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さよなら霊感少女

最近わかったことがある。
「すごーい」より「ありがとう」のほうが大事だ、ということである。
「(すごーい)<(ありがとう)」ということだ。

みんなができる事ができない。みんなが好きな物が好きになれない。自分が好きな物は誰も好きじゃない。劣等感を感じる。そのせいで孤独で、自分のことが好きになれない。

このような幼少期を過ごした私は、状況を打破するために「すごーい」を手に入れることでサバイブを試みてきた。
隣のやつができない事をできるようになる。このクラスで自分しか出来ない事を増やしていく。
みんなができる事はどうでもいい、後回しだ。
競争をせずに勝っていくスタイルの生存戦略だ。今から思えばこれって「ブルーオーシャン戦略」じゃね?なんて、まあ、ともあれそんなスキマ産業的サバイバルを繰り返しながら大人になった。今もまだやっているかもしれない。こじれている。

「そんなこともできるんですか?すごーい。」
「器用ですね、すごーい。」

私はすごいのだ。すごーいのだ。
「すごくない」ではなく、すごいのだ。
すごくなくない、なのだ。

優越感は劣等感の裏返しである。
劣等感は優越感で塗りつぶす。何層にも重ねて塗りつぶしていく。
これは、承認欲求を満たす行為にも似ているけど、ちょっと違う。
「すごーい」で「すごくなーい」を覆い隠す感じだ。
エヴァンゲリオンのアスカが自分を褒めてほしいからめちゃくちゃ戦うのとは違くて、むしろ、AKIRAの鉄雄がブクブクに肥大してゆくのに近いような気がする。

「すごーい」というリアクションは、感嘆である。言い換えると「WOW!」や「awesome!」だ。私はコミュニケーションにおいて、他人にこれを求めていたのだと思う。それらを得ることでクラスや世の中の座席を獲得してきたように思う。いまでもそういう節がある。しかし、これはコミュニケーションなのだろうか?
感嘆を得る事で生きている人って、どういう人なんだろう。手品師とかか?

きっと、私は自分の座席を確保することをまずは優先し、相手の事をまるで見ていなかったのではないか?ただただ、手品を披露して「すごーい」を集めながら生きているだけなのかもしれない。

私はデザインの専門学校に通っていたのだが、一年生の夏休み明けになると、クラスに霊感少女が現れ始める。美大・芸大系の学校もそうだと聞く。
小・中・高校ずっと「絵が得意」という個性的なポジションで生きてきてた子たちばかりが入学してくるわけなので、みんな「絵が得意」なキャラである。ということは彼らの個性はここで一旦無化されるというわけだ。そうして春が終わり夏休みである。もやもやする。自分のキャラ立ちがちと薄いんじゃないか?自分の座席が危ういんじゃないか?不安である。そうして夏休みが終わり学校が再開されると、こう言い出す子が現れる。

「私、見えるの。あ、後ろ!」

霊感少女である。
都市伝説少年というパターンもある。

私はこのメカニズムがよくわかる。
アイデンティティの補強である。
霊感で自分のキャラを上塗りしているというわけだ。これは言わば「すごーい」のオーバードーズである。


話は最初にもどるが、「(すごーい)<(ありがとう)」である。「すごーい」よりも「ありがとう」の方が重要なのだ。

これはどういうことか?

今まで数々の「すごーい」を集めてみたものの、それは「成らない」のだ。これは将棋だ。将棋で例えている。
将棋の「歩」は敵陣まで進むと裏返って「と」に成って、「金将」と同じパフォーマンスを発揮する。これが「成る」だ。
しかし、「すごーい」は成らない。どこまで行っても、何個集めても「すごーい」のままである。

霊感少女は「すごーい」を求めてさまよう。しかし、「すごーい」以上のものはもらえない。仮に、本当の霊感を手に入れたとしても、みんなとは分かち合えない孤独と恐怖が残るだけである。

この発展性の無さよ。

「すごーい」を獲得した者がその次に言われることをご存知だろうか?

「行けるよこれ!もっとやればいいのに!」
「それ行けるんじゃない?そういうのやれば?」
である。

言いたいことはわかる。うれしい。しかし、「すごーい」を獲得する目的が「劣等感の塗り潰し」と「座席の確保」である場合、その目的は「すごーい」をもらった時点で達成されてしまっており、その時点では、いわば賢者モードに近い状態だ。そこからの発展はほぼ無い。

私はもう「すごーい」を必要としていない。もう上塗りをしなくても大丈夫だ。自分の席もちゃんとある。もう大丈夫になった。これはこれで達成である。あの頃の劣等感はもうほとんどない。
だけど、これまでに染みついたコミュニケーションの手癖として「すごーい」を得る方向に体が動いてしまう。悪癖だと思う。バッド・ハビットである。

もう流そう。集めてきた「すごーい」は川にでも流してしまおう。さよならだ。


すごーいを 集めて早し 最上川


どうでしょうか。
芭蕉が出ましたよ。

私は今後、「すごーい」を求めずに生きていきたい。
その代わりに「ありがとう」を獲りにいこうと思っている。なぜならば、「ありがとう」には発展性があるからだ。

例えば、利己的な人間が仏の試練を経て他者への慈しみを知る、とか、強欲なビジネスパーソンが天使に諭されてクリスマスの夜に改心する、とか、世の中にはそういう物語があり、先述の「(すごーい)<(ありがとう)説」も、一見その類のハートウォーミングなやつと思われるかもしれないが、意外とそうではなく、むしろ「情けは人の為ならず」というやつに近い。

情けは人の為ならず。

これは、「他人に情けを掛けるのは、あまりその人のためにならないからやめておけ」という意味ではなく、むしろ逆で、「他人に情けを掛ける行為というのは、その人のためとかじゃなく、むしろ自分のため。」という意味だ。別の四字熟語だと「先義後利(せんぎこうり)」というのに近いかもしれない(from 儒学)。己のメリットも盛っちゃってOK、という考えである。

「ありがとう」には価値がある。
「ありがとう」は、なにか別のものに成って、大きく膨らんだり増えたりする可能性があると思う。「すごーい」とは大違いだ。

だから私はこれから、他人から「ありがとう」をもらえるように活動していこうと思っている。

で、「ありがとう」ってどうやったらもらえるのだろうか?

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