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《神》の居場所

 5月10日付けの毎日新聞に「掃除をしないとどうなる?」との見出しでコラムが掲載されていた(「れきし箱」伊藤和史)。

 コラムは、執筆者が京都の禅寺で接した「一掃除二信心」の禅思想の話に始まって、或る民俗学の著作の話題へと移る。その本の著者がかつて沖縄の宮古島で暮らしていたとき、掃除をする意味を実体験として深く理解したエピソードが紹介される。

 平和な島では夏は暑い。玄関や窓を開けっぱなしにして掃除をさぼっていたら、家の中が土ぼこりでざらざらになってしまった。すると見かねた村の人から「毎日きちんと掃除をしないと家の中が外と同じになっちゃうよ」と注意されたというのである。つまり、家の中と外、言い換えると、人間の秩序ある空間と自然の混沌の空間との境界線を明確に引くための行為、それが掃除というわけだ。

 この箇所を読んだ瞬間、ぼくはハッとした。
 もしかすると、日本人の《神》の原型は、ここにあるのではなかろうか?

 日本人の《神》は通常、素朴な自然信仰に源流を持ち、アニミズム(あるいはアニマティズム)であり、巨樹や巨石といった人智を超える生命・非生命の自然存在を依り代として、より大きな自然サイクルへの畏れと愛着を表したものと説明される(少なくともぼく自身はそのように理解していた)。
 だが、上記の文章に触れ、日本人の《神》が常に在所の清浄を要求することと照らし合わせたとき、日本人の《神》は実のところ「自然」なのではなく、「人間の場」をこそ《神》と見なしたのではないか。そのような直観が走った。

 石器のみが利器だった時代が終焉し、縄文と呼称される長い長い営みが続いていたあいだ、列島の人々は自然とともにあり、いや、自然とともにある以外に生きようがなかったために、当然のごとく自然を畏れ敬ったではあろうが、同時にそれ以上に、人間が人間らしく生きられる場、すなわち「自然の混沌から逃れることのできる秩序ある空間」の永続を切に願い、尊んだのではないだろうか?
「自然」は、たとえ一部分でも一時的であっても構わないから(というより、そうするしかない)、人間に対してどうにか場所と時間を譲っていただく対象として祈られたのでは?

 厳しい戒律を課すユダヤ教やキリスト教、イスラム教の発生は、砂漠の過酷な生活環境がもたらしたものとの説がある。翻って、日本列島が必ずしも安穏に生きられる土地だったとは思えず、一年中湿潤な気候故に草木はいたずらに繁茂し、地形は急峻で必要以上の変化に富み、暴風雨や地震、火山噴火といった天変地異も絶えない。それぞれの土地にはそれぞれの土地に似つかわしい《神》が生まれた。結局はそういうことだろう。
 日本人は「自然」を《神》そのものとみて祀るといわれる。確かに山塊や磐座をご神体とする例は数多い。一方で、いまに伝わる神話の数々を思い起こしてみれば、そこに描かれているのは、山や川といった無垢の自然ではなく、人間と同じ姿形をし、人間と同じ言葉を操り、人間と変わらぬ名を持った《神》たちの一挙手一投足。

 日本人を含め人間は、自らが人間であり続けるべく《神》の居場所を作ったのだと推量するのは、果たして《神》に対する冒涜だろうか?
 そして、人間が表面上、自然を狡猾に手なずけ、征服した現代に至って、《神》が元から存在しなかったかのように見失われたのも、至極当たり前の結末に思えるのである。


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