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小説・うちの犬のきもち(15)・犬を飼うこと

ゴールデン・ウィークに入ったというのに、ママンは家でお仕事をする。家事の空き時間に仕事をしようとするから、朝起きて一時間、ぼくと散歩に行って掃除や洗濯を済ませ、朝ご飯の後に一時間半、買い物から帰ってきて三十分、お昼ご飯の後に一時間、という具合に細切れ時間にしかできずに、捗らず、終わらせようと思っていた仕事が終わらなかったりするみたいだし、チーム全体で対応するためにだれかに連絡が必要だったりして、後回しになったり、却って時間がかかるみたいだ。

そういうとき、ママンは終わらなくて焦ったり、のんびりする時間がまったくなくなって困ったり、ためいきをついて悲しくなったりする。

連休中の谷間の平日には普通に出勤し、電車の中で本を読んで(憂鬱症のペンギンの話なのだそうだ)、ペンギンと人間の間に愛情のようなものが存在するのに、ペンギンは言葉をしゃべれず(当然だ)、人間はペンギンにとっての幸せを勘違いして、すれ違っていく様を読んで、どんよりした気持ちになる。

その本の中で、人間どうしもそれぞれの都合が優先された関係が築かれる。つまり、生きていくために仕事が必要で、生きていくために仮の親が必要で、仮の夫が必要・・・となった場合に、お互いを思いやることがあっても、そういう気持ちは川の水みたいに流れていってしまう。ペンギンを飼うとか、子供を預かるとか、設定はとても現実離れしているのに、登場人物の気持ちはとてもリアルに読めて、世界はそういうものだ、とママンには思えてしまうのだ。

ママンが虚しく感じてしまうのは、互いを大切に思う気持ちが確かにあるのに、その気持ちは、すれ違ったり、信用できなかったり、一滴のしずくを川に投じるように、分からなくなってしまうことみたいだ。大切にいつまでも取っておくことが出来ないことに、なんだか傷ついてしまう。ガラスのハートの持ち主なのだ、ママンは。大人のはずなのに。

お互いを思いやることだけに焦点を合わせて切り取れば、別の物語が生まれるだろう。だからと言って、ママンは、それで納得できるほどナイーヴでもなく、切り取られた一部でしかないことを知っている。ママン、というか、たぶん、多くの人が、理想の愛を切り取った物語も、現実の残酷さを切り取った物語のどちらも、受け入れている。

……

ママンは、突然、宣言する。
断固たる決意でもって。
パパンとおばあちゃんを前に毅然と立ち上がる。
「GW後半は仕事しない!」
「・・・お、おう」
「ふーん。出来るの?」
「出来る。する。するのだ。したい。するしかない」
「うーん。そうできたら嬉しいけど。もし仕事が気になるなら、時間を決めてちょっとだけやったら?」
「好きにしなさい」
「ご協力お願いします」
「もちろんだよ」
「はいはい」
「しーちゃんと遊ぶの」
「しーちゃん、よかったねー」
「しーちゃんも急に何日も一日中ベタベタされても疲れちゃうわよ。ひとりの時間とか休む時間が必要よ」
「しーちゃんのためだけじゃないけど、だらだら働き続けるのは身体に悪いし、とっても、ストレス」
「すり減っちゃうよね」
「休むのがヘタなのよ」
「うん」

朝、ママンは、みんなよりちょっと早く起きて、みんなに上手く説明できないことを、ぼくに伝えようとする。

犬を飼うことは、一滴の気持ちを、迷わず信じることなのだ。迷わず信じてよい、とも言えるかもしれない。迷わず犬を愛することであり、迷わず犬を愛して良いということだ。それは、ウソの気持ちでもなく、情でもなく、ただ、そこにあるものなのだ。誰かの書いた小説の中に答えはなく、ママンにしかない。それは誰も知らないかもしれない愛のお話、なのだそうだ。

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