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想像力と世の中仕組み


想像と文学

又吉直樹さんの渦
私のハマっているYoutube channelだ。
特に、髑髏万博先生のインスタントフィクションの世界がたまらなく面白い。

ストーリーに書いてあることだけでなく、その先、その裏を想像する。想像したものを聞いて笑う。

その髑髏さんは、国語の成績がいまいちだったらしい。が、本体の又吉さんは、作家だ。
似たようなことが、大学教授にもあると聞く。成績はイマイチだが、論文は素晴らしい。そんな例だ。

共通するのが、与えられたものをこなすことは得意では無いが、その先を考えるのがうまいということだ。

大学は習ったことを忠実に
大学院では、もちろん大学で習ったことを踏まえた上で学問領域で新しいことをやる。そのためには日々想像。いや、仮説を立てて検証するといったらいいのか。

学生は、それまでテキストを理解しておけばよかった世界観からはなれて、ここではじめて想像力が要求されるようになる。

資格と想像

資格試験について考えてみよう。
基準があって、判定をするものであり、コンテンツ自体は想像することのために用意されたものではない。

と考えたとき、想像を伴わない勉強はつまらないと思うようになってくる。英語の資格試験は、万人が納得できる正解を設定するような作りのため、本来自由であるべき自分の想像が制限されて、不満が生まれるのかもしれない。

正直なところ、資格試験の裏方が判定基準を変えたら別の試験になる。いたちごっこだ。それほんとに意味あるのかなと思ってしまう。

と、考えたら資格試験のコンテンツにばかりこだわるのはなんだか時間を損している。自分の想像を育んでないように思えてきた。

別のもの読んだ方がよいように思えてきた。


想像と歴史

私は歴史がすきだ。いや、歴史的なモニュメントを通して過去に想いを巡らすのが楽しい。
ここでも想像がともなう。不完全な情報からあれこれ考えるのが楽しいのだ。歴史というと、古臭いイメージがあるが、人類の歴史は短く、地球の歴史という長い目でみたら一瞬だ。だから未来も歴史も大してかわらない。そう思うと、歴史の学びは未来を学ぶことそのものであることがわかる。過去も未来も誤差の範囲のようなものだ。私の中では歴史を学ぶイコール未来を学ぶなのだ。


想像と学校教育

学校教育は、想像をあまり必要としない。
人間社会は、想像を社会に還元できたときに価値があたえられる。
いや、学校教育は大切である。机上の空論は意味をなさない。学校教育はいわばその先の想像を社会に落とし込んで、許容されるための基礎だ。
人間には二つのタイプの成長モデルがあるとしよう。

A. 土台を固めてから想像する人
B. 想像してから土台を固める人

土台を固めるとは学校で教育を受ける意味だ。前者Aは学校教育をしっかりやってから社会生活であれこれやる人。後者Bは、学校教育になじめなかった人、自分のことをFラン大卒とかのたまわる人だ。
多分後者は、あとで土台を固めることになり、効率が悪い。これが社会において学校での勉強が推奨される意味ではないだろうか。
前者は、私のように、やや固定の価値観を大切にする。資格とかなるべくもっておきたいセコい守り重視のタイプだ。

想像とこれから

こんな感じなのが歴史上で結構つづいてるよね。科挙だっけ?そこから?
そろそろ後者でもパフォーマンス発揮できる土壌がほしいよね。

結論

英語がうまくいっていないので、現実逃避してしまった。しかし、いま、想像について、私の人生に於いて考える時期に来ているのだと思う。


長文失礼しました。

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