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「心が下がる」

世界にはいろいろな考え方や価値観がある。ある種自明に思われるものも、場所が変わればその姿は全く違うものであることも多い。それらがそれまで自分を苦しめていたものを軽々と乗り越えるきっかけをくれることがある。

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客観的な数値を見つめると、自分の置かれている状況は中世の貴族なんか比べ物にならないほど恵まれているということは理解しているつもりだ。おそらく人類史で稀に見るほどに恵まれている。食う飯があり、読書に時間が使え、人間関係も良好である。

私には不幸を感じる権利なんてものはないと思う。持つものがあたかも持たざる者のように振る舞うことで、一体どれだけの人を傷つけるかなんてわからない。世界について知れば知るほど、そしてそれが身近な例であるほど、その思いは強くなる。

しかしながら、私の感情のデフォルトは不幸である。最初の設定がマイナスに寄っている。なぜだろうか。それは自分にもわからない。少し嫌なことがあったりする方が(もちろん辛いのだけど)落ち着くし、むしろそれにしがみつく性向さえある。

逆に幸せを十分に感じると、怖くなる。自分の状況を鑑み、そのあまりの幸運さに不意に涙するのと同時に、本当にその場から逃げ出したくなったことは一度や二度ではない。全てを投げ出して、地獄の底にこの身を叩き落としたいとさえ思うのだ。

私が今後人生において悩むであろう悩みをもうすでに全てコンプリートしている存在としてお馴染みの父も、おそらくデフォルトが不幸な人間なんだと思う。だからこそ親父の話に含まれる客観的不条理は、私にとっては一本筋の通った、納得できるものであるように感じられる。



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こんなことをつらつらと書いていて、一つ原因のようなものを思いついた。極めて凡庸だが、それは幼少期の体験である。私は落ち着きのない子どもだった。現代社会において落ち着きのない子どもであるということは何かと不利な場合が多い。座っていなければならない場面で座っていられなかったり、座れたとしても足をばたつかせたり、手遊びをしたり、体のどこかを動かしていなければ気が済まなかった私は、当然のように毎日いろいろな人から叱られた。両親、学校の先生や塾、空手の先生など、今考えれば本当にありがたいのだが、当時は「なんで俺だけ毎日怒られているのだろう」と不思議に思っていた。

ある時一つの結論に至った。嬉しいこと、ポジティブなことがあり「テンションが上がる時」によく注意されているということに気がついたのだ。だからと言ってすぐに改善することはできないが、ことあるごとに嬉しいことがあったら、自分を抑制する、幸せだったら、その場で立ち止まるようなブレーキのようなものが働くようになったのだ。

だからと言って人生がつまらないとか幸せじゃないとか言ってはいないのだが、これによって、「ちょっと不幸な状態」が落ち着きがあって適度に人に怒られなくて済む状態であるということを無意識のうちに発見したのだと思う。

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最近素敵な出会いがあった。通っている大学にムラブリ語という言語を研究している先生が講演にきたのだ。それをきっかけに先生が執筆なさった本を拝読すると興味深い記述があった。

 ここで注目したいのが、ムラブリ語の迂言的な感情表現だ。ムラブリ語は「クロル(心)」を用いて感情を表すのだが、そのなかでも「クロル クン(心が上がる)」と「クロル ジュール(心が下がる)」という感情表現がおもしろい。直感的には「心が上がる」はポジティブな意味で、「心が下がる」はネガティブな意味に聞こえるだろう。しかし、実際は逆で、「心が上がる」といえば「悲しい」とか「怒り」を表し、「心が下がる」は「うれしい」とか「楽しい」という意味を表す

伊藤雄馬(2023, p.100)『ムラブリ』集英社インターナショナル.

心が下がる、ことが日本語、ひいては日本語話者にとってのテンションが「上がる」とか気持ちが「昂揚する」に相当するのは非常に面白い。ムラブリは嬉しいことがあると静かにリラックスし「心が下がる」。その様子は一見すると全く盛り上がっていないように見えるのだが、それが彼らにとってのいい状態なのだ。

日本語に直すなら、「チル」が近い。つまり、盛り上がってテンションが上がるだけが「良い」状態ではなく、むしろリラックスしている状態が「喜んでいる」状態になる。この表現に出会って、私には「心を下げる」ことの方がテンションを上げることより向いているということに気づいた。これなら多分、常に心を下げるように努力していた私にも合う考え方なんじゃないかと思った。


心が下がる瞬間




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