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猫と愛してるのあ 第3話

 休憩室でゆっくりする暇もないが、それは江口主任の顔を見なくて済むから逆にいい。会社に戻って午後の荷を積み込む前に、駐車場でコンビニおにぎりをペットボトルのお茶で流し込むばかりである(サーモスタンブラーのほうじ茶も剣呑な気がして断わった)。
〈あぐりに部屋の鍵を渡したい。今度いつ会える?〉
 口に押し込んだおにぎりを喉に詰まらせそうになった。何だこの文は?
 自分は夕べ寝ている間に、はしたなくも何か催促がましいLINEでもしたのか? 部屋に入りたいとか、寝たいとか……と、過去の文を遡るも、全て記憶通りである。
 改めて真生の言葉を読み進める。
〈老人介護が大変だと話には聞いていたけど、昨日あぐりにつきあって痛感した。私は昨日一日だけでとても疲れたよ〉
 ツナマヨおにぎりを咀嚼しながら読み進める。
〈帰りの車で熟睡していたろう。きっと家ではお婆ちゃんのことが心配で、ゆっくり眠れないんだろう〉
 ペットボトルの封を切って、明太子おにぎりも流し込む。
〈私は留守が多いから、あぐりに部屋を提供する。一人でゆっくり休むといい。避難所だと思って欲しい。疲れた時は勝手に入って休めばいい〉
 二トントラックの運転席は視界が広い。雑木林の上を舞うトンビを眺めてから最後の一言に目をやる。
〈変なことはしないから大丈夫〉
 これは喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない。変なことをしてくれてもいいのだが。少なくとも真生の真意はそこにはないらしい。
〈砂利でお尻が痛い。真生さんは大丈夫だった?〉
 と送信する。シートに辺り尻や腿が痛いのは気づいていたが、今の今まで理由を思い出さなかった。そして、ぐふふと口元がゆるんでしまう。
 ものの数分で昼食を終えて、倉庫に戻ると午後の荷物を積み込んだ。そして出庫する頃には、あぐりの胸はほんのり温かくなっていた。
 今日も残業で退勤のタイムカードを打刻したのは夜十時近くだった。ロッカー室で制服を着替え駐車場で中古のホンダに乗り込むと、つい本城駅に向かってしまった。
 いや、そう言われたからってすぐに真生のアパートに行くのも図々しくないか? 大体まだ鍵はもらっていない。
 ためらう心のままに、くるくると本城駅や駅裏を乗り回す。真生の勤務先、牧田産婦人科クリニックの前も何度か追加する。そして駅前のコインパーキングに駐車した。
 あぐりは真生とタイミングがよく合う。この辺を歩いていれば偶然出会えるかも知れないと、何の根拠もない思い込みで、駅前二階コンコースをうろうろ歩いて出会ったのは、
「よお。あぐりっち! 今帰り?」
 坂上神社の新宮司ミソッチこと御園生慶尚だった。駅の改札前でチラシを配っているようだった。着物に袴と神職の姿ではあるが、夜は冷えるのか上に昇り龍の刺繍が付いたスカジャンを着ている。足元はスニーカーである。
「ミソッチ先輩。何配ってんですか?」
 もらったビラは坂上神社の写真に〝今年の初詣は坂上神社へ!!〟と特大ゴシック文字で印刷してあるチラシだった。いかにも素人の手作りである。
「いいけどまだ十月ですよ」
「まだじゃなく、もう! マジあと二か月で大晦日だぜ。そんで正月。ヤベーよヤベーよ」
 この時間帯でも都心から帰るサラリーマンやOLは多い。それらにチラシを手渡している。
あぐりには神社経営などわからないが、銭湯の市川湯はなくなり、はにわ公園には建売住宅が建ち、地元は変容している。
 そもそも実家の大吉運送さえ廃業になったのだ。あぐりが高卒後、引っ越し会社に就職して間もなくのことだった。いきなり将来が見えなくなった瞬間だったが、それはともかく。
 地元の小さな神社が経営の危機に瀕していてもあまり驚かない。むしろこの先輩が後継ぎとして奮闘していることに驚いている。
「あ、ついでにこれもよろしく!」
 ミソッチはスカジャンのポケットから細長い髪の束を出した。ロックのライブチケットらしい。
「何で? 先輩バンド辞めたんじゃないですか」
「辞めてねーって。一時休止。来年またやるから見に来てちょ」
 と掌を差し出している。プレゼントではなく販売らしい。これまでにもミソッチのライブを見に行ったことはあるが。渋々代金を支払う。来年三月に本城コンサートホールで開かれるようだった。これまでは小さなライブ会場だったのに。
「えっ、すごい! 本城コンサートホールでやるんですか?」
「まあな。音楽室を借りれたよ。坂上神社の名前も役に立つぜ」
「音楽室……ですか」
 何だか知らないが、やる気に満ち満ちている先輩である。
 高校時代は共に郷土史研究部という地味な部活に属していた。特に郷土史に興味があったわけではない。活動のない楽な部活のわりには内申書では好印象だろうと踏んで入部しただけだった。
 部活に集った面々は大半が同様の思惑らしく、一学期の初めに真柴本城市の名所旧跡巡りをしたぐらいで、後は殆ど何もしなかった。
 ミソッチはむしろ部活の時間にバンド活動に勤しんでいた。あぐりはただ帰宅して、スマホで同性愛活動に勤しんでいた。出会い系サイトで大学生と知り合い初体験を済ませて交際などもしてみた。そのような青春であった。
「あっ! こないだはどーも。こちらよろしく!」
 改札口に駆け寄ると、宮司はまた神社のチラシを渡している。腕を組んだ男女二人連れである。男性は田上真生、女性はあぐりが入院した病院の刈谷医師だった。二人はまるで結婚式に出席した夫婦であるかのように、揃って正装で引き出物らしい手提げ袋を下げている。それぞれにチラシを受け取ると、一階の駅前ロータリーへと階段を降りて行った。
 真生の腕には刈谷医師の手が巻き付いている。その姿は紳士が淑女をエスコートする時の模範例のようだった。長い髪を結いあげて薄紫のシフォンのドレスを纏い、ヒール10㎝はあろうかという紫のパンプスを履いた女医は、白衣の時の数万倍も眩く美しい。真生はちらりとあぐりを見たようでもあるが、単に顔をこちらに向けただけかも知れない。
「マジ見た? あぐりっち。メッチャ美人! 田上さんの奥さん?」
 袴をバサバサ鳴らして足踏みするミソッチ先輩である。
「てか、何で先輩は田上さん知ってんですよ!」
 食いつくように言っていた。美人医師だけでなくこの宮司とも関係があるのか真生は? と口惜しさに歯ぎしりせんばかりである。
「あん?」
 まともに目を覗き込まれて気がついた。坂上神社でお祓いをしてもらったではないか。婆ちゃんと叔母ちゃんと真生の四人で。
「いや、まあ、別に……」
 誤魔化すあぐりに先輩は、ライブチケットを改めて数枚押し付けた。
「田上さんと、あの美人にもライブに来るように言ってよ。あと、あぐりっちのご家族にも、よろしく!」
「そんなに何枚も買う金ないよ」
「支払いは当日でいいから。チラシ出来たらまた持ってくから。マジ宣伝しといて」
 その夜はミソッチ先輩と共に駅前のファミリーレストランで夕食を済ませると、すごすごと家に帰った。
 田上真生既婚説を裏付ける証拠を目撃した気分だった。帰るなり風呂に入る。ぶくぶくと口元まで湯に浸かりながら渋面を作る。何と言って問い詰めてやろうか。だがしかし単にキスを交わしただけの関係で、寄り添って歩いていた女性について問い詰める権利があるのか? と、にわかに弱気になる。
 いやしかし部屋の合鍵をくれると言ったんだぞ。そういう関係を望みながら女と腕を組んで歩くとは何事だ。と今度は強気で階段を踏み鳴らして二階の自室に戻る。
「あっちゃん、もっと静かに歩きなさい!」
 と怒鳴っているのは婆ちゃんである。
「おやすみなさいっ!」
 怒鳴り返してぴしゃりと戸を閉める。
 布団にもぐりこんでスマホを覗くと真生からLINEが届いていた。
〈大学時代の恩師が秋の叙勲で紫綬褒章を受章することになった〉
 既読。
〈お祝いのパーティーに行った帰りだ〉
 既読。
〈刈谷は大学時代のただの同級生だ〉
 既読。
〈慣れないハイヒールで足にマメが出来たそうだから腕を貸した〉
 あぐりが知りたいことをピンポイントで伝えて来る。どこまで気が合うんだ? それもまた妙に忌々しく既読スルーを続ける。
〈ところで、あっちゃんはあの神主さんとどういう関係なのかな?〉
〈あっちゃんとか呼ぶな〉
〈あぐり〉
〈御園生先輩は、高校時代のただの先輩だよ〉
〈夜中にただの先輩と二人っきりで何をしていたのかな?〉
〈チラシをもらったろう〉
〈じゃあ、来年の正月は二人きりであの神社に初詣に行っても問題ないかな?〉
 既読……いや、返事をつけなければ。だが何を返したらいいかわからずそのまま眠りに落ちた。スマホを抱き締めてむにゃむにゃ何やり寝言を言ってから、自分の声にはっと目覚めて、
〈来年は坂上神社に初詣して寄席の初席に行く。二人で。二人きりで。ここ重要! OK?〉
 と返信した。
 その言葉に、
〈二人きり。重要OK〉
 の返事が届いているのを知ったのは、ずっと後になってからだった。

   6

 異臭で目が覚めた。化学物質が燃えているような、喉がいがらっぽくなる臭いである。枕から頭を上げるより早く、階下から叔母ちゃんの声が響いた。
「お婆ちゃん! 何なの! 何これ? あっちゃん、大変! 駄目よ、お婆ちゃん!」
 混乱し切った声が伝えているのは緊急事態だということだけである。
 あぐりは部屋を飛び出し階段を転げるように降りると声のする食堂に飛び込んだ。
 部屋中に黒い煙が漂っている。辺りに充満した異臭。うろうろと所在なさげに婆ちゃんが歩いているのを引き留めて、火元らしいガス台を見やると派手に黒煙が上がっていた。そのわりに炎はちろちろと小さめである。消火器は風呂場横の廊下に置いてある。いったん食堂を出ようとしたところ、
「あっちゃん、これ!」
 既に叔母ちゃんがそれを外して持って来るところだった。
 婆ちゃんの手を叔母ちゃんに預けて(こういう時は必ず外に出て行って迷子になる)消火器のホースをガス台に向けて近づけた。
 激しい煙に目からぽろぽろ涙が出て狙いを定めにくい。顔をそむけながら火元に近づくと一気に消火剤を噴射した。
 大吉運送で年に一度火災訓練をしたのはあぐりが小学生から中学生の頃で、何度か消火器を持たせてもらった。当時の単なる訓練が今更役に立つとは思わなかった。白い泡が直撃する炎は次第に勢いが弱まっている。
 そして火が弱まるにつれ、ガス台の五徳の上にのっている物に我が目を疑った。
「何……あれ?」
 あまりのことに棒立ちになる。
 叔母ちゃんが戸や窓を開け放って煙を追い出しているから、いよいよ判然とその物体が見えて来た。電子炊飯器だった。その白い表面が炎に炙られて黒焦げになり、どろどろに溶け始めていた。
 日本のどの家庭にも常備されているだろう電子機器。ご飯を炊くにはコードの先端をコンセントに差し込んで〝炊飯〟のスイッチを押せばいい。だが婆ちゃんはこれがせだの炊飯鍋であるかのように、ガス台にのせて火を点けたのだ。
 はじめチョロチョロ中パッパ。火加減もしたのだろうか。あぐりは空になった消火器を持ち、げほごほ咳をしながら立ち尽くしていた。
 消防車がサイレンを鳴らしながら到着したのは火元の熱も鎮静化した後だった。ミトン型の鍋掴みで温度が下がった炊飯器の蓋を開けてみる。溶けた本体にも関わらず蓋は滞りなくぱかんと開き、中にはきちんと測った水と米とが入っていた。
 あぐりはひたすら情けなく涙も出なかった。いや実は煙にやられて真っ赤になった目からぽろぽろ涙は出ていたのだが、それは単なる生理現象だった。
「スプリンクラーが作動しなくてよかったよ。壊れてんのかな。家中に水を撒かれたら偉い騒ぎだったよ」
 そう言ったのは富樫のおっちゃんだった。叔母ちゃんが呼んだのだろう。消防車と殆ど同時に到着していた。乗って来たバンの横腹には〝便利屋とがし〟とペイントされている。くしゃくしゃの天然パーマが四方八方に伸びているおっちゃんは、叔母ちゃんと並んで消防隊員の調査を見守っている。
 パジャマのままだったあぐりは自室で服に着替えようとして全身から異臭が漂っていることに気が付いた。髪にも衣類にも焦げた炊飯器のケミカルな臭気が染みついている。仕方なく風呂場で頭からシャワーを浴びた。
 と、浴室の扉を開けて祖母ちゃんが覗き込んだ。
「あっちゃん。出かける前にお爺ちゃんとお母さんに挨拶して行くんだよ」
 両手にはまた火の点いた蝋燭立てを一本ずつ握っている。これはホラー映画の一場面か? 炊飯器を焼いた老婆が炎ゆらめく蝋燭を手に仏間から風呂場までさまよい歩いている。
 あぐりは物も言わずに持っていたシャワーヘッドを祖母ちゃんに向けた。迸る湯が蝋燭の火を消して、婆ちゃんの身体も濡らした。
「な、何をするの! あっちゃん。婆ちゃんにこんなことして、何て子なの!」
 あぐりは大声で叔母ちゃんを呼びながらバスタオルで婆ちゃんをごしごし拭いた。自分の身体を拭くのはその後だった。
「え、仕事に行くの?」
 出勤の支度を整えたあぐりに、富樫のおっちゃんはひどく意外そうな声を出した。
「叔母ちゃんは今日休みだし。よろしくお願いします」
 頭を下げながら、今やこんなことは日常茶飯事で仕事を休むまでもないのだとうんざりする。消防士の質問にはあらかた答えたのだ。今は濡れた服を着替えた祖母ちゃんと手をつないだ婆ちゃんとが聞き込みをされている。
「最近、忙しくなってるもんで。すみません」
 と、またおっちゃんに頭を下げる。それは事実だった。最近やたらに物量が増えている。ベテランドライバー及川さんの退職だけが原因とも思えない。
 それでなくとも、あぐりは婆ちゃんの介護で遅刻や早退が多いのに、猫傷の熱でも休んでいる。みんなに迷惑をかけてばかりである。
 駐車場の砂利を踏んで車に乗り込む。ここで真生と抱き合ってキスをしたなど何億年も前のことに思える。
 煙で赤くなった両目は中古のホンダを運転している間もぽろぽろ涙をこぼしている。眼科に行った方がいいのだろうか。視界が曇るたびに腕で目を拭っては会社に向かった。
 事務所に到着したのは昼休みに近い時間帯だった。

「あらら。あぐりくん変な匂いがするね」
 真っ先に気づいたのは事務所で伝票処理をしていた三田村さんだった。アルコールチェックをしているあぐりに近づいて来て、鼻を動かすと「髪だわ」と断言する。あの異臭はシャワーを浴びただけでは取れなかったのか。
午前中の配送を終えて戻って来たドライバー達も、
「この部屋、おかしな匂いがしない?」
 きょろきょろと部屋中を見回して、あぐりに注目するのだった。
 今日もあぐりの代りを勤めてくれたのは、襟首タオルの先輩だった。首にかけたタオルで顔を拭きながら、
「あの駅裏の田植えとか何とかいうお客さん、困るね。今朝も再配送を依頼してるから行ったのに留守なんだ」
「ああ……忙しい人みたいですね」
 と伝票を受け取り再配送の荷物を引き継ぐ。休憩室でみんなが昼食をとっている間に午後の荷を積み込んで出庫しようとしていたのだが、江口主任に呼び止められた。
「今日の配達が終わったら、話があるから声をかけてくれ。篠崎君も家庭の事情で大変だとは思うけどねえ……」
と注意勧告の為に残すのだとの言わんばかりの口ぶりである。
 あの〝HIV発言〟以来まともに顔を見るのは久しぶりである。トラックの中で昼食をとったり、なるべく顔を合わせないようにしていたからである。あぐりはただ「はい」と頭を下げて部屋を出た。
 隣の休憩室からはドライバー達の楽しげな話し声が聞こえる。
「知ってる、知ってる。白鳥の絵が描いてあるラブホだろ。あそこレースのカーテンとかあって、女に受けるよ」
「いや、女じゃなくて。男だけで行く奴がいるって話」
「ああ、リモートワークね。スワンホテルなら案外映りがいいかも……」
「あほか。ならビジホに行くだろうよ」
 森林コンビを相手に熱弁をふるっているのは、襟首タオルのドライバーだった。事務職でもないのに何でリモートワークの話なんだ? 首をかしげながら休憩室とは反対の倉庫に向かうのだった。
 午後の配送と集荷も終えて一旦事務所に戻る。集荷した荷物を東京ターミナル(真柴本城営業所も一応東京管内である)に送るトラックに乗せた後、夜間の再配送に出る。
 目から涙が流れるのは何とか止んだが、どうにも視界が曇って運転も慎重になる。夜間なら尚更である。常より速度を落として走るから配達にも時間がかかる。
 また事務所に戻って来たのは午後十時近かった。事務所では主任が一人でパソコンに向かっている。アルコールチェックをしているあぐりに近づくこともなく、
「ああ、ご苦労さん。篠崎くん」
 と手招きをする。あぐりは主任の席に行き、とりあえず頭を下げる。そして出社前に電話で報告はしていたが、改めて婆ちゃんの失態によるボヤについて説明した。
「まあ、そうね。あんまりお婆さんの介護に時間をとられるようなら、逆に正社員じゃなくパート勤務にする手もあるよ」
「……そうですね」
 それは考えないでもなかった。同じドライバーの中にも短時間パートはいるし、三田村さんのような事務職は殆どパートや派遣である。だが、主任が本当に言いたかったのは、そんなことではなかったらしい。
 席を立って机を回って来ると、いきなり抱きすくめられた。否応なく口づけをされる。あぐりが思い切り突き飛ばしたのは、
「会社ですよ! 誰かに見られたら」
 と言えるからだった。
 本音では、何でこいつにキスされなきゃならないんだと、これまでのセフレ関係がなかったかのように不快に感じていた。〝HIV発言〟で完全に気持ちが離れていたとはいえ、我ながら勝手な気もする。
「このところ忙しいのはわかってるけど。冷た過ぎないか? 今日はスワンに寄って行かないか?」
 たちどころに首を横に振る。
「てか、HIVが心配なんでしょう? もうやめましょう」
「何だよ。あんなの冗談じゃないか。気にしていたのか?」
 わりとむかつく。早足で事務所を出て行きかけたが、それでも相手は上司だった。
「帰ります。今日は婆ちゃんについててやりたいし。台所の後片付けもしなきゃ」
「そうなのか? 仕方ないな」
 と主任は背後からあぐりの肩を抱きすくめて共に事務所を出た。訳がわからず押されるままに廊下を歩いて行くと、向かっているのはトイレだった。いや、トイレで何をさせる気なんだ。
「待ってくださいよ、主任。僕はすぐ帰るって……」
「うん。だから、ちょっとでいいからさ」
 物も言わずに乱暴に主任の手を振り払った。足早にロッカールームに向かうと、制服を脱ぎ捨てて私服のTシャツに着替えようとした。この状況で服を脱ぐ奴があるか? すぐに自分の迂闊さに気がついた。
「まあ、ここでもいいか。誰もいないし」
 追いかけて来た主任は、嬉しそうに上半身裸のあぐりに抱き着いた。舐め回すのが好きな男だから、顔から胸からねとついたキスをして来る。
「やめてくださいよ。もう嫌なんです。こういうの」
「何を言ってるんだ。今になって……こんなにさせといて」
 と下半身を押し付けられる。「何を言ってるんだ」と言いたいのはこっちだ。勝手に勃起したくせに。
 あぐりは力任せに江口の身体を引き離そうとする。主任は主任であぐりの肌に爪を立てんばかりにしてしがみついて来る。そして、
「本当だ。君、髪の毛が変な匂いがするよ」
 あぐりの髪に顔を埋めてくすくす笑った。濁った視界に淫猥な笑顔が見える……そうか。笑うのか。
「僕のは臭うかな? ちょっと嗅いでみない?」
 と更に下半身を押し付けて来る。
 憑き物が落ちたかのように一気に全てがどうでもよくなった。
 ガス台の上で黒焦げになり溶け出した炊飯器の中で、しーんと水底に沈んでいた米たちを思い出す。
 軽く抜いてやれば気が済むんだろう。それだけのことだ。
 あぐりはむしろ積極的に江口の下半身に手を伸ばし、ズボンのファスナーを開けると乱暴に手を突っ込んでペニスを引っ張り出した。親の仇のように握り締め、乱暴にしごき始める。
 生臭い舌で口の中を捏ね繰り回されるのも我慢して、這えば立て立てば歩めの親心とばかりに手を動かし続ける。
「口で……口でやってくれ」
 と主任は異臭のする髪を鷲掴みにして頭を下げようとする。あぐりは主任の物を手放さない。もはやそれが口淫を遮る最後の砦であるかのように握ってはしごき立てる。
 と、脛を蹴られた。膝が落ちる。ロッカー室に敷き詰められた簀の子が乾いた音をたてる。主任は遮二無二それをあぐりの口に突っ込んだ。食いちぎってやろうか。思った瞬間、口中に放たれた。
 吐き出さなかったのは公徳心からだった。みんなが使うロッカー室をこんなもので汚すわけにはいかない。正しくしつけられた末っ子のお婆ちゃん子は、飲み込むしかなかった。
「好きだな……おまえも……」
 はあはあと嬉しそうな喘ぎ声が上から降って来る。自分の性欲を相手の責任にする男。この種類の人間はゲイだけなのかノンケにもいるのか……どうでもいいか。
 あぐりは脱ぎ捨てた制服や衣服も抱いてロッカー室を飛び出した。主任は特にあぐりを追いかけては来なかった。服を抱えた左手の甲に野良猫に引っ掻かれた傷が白く残っていた。

 本城駅裏の「焙煎珈琲 黑河」はまだ営業していた。
 あぐりは一人で店に入るとカウンター席に着いた。メニューを開いてもずらりと並んだコーヒーの種類に、どれを選べばいいのか見当もつかない。呆然としていると、カウンターの中の店主らしき男が、
「こちらが先日いらした時に飲まれた物です」
 とメニューのひとつを示した。白いワイシャツに黒いベストを着た男だった。真生と来たことを覚えているらしい。あの時は真生が注文してくれたのだ。
「今日はこちらを試してみませんか。夜遅いので酸味のある軽めの味がよろしいかと」
 黙って頷いた。髪が濡れそぼっていることには特に言及されなかった。
 会社を飛び出して駐車場の水道で頭から水を被り、反吐が出るまで口を濯いだ。水に濡れる度に髪の異臭が際立つ。襟首タオルはこういう時に役に立つ。身体は拭けたが、やはり髪は乾かなかった。
 中古のホンダ車内で着替えをして、家に向かった。けれどとてもまっすぐ帰る気にはなれなかった。夜の街を当てもなく流して結局コインパーキングに車を淹れると、本城駅ビルの二階コンコースに出て見た。今夜はチラシ配りの先輩はいなかった。
 暗闇に見上げる駅ビルは二十一階建てである。それだけの高さから飛び降りれば絶対に死ねるだろうな。何気に考える。
 いや別に飛び降りたりしないけど……。
 駅ビル内はどのテナントも既に閉店していた。シャッターの下りたビルを抜けて線路を越える。駅裏歓楽街の更に奥、真柴本城市の新宿二丁目に脚を踏み入れ、この珈琲店に来たのだった。
 カウンターに置かれたコーヒーカップは益子焼である。あぐりはその名前は知らないが、土臭いカップだと思う。なるほど苦味を押しのけて酸味が主張しているコーヒーだった。そっと味わっていると、扉が開いて真生が顔を出した。
 Tシャツにジャージのパンツをはいて、足元はクロックスサンダルである。あぐりは手にしたカップを動かすことも出来ずに固まった。
「マスター。出来てる?」
 尋ねる真生にマスターはサーモスタンブラーを差し出した。
「夜勤だろう。苦めのを濃く淹れておいた」
 カウンター越しにそれを受け取って、ようやく真生はあぐりの存在に気づいた。たちまち頬がゆるむ。あぐりの横に腰かけて、
「どうかした?」
 改めて顔を覗き込んだ。乾いた無機質な指が、あぐりの目元に触れた。健康診断のように指先で片目ずつ眼球を開いて見ている。煙のせいで充血している目である。
「明日にでも眼科に行った方がいい。ごめん。話を聞いてる時間はないけど」
 と今度は優しさのある指で髪に触れた。濡れているのに意外そうな顔をする。異臭にも気づいているのだろう。
 あぐりに出来たのは宙に浮いていた手を下ろしてカップをソーサーに着地させることだけだった。
「それと……」
 真生はパンツのポケットから革製のキーホルダーを出すと、一本の鍵を外した。かちりと音をたててそれをカウンターに置いた。
「渡しておく。今日からでも使っていいから」
 あぐりは目の前に置かれた鍵をぼんやり眺めた。目を上げた時には真生は既に席を立っていた。
「悪い。夜勤の途中だから。本当に休んで行った方がいい」
 サーモスタンブラーを持って真生は店を出て行った。あぐりはまだ鍵を眺めていた。
 夜半に近いのに店内にはまだ数人の客がいる。真生がいなくなった店内でのろのろとスマホを取り出した。夕べ、あぐりが眠りに落ちた後で真生から届いた、
〈二人きり。重要OK〉
 という回答を初めて読んだ。何のことだかずっと遡って読まないと思い出せなかった。何億光年前のLINEなのだろう。自分の部屋を避難所にして欲しいという言葉の後に、
〈変な事はしないから大丈夫〉
 と続けている。田上真生はそう言ったからには本当に何もしないだろう。
 でも自分はたった今、変なことをされて来たんだよ。いや違う。自分からしたんだ。好きでもない上司と。もともと性欲解消のためにつきあい始めたんだから自業自得だ。
 視界がぼやけているのは眼球が煙で傷んだせいだろう。

 何度も配達に来た場所だが鍵を開けるのは初めてだった。暗い玄関で靴を脱ぐ。灯りのスイッチがどこかわからない。台所から六畳間に入ると、片隅で何かの気配がした。窓から差し込む街灯の薄明りに、黒い影がすうっと部屋の中を横切るのが見える。
 あわてて蛍光灯の紐を引く。白く照らし出された部屋の中、机の下に黒猫がひそんでいた。金色の目を光らせて、未だ未開封のゴールドバンブーの箱や段ボール箱の隙間にうずくまっている。
 あぐりはその姿から目をそらして、殊更にゆっくりと畳に腰を下ろした。入院した時、三田村さんにもらった猫雑誌を暇に飽かせて熟読した。
 猫とつきあう三箇条。①目を見ない。②構わない。③静かにする。了解。
 身体を倒して畳の上に寝転んだ。室内はごくかすかに真生の匂いがする。あの硬い髪につけられたヘアリキッドの香りも漂っている。あの髪にはまだ触れていない。どんな手触りだろう。と思いながら瞼を下ろす。
 くしゃみをして目が覚めた。足元ばかりが妙に温かい。身を起こして見ると、広げた両脚の間に黒猫が入って眠っていた。あぐりの脛に顎をのせている。何故か口元がほころんでしまう。
 身体がかなり楽になっていた。目はまだしばしばする。明日は眼科に寄って出勤するからまた遅刻か。そう思っただけで江口主任の顔が浮かぶ。
 黒猫を起こさないようにそっとポケットからスマホを出す。誰かに見られても差し支えない内容にしようと頭をひねった結果、ただの箇条書きになってしまった。
〈社内であんなことをするのはやめてください。もう二人きりでは会いません。さようなら〉
 LINEではなくメールで送る。少なくともあぐりにとっては決別のメールであった。
 黒猫が身を起こして大あくびをしている。よく見ると片耳の先端がV字型に切れている。喧嘩でもしたのだろうか。そして窓際の籠(リリカが使っていたベッド)にのそのそ移動すると丸まってまた眠り始めた。
 見上げると壁の時計は三時を過ぎている。数時間は熟睡したらしい。机の上に掌サイズのポストイットの束がある。端に製薬会社のロゴが入っている。ペンスタンドから抜いたボールペンにも同じロゴが入っていた。
〈ありがとう あぐり〉
 ポストイットの一番上の用紙にそれだけ書いて、
「真生さんが読むまで、いたずらするなよ」
 と籠ベッドで寝ている黒猫に注意をしてから玄関を出た。
 半袖Tシャツでは震える寒さになっていた。ドアの鍵を閉めると、改めて合鍵を自分のキーケースに取り付けた。
 あぐりのキーケースは面ファスナーがバリバリ安っぽい音をたてる布製である。家の鍵や中古のホンダのキーも付いている。にわかにそれが温かくなった気がして手の中に握って深夜のコインパーキングに向かった。

 家に着いてまたキーケースの鍵で玄関ドアを開ける。
 一歩足を踏み入れただけでも室内に異臭が残っているのがわかる。静かに階段を上がろうとしたところ、仏間に何かの気配がする。そっと襖を開けると、暗闇に蝋燭の火がゆらめいている。
 仏壇の中で蝋燭二本に火が点いたままである。半ば以上に減っているのは、かなり前に点火したのだろう。気配と思えたのは、ゆらめく炎が芯をじじじと鳴らす音だった。
 つい今しがたまでの安寧な気持ちがたちまち消えた。おそらく婆ちゃんが火を点けたまま寝てしまったのだろう。自分が気がつかなければ火災になりかねない案件である。蝋燭の炎は吹き消したが、それだけでは安心できず、指先で芯を摘んで完全に消えていることを確認した。
 東京の落語家には四つの位がある。見習い、前座、二つ目、真打である。最高位の真打とは、昔は高座の舞台照明に使われていた蝋燭の火を、最後に打ち消すところから来ている。芯打ち……真打。
 そうか。自分は真打か……などと思ってみる。諸々の感情を揺り起こさないためにも。
 翌日あぐりはしつこいほどにシャンプーして髪の匂いを消してから、眼科に寄って目薬をもらって出勤した。
「遅くなってすみませんでした」
 事務所で江口主任に頭を下げたが、特に何も言われなかった。昨夜のメールは読んだのか、何の返信もない。LINEにすれば既読だけでもわかったが、別れ話はメールの方がいいような気がしたのだ。
 昼前には出庫したが、今日も物量は多く昼休みはとれなかった。運転の合間にコンビニおにぎりをペットボトルのお茶で流し込んだだけである。夕方、一旦帰社すると襟首タオル仲間に配送の応援を頼まれる。
「まだ年末には早いのに、一人じゃ運びきれないよ」
 というわけで、トラックに同乗して配達を手伝う。停車した場所でそれぞれに荷物を持って走るのだ。一人より効率がいい。
「おっ、襟首タオル組で同乗ですか。後ろ大丈夫ですか?」
「篠崎さんと一緒じゃ、バックに気をつけなきゃね」
 森林コンビが帰り際、運転席に並んでいるあぐり達を見上げてにやにや笑っていた。何がおかしいのかわからない。
 車が走っている間、あぐりは婆ちゃんの惚け具合についてぽつぽつと話して聞かせた。襟首タオル先輩は、うんうんと頷いてから、
「及川さんさ、まほろば運輸に入ったらしいよ」
 この際、関係ない情報をくれた。及川さんとは最近辞めたベテランドライバーである。まほろば運輸も全国展開しているものの規模も知名度も足軽運送には及ばない会社である。
 配送を終えて事務所に戻ると、
「おい。まだこれだけ残ってるぞ。今日中に配送してくれ」
 と主任に命じられる。今後は決して主任と二人きりにならないようにしよう。肝に銘じて夜遅くまでトラックを走らせる。
 真生からのLINEが励みになる。荷物を配るために車を止める度にスマホを覗いてから運転席を降りる。
〈昨日は寝室を使わなかったらしいがベッドで寝てくれ。シーツもきちんと変えてある〉
〈ありがとう。奥の部屋は入ったことなかったから遠慮した。次から使うよ〉
〈黒猫はロブという名前の雄猫だ。人懐こいからすぐ慣れると思う〉
〈また泊まりに行くけど、真生さんがいる時にも行きたいよ〉
 と送った途端に、月間スケジュールが返信されて来た。
 真生が在宅の日時を狙って行けばいいのだ。それはつまり何と言うか、二人で寝室のベッドを使うにやぶさかではないという意味ではないか? あぐりはトラックのハンドルを握りながら、にやにや笑いが止まらなくなるのだった。
 仕事は忙しくなるばかりだが、江口主任から過剰に接近されることはなくなった。あの別れのメールを受け入れてくれたのだろうか。
 仕事帰りに真生の部屋に寄るのは、想像以上に息抜きになった。直接帰宅して婆ちゃんの意味不明な話や、叔母ちゃんの愚痴の相手をする前に、一人ぼんやり空白の時間をもてあそべるのだ。こんな贅沢があろうか。
 時には黒猫ロブを撫でることも出来る。胡坐をかくと膝に額を擦りつけて来る。確かに人懐こい猫だった。ひんやりとした毛並みに鼻を埋めて吸ってみたり、黒い肉球を指先でぶやぶや押してみるのも一興である。
 実は真生が在宅しているはずの夜に訪れたこともある。だが部屋に明りは付いておらず、自分で鍵を開けなければならなかった。部屋の机にポストイットが貼ってあった。
〈呼び出された 今夜は帰れないと思う Mao〉
Maoって何だ? 一瞬考えてから真生のサインと気がつく。そう言えば直筆の文字を見るのは初めてである。くすぐったい気分でサインを指先で撫でる。そしてポストイットは大切にポケットに入れるのだった。
遅れてLINEを確かめれば、かなり前に連絡が入っていた。
〈今夜は出産がある〉
几帳面に素早く連絡するのは真生の習慣のようだった。その点あぐりは杜撰である。我ながら既読をつけるのが遅すぎる。
〈出産は大概、夜から明け方にかけてだ。危険な肉食動物が眠っている時間帯だ。つくづく人間は弱い動物だと思うよ。そんなわけで、休みをとっていても夜中に呼び出されることが多い。ごめん〉
 ごめんとはつまり真生もあぐりと共寝したかったのだろう。いつかきっと二人でベッドで……と、またにやにやする。
とにかく笑えればいいのだ。わははと笑えれば……そんなような歌があったな。

   7

 台所に漂う異臭はなかなかとれなかった。壁も黒焦げのままである。
富樫のおっちゃんが専門の業者を入れて何かと作業をしていたが、元に戻すには安くない修復工事が必要だった。台所や食堂の壁紙を張り替えて天井も塗り直す工事だが、何しろこの家は近々に解体するのだ。ならば無駄に金をかけずに耐え抜くという方針がとられたようである。
 横浜の兄もやって来て、腕組みをして台所のガス台と対峙していた。
 焼けた電気炊飯器に代わる新品をくれたのは富樫のおっちゃんだった。
「火事見舞いということで」と無償提供だった。以前の物に比べて随分と小さかったが、
「三人分ならこれで充分よ」
 と叔母ちゃんは満足そうだった。辺りの臭気や汚れさえ我慢すれば、日々の調理に差し支えはなくなった。
 そして、ある日帰宅すると食堂の雰囲気が一変していた。あの欅の一枚板のテーブルがなくなっていたのだ。代りに四人掛けテーブルが置いてある。デコラ張りでパイプの四本脚。それこそ町の中華料理屋にあるようなテーブルである。昔、欅の食卓だけでは足りない時に持ち出された物である。どこにしまってあったやら。
「爺ちゃんが十周年記念に造らせたテーブルだから、火事で焼けたらもったいないって。崇さんが横浜の会社に運んで行ったわよ。わざわざトラックで乗り付けて」
「……兄ちゃんが?」
 広い食堂にちんまりと置かれた町中華のようなテーブルを囲むのは、あぐりと婆ちゃんと叔母ちゃんの三人である。
 部屋の壁に造り付けの食器棚も、よく見ると中の食器が随分と減っている。ずらりと並んでいた陶磁器やガラス器がなくなり隙間ばかりが目立っている。
「食器まで持って行くのよ。高い焼き物とか選んで。ひどくない? 松山のさおりちゃんは伊万里の大皿を欲しがってたし。まゆかちゃんはお嫁に行く時はバカラのグラスセットをもらうとか言ってたのに。みんな崇さんが持ってっちゃった」
 と叔母ちゃんは赤ワインを手酌で呑みながら愚痴を重ねる。
 あぐりは別に欅の一枚板のテーブルにも作家物の食器にも特に思い入れはない。とりあえず飯が食えればいい。白いご飯にごぼうと油揚げの味噌汁、もちろんあぐりだけは卵入り。おかずは、さつま揚げを焼いたのに生姜醤油、蓮根の梅酢和え、青椒肉絲。
 婆ちゃんがご飯に青椒肉絲をどっさりのせて食べながら、
「この部屋は何だか変な臭いがするねえ。ご飯がまずくなるよ」
 などと言う。叔母ちゃんはワイングラス越しに睨んでいる。誰がこの臭さを作り出したのだ? と言いたいのを堪えているのだろう。
 浦安のまゆか姉ちゃんは十月最後の週末に帰って来た。婆ちゃんを銭湯に連れて行くためである。が、食堂に一歩足を踏み入れた途端に、
「うそ! 何これ、どうしたの?」
 と仰天した。炊飯器を焼いて火が出たことは知っている。驚いたのはそれではなく、テーブルや食器のことだった。久しぶりに来る者にとっても、この変化はあんぐり口を開ける程のことらしい。
 叔母ちゃんはデコラテーブルでほうじ茶を淹れながら、ここぞとばかりに横浜の兄の仕打ちを訴えている。まゆか姉ちゃんが持って来たドーナツを頬張りながら。
「大体あの伊万里焼の大皿は、あっちゃんが生まれた時に悦子さんの実家から贈られた物なのよ。あちらのお爺様は目利きだったから」
 と叔母ちゃんが言えば、まゆか姉ちゃんも口を揃える。
「聞いてるよ。兄ちゃんの時には有田焼の大皿が贈られたって言うじゃない。なら、兄ちゃんは有田焼だけで、伊万里はあっちゃんが持ってくべきよね」
「いや俺、皿をもらっても……」
 というあぐりの遠慮は完全無視された。
「悦子さんとこのお爺様は趣味人だったねえ。焼き物だけじゃないよ。俳句をひねったり絵手紙を書いたり……私と比呂代ちゃんは一緒に絵手紙を習いに行ったものさ」
 こういう時は婆ちゃんも正しい記憶が蘇るらしい。女性陣は箱入りドーナツを次々と腹の中に収めながら言い募るのだった。
 あぐりはそっと二階の自室に戻り、スマホチェックをする。今日はまだ真生からの連絡はない。今日は一日フル勤務だから仕方がない。ベッドに寝転んで天井を眺めて居るうちに、何やらまたむらむらと欲情して来る。
 実のところ、欅の大テーブルが安っぽいデコラテーブルに取って代わった日、あぐりは久しぶりに自慰に耽ったのだ。どういうわけだか部屋に戻るなり激しく催して、鎮めようにも治まらず結局布団にもぐり込んで一人で事に及んだのだった。
 考えても見ればセックスはスワンホテルで江口主任とやったのが最後だから、たまっているのは確かである。けれど、身体の底から突き上げる激しく狂おしいまでの衝動は、まるで思春期に戻ったかのようだった。
 自分を握り締めて攻め立てるだけでは飽き足らず、全身の肌をシーツに擦り付けてあられもない声を出している。喘ぎに喘いで果てたと思えば、また手が動いている。猿か自分は?
 揚句の果てに妄想は田上真生に及んである。駄目だ。こんなことであの人を穢してはいけない。神まで持ち出す高潔な人物をこんな時に思い描いてはいけない。と否定すればするほど淫欲は燃え上がり、空想の真生を組み敷いては犯し犯され切ない声を上げているのだった。
 いったいこれは何なのか。真生に対する恋情の表出? そうなのかも知れない。いや、単なる劣情に過ぎない。欅のテーブルが失われたあの夜、あぐりはひたすら自分で自分を慰めていたのだった。
 そして今日もまた、そろそろと股間に手を伸ばしたところで階下から、
「あっちゃん、月の湯に行くよ」
 と、まゆか姉ちゃんに呼ばれて飛び起きたのだった。

 中古のホンダに婆ちゃんとまゆか姉ちゃんを乗せて、本城町の月の湯に向かう。調べたところ真柴町の銭湯は既に一軒も残っていないのだった。
 十月も末になると天も高くなる。青空にそびえたつ銭湯の煙突ほど頼もしいものがあるだろうか。道に迷っても銭湯の煙突さえ見れば、ここがどこだかわかる。
 十五時の営業開始と同時に入るために乗り付けた銭湯の駐車場には、まだ一台も車が止まっていなかった。
「あっちゃんも入ればいいのに」
 婆ちゃんの手を引きながら、まゆか姉ちゃんは言うが、あぐりは首を横に振った。見知らぬ男どもの裸など見たくもない。二人が女湯の暖簾をくぐって行くと、
「あ、猫がいる」
 と銭湯の入り口とは逆に歩を進めた。
 銭湯駐車場の奥にある空き地で皿を何枚も広げて野良猫に餌をやっている人がいる。
「あらら、あぐりくん。こんな所でどうしたの?」
 三田村さんの声がして飛び上がった。
 一瞬ここが職場だかどこだかわからなくなる。疲れている……またあの部屋に避難しなければ(にやにや)。
「三田村さんこそ、何してるんですか……」
 聞かなくてもわかる。野良猫に餌をやっているのだ。わらわらと集まって餌を食べている猫の中には、片耳がV字型に傷ついているものもいる。
「さくら猫っていうのよ。避妊去勢手術を済ませた証拠に耳にカットを入れるの。ほらほら、桜の花びらみたいに見えるでしょう」
「痛くないのかな?」
「手術の麻酔中に切るから痛みはないって言うけど」
 三田村さんははちわれ猫の切れた耳を撫でながら、
「ここにいる野良猫がみんなもらわれて家猫になれば、こんな印は必要ないけど。なかなかね。だからせめて繁殖しないように手術をするの」
「三田村さんは何かそういう団体に属しているんですか?」
「団体ってほどでもないけど。真柴本城保護猫の会。当番制で朝夕きちんと餌をやって後片付けをしてるの。でないと猫嫌いの人に文句を言われたりいじめられたりするから。悪くすれば保健所に持ち込まれて……」
「保健所で殺処分?」
 誰かに聞いた覚えがある。三田村さんは眉をひそめて頷いた。
「そうそう。勝手に手術して耳をカットするなんてひどいって言う人もいるけど、殺処分よりましじゃない。こないだもね、お家が見つかった子がいるのよ」
 そして、あぐりにも猫を飼わないかと勧めるのだが、とても頷けなかった。
「いや。うちには惚け老人がいるし」
「ああ……介護してるって言ってたわよね。それも大変よね」
 三田村さんは神妙に頷いた。
 今うちでは婆ちゃんを飼っている。猫だと思えば、そんなに腹が立たないのかも知れない。
 湯上りの頬をぴかぴかさせて女湯ののれんを分けて出て来る婆ちゃんを見ながら思うのだった。

 十一月に入ると年末の繁忙期に向けれて、社内交通安全月間が始まる。車内のベストドライバー賞、ベスト接客賞、ベスト仕分賞、ベストパフォーマンス賞などの表彰がある。あぐりは全ての部門で特A評価を保持しており、入社以来毎年何らかの賞を受賞し続けている。
 特に賞にこだわっているわけではないが、自分は絶対多数と違うのだから成績だけでも高くあらねばと意識していた。思春期に自分の性的指向を知った時から、我が身を守るのはそれしかないと思ったのだ。でなければ末っ子の甘々が努力などするはずもない。
 この期間になるとドライバー達の間では「もう乗った?」が合言葉になる。本社関東営業部から来た調査員がドライバー査定のために助手席に乗るのだ。この調査結果によって賞が決まり、翌年度の給与査定にも直結するから、いやが上にもみんな真剣になる。
 あぐりの助手席に本社調査員が乗る日、襟首タオル先輩が、
「今日は篠崎くんに乗るのか。俺は明日だ」
 と言えば、森林コンビが(彼らはこの調査には関係ないから気楽である)、
「ヤバイっすよ。篠崎さんに乗るって」
「乗って感じちゃう?」
 と嬉しそうに笑うのだった。
 昔からあぐりはノンケの冗談は訳がわからず、とりあえず周囲に合わせて笑っていたものである。落語なんて古臭いもので笑っている弊害かも知れない。最近はとみに訳がわからなくなっていたが、仕方なく「へへっ」と笑って車庫に向かった。
 本社から来た調査員は銀縁眼鏡にネクタイといういかにも事務職員らしい姿だった。上着だけはドライバーと同じ制服を着用している。
「よろしくお願いします」
 と、あぐりはトラックの前で頭を下げる。乗車姿勢から見られている。運転席のドアを開ける前に周囲を見回し安全確認。ドアを開けて乗車するにもステップに脚を掛け、二か所のグリップを手で掴む三点支持を遵守する。シートベルトを装着の後、バックミラーやドアミラーの位置を確認する。もちろん、いちいち指差し確認するのである。普段は適当に流していることを、これ見よがしに行う。
「どうぞ。お願いします」
 と呼びかけて初めて調査員は助手席に乗って来る。調査員がシートベルト装着の後、ようやくエンジンをかける。
 そして、こういう時に限って支障が出るのは何故だろう。芋だか南瓜だかやたらに重い農作物が入った段ボール箱を届けた屋敷は、いつも読経を頼まれる所だった。あぐりの婆ちゃんとそう年の違わなそうな老婦人が、
「今日もお参りして行ってちょうだいね」
 と家の中に上がるように促す。そもそも配送員は玄関先で荷物を引き渡すのが原則である。なのに「今日も」という台詞はいかにもまずい。背後にいる調査員を気にしながら、
「いや。今日は急ぐので、ちょっと……」
 と断れば、
「今日は息子の月命日なんですよ。足軽運送さんはお経がとてもお上手だから息子も喜ぶと思うのよ」
 にこにこと誘われる。この老婦人の息子は難病に罹って若くして亡くなったという。それがあぐりと同い年ぐらいの頃だったそうで、初めて配達した時からいろいろ聞かされ、いつの間にか仏壇にお参りするのが習慣になっていた。
「すみません。ちょっとだけなので……」
 調査員に断って上がろうとすると、老婦人はそちらにも声をかけるのだった。
「どうぞ、お上がりになって。今お茶を用意しますから」
 毎回お茶をご馳走になっているのがバレバレである。
 広々とした玄関で靴を脱いで式台に上がる。振り返って靴の向きを直してから、上がり框を上がる。
「お尻を向けて玄関を上がるもんじゃないよ。先様に失礼でしょう。靴は上がってから直すものよ」
 と婆ちゃんに躾けられている。靴下の汚れを気にしながら出されたスリッパを履く。そんなあぐりを調査員はじろじろ見ている。接客対応・Cに降格? いやせめてBぐらいに留めて欲しい。
 広い仏壇の箪笥と見まごう程の大きく立派な仏壇の前に座ると、あぐりはそれに負けない声で般若心経を唱えるのだった。
 終わるなり供されたお茶を一気飲みして席を立つ。お茶うけの落雁は懐紙に包んで「持ってお行きなさいな」と渡される。あぐりと調査員は共にその懐紙の包みをズボンのポケットに入れるのだった。
 次の配送地に向かいながら助手席の調査員は黙ってタブレットに何やら記入している。言い訳がましいと思いながらあぐりは、あの老婆の早世した息子について語っているのだった。真意の知れない冷たい目をした調査員は黙って頷きながらあぐりの話を聞いている。
 トラックは本城駅裏の隘路に入っていた。
「こんな狭い道にでかいトラックで入ってんじゃねーよ!」
 向かいから来たベンツに怒鳴られる。スモークガラスの窓から顔を出しているのは、どう見ても堅気ではない強面である。
「すいませーん! 今下がりまーす」
 せっかく入った道をバックして大通りに戻り、ベンツを通してから改めて元の所まで進む。隣の調査員は相変わらず黙っている。
 今度の配送先は田上真生である。調査員は助手席に座ってタブレットを見つめたまま「どうぞ」とあぐりが行くに任せている。ほっと息をついて一人でAmazonの箱を持つと真生のアパートに走って行く。今日は終日勤務のはずだから不在票対応になる。知っていながらドアをノックすると真生が顔を出した。
「え、何で?」
 と荷物を差し出すと、
「判子を持って来るから中に入って」
 ドアの中に招き入れられる。時間をとると査定に響く。思わず背後を振り返るあぐりを真生はにわかに抱き寄せた。
 玄関の上にいる真生は普段より背が高く見える。真生の胸に頬を押し付けられて、判子はいつも下駄箱の上に置いてあることを思い出す。
「ちっとも会えないから……」
 いきなり口づけをされる。いや、そういうことをしている場合では……と頭の隅で誰かが言うが、当のあぐりは力いっぱい真生に抱きついて唇を吸っている。つんつんと立った後頭部の髪についに触れる。もう鷲掴みにする。
「だから遅刻にした」
 唇を離してくすりと笑う真生。あぐりはずっと身体にしがみついている。
「今はどの患者さんも安定している。少しぐらい遅刻しても……」
 と、また唇を寄せられる。
 ああ、もう何が何だかわからない。どれが誰の舌で唇なのか。肩から背中から尻までも互いの指がまさぐっている。いっそこの場で………思った途端に背後から銀縁眼鏡の視線を感じる。
「ダメダメダメ。仕事中……」
 慌てて身体を引き離した。ちらりと伺う背後のドアはきちんと閉まっている。覗く者などいるはずもない。真生はすんなり手を離して、
「ごめん。判子押さなきゃな」
「え?」
 自分で拒否したくせに拍子抜けする。
 受領書に判子を押している真生は、目元が赤く染まり瞳は潤んでいる。もうその顔だけで再度ぎゅっと抱き締められた気分になる。
「今度の週末は必ず休みにする。急患も入れない。泊まりに来てくれるだろう?」
 あぐりは黙ってこくんと頷いた。受領書をひったくるように奪って玄関を出たのは、指先が触れでもしたらもう離れられなくなるからである。トラックに急ぎたいが少しばかり歩きにくい。顔も真っ赤に上気している。調査員に怪しまれないだろうか。
 いやそれよりも、真生があぐりの拒否を受け入れたのが意外に過ぎた。
 江口主任もそうだが、これまであぐりがつきあって来た男たちは拒否を受け入れなかった。あのように言っても「俺より仕事が大事なのか」「本当は好きなくせに」と自分の都合をごり押しした。
 してみると実は真生は、それほどあぐりを愛していないのか? またしょうもない疑念で遊び始める。
 トラックに戻ると調査員は助手席で上司と思われる人物と電話で話していた。あぐりが運転席に乗り込み、シートベルトを締め、また前後左右を指差し確認して発車するのを黙って見守っていた。
 午前中の配送を終えて車庫に戻ると調査員は降りて行った。午後はまた別の車に乗るのだろう。
 あぐりはコンビニ弁当をぶら下げて休憩室に行った。もう手作り弁当は持参しない。
 婆ちゃんにはもう弁当はいらないと言ってあるのに毎日のように作ってしまう。まともな弁当はもう殆どない。線香や蝋燭が当たり前におかずに入り、どこで見つけて来たのか消しゴムやどんぐりが卵とじになっていたりする。忘れずに卵料理を入れるあたりが涙を誘う。
 テーブルの隅で弁当を食べていた三田村さんがばたばたとせわしなく手招きした。
「今週の週末よ。あぐりくん、つきあってくれるでしょう」
「何が?」
「やだやだ、忘れないでよ。主任の誕生日パーティー。ケーキを買う係。今年は私とあぐりくんなのよ」
「あ、そうでしたね」
 三田村さんの隣に腰を下ろした。コンビニ弁当を広げながら、今週の週末というのは……思い出してまた一人で赤面する。身体も熱くなる。絶対に泊まりに行かねばならない日である。
「俺、今回ちょっと用事が出来て……」
「あらら。何言ってんのよ。私一人でケーキ二つも持ってくのやーよ。今年はバースデープレートののったイチゴショートとレモンメレンゲパイ。森くんや林くんがネット予約してくれたから、私たちは引き取って主任のお宅に届ければいいの」
 森林コンビもそこまで気が利いたなら、いっそUberEatsに頼めばよかったのに。
「確か、お昼をご馳走になって夕方までに帰るんですよね?」
「そうよ。夜までお邪魔しちゃご迷惑でしょう」
 ならば主任宅を辞してから真生のアパートに行っても充分にも似合うのではないか? 問題は夜なのだから。
 いや、別に昼間でもいいが。いやいや何を……とまた一人で赤くなってばかりである。
「また熱出た?」
 と三田村さんに額に手を当てられる。
 午後の荷積みも終えたトラックの運転席で真生にLINEをしてみる。先ほどの事といい、真生はあぐりの都合を優先してくれる気がする。案の定、
〈じゃあ、土曜日の夜に来てくれるんだね。一緒に夕飯を食べよう。日曜日も空けておく。医局には絶対に連絡を入れないように断わっておくから大丈夫だよ〉
 特に異を唱えることもなかった。
 何だか胸がじーんとして、いつまでも真生の返答を眺めていた。
 
 本城三叉路は昔は狐や狸が住む森だったそうである。どこぞの住宅会社がそこを切り開き、フォックスヒルズと名付けてちまちました建売住宅を販売したのだ。取り残された狸がさぞ恨んでいるだろう、とは婆ちゃんや叔母ちゃんの弁である。
 本城駅ビルの洋菓子店で予約したケーキを受け取り、それぞれ手にしてあぐりと三田村さんはタクシーに乗って、駅から本城三叉路に向かった。
「あぐりくんたら、いつもと全然違う。おしゃれじゃない?」
 タクシーの後部座席に並んで座った三田村さんは、あぐりのジャケットの袖口を摘んで言う。
「上司の家だし……」
 と言ったが別に江口主任のために着た服ではない。その後で会う人のためだ。
「三田村さんだって、いつもと違ってスカート履いてるじゃないですか」
「あらら、いやーね。私だってスカートぐらい持ってますから」
 実のところあぐりはおしゃれがよくわからない。手持ちの服で最もおしゃれと思われるものを着たに過ぎない。浦安に住むまゆか姉ちゃんが何かの際に見立ててくれたジャケットとボタンダウンシャツのコーディネイトである。
 フォックスヒルズバス停の前でタクシーを降りる。似たような白い壁の小さな家が並ぶ町である。「ここかしら?」と違う家のチャイムを押そうとする三田村さんを制して、あぐりは屋根に風見鶏のある家を見つけた。
 去年来た時、何度か振り返りながら帰った家だった。忘れるものか。この家で口説かれたのだから。
「篠崎さんと三田村さん。いらっしゃい。駅からタクシーで? 遠かったでしょう」
 二人を迎えるのは江口主任の奥さんである。毎年招く社員の顔と名前を間違えることなく覚えている。あぐりや三田村さんの上着を預かって玄関のコート掛けに掛ける。
「よかったら、赤ワインとビーフジャーキーです。どうぞ」
 あぐりは毎度パラグアイの土産を持参している。主任とはあまり口を利きたくないので奥さんに手渡す。何がなし後ろめたさを感じながら。
「おお! ケーキが来たな」
 主任はキッチンから飯台を抱えて出て来た。ケーキの箱に目を留めて嬉しそうである。
 リビングダイニングには先に到着した襟首タオル先輩、森林コンビなど十人近くの社員達が既にビールを吞んでいる。
「あなた。篠崎さんにワインも頂いたのよ。開けてちょうだい」
 と奥さんはワインを差し出している。
 なるべく主任を見ないようにして、ダイニングテーブルに並んだ料理を眺めた。今年は手巻き寿司である。既に刺身や肉や野菜が美しく盛られた大皿が広げられている。ふと、この大皿は横浜の兄ちゃんが持ち帰った伊万里焼より小さいな……などと思う。
 いや、この建売住宅自体が、大吉運送の社屋だったあの家に比べて全てが小振りに出来ている。掃き出し窓のサイズなど家のより八割方小さい。息苦しい気がするが、そもそも家を比べるなどはしたないことなのだろう。
 婆ちゃんしか使わない用語〝はしたない〟。あぐりが何かにつけて自他を比べてしまうのは性自認が他人と違うからだろうか。
「ほら。篠崎さん、ケーキ出すから写真撮って」
 森くんはあぐりが渡したレモンメレンゲパイの箱を開いている。すかさずスマホを出して、その手元にアングルを合わせる。
「篠崎さんの買って来たレモンパイ!」
 林くんが嬉しそうに覗き込んでいる。社員達が丸いケーキを見つめている様を動画で撮影する。
 すると、とても奇妙なことが起きた。
 レモンメレンゲパイが宙を飛ぶようにしてあぐりに向かって来たのだ。
 おやおやと見ているうちに視界が真っ暗になった。顔面に鈍い衝撃。そして辺りからげらげらと、はじけるような爆笑が沸き起こった。
 誰かがパイを投げたのだ。まるで昔のアメリカ映画のように、あぐりはパイ投げの標的にされたのだ。
 いや手で持って顔面に叩き付けられたのだろう。鼻や口の中は甘酸っぱいジュレクリームで一杯になり、むせかえりそうである。
 何だかわからないがこれは冗談か? みんなが笑っているのだから自分も笑うべきなのだろうか? 
 口角を上げて笑顔を作ろうとした途端に、顔に張り付いていたケーキがゆるりと動いて重力の法則の命ずるままに床に落ちて行った。床でパイは壊れて四散し、黄色いレモンジュレと白いメレンゲとが抽象画のように飛び散った。
 あぐりは鼻に入った甘酸っぱい物にむせてクシャミを連発してしまう。それらもまた床に飛び散る。「汚ねっ!」「やだ!」と笑い声に重ねてざわつく声も聞こえる。
「こいつホモなんだぜ!」
 はっきり聞こえたのは江口主任の声だった。クリームが張り付いて重い目蓋をゆっくり開くと、この上もなく楽しそうに笑っては「篠崎はホモ! ホモの篠崎!」と繰り返している主任が見えた。
 襟首タオル先輩や森林コンビなど男性陣が声を揃えて囃し立てている。「ホーモ! ホーモ!」「篠崎に尻を向けるとカマ掘られるぜ」「わざわざ残業して主任に迫ったんだとよ」「おかま!」 男の声ばかりである。
「やめなさいよ」「やだ、可哀想」と女性陣はおざなりに言っている。
 頭の中が真っ白に冷たくなった。メレンゲが詰め込まれたかのようだ。鈍く動く思考が、ああ、そういうことか。ばれていたのか、とゆっくりと納得した。
 というか主任がばらしたのだろう。自分は戸棚の中に隠れて人に罪を押し付けた。ああ、そうか。
 何だか全てを納得した気になって、あぐりはのろのろと顔に付いたクリームを手で拭った。
 ばかばかしい。ああ、ばかばかしい。こんなんで生きてるなんて。
 にわかに浮かぶ思いは昔から胸の底にマグマのように溜まっていたものである。それが火山のように噴火しただけである。
 ああ。ほんとうに全くばかばかしい。
「何考えてんのよ! ケーキがもったいないじゃない!」
 三田村さん、もったいないのはケーキですか?
 それでも三田村さんはタオルであぐりの顔を拭いてくれている。
「それじゃ落ちないから、洗面所で洗って……」
 と、あぐりの手を引っ張ったのは江口夫人だった。
「あなたってば、ひどいことを! いくらホモだからって!」
 と夫に非難がましく言いながら。
 けだし名言である。〝いくらホモだからって〟
 いや別にいいんですよ、奥さん。確かに俺はホモですから。あなたのご主人のアレを舐めたり飲んだりしたホモですから。ゲイなんて、すかした言い方はしませんよ。
 化粧用のクレンジングフォームを泡立てて顔に塗られる。それを湯で流すという作業を繰り返す。けれどまだ顔にはべたべたと油分が残っている。そして夫人が熱心に汚れを取ろうとすればする程、あぐりのボタンダウンシャツは飛び散った石鹸や湯で汚れて行くのだった。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 それだけ言って洗面所から玄関に向かった。スニーカーを履いて、白い砂糖菓子のようにな家を出る。
 屋根の風見鶏がキイキイと鳴くように揺れていた。

 【第4話に続く】全8話

猫と愛してるのあ 第4話 | 
 

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