きくて読みやすい本を作れるだけでなく、ページ数がかさましされることで収入が上がるからですね。

このレイアウトをみた僕は、普段作っている資料と作り方は変わらないことを知り、固定レイアウトでの出版をきめました。

「デリバリーで得た収益は確定申告しなければいけない。」
そんな噂をきいてから、僕は副業の確定申告に不安をもっていました。

「勉強しながら出版すれば、収入も知識も同時に得られるのでは?」と思い、Kindle作家向けの確定申告の本を書き始めました。

自分が学びたい内容だったので、執筆は1ヶ月かからずスイスイと執筆が進みました。

出版手続きも無事クリアし、同時にツイッターも開設。自分の本が売れる自信はなかったので、最低価格の99円で販売しました。

想像以上にこの本は反応が良く、内容がわかりやすいと喜ばれ、レビュー数がどんどん増えていきました。

印税にすると2,000円~4000円程度でしたが、僕にとっては十分すぎるほど嬉しかったのを覚えています。

ここではじめて妻に、文章で副業収入を得られたこと、たくさんの人たちに喜ばれたこと、そして僕の本をPDFで見てもらいました。
「おお、すごいじゃん!こんな才能あったの知らなかったよ」

そう言ってくれて、妻が初めて副業を認めてくれました。

「この成功体験を積み上げれば、副業収入は増えるはず。さあ量産だ!」

そう思っていたのですが、ここからまたまた暗黒時代に突入します。

ライティングの発信をする理由

副業の0→1を達成できた僕は、1→2に誰よりも苦しんできました。

書けない、書けない、書けない、書けない。とにかく書けない毎日でした。

「また今日も書けなかった」
「今日も進まなかった」
「今日書いた文章も納得いかなかった」
「途中で何をかいているのかわからなくなった」

交流している人たちが出版数と収益を増やす姿。
それに比べて僕はぜんぜん文章が書けない。執筆が進まない。

二冊目のテーマ設定に悩み、散歩をテーマにしたり、HSPをテーマにしたり。書けるかな?と思って取り組んでみるものの、なんか違う。やっぱりだめだ、と書いては消してを繰り返しました。

「みんなどうしてそんなに自信満々なんだろう」

Twitterで活動している人たちは、なぜかみんなキラキラとしていて、エネルギーに溢れている感じ。

言ってしまえば芸能人のようなふるまい。交流している人の9割はそうでしたね。僕も真似して情報発信をしていましたが、なんだかしっくりこなくて、自分を偽っているようで上手に運用できませんでした。

停滞していたTwitterは、インフルエンサーのサロンに加入して突破口を探しました。このころから僕は「文章・ライティング」をテーマに発信をはじめました。

このころは執筆やSNSの悩みだけでなく、日常生活と副業の折り合いがつかなかった時期でもありました。

Twitter運用は、いいねやリツイートをしあって日々のツイートのインプレッションを伸ばしていこうというもの。2か月程取り組んで見ましたが、なんとなく「こんなことしてていいのか?」と思いました。

どれだけいいねをもらっても、どれだけツイートが拡散されても、それは偽りの数字でしかないし、そもそも自分の本が読まれることなんてなかったからです。

そればかりか、いただいたリプライへ返信しなければ!と焦って、家族と一緒にいる時間をないがしろにしてしまったり。奥さんとの会話に上の空で「聞いてるの?」と言われたり。

収入が増えないのに時間ばかりが消費されていく。その期間は初出版から半年間続きました。

副業時間の使い方に悩んでいた僕は、たまたま見つけたBrainというサイトで「Kindleを外注する」というコンテンツを発信している方を見つけました。それが今の師匠であるカンさんです。

当時のカンさんは、ランサーズなどの外注依頼する方法など発信をしていました。明らかに他のKindle発信者と違うと感じ、彼の別のコンテンツも探してみることにしたのです。

彼がリリースしたBrainは全て売り切れで購入ができない状態だったので、彼が書いているKindleを読むことにしました。

当時はビジネスが全くなかった僕は、ライフタイムバリュー(お客様が自分に対して落としてくれる生涯のお金)について書かれている本を読み、この人の発信を追いかけようと決めました。

それから程なくして、カンさんは500円のBrainコンテンツをリリースします。それが「30Days Kindle Program」という商品です。

僕はこれを読んで、なぜ自分が書けないのか、その理由を言語化できたのです。程なくして、カンさんのオープンチャットで3名限定のコンサル募集が始まりました。僕は速攻アンケートに長文のメッセージを書いて応募し、正式にコンサルいただけることになりました。

それから1週間後、僕は新宿のカフェでカンさんと会うことになりました。
YouTubeや本、Brainコンテンツで彼の情報を読み漁っていたので、はじめて会ったときは「カンさんって現実に存在するんだ!」と思いました。

僕の夢や野望、欲しいもの叶えたいことを全部言語化してもらい。
それは行動次第ですべて叶えられますよと力強い言葉をもらいました。

コンサル期間1年以内に月100万を達成することに決めました。

この目標を掲げた理由は、僕の幼少期のような思いを娘にさせたくなかったことです。もちろん、それだけではなく家も買いたいし車も欲しい、家族と遊ぶときは財布を気にせずに美味しいものを食べたいです。

月100万を安定して稼ぎ、自らをお金という呪縛から解放したいと思ったのです。

そのためには「元本を作る力」が必要なのです。
僕が副業する理由は「自己資本1億円」を作りたいからです。

あれだけ生み出せなかった2冊目を出版してからは、2ヶ月ごとに出版できるほどにまでなりました。本の骨組みを作り、見出しを毎日執筆しながらツイートする。これを毎日毎日積み上げると、あっという間に数万文字の文章が出来上がります。

僕は毎月コンテンツを作ると決めて、生活ごと変えました。朝早く起きて始発電車に乗り、電車のなかで座って執筆をしました。昼休みは上司と食堂に行くことをやめて、会議室で妻が握ってくれたおにぎりを食べながら執筆しました。仕事は残業しないと決めて、すっぱりと退勤してその分作業に回しました。家族との時間は一切副業はせず、娘が寝静まってから無言で執筆しました。

コンテンツを作るには時間は絶対に必要で、そのためには家族の理解も必要です。僕はなぜ副業したいのか、泣きながら妻に伝え話し合い、作業をする時間をきめて協力してもらうことになりました。

僕がライティングという看板をかかげながらも、文章の本質の部分、コンテンツメイキングの発信をしているのは、当時のコンテンツを生み出せなかった時の悩みが根強かったからです。

だから、基礎の基礎の基礎を言語化しています。正直もっと強いコンセプト、例えば「売れるセールスライティング」とか、そんなところを発信すればもっと人気や認知度を得られるかもしれないですけどね。

僕はコンテンツを作れずに悩んでいる人を応援したいし、その人がコンテンツを作ることが出来て、喜ばれながら多くの方の手に渡り、自己肯定感があがり、幸福感を感じながら、楽しく情報発信できるようにサポートしたい。

コンテンツを通じて自己表現できるようになり、僕の場を飛び立つ時には自立して、自信をもって、起業できるほどの人間になってほしいです。

今後のビジョンについて

ありがたいことに、僕は今出版サポートの依頼をいただきながら、会社員の給料ほどの副業収入を毎月いただけるようになってきました。

僕がサポートした方々の多くは、価値提供に重きをおくプロモーションに変わり「ご自身の力」でベストセラーを獲得されています。

クライアントさんは本当にうれしいし、自分も満たされて嬉しく思います。その後のクライアントさんがイキイキと活動する姿を見るのも嬉しいです。

ただ、ひとつのサポートだけでは伝えきれていない部分もたくさんあるし、人数を増やすほどにサポートできる時間も分散します。

僕と関わりを持った以上は、クライアントさんの人生をより良い方向に導びきたいし、その人その人の理想を叶えるための道しるべになりたいと思っています。

僕の人生は失敗や苦難の連続だったけど、その分学んできたことや得たものはたくさんあるし、その中で得た知識、経験をフルに使って、クライアントさんを勝たせたい。

Kindleだけでなく、あらゆるコンテンツを集客媒体として考え、クライアントさんに合わせたマネタイズの導線を設計、提案していきます。

さいごに、僕の理想を出し切りますね。

  • コンテンツビジネスを本業にする

  • 全国のクライアントさんに会いにいく

  • 資産1億円を達成してロールモデルになる

  • 生活が変わっても家族との散歩は大事にする

  • 僕の価値観に共感してくれる人を全力で勝たせる

家族との時間は最優先。だけど自分の人生は自分でコントロールしたいし、お金や時間に縛られる人生を攻略したい。この価値観に共感してくれる人を勝たせたいです。

恥ずかしい話だけど、僕は今後も泥臭く弱音を吐きながら挑戦し続ける日々だと思います。

ただ、僕の活動や価値観に共感してくれて、僕のようになりたいと思う人には、僕の通った道を舗装して提供することができます。

自分のところまで最速で到達できるように、自転車、車、新幹線などのツールもどんどん用意していきます。

長くなってしまったけど、僕のことを知ってくれる一つの機会になるといいなと思い、この記事を書きました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?