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自分の探求を続ける理由

自分のことを、自分でどのくらい理解しているだろう。この問いを考え始めて、自分の棚卸しをしてみたり、得手不得手、好き嫌いなどを洗い出したりした。強み・弱み診断をしたこともある。ただ、自覚できる範囲に限られてしまうので、新たな発見には至らなかった。「ジョハリの窓」でいうところの「盲点の窓」「未知の窓」を知りたかった私は、他者に話を聴いてもらいながら、あるいは他者の話を聴くことによって、その領域へのアクセスを続けている。

そもそもなぜ、自己理解を深めたいと思ったかというと、育児をしながら、今までと違う(と感じる)自分がポロポロ出てきて驚いたことがきっかけである。自分では、精神的には安定していると思っていたのに、娘の行動にかなり激しく一喜一憂し、育児をめぐり夫と激しい口論になったのだ。仕事で数々の修羅場を潜り抜けてきたが、その時の感情バロメーターを10としたら、育児での数値は1000を超えるのではという感覚だ。自分がわからなくなった。

こんなはずじゃない、と自分を責め、なぜなんだろうと原因追求を続けた。だが、いくら原因を探しても、見つかったようで見つからない。原因を突き止めれば、対処方法が明確になり、現状を打破できると、仕事でも叩き込まれていたし、受験勉強でも、どこができなかったか、なぜ間違えたか、を理解して弱点克服してきたので、「良くない現状」を変えるためのアプローチとして、原因を探そうとするのは、私にとって当然だった。

そんな「対処療法」が功を奏することもあるが、根本的な原因の解消、解決に至っていないと気づいたのは、娘の皮膚疾患の治療過程でだった。炎症に対して薬で抑える。一時的には良くなったように見えるが、薬を止めると再発する。いたちごっこだった。これを繰り返すのかと疑問を抱き、症状について調べるうち、体質改善や、免疫力向上、そして深い意味での根本原因に目が向いた。

私に置き換えると、感情の浮き沈みが激しくなる原因は、目の前の娘の言動、夫の言動はきっかけにすぎず、それを見て私の中の「何か」が反応していることだと気づいた。同じ場面に遭遇しても、私と同じような反応をする人ばかりではないからだ。

例えば、私は娘を保育園に預け始める前日の夜、0歳の娘を預ける罪悪感に苛まれ、準備をしながら涙が止まらなかった。娘に対して申し訳なさでいっぱいだった。でも、翌日登園すると、同じ0歳の子どもを預ける母親の中には、罪悪感などこれっぽっちも感じられない人がいた。その人は仕事を再開する喜びに満ちており、保育士の先生にも「お願いします!」と明るく子どもを託して颯爽と仕事に向かって行った。

こういった違いは、ただ単に「性格の違い」で片づけられることなのだろうか。同じ出来事、似たような場面に遭遇した時、どんな行動をとるか、どんな反応をするか、どんな感情を感じるかは人それぞれで、良いも悪いもない。だとしたら、何が、その違いを生んでいるのだろう。

「内省」という言葉がある。最近、仕事における人材育成の観点からもよく聞かれるようになった言葉の一つだが、娘を出産してから、私はこの「内省」をするようになった。週報や日報を書くように、その日の出来事を振り返り、その出来事によって自分が何を考えたか、喜怒哀楽を分類すると何に該当するのか、等、書き出した。

仕事での出来事、家での出来事、通勤経路での出来事、その日のニュース・・・。スルーしていることも多いが、印象に残っている出来事の裏には、私の何かが隠されている気がして、それを必死に探究しようとした。

書き出すこと以外に、人に、自分の話を聴いてもらうことも、とても役に立つ。自分の頭の中にだけある考えを、言葉、声としてアウトプットすると、自分の考えが客観視できる。話しながら、あれ?この言葉、使ってみたけどちょっとニュアンスが違うなとか、左と言ってみたけどやっぱり右かも、ということが起きるし、思わぬツッコミを相手から受けると、本心から出た言葉だったのか、建前を気にして出た言葉だったのか、誰かの受け売りの言葉だったのかなど、気づくことができる。

自分の頭の中を「文字」「文章」として目に見える形でアウトプットし、「声」として話してアウトプットすることを繰り返したら、私の感情が激しくネガティブな方向に動くパターンのようなものがあるとわかってきた。そのパターンは、幼少期や前世を含む過去の経験から身につけたもので、自分の身を守るためだったり、そういう振る舞いをすることで得られるメリットがあったのだと思う。

流れてくるニュース、目の前で起きた出来事、自分自身の体験など、自分を理解するためのヒントは沢山ある。ふーん、へぇ、と何も感情が動かない場合や、未知のことを知識として知るような場合は、自分への理解が深まることは少ない気がするが、少しでも違和感を感じたり、嫌な感覚があったら、そこには無意識の自分に気づく種がある。

無意識、無自覚の自分に気づくことは、怖いことでもあるし、痛みを伴うこともあり、向き合うことが辛いこともある。パンドラの箱を開けない方が良かったと思うかもしれない。それでも、私が知らない自分の探求を続けるのは、縁あって生まれた今世に、私の魂が持っていた歓びを思い出し、その輝きを放って生きたいから。うまく言えないが、これから、そういう生き方が主流になっていく感覚がある。そうでない生き方を否定するわけではないが、一人一人が本来の自分に気づき、魂を輝かせる生き方を選択すれば、世の中に起きている様々な歪実が減っていく気がしている。

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