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猫と愛してるのあ 第5話

 忌引きの間に中古のホンダは廃車にした。助手席のドアがべこりと凹んだところに、見たくもないのについ婆ちゃんの側頭部の形を探しそうになる。少しでも早く引き取ってくれる会社を選んだ。そして新車を贖うつもりだったが、そちらの行動は滞ったままである。
 ホンダが引き取られる頃には駐車場はアスファルト敷きになっていた。タケ兄ちゃんの伝手でアスファルト塗装業者がやって来たのだ。血の付いた砂利は捨てるに忍びないと叔母ちゃんや富樫のおっちゃんが拾ってコンテナボックスに詰めると、とりあえず納戸に押し込んでいた。
 タケ兄ちゃんたちとプロレスごっこに興じたあの日以来、あぐりはひきこもりを止めた。毎朝きちんと起きて出かけるようにした。まずはスマホの機種変更をした。この辺でスマホの会社は本城駅前にしかない。
 自動車にはとても乗れないので駐車場の片隅に打ち捨ててあった高校時代の自転車を整備した。それに乗って真柴駅に出ると駅前駐輪場に停めて電車で本城駅に出る。
 古いスマホは主任宅で、あぐりの身代わりとして散々な扱いを受けたのだろう。おそらく三田村さんが汚れを落としてくれたのだろうが、それでもレモンメレンゲパイでべたべたの手触りだった。スマホケースには刺身や醤油の匂いが染みついていたので未練なく捨てた。
 新しいスマホを買ったその足で、あぐりは本城駅裏のサウナに向かった。ハッテン場として名を馳せている店である。以来、毎日まるでラジオ体操に行く小学生のように真面目に通うようになる。
 本城駅はそこそこ都会だから、時間つぶしの場所はいくらでもある。駅ビルにはシネコンもあるし街中にはゲームセンターもカラオケボックスも漫画喫茶もある。
 なのにあぐりは引き寄せられるように駅裏に足を向ける。一人で辿る道が、太古の昔に思えるあの夜二人でそぞろ歩いた道だと思い出したりする。何も偶然会いたいからここを歩いているわけではない。
 サウナで汗をかいていると、ちょんと足の指先に触れる物がある。隣に座ったおっさんの足指が試すようにあぐりの脚をするりと撫でて来る。腰に巻いたタオルの股間が既に立派に自己主張している。目と目を合わせて連れ立って別室に移ると、今はまだほんの数人が生臭い光景を繰り広げている。
 あぐりとおっさんが抱き合えば、遅れて来た男たちが身近に陣取って、仲間に加わることもある。おっさんとは別の手があぐりの乳首を愛撫し、あぐりもまたおっさんに背後を責められながら別の男の物をしごいていたりする。愛だの何だの関係ない。ひたすら肉欲である。
 どれが誰の手で誰の脚なのか。汗か涙か精液か訳がわからない。いやわかりたくないからそれでいいのだ。ゴールドバンブーの人気商品ローションはここでも大活躍である。
 何度も絶頂に達するのだからこれは快楽に決まっている。そのわりに心がスース―する。いやそんなことは考えなくていいのだ。
 とにかく何も考えないために、いや暇つぶしのためにやっているだけだ。
 ぐだぐだに疲れて夜になってから家に帰る。自転車のサドルに跨るのがつらい事態にも陥る。フィジカルなことこの上ない。
 いいのだ身体が傷つくのは何の問題もない。自分は祖母を見捨てた大罪人なのだから罰せられて当然である。決してそう意識していたわけではないがけれど、忌引きに続く有給休暇中あぐりはそんなことを繰り返していた。 真生とは婆ちゃんの葬儀以降、会っていない。
 会葬礼状のような文面のLINEを送信したきり何も送らなくなった。もう二度と会う気はなかった。
 LINEも全て既読無視にした。空で思い出せるのは婆ちゃんの逝去に伴うお悔やみと、あぐりに対する気遣いの言葉、そして、
〈今はまだ気持ちが落ち着かないだろうから、その気になったらまた連絡ください。疲れた時にあの部屋を使うのはいつでもどうぞ〉
 いや、もう婆ちゃんはいないからそんなに疲れないよと密かにツッコミを入れただけなのに、
〈葬儀の後は何かと疲れると思うから。部屋で一人になりたければ言ってください。当直室に泊まります〉
 と返って来た。それだって既読無視した。
〈あの時言ったのは本気です。僕はあっちゃんと一緒になりたい。子供のことはそちらの気持ちもあるだろうから無理にとは言いません。もし猫も無理ならロブは里生に預けます。でも、あっちゃんと一緒に暮らしたいのです。その気持ちだけは変わりません〉
 この言葉を読んだ次の日に連絡先を削除した。そして機種変したのだ。
新しいスマホには田上真生の連絡先のない住所録が移行された。篠崎スヱのガラケーの番号さえ入っているのに。

 真っ暗な中を薄ぼんやりとした明かりが近づいて来る。
「あっちゃんがいないんだよ」
 婆ちゃんが言っている。まるであの落語の主人公お露のように牡丹灯籠をぶら下げて歩きながら。いや、婆ちゃんが演じるなら役回りはお供の女中だろう。と一人でくすくす笑ってしまう。そして、
「婆ちゃん。俺ここにいるよ」
 と声をかけてから気づく。自分は裸で誰とも知れぬ男と汗まみれで抱き合っている。いや一人ではなく複数の男達だ。何本もの手足がぬるぬると身体に絡み付いている。こんな姿は婆ちゃんに見せられない。
 あぐりが黙り込むといつまでも婆ちゃんは暗闇をさまよい続ける。足元を牡丹灯籠でぼんやり照らしながら。
 いつの間にか自分一人になった。ちゃんと一人だ。誰とも絡み合っていない。
「婆ちゃん! ここだってば」
 大声で呼ぶと、そこは本城坂上の神社に向かう道である。婆ちゃんは裸足で坂道を上がっている。
「あっちゃんはどこに行ったんだろうねえ」
 と誰にともなく呟きながら。
「ここにいるよ! ここだってば!」
 あぐりの声は届かず、ひたひたとアスファルト道路に裸足の足裏が当たる音だけが聞こえている。よく見ればそこは家の駐車場で、婆ちゃんは麦踏みでもするかのように同じ場所をくるくる回っている。
 誰だあの砂利をアスファルト塗装してしまったのは。お陰で婆ちゃんは抜け出せなくなっている。裸足でひたひた歩き回っていている。
「婆ちゃんてば!」
 自分の大声で目が覚めた。夢だった。
 通夜で酔いつぶれて以来、繰り返し同じような夢を見る。アルコールが見せる悪夢かと思いきや、シラフで寝ても夢は見る。
「婆ちゃんてば! 俺はここだってば!」
 毎度、自分の大声で目が覚める。
 あぐりはまだ一度も夢で自分を見つけてもらっていない。

   ⒒

 長い忌引きの後に自転車で出勤した会社に江口主任はいなくなっていた。
 会社の駐車場で同じく自転車通勤をする三田村さんに会った。こっそりとあぐりに身を寄せて、主任に関して教えてくれた。
「会社を辞めたらしいわよ。辞めさせられたというか……」
「え、急ですね?」
「未成年者に猥褻行為をして捕まったとか何とか。噂よ噂」
 本城駅裏のラブホテルに未成年のような男の子と共に入って行く主任の姿が蘇った。それと違う少年と手を繋いで出て来たこともあった。
「主任の奥さんは実家に帰ったそうですよ。離婚するんじゃないかな?」
 と真偽の知れない情報を教えてくれたのは襟首タオル先輩だった。
 社員達は誰も彼もがあのパイ投げがなかったかのようにふるまった。そのくせ何かといえば、
「俺の車、軽トラにカマ掘られて修理に出しましたよ」
「ケツ振って走るからだよ」
 と殊更に同性愛者を揶揄する口調で話す者もいた。
 見事なリトマス試験紙である。あの時あの場にいたにも関わらず、態度が変わらないのは三田村さんやごく一部の女子社員だけだった。男子社員は全滅である。そんなにゲイが怖いのか。そうまでしてゲイをからかいたいのか。あぐりには到底理解できない。
 タケ兄ちゃんのあぐりを励ますつもりの言葉でさえ、ゲイを人間扱いしていなかった。タケ兄ちゃんが漢気のある誠実な人間であることは充分に知っている。それなのに……である。
 ああ、もう考えるのはやめよう。
 早々に生きるのはやめよう。
 もう婆ちゃんはいないんだし。
 どうせ自分はあぐりなのだから。

 新しい主任が決まる前に、あぐりの転勤が決まった。
 本社関東営業部にドライバー教育をする部署がある。サービス強化に伴い、各営業所から選抜した現役ドライバーを指導員として入れることになったのだ。あぐりは真柴本城営業所代表として選ばれたらしい。全ての項目が特Åだったそうである。客の家でお茶を飲んだのに? 別の客の家では玄関先でキスを……いや、それは見られていなかった。
 年内には異動して新年から業務開始という急な話だった。都心の本社に通うに当たり、会社が借り上げているワンルームマンションにも住めるという。あぐりは迷うことなくその辞令を受け入れた。この先、大吉運送社屋だった無駄に広い家は解体されてマンションが建つ予定である。その間の仮住まいに頭を悩ませていたのだ。渡りに船である(何だこの昭和なたとえは?)。
 最後の日まであぐりは黙々と配送の仕事を続けた。本城駅裏の真生のアパートに不在票を投函することも多々あったが、顔を合わせることはなかった。
 休憩室で昼食をとることはなく、トラックの運転席で一人コンビニおにぎりを食べた。たまに三田村さんと言葉を交わすぐらいで他の社員とは業務以外の口をきくことはなかった。
 会社を辞めたり部署を変わる者は最後の日に菓子折りなどを持って社内を回るのが通例だった。あぐりは自分をパイ投げの標的にした連中に何を送る必要があろうかとは思ったが、どうしても婆ちゃん子の礼儀正しさを消すことが出来なかった。
 叔母ちゃんが気を利かせて包装してくれたビーフジャーキーやマテ茶のティーバッグを最終日に持参した。少なくとも自分の懐を痛めた物ではないし……と、朝から皆に配って回った。
 昼食に休憩室に顔を出してみると、三田村さんがテーブルに山盛りになったビーフジャーキーをその場のみんなに勧めていた。
「あぐりくんがお別れにくれたのよ。いただきなさい。こういうのはカロリーゼロなんだから」
 パートの三田村さんは上りが早い。あぐりは正面に行くと、
「三田村さん。いろいろお世話になりました」
 と深々と頭を下げた。
「やだやだ。そんな畏まって、あぐりくんたら」
 と笑いながら三田村さんは、いつでも月の湯の餌場に遊びに来てくれと言うのだった。
「あ、でも東京に行っちゃうから無理かしら」
「いや。真柴本城市も東京ですけど?」
 これは真柴本城市では定番の冗談である。都下でありながら誰もこの地を東京とは思っていないのだ。
 ついでに、その場にいる人々にも頭を下げて回った。配送が遅くなって上りも遅れれば、挨拶できなくなる人も多い。
「今日までですから。お世話になりました」
 挨拶に時間をとられて昼食は立ったままコンビニおにぎりを口に押し込んだ。ゴミ箱にゴミを捨てに行く。ポリバケツの蓋を開けると、ビーフジャーキーが山のように捨ててあった。あぐりはただその上におにぎりのフィルムを捨てて蓋を閉めた。
 感情にもとっくに蓋がしてある。

 さすがに最終日は九時までには上がれた。最後のアルコールチェックを済ませて、ロッカー室で制服を脱ぐ。制服、業務用スマホなど細々した備品を庶務に返して書類を受け取る。
 最後にタイムカードを打刻して玄関から外に出ると、とっくに帰ったはずの学生バイトの森くんと林くんが待っていた。送別会があると言うのだ。そんな話は聞いていないと拒否しようとしたが、自転車置き場で両脇を固められる。
「サプラーイズ!」
「はいはい。駅前の船徳茶屋に行きましょうね」
 まるで逮捕された犯人のように二人に車に連行される。振り払って逃げることも出来た。けれど送別会を断わる無礼は働けなかった。
 こんな連中を相手に無駄な義理堅さである。ふと頭の片隅に叔母ちゃんの言葉が浮かんだ。
「あっちゃんはもっと自分のことを大切にしなさい」
 それは今、関係ないだろう?
 本城駅前ビルの船徳茶屋で座敷の掘りごたつ風テーブルを囲んだのは襟首タオル先輩から始まる男子社員ばかりだった。女子社員は一人もいない。テーブルにはかなり安価と思われる宴会セットの料理が並んでいた。モズクに枝豆、お新香、唐揚げ等々。
「鍋のないコースだよ。みんなで箸でつついてホモの黴菌が感染るといけないからね」
「おい、黴菌はないだろう。篠崎さんにあるのはエイズ菌だけだよ」
 と言い合う森林コンビである。そして、
「ええ、長らく我が真柴本城支店で働いて来られましたホモの篠崎あぐりくんが、本社のエリート社員にケツとチンコを見込まれまして、栄転することになりました。誠に晴れガマ、カマ!しいことであります」
 に始まる乾杯。一人ずつがあぐりに別れの挨拶を言って行く。正確には嫌味であるが。
「そう言えば、トイレで篠崎君にはよくじろじろ見られたものでした。僕のは大きいから」
「篠崎君と一緒に配送に回った時、お尻を触られました」
 誰が見るか触るかそんなもん。
「僕のロッカーの扉に貼ってあったアイドルみちゅれんの写真を盗んだのは篠崎くんですか?」
 無茶苦茶である。あぐりは乾杯で注がれた水っぽいビールを呑みながら黙って聞いていた。顔には皮肉な笑みさえ浮かんでいた。別に生きてなくてもいいんだし。何とでも言え。
「篠崎くんにはぜひとも本社でイケメン上司のチンコを舐め上げて欲しいです」
「チンコ舐め上げ?」
 思わず笑いながら繰り返していた。
「オメコ舐め下ろし行かないと素人大会!」
 もはやヒステリックにげらげら笑いながら言っていた。落語の台詞を思い出したのだ。
 立川談笑の新作落語「イラサリマケー」で言われる台詞だった。外国人店員の訛りがそう聞こえるだけで、実は居酒屋メニューの羅列に過ぎない。
「何それ? 何がおかしいんだよ、篠崎くん。ホモのくせに笑うんだ?」
 と襟首タオル先輩があぐりの肩をたたくや抱きついて来た。相手を人間ではなく犬猫の類と思っているような触れ方だった。笑うのは自分達ノンケだけであってホモではないと言わんばかりの顔である。
 あぐりはふと首をかしげると手にしたジョッキを逆さにして生暖かいビールを先輩の頭上から注いでいた。ばしゃっと液体が弾ける小気味いい音がする。
「わッ! 何すんだよ!」
 そして史上最大の災難に遭ったかのような先輩の仰天顔を見た。
「ただのビールだよ? レモンメレンゲパイじゃない」
 淡々と口にしたはずの台詞が、瞬間的にあぐりの心を激高させた。
「恥を知れ!! あんたの態度は無礼を通り越して野卑でしかない! 誰を愛するか決めるのは俺だ! それが同性だからって、あんたごときに非難される覚えはない!」
 唐突にどこかで聞いた台詞を怒鳴っていた。よくも覚えていたものである。田上の実家で真生が父親に向かって浴びせた罵声である。
 脳天までカッと熱くなっていた。これまでに覚えのない感覚である。空になったジョッキを放り出すと、襟首タオル先輩の身体を返してその脚と脚の間に、自分の脚を挟み込んだ。
「わッ! 襲われる」
 互いの股間は殆ど密着している。片足の踵を先輩の腹中央に固定して動けないようにする。反対の脚では相手の膝を立てて固定し、腕で脛を抱え込んで関節技をかける。たちまち先輩が、
「あたたたた!」
 と殺されかけた鶏のような悲鳴を上げた。あぐりは身を翻し、隣の男も掘りごたつから引きずり出して関節技をかけた。学生バイトの森くんのようだった。続いて林くんにもシャープに技が決まり絶叫が響く。
 だが、他の連中が取り押さえようと次々に覆いかぶさって来る。こうなると関節技などかけていられない。最終兵器は金的だった。これが最もダメージが大きい。当たるを幸い握り潰した。躊躇も逡巡もなかった。同情なんぞ一ミリもなかった。
「うぎゃーーーーっ!!」「おげーーーーっ!!」
 完全に惨殺された鶏の悲鳴が響く頃には、わらわらと店員がやって来た。
「やめてください! 他のお客様にご迷惑です!」
 と追い出しにかかる。今度は忘れずにバッグもスマホも持って靴を履いて店を後にした。送別会に誘ったはずの連中は誰ひとり別れの言葉をかけなかった(当然だ)。異常に高揚した気分のまま駅前を走った。
 気がつくとまた髪の毛に妙な臭いがする。みんなが止めようとしてビールやサワーを頭からぶっかけていたらしい。道理でぽたぽたとやたらに汗をかくと思っていた。駅前ロータリーから階段を上がって二階コンコースに出ると、頭のてっぺんからライムの輪切りが落ちて転がった。
「ははははは」
 笑いながら小さな車輪のようにコンコースを転がっていくライムを見送った。そして猫のように濡れた頭を一振りすると床に座り込んだ。
 手摺りの柵に寄りかかって荒い息が静まるのを待つ。柵には極彩色のイルミネーションがサンタクロースやトナカイを描いて光っている。
 目の前にはシティホテルも備えた本城駅ビル二十一階建てがある。壁面には巨大クリスマスツリーのライトが点滅している。いつでも死ねるこの高さ。きらびやかさは飛び降りる心の救いになるだろう。
 生れて初めてノンケと戦ってやった。
 大吉運送の元ドライバー、タケ兄ちゃんやゲンさん富樫のおっちゃん達と駐車場でプロレスごっこをやったのはこの予行演習だったのか?
 そして田上家での真生の台詞を一字一句違わずに覚えているのも想定外だった。あんな諍いは聞きたくないと思っていたはずなのに。
真生の言葉は難しいけれど素直で正直である。あんな風にすらすらと自分の思いを表せたら痛快に違いない。
「ははははは」
 また笑いながら柵に手を掛けて立ち上がり、ふらりと歩き出した。

「おーい。あぐりっち! 起きろー。おーい」
 身体を揺すられて目を覚ます。
 眠っていたらしい。一瞬か一生か?
「起きろー。眠ったら死ぬぞー。あぐりっちー。凍えるぞー」
 と、しきりに身体を揺するのは御園生慶尚である。また神主装束の上にスカジャンを着込んでいる。今夜も初詣のチラシを配っていたらしい。
 目の前では相変わらず駅ビルのクリスマスイルミネーションが燦然と輝いている。座り込んだあぐりの隣に先輩も座り込んでいた。
「ごめん。ライブのチケット失くしちゃった。もう一回くれる?」
 目をこすりながら言うと、
「ちょうどチラシも出来たところなんだ」
 と傍らの手提げ袋からチラシとチケットをまたくれる。
「これ夢? 何が? どこまで?」
「はい?」
「いや。何かもうよくわかんないや」
 両手で顔をこするとベタベタする。また銭湯にでも行かなければ。
「まだ月の湯はやってるかな?」
「どうかな? もう十一時過ぎだぜ。てか、あそこ今年で閉めるってよ」
「うそ!」
「マジ。やっぱ後継ぎ問題でアウトっぽい。跡地はマンションだってさ」
「どこもかしこもマンションだな」
 のろのろと立ち上がる。今から家に帰るにはまず足軽運送の駐輪場に戻って自転車を取って来なければ。けれど到底そんな気にはなれなかった。ハッテン場にでも泊まるか?
 あぐりはもらったチケットやチラシをためつすがめつしながら呟いた。
「先輩知ってる? 俺、ホモなんだよ」
「あん?」
「同性愛者。男とセックスするの」
「マジ? いつから」
「ずっと。子供の頃から」
「えっ! 子供の頃からセックスしてたの?」
「じゃなく。子供の頃から女より男のが好きだった」
「へーーーーー」
 語尾をやたらに伸ばして感心しながら立ち上がると、あぐりの顔をまじまじと見つめるミソッチ先輩だった。そしてにわかに頷いた。
「それな。女子にメッチャもてたのに誰ともつきあわなかったの。あぐりっちの姉ちゃん達メッチャ美人だから理想高過ぎるんだってみんな言ってたけど。そうだったのかー」
「美人かよ。姉ちゃん達が?」
「いや、マジレベル高けーよ。大吉運送シスターズ。俺は男よりマジ女好きだから」
「ああ、そうだっけ。先輩、まゆか姉ちゃんに告ってふられたんだ」
「ウソ! 何で知ってんだ?」
「女なんか信じちゃ駄目だよ。俺、先輩が姉ちゃんに贈った曲だって聞かされた」
「何だーそれーっ! 何であぐりっちに聞かせんだよ、あの女!」
 地団駄を踏んで口惜しがる先輩に、にわかに尋ねた。
「神道では同性愛は禁止されてるの?」
 ミソッチは「うーん」と腕を組んで首を傾げた。
 そのタイミングで駅ビルのイルミネーションが消えた。街灯の明かりだけが残り、辺りが一気に夜らしい薄闇になった。
「わがんね。マジ今度、調べとくわ」
 一人頷く新人宮司である。
 ではその調べを待つまでは死ぬわけにはいかないな。あぐりはパンクライブのチラシを丁寧に畳むとチケットと共にバッグのポケットに入れた。

 都心の新居には叔母ちゃんの軽自動車を借りて、布団や身の回りの品を運び込んだ。一人の引っ越しなど簡単なものだった。最低限必要と思える物と、
「こういうの一人暮らしに役立つんじゃないかしら?」
 と叔母ちゃんが納戸や押し入れから出して来る品々を段ボール箱に詰める。一人用炊飯器、電気ケトル、小鍋に箸に茶碗に急須そして湯呑み。手つかずの新品がいろいろ揃うのが古い家だった。
 段ボール箱梱包もお手の物である。丸めた新聞紙を緩衝材代わりにして箱にきっちり詰め込む。引っ越し会社を辞める頃には所謂おまかせパックの担当で、細かな物の箱詰めからやっていたのだ。〝カスタマー・フェイバリット・ホスピタリティー賞〟などと舌を噛みそうな賞も何度か受賞した。細やかな気配りで客の評判がいいと褒められたものである。
 ゲイという異分子がその場で身を守るには優勝な成績でいるしかない。あぐりは何となくそんな風に感じて努力もしていた。だが実は、単なる関節技の方がはるかに自分の味方だったのかも知れない。
 引っ越し作業をしていると奇妙な記憶が蘇ってきた。
 あのろくでもない送別会の後、本城駅の二階コンコースを抜けてあぐりは駅裏まで出たのではないか?
 何一つためらわずに真生のアパートを目指したはずだ。
 ブロック塀の奥の廊下は蛍光灯が切れかけてちかちか点滅していた。キーケースから合鍵を出して開錠した。そしてドアを開けると薄暗がりに、果てしない空間が広がっていた。台所の食器棚、雑然と置いてあった段ボール箱、あの黒い往診バッグも何もかもない。
 背後の廊下の明りが点滅しては何もない玄関や台所を照らし出していた。振り分けの部屋のうち寝室に使っていた六畳間は台所からの戸は閉め切りだったが、今や全開されておりベッドも何もないのっぺりとした空間を見せている。
 突き抜けの居間にも家具はなく、カーテンのない窓からは隣り合ったアパートの窓の明かりが漏れていた。
「ははははは……」
 酔っ払いは無意味に笑って下駄箱の上に手を付いた。いつもはネーム印やボールペンなどが入った皿が置いてある場所だった。帰宅した真生はキーケースもそこに置く。だが今は何もない。
 転宅したのだ。引っ越した。何で? 何故自分に黙って引っ越すのだ?
 ……それは。だって自分が新しい連絡先を教えなかったから。
 そう納得しながらふらふらとまた本城駅ビルコンコースに戻った。ミソッチ先輩に揺り起こされたのは、多分その後なのだろう。半分夢と思っていたから記憶からも取りこぼしていたが、あれは事実ではなかったか?
 田上真生は駅裏のアパートを引っ越して、どこかに消えていた。
 じゃあもういいや。思い残すことはない。本当に生きている必要はない。近いうちにどこかから飛び降りよう。
 自室の荷物と自殺の決意を箱詰めしてガムテープで封印した。

 車で都心に出るには鉄道の駅とは逆方向に走る。本城三叉路の一本を選んで月の湯を遠目に見ながら坂道を上がると、ミソッチ先輩が宮司を務める坂上神社がある。そこから田園風景の中をスワンホテルなどのラブホが点在する一本道を走り、高速道路に乗る。
 あぐりが運転し、叔母ちゃんは助手席に乗っている。後部座席には布団袋から段ボール箱まできっちりと詰め込んだ。後方確認にやや難のある積載量で、パトカーに見つからないことを祈って走った。
 失われた避難所を確認したあの夜、あぐりはミソッチ先輩の車で家まで送ってもらった。暗く臭い家の中に入ってまず思ったのは、婆ちゃんは寝たのかな? だった。そして仏間の襖を開いてから気がついた。
 婆ちゃんは永遠に眠っており、もう起きることはないのだ。仏壇の前には四十九日法要が済むまでの賑々しい中陰檀が飾られている。生前に撮影しておいた遺影は、にこにことご機嫌の婆ちゃんである。蝋燭は倒れても火災の心配がない電球式だった。
 そして今日、出発前に叔母ちゃんは家中の鍵を掛けて回った。エンジンをかけながらあぐりは初めて思い到る。明日からこの広い家には叔母ちゃん一人しかいないのだ。
「大丈夫?」
 と心配すると、まゆか姉ちゃんが定期的に帰ることになったし、富樫のおっちゃんも見回りに来てくれるから大丈夫だと答える。社命とはいえ相談もせず勝手に決めて、叔母ちゃん一人を残すことを案じもしなかった自分を今更悔やむ。
 新居は月島だった。都内では下町に類する地域らしい。まゆか姉ちゃんが済む浦安駅にも地下鉄を乗り継いで簡単に行ける。地下鉄月島駅に程近いワンルームマンションの専用駐車場に軽自動車を停めて、荷物を部屋に運び込むのに半時もかからなかった。
 駅付近はもんじゃ焼きのソースの匂いばかりが漂う、もんじゃストリートなるものがある。叔母ちゃんと二人で初めてもんじゃ焼きを食べるのだった。鉄板に広がった姿は何とも見苦しい食物だが、食べて見れば下世話なソース味が懐かしい味だった。
「下町っぽくて暮らしやすそうじゃない? スーパーもあるし、さっき銭湯もあったわよ」
 と食後の腹ごなしに町をそぞろ歩いて、叔母ちゃんは軽自動車を運転して帰って行った。別れ際、
「いけない。忘れるところだった。これ、あっちゃんの物だから」
 バッグから出したのは事務的なファスナー付きポーチだった。中に入っているのは銀行の通帳二冊と印鑑だった。名義は篠崎あぐりである。
「婆ちゃんが作ってくれた通帳よ。あっちゃんが就職してから家に入れてくれたお金を全部積み立てていたのよ。それと、亡くなったお母さんが積み立ててくれた学資定期預金。合わせると結構な金額になってるよ」
「うん」
「通帳と印鑑は別々に保管しなさいよ。大事に使うのよ」
「うん。わかった」
 子供のようにこくんと頷いてポーチを受け取った。
「それと、今朝届いてた郵便。あっちゃんの分ね」
 会社からの通知やダイレクトメール、そして田上真生からの分厚い封筒だった。住所など教えた覚えもないのに、大吉運送の住所が番地まで間違えることなく書かれていた。封筒にはMaoとサインがある。あの製薬会社の名前が入ったペンで書いたのだろうか。
 新しいワンルームの部屋に戻るなり封を千切って開けた。そしてブルーブラックのインクで書かれた真生の文字を読んだ。
〈急ですが引っ越しました。アパートの老朽化に伴い取り壊しが決まったからです。時間があるうちに転居しました。
 直接伝えられないのが残念です。スマホを新しくしたのでしょうか。どうか連絡先を教えてください。
 あなたにはまだ心の整理がつかないことかも知れませんが、あえて申し上げます。
 おばあちゃんの不幸と私たちのことは全く別問題です。あなたが私の家にいる時におばあちゃんが亡くなったから、引き止めた私を恨んでいるのでしょうか。
 死は理不尽なものです。だから人は誰かが亡くなると何かしら理由を作りたがります。けれど残念ながら人の死に納得できる理由などないのです。あるのは医学的な説明だけです。
 おばあちゃんの死に対してあなたも私も、誰も責任をとる必要はありません。すべきはただ悼むこと、思い出を語ることだけです。
 あなたにはそう簡単に割り切れないのかも知れません。でもどうか忘れないでください。何があろうと私は変わらずあなたを愛している。一緒になりたいのです。今回の引っ越し先もあなたと二人で暮らせる広さを選びました。
 あなたの気持ちが落ち着くまで焦らずに待つつもりです。何かあればいつでも連絡してください。待ってます。〉
 そんな内容で、新住所も記されていた。真柴本城市国分寺町……田上の実家に近い場所だった。
 あぐりは荷物の開梱も忘れて、便箋何枚にもわたる真生の手紙を貪るように何度も繰り返し読んだ。それが新居での第一夜だった。
 現実的にはもっと重要なはずの通帳入りポーチは、段ボール箱の上に放り出したままだった。どこかに隠すべきだと思いついたのは、座卓やカラーボックス、衣装ケースなどの家具を購入してからだった。
 新居での二日目にしたのは手紙を書くための道具を贖うことだった。段ボール箱を開けて部屋を整えてみると最低限の衣類や道具は入っていたが、便箋や封筒などあるはずもなかった(そもそも手紙なんぞ書いたことがない)。仕事帰りに小さな文具店で便箋封筒ついでに筆記用具も新たに買い揃えた。
 そして何日もかけて別れの手紙を書いた。テーブルもまだないから段ボール箱を机代わりにした。自分の文字も文章も気に入らず、何度も書いては破きしているうちに、買ったばかりの便箋が残り少なくなっていた。
〈転勤になりました。今は東京の月島に住んでいます。もう会うことはないと思います。
 僕は真生さんのように割り切れません。あの夜泊まらないで家に帰ってれば、ばあちゃんは僕を探しに行かなくて死ぬこともなかった。今も生きてたはずです。やっぱり僕のせいだと思います。真生さんのせいじゃありません。
 だから僕はもう真生さんに会えません。これまでありがとうございました。お元気で。さようなら。〉
 投函するには何円切手を貼ればいいのだろう。ふと我に返って読み返した手紙を、結局あぐりは投函どころか封筒に入れることさえしなかった。便箋の冊子に入れたまま放り出して雑誌や書類の間に挟んで、そのうちどこに行ったかわからなくなった。

   ⒓

 引っ越しの翌日からはもう本社に出勤だった。丸の内などというさらに都心に本社関東営業部はある。一週間は本社研修を受け、その後に正式な勤務先である豊洲駅の教員研修センターでの講習。年が明けてから本格始動という流れだった。今回各支店から選抜された者は十数名おり、同時に研修を受けるのだった。
 一張羅のスーツにネクタイを締め、朝九時出勤に合わせて家を出て、夕方五時に定時退社。まるで何も考えないで辞令を受けたから、改めて全てが初体験であることに驚く。地下鉄通勤も、ずっとデスクに着いているのも初めてである。昼になれば社員食堂で昼食をとる。
 本社での講習は新入社員を対象にした基礎的なマナー講習にブラスアルファを加えたものだった。最終日にはLGBTQに関する講義も行われた。外部から招いた講師が退出すると、研修担当の社員が演台に立って、来週からは豊洲の教育研修センターでの講義になると述べるのだった。
「今の講義にもあったようにLGBTQに関しても理解は進んでいます。何かあれば、本社には匿名で相談できるメンタルケア相談室もあります。気軽に相談してみてください」
 何だその殊更な発言は? と思ったのはあぐりが当事者だからではなく、講義室を後にする同期の者達もそう感じたようである。
「何で今更BLTSとか、そんな話すんの?」
 と言い出したのは小太りの男子社員で、
「それじゃベーコンレタストマトサンドだよ。正しくはLGBTQ。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クエスチョニング。ダイバーシティな時代なんだから」
 突っ込むのはコンビを組むにふさわしい背の高い女性社員である。
「俺、それだから」
 あぐりははっきりした声で言っていた。そして回りに見つめられてから、ぎょっとした。一体自分は何を発言したのだ? たちまち全身から血の気が引いた。
「君ってBLTS?」と小太りが言い「だからLGBTQ!」とのっぽが訂正する。
「G! ゲイ、ホモ、同性愛者。俺、そうだから」
 真っ青になりながらも失言(?)を重ねる。指先は冷たく震えている。何を言い出すんだと責める自分と、文句あるかと辺りを睥睨する自分とがいた。
 もうじき死ぬ。だからいいのだ隠さなくても。婆ちゃんだってもういない。噂になって恥をかく人もいない。いじめられてもいい。自分には関節技がある。
「へえ。初めて見た。篠崎さんて、そうなんだ」
 無邪気に言ってあぐりをじろじろ見る小太りは〝吉田〟という名札を下げていた。
「そういう言い方は失礼でしょう」
 とまた突っ込むのは〝杉野〟だった。
 一時あぐりに注目した仲間達も興味が失せたようにまた歩き出すのだった。ぎくしゃくと歩き方も不自然になっているのは、あぐりだけだった。首からぶら下げた名札の社員証を玄関のセンサーにタッチして本社ビルを出る。途端に大きなため息が出た。
 もういいだろう。何を真面目に働いているのだ。だから、さっさと飛び降りて……と月島駅に着いてから気がつく。
 ここは落語「佃祭」の舞台ではないか。ならばいっそ夜陰に乗じて本場、大川(隅田川のことである)に、どかんぼこんと身を投げて終わりにしてしまおうか。
ワンルームマンションのポストを開けると、様々なチラシが放り込まれている。
「チラシばっかりだね」
 と声をかけられてぎょっとする。あのBLTS発言の小太り社員、吉田だった。
「同じ電車だったよ。気がつかなかった?」
 と、にこにこしている。
 今回の抜擢組でこの社員寮に入った者が、あぐりを含めて四人いると聞いている。そのうちの一人が吉田だった。同じ場所に住んでいれば通勤電車も同じになる道理である。
「どうも」とポストから出した物を抱えて、そそくさと部屋に戻る。

 ポストの中身全てをゴミ箱に捨ててから、Maoのサインがある封書が紛れ込んでいるのに気がついた。住所は番地も部屋番号も正しい物が記入されている。慌ててそれを拾い上げる。
いつもならスーツを楽なスウェットに着替えてから、電気ポットの湯で熱いほうじ茶を淹れて一息つくのだが、今日はそんな悠長なことはしていられない。上着も脱がずに買ったばかりのハサミで真生の手紙の封を切る。またブルーブラックのインクの文字を読む。
〈月島に引っ越したそうですね。叔母さんに聞きました。
 先に出した手紙は読んでくれましたか。おばあちゃんの不幸については何度でもお悔やみ申し上げます。そして同じく何度でも申し上げますが、それが原因であなたと疎遠になるのは本意ではありません。
 どうか覚えておいてください。あなたが幸せな時もそうでない時も私は共にありたいのです。一人で悲しまないでください。おばあちゃんの思い出を私にも話して聞かせてください。
 それとも私のことが嫌いになったのでしょうか。実家で父が失礼極まりない態度をとったことは心からお詫びします。あるいは私の言動の何かが気に障ったなら、どうか教えてください。謝ります。変えてみせます。あなたと共にある為なら自己変革などたやすいことです。
 たとえば私はあなたのような愛嬌に乏しい。もしそれが嫌なら毎日でも笑ってみせましょう。
 私は常にあなたが心安らぐ場所でありたいのです。その為に私に足りないものがあるのなら教えてください。
 この先もずっと私にとって、あっちゃんの「あ」は愛してるの「あ」なのです。
 どうか連絡をください。待っています。〉
 あぐりは便箋を畳むと封筒に入れて、いつものように電気ポットで湯を沸かした。スーツから部屋着に着替える。何も考えずに日常を続ける。今読んだ手紙などなかったかのように。
 今夜は月島温泉とやらに行ってみよう。タオルや石鹸を持ち、サンダル履きでビルの中の銭湯に行ってみる。一階に月島観音があり、二階が銭湯である。さすがに都会は違うと驚く。真柴本城市の銭湯は、外に保護猫の餌場があるのに。
〈田上さんからあっちゃんに連絡が取れないと電話があったので住所を教えました。他の人にもちゃんと新住所をお知らせしなさいよ〉
 湯上りに牛乳を飲みながらスマホチェックすると叔母ちゃんからLINEが届いていた。家庭内に個人情報保護法など期待してはいけない。真生は叔母ちゃんに新住所を聞くなり手紙を書いたのだろう。
〈お正月だけど今年はお婆ちゃんの喪中だからお祝いはしません。でもあの家の最後だからお別れ会はするつもりです。富樫のおっちゃんやドライバーのみんなも集まってくれるそうです。あっちゃんも帰って来てください〉
 真柴本城営業所でドライバーとして働いていた時は、盆暮れ正月とも完全に休んだことはない。元旦やお盆の中日に配送をしたこともある。交代で出勤する決まりではあるが、あぐりは独身で暇だったから頼まれれば気軽に引き受けていた。
 今となれば奴らにうまいこと押し付けられていたと気がつくのだが。あの期間の出勤者はほとんど顔ぶれが決まっていた。家族持ちの先輩及川さんは、特別手当のために毎年休日出勤していた。その後、足軽運送を辞めてまほろば運輸に移ったようだが、さぞ今年も正月出勤をしていることだろう。
 本社勤務の今年は暮れの仕事納めから年明けの仕事始めまで一週間以上の休みがある。叔母ちゃんが心配しているだろうから帰省はするが(生まれて初めて使う帰省という言葉!)一週間も何をするんだ? また無駄にハッテン場のサウナに行きそうな自分が怖い。
 寄席に行く手もあるが、初席は混んでるわりにはじっくり落語は聞けない。顔見世興行だから大勢の落語家が出て来ては挨拶代わりに数分話すだけである。
〈二人きり。重要OK〉って何の合言葉だっけ?
 その夜も婆ちゃんは夢の中であぐりを探してさまよっていた。
「婆ちゃん! 俺はここだってば!」
 と叫んで身を起こして、四面の壁が迫りくるような狭隘なワンルームにぎょっとする。引っ越したのだと思い出すまで身じろぎも出来なかった。
 そして呼びかけに応えるべきは田上真生ではなく婆ちゃんなのだと心に刻むのだった。

 仕事納めの後、月島のもんじゃ焼き屋で有志による忘年会があった。抜擢組は転任直後に懇親会があったので、会社的には今年の忘年会は見送ることになっていた。それでも呑み会を開きたいと言い出したのは小太りの吉田である。
 カミングアウトの後、仲間の対応に特に変化はなかった。けれど真実は知れない。結局あぐりはお人好しなのだろう。真柴本城営業所でホモとばれて皆にからかわれていたのに、レモンメレンゲパイに到るまで全く気づかなかったのだ。おそらくこちらでも陰では散々に言われているに違いない。
 忘年会で酒が入れば、また嫌な目に遭うのは目に見えている。速攻で断ったのに同じマンションに住んでいれば帰りの電車も同じで、
「行くんでしょう、篠崎さん?」
と当然のように右脇を固める吉田である。実家暮らしだというのっぽの杉野は、いつも会社の前で別れるのに今夜に限ってついて来てあぐりの左脇を固める。これまたあの送別会の森林コンビを思い出させる。小太りとのっぽに両脇を固められて、月島のもんじゃストリートに連行されるのだった。
 忘年会は鉄板のあるテーブル一席を囲む少数の会だった。地元の生まれ育ちだという杉野が鉄板を仕切って何種類ものもんじゃ焼きを作るのだった。
 もんじゃ焼きとは小麦粉を出汁でゆるく溶いた中に、細かく刻んだ具、キャベツ、もやし、紅生姜、桜エビ、揚げ玉、肉、魚介類などを入れて鉄板で焼く庶民的な食べ物である。はっきり言って見た目はゲロだ。
 それを個々にヘラでこそげ取って食べては、ビールを呑む。あまり赤ワインや日本酒は合わない。
 叔母ちゃんと二人で食べた時は大して美味しいとは思えなかったが、杉野が味付けを調整して焼いたものはかなり美味しかった。
「へえ。もんじゃってイケるじゃん」
 とヘラでこそげては口に運んでいるうちに、また思い出してしまう。共に鍋をつつくのも嫌がる連中がいた。
「俺……ホモなんだけど」
 ヘラを小皿に置いて畏まる。
「うん。聞いたよ。BLTSじゃなくて、ええと……」
「LGBTQ。それで彼氏とかいるの?」
 嬉しそうに知りたがる杉野である。
 鉄板を囲んだ一同がにわかにあぐりに注目する。どう答えれば、どういう結果になるのか、見当もつかない。とりあえず、
「いたけど失恋した」
 と言ってみる。嘘ではない。もうあの男とは二度と会わないのだから失恋である。
「もしかして、こっちに転勤になったから? それで失恋した人、他にもいたよ」
 心配そうに尋ねる杉野に、
「僕です」
 黒縁眼鏡が暗い表情で手を挙げた。千葉営業所から来た男である。転勤したために同棲していた彼女と別れる羽目になった顛末を話して聞かせるのだった。
 そんなこんなで恋バナになり、それぞれが輝ける恋愛や悲惨な失恋について語り、あぐりは恐る恐るまたヘラでもんじゃ焼きを食べ始めるのだった。特にあぐりが食べることに抵抗がある者はいないように見える。
 何故だ? いつかどこかで同性愛者だからと揶揄され罵倒されるのではないか? どうにも疑いが晴れないまま終えた忘年会だった。

 大晦日。真柴駅は閑散としていた。駅舎の出入り口には申し訳程度の小さな門松が立っている。舗装されていない駅前ロータリーに菓子パンの空き袋がカサカサ舞っている。駅からまっすぐ伸びる道の先には曇天が広がるばかりである。
 初めて見る景色でもないのに引っ越したばかりのあぐりは、生まれ育った町には何もないのだと改めて実感する。そして、こちらの方がほんの少し気温が低いと知るのだった。
 未だ新車は購入していない。月島のワンルームマンションから実家に帰るには電車に乗って駅から歩くしかない。二十分ばかりの道をだらだらと歩いて行く。
 休暇に入ってから一人暮らしの部屋を整えていたのだ。年末だけに家電家具の安売りなどもあったから、ここぞとばかりに買い揃えた。放り出してあった預金通帳入りのファスナー付ボーチも、買ったばかりの戸棚の引き出しにしまった。お陰で帰るのが遅れてしまった。
 元社員やドライバー達が集っての大吉運送お別れ会は昨日で終わったと聞いている。懐かしい顔ぶれが揃ったと叔母ちゃんが何枚もの写真を送って寄越した。だが、あぐりはタケ兄ちゃんの悪気のない発言を聞いて以来みんなと顔を合わせるのを憚るようになっていた。正直、帰省が遅れたのはそのせいもある。
 ほんの少ししか離れていなかったのに、実家は他人の家のようだった。まず物置小屋前の駐車場はアスファルト舗装され白い線で区画が区切られ、完璧に真新しい駐車場になっていた。そこを回って玄関に行くと、逆に家屋はひどく古びて荒れ果てているように見えた。
「ただいま、叔母ちゃん」
 と顔を出した食堂は、引っ越し作業の途中のように雑然としていた。床の上に雑多な物を入れた段ボール箱が並び、食器棚の中は見事なまでに空になっている。お別れ会でみんなに欲しい物を分配したそうで残っているのは必要最低限の物だった。
「遅かったね」
 と迎えたのは、浦安に住むまゆか姉ちゃんだった。やはり帰省して来たのだ。叔母ちゃんと富樫のおっちゃんはスーパーに食材の買い出しに行っているという。喪中とはいえ皆をもてなすためにご馳走を作ったところが勢いがついて、やはりお節料理も食べたくなったらしい。
「あっちゃん、気がついてる?」
 まゆか姉ちゃんが尋ねるのに「んん?」と生返事をしてあぐりは二階の自室に上がった。
 自室が抜け殻のようになっているのは、月島に運んだ物も多いからである。それでもベッドの寝具に洗い立てのカバーやシーツが付いているのは、叔母ちゃんの心尽くしのようだった。ベッドに寝転んでいると眠りに落ちた。
 階下から漂う料理の匂いに目が覚めた。嬉々として起き上がってから気がつく。料理をしているのは婆ちゃんじゃない。そんなことはわかっている。
 大晦日の夜、あぐりに叔母ちゃん、まゆか姉ちゃん、そして富樫のおっちゃんとデコラテーブルを囲んだ。北海道の明日香姉ちゃん(叔母ちゃんの娘だから正しくは従妹だが)はテレビ局に就職してから年末年始も仕事で帰省しなくなっている。
 食卓には重箱こそないが皿に蒲鉾、黒豆、田作りといったお節料理が並んでいる。だが周囲の風情にあぐりは、正月ではなく夜逃げとか一家心中といった言葉を思い浮かべるのだった。
「月の湯、今日で終わりなんだって。行かない?」
 まゆか姉ちゃんが言い出したのは、年越しそばを啜りながら紅白歌合戦を見ている時だった。あぐりは叔母ちゃんの軽自動車を借りて本城三叉路の先にある月の湯に向かった。助手席に座ったまゆか姉ちゃんは、
「あっちゃん、マジ鈍感なんだから」
と意味不明にぼやいている。〝鈍感〟なんてドライバー全員にいじめられているのに気づかなかった身には禁句である。
「るせーよ!」
 いつになく乱暴に言って、銭湯の駐車場に軽自動車を入れるのだった。
 大晦日の夜だというのに駐車場は満車だった。
「毎日これぐらい客が来れば、閉鎖しなくてもよかったのにね」
 などと言い合いながら、入り口で別れて男湯の暖簾をくぐる。下駄箱に入りきらない靴が外まで並んでいる。呆れたあぐりが立ち尽くしている間にも、湯上りの男達がどやどや出て来るし、新たな男が戸口で女と別れて入って行く。
 大勢の男達が裸で裸で裸で風呂に群れている……ついハッテン場を想起してしまう。いや、この銭湯はそんないかがわしい場所ではない(妙な噂のある銭湯がないこともないが月の湯は違う)。すっかり毒気を抜かれてあぐりは外に出てしまう。
 少々胸が悪くなっている。あの時自分は何をしていたのだろう? 劣情に駆られて何も考えずに複数の男達とセックスをした。もしや何か悪い病気でも拾って来なかったか? ぞっとして鳥肌がたつ。別にどこかから飛び降りなくても、何らかの病気で充分に死ねるかも知れない。
 ふらふらと歩いて行った駐車場の果てでは、何枚も並んだ皿に猫が一匹ずつ取り付いてがつがつ餌を食べていた。
 その横で数人の女性が段ボール箱やブルーシートを広げて何やら作業をしている。
「あらら、あぐりくんじゃないの!」
 三田村さんだった。
「帰省したのね。どうどう? 関東営業部は? 各支店の選抜チームで働くんでしょう?」
 と質問責めである。
「まだ研修期間ですけど……わりといい人が多いみたいです」
「でしょでしょ? 各支店のトップが集まってるんだもんねえ。真柴本城営業所の有象無象とはレベルが違うでしょう」
「ウゾームゾーって……」
 苦笑する。
「言いたくないけどうちって、どうなの? って人が集まってるよね。ホントホント。今なんか人手不足だからもう見境なく人を雇ってるし」
「俺、またトラック乗りたいなあ。本社で机に座ってるより全然いい」
 思わず本音が出るのだった。
 話しながら見ていると、女性達は段ボール箱で猫の家を作っているようだった。雨風に濡れないようにブルーシートで覆い、中には古タオルや毛布を敷いている。
「その段ボール箱、こう使った方が強度がありますよ」
 つい手を出してしまうのは、元引っ越し屋の習性である。箱を組み直しガムテープで補強してカッターで家の入口を開ける。
「先日は父が失礼しました」
 身近に言われて顔を上げると、真生がいた。思わず尻餅をついてから、真生ではなく双子の妹、里生だと気づく。
 にわかに手先が震えてしまい、カッターナイフを借りていた美女に戻す。この美貌にも見覚えがある。熱を出して入院した時の女医だった。刈谷とかいう真生の同級生である。里生とも友人らしく親しく語らいながら作業を続けている。
 へっぴり腰で立ち上がろうとしたところを袖を引かれてまた尻餅をつく。
「ご存知ですよね、お千代さん。うちの猫」
 と里生がスマホの待ち受け画面を差し出している。背中を見せて座った三毛猫が振り向いている。背中の模様がよく見える写真である。
「今、行方不明なんです。宅配ドライバーさんなら、あちこちに行かれますよね。もしどこかで見かけたら……」
「俺、もうこっち住んでないし。ドライバーもやってないから」
「あ……」
 里生の声からにわかに勢いが消えた。後押しするように刈谷医師が言った。
「でも、リリカが犬吠埼まで行ったみたいに、お千代さんも車で遠くに連れて行かれたのかも」
 猫好きの心配性は度し難い。乞われて仕方なくスマホにお千代さんの写真を送ってもらう。
 ただ一度見ただけの里生は風邪の身でさえもっと傲岸不遜な印象だった。今やすっかり打ちひしがれている。おそらく真生もお千代さんを案じて落ち込んでいるに違いない。つい見かけたら連絡するなどと安請け合いして、刈谷医師とまで連絡先交換してしまう。
「よいお年をお迎えください」
 段ボール箱の猫ハウスを完成させて挨拶し合う頃には、風呂上がりのまゆか姉ちゃんが探しに来るのだった。
「姉ちゃんさ、婦人科検診て行った?」
 唐突に帰りの車内で訊いていた。
「何なの、あっちゃんまで。叔母ちゃんが牧田産婦人科クリニックの何とか先生がいいとかしつこく言うし。本城駅前なんて遠くまで行けないって」
「いや。人に聞いたんだ。生理痛がひどいのって病気かも知れないんだって」
「だから。ちょうど会社の健康診断があって、プラスアルファ出して婦人科検診も受けたよ」
「どうだった?」
「別に病気じゃないってさ。痛み止めの薬とか処方箋はもらえたよ」
「なら、よかった」
 せめてこれで真生と交際した甲斐があったというものだ。今年が終わればもう全て終わりだ。
 銭湯まで出かけたくせに、あぐりは年内の汚れを洗い落とさないまま新年を迎えた。

 足軽運送を辞めた先輩の及川さんから電話がかかって来たのは正月二日の夜だった。
「篠崎くん、梅園町の菅野さんて覚えてる?」
 新年の挨拶も早々に訊かれた。
「あの、息子さんを早くに失くしたお婆さんのこと?」
 あぐりの配送日は殆ど月命日にあたっており(というか、その日を指定日にして商品注文していたのだろう)何度も仏壇の前で読経をしたものである。あぐりが異動して訪れないことを心配していたらしい。
 まほろば運輸に移った及川さんも、もともと顔見知りだったから配達の際に相談されたという。
「聞いたら、篠崎くん本社栄転になったんだってね。菅野さんにもそう伝えたら、お祝いしたいって言ってきて」
「いや。お祝いとかいいし……」
「でも息子さんにお経もあげて欲しいとも言ってるよ。正月休みのうちに来て欲しいってさ」
 そう言われて二人で菅野さんの屋敷に出かけることになったのは正月三日のことである。

【第6話に続く】全8話

猫と愛してるのあ 第6話 | 

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