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猫と愛してるのあ 第6話

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 本城駅前で及川さんと待ち合わせて、梅園町に行くバスに乗った。あぐりは毎度赤ワインとビーフジャーキーを手土産に下げている。
「僕も本社に異動する話はあったんだ」
 バスの中で及川さんは言った。どんな仕事になるのか子細に確かめてから断ったと言う。
「子供はまだ小学生だったから転校させたくなかったけど、真柴本城から一時間半もかけて通勤するのも大変だから断ったよ。そしたら何かと居心地悪くなって、まほろば運輸に移ったんだ」
「へえ」
 頷きながらあぐりは自分がいかに適当に異動を受け入れたか痛感する。とりあえず、あの連中と縁が切れてアパート探しをしないで済むと、それしか考えていなかった。
 梅園町は真柴本城市に昔からあるお屋敷街である。バス通りは広々とした欅並木で一軒ずつの屋敷の塀がとてつもなく長い。トラックで走るには快適だが、徒歩となるといつまでも続く長い塀に心が折れそうになる。
「よくいらしてくださったわね。足軽運送の篠崎さん。それと、まほろば運輸の及川さん」
 和服姿の老婦人に迎えられ、広々とした玄関で靴を脱ぐ。いつもの仏間に案内されると思いきや座敷に招き入れられるのだった。
「寒かったでしょう。どうぞこたつに足を入れて。楽にしてください」
 と既にこたつに入っていた老人が気さくに勧める。六人ほども入れそうな家具調こたつの上には、蒔絵の重箱など酒肴の用意がされている。
 あぐりは敷居の前で立ち尽くしてしまった。こたつの様子もさることながら、床の間に目を奪われた。
普通なら掛け軸がかかり、李朝の壺でも飾ってありそうな床の間には、暖房付きの猫ベッドが据えられていた。ふかふかの温かそうな毛皮も掛けてある。その隙間から用心深く戸口のあぐり達を見ているのは大きなトラ猫だった。額に〆印の傷跡があるのが、どこかで見覚えがある。床の間の横の地袋の上には猫の皿が置いてある。それこそ高麗の梅鉢のような高価そうな鉢に水が湛えられている。
勧められてこたつに足を入れた及川さんが、
「わっ!」
 と飛び出した。捲れたこたつ布団から三毛猫がのそのそと出て来た。
「お千代さん?」
 思わず口にしたあぐりを胡散臭そうに見上げながら床の間の猫ベッドに入ると、トラ猫と顔を揃えてこちらを睨んでいる。
「お千代さんだよね?」
 とっさにスマホを取り出して写真を撮り始めてしまう。
「あら。篠崎さんは猫がお好きなのね」
 お茶を持って来た老婦人に言われて初めて写真撮影の許可を得る。三毛猫はシャッター音にも動じないで写されていたが、トラ猫は明らかに機嫌を損ねたらしく猫ベッドを出て襖の隙間から廊下に出て行ってしまった。
「この三毛猫はこちらの飼い猫ですか? 知り合いの猫にそっくりなんだけど。ねえ、お千代さんだよね?」
 老婦人と三毛猫を交互に見やって声をかけると、先に答えたのは猫だった。にゃーんという甲高い声である。
「ほお。三毛が鳴くのは初めて聞くな。なかなか可愛い声じゃないか」
 菅野夫妻は驚いて顔を見合わせている。
「トラ猫のレオちゃんは毎年冬になると家に来るの。野良猫だけどよそのお家でも可愛がってもらってるみたいよ。こっちの三毛猫ちゃんは今年初めてレオちゃんが連れて来たの。お嫁さんだと思うのよ」
「じゃあ、二匹ともこちらの飼い猫ではないんですね?」
 確認するなり「失礼します」と老婦人の目の前でLINEを始めた。
〈知り合いの家で見た猫です。僕にはお千代さんに見えますが、どうでしょう?〉
 と里生に写真を送った途端に返信が来た。
〈お千代さんだと思います。トラ猫も家の近所で見かける未去勢の野良です。すぐ引き取りに行きます。先様に連絡してもらえますか?〉
 その場であぐりは里生の希望を菅野夫妻に伝えた。
「せっかく今年も来てくれたのに……連れて帰ってしまうの?」
 肩を落としている老婦人にあわてて言った。
「いえ、引き取るのは三毛猫だけです。トラ猫は別にいいんじゃないかな?」
「そうだよ、おまえ。どう見ても三毛は飼い猫だと言ってたじゃないか。きっとレオが無理やり連れて来てしまったんだよ」
 と老人が言葉を添える。
 里生と老婦人が空いている日時を打ち合わせる。そして明後日に三毛猫だけを引き取りに再訪問することが決まった。
 この間髪を入れない対応の早さは真生そっくりではないか。さすがに双子である。何やらほやほや浮ついた気分で、こたつに入って進められるままにお茶を飲む。用心しながらやって来たお千代さんがそっと膝に乗ると丸くなった。隣で及川さんは恐々猫を眺めている。
「じゃあ、お願いしてもいいかしら?」
 人心地ついてから、菅野夫人は席を立つと隣室との仕切りになっている襖を開けた。正面に大きな仏壇があり、雅やかな線香の香りが漂っている。あぐりが実家で嗅いでいた安い線香の香りとは明らかに違う。
 いつものように正面の紫色の座布団に正座して、鈴を鳴らす。木魚まで叩くことはめったにないのでうまくリズムが合わないが、何とか般若心経を唱え始める。背後には合掌した菅野夫妻と及川さんが横に並んで座っている。老人も小声でお経を唱えている。
 そして読経を終えるとまたこたつに戻って酒肴を勧められる。豪華なお節料理や雑煮までご馳走になるのだった。菅野老人は落語に造詣が深いらしく、たぶん爺ちゃんや婆ちゃんも知らないだろう昔の名人のレコード(もちろんプレイヤーもある!)を出してくるのだった。
日が暮れる前に、ほろ酔い気分で及川さんと共に菅野邸を辞した。二人とも手には土産にもらった和菓子の袋をぶら下げていた。
 本城駅前で別れる時に及川さんに、
「まほろば運輸では即戦力のドライバーを探しているんだ。篠崎くんが来てくれたらいいんだけどな」
 などと言われた。いや、本社に異動したばかり転職はないだろう。菅野夫妻には栄転祝いに印伝のキーケースをもらったばかりだし。

 家に帰ると居間の床に座り込んだ叔母ちゃんと富樫のおっちゃんが楽し気に広げたアルバムを眺めていた。
「ただいま」
 叔母ちゃんに和菓子の袋を渡しながら覗き込むと古い写真のようだった。
「見てこれ。懐かしいでしょう」
 アルバム以外にもクッキーの空き缶には写真がばらばらに入っていた。婆ちゃんが惚ける前までは、まめに生理してアルバムに貼っていたものだが。
 明日から横浜の兄が着て、本格的に荷物の片づけをするので整理していたとのことだった。なるほど見回してみれば、家具には赤青黄色の小さな付箋が貼り付けてある。横浜に運び込む物、レンタル倉庫に収める物、廃棄する物などに仕分けしてあるらしい。まゆか姉ちゃんが早々に浦安の一人住まいに戻ったのは、その騒々しさから逃げ出したらしい。
「それにしても、あれだけあった赤ワインやビーフジャーキーがなくなったのは驚きだね」
 我が事のように言ったのは富樫のおっちゃんだった。二階に行こうとしていたあぐりも思わず「えっ!」と振り向いていた。
「今日あっちゃんが持って行ったのが最後よ。みんなが食べたり持って帰ったりしてくれたから、きれいに片付いたわ」
と、叔母ちゃん。
「へええ」と驚きながらあぐりは二階の自室に戻った。実はもっと驚くべきことが待ち受けていたのだがまだ知る由もなかった。
 正月らしい晴れ渡った朝。会社の社員二人を引き連れてトラックでやって来た兄の崇は、家に畳んだ段ボール箱を持ち込むなり、
「さあ、運ぶぞ!」
 と威勢がいい。居住エリアについてはまだ残しておく物も多いが、応接室や仏間の荷物は軒並み運ぶらしい。応接セット、サイドボード、ランプに中国風の衝立、絵画に焼き物など(母方の祖父の見立てが多い)軒並み運んで兄の会社で使うという。あぐりは思わず尋ねた。
「養生をしないの?」
「もう解体する家なんだから、別に傷がついても問題ないだろう」
 兄はさばさばと言う。欅の一枚板のテーブルを持って行った時もこんな具合だったのだろう。さぞやあのテーブルには細かい傷がついていることだろう。
「いや。家はいいけど家具の方が問題だよ。少しは養生しとかないと、トラックで運んだり下ろしたりする時に傷がつくよ」
「あっちゃんの言う通りだ。ちょっと買いに行って来よう」
 富樫のおっちゃんと共にホームセンターに買い物に走る。エアパッキン、プチプチのシートが筒状に巻かれたものを数本、箱入りの養生テープにシートとかなりの金額になった。
「なあ、あっちゃん……」
「うん。この金は兄ちゃんに出してもらおう」
 と言うあぐりに構わず、おっちゃんは自分の財布を出すのだった。白髪交じりのくしゃくしゃ天然パーマに、コロッケじみた丸い腹のおっちゃんを思わず見てしまう。
「いや。いいんだ。それより……あっちゃん」
 いちいち何か言いたげなおっちゃんだが、あぐりは養生シートの筒を何本も担いで車に向かう。
「あっちゃん。配送屋だけあるね。荷物の運び方がうまい」
 褒められる程のことでもないのだが、こういう身体を使う作業は嫌いではないのだ。
 そして荷物の梱包も得意である。美術品は決して傷つけるわけにはいかないから丁寧に梱包する。焼き物類はエアパッキンで包んで段ボール箱に詰める。絵画もエアパッキンで包んで段ボール紙をあてがう。
「へえ。器用なもんですねえ」
 兄の社員達は感心してあぐりの手元を眺めて居る。
「こいつは引っ越し会社に長いこといたから」
 兄は我が事のように自慢する。
 家具の養生についてはあぐりが指導して社員二人が動いた。そして家から持ち出してトラックに運ぶにも持ち方や力の入れ方などコツを見せる。ここで覚えておかないと、下ろす時にもいらぬ苦労をすることになる。
「この部屋の物も、もう家に運んでいいだろう」
 と兄は仏間に入った。仏壇には既に黄色い付箋が付いている。横浜に運ぶ印である。確かにそれは生活に最も不要な物であるし、長男の家にあるのがふさわしいのだろう。
 あぐりは殊更丁寧に仏壇の中身をプチプチで包んで段ボール箱に収めた。もちろん婆ちゃんの位牌も入っている。落語の登場人物が家事などの非常時に真っ先に持ち出そうとするのが位牌である。だが兄の家でこれを開梱する人はいるのだろうか。何となく家の片隅で永遠に箱入りのままである気がした。
 作業を進める間にあぐりは何故自分が引っ越し会社を辞めたのか訳がわからなくなっていた。引っ越し作業は好きだしトラックの運転も出来て、人間関係も悪くない会社だった。少なくとも足軽運送よりはるかに良かった。
いや。何故辞めたかといえば、兄が自動車部品の商社を始めたからである。そもそもは、いずれは兄が興す引っ越し会社を手伝うために就職したのだ。けれど兄が始めたのは商社であり、それが軌道に乗っている。ならば自分がこの会社にいる意味はないと判断して辞めたのだ。そこが我ながら謎である。何故、自分の好き嫌いではなく家族を判断基準にしたのだろう?
 いやいや。自分なりの判断基準がなかったわけではない。もんじゃ焼き屋の忘年会でもばらしてしまったが、失恋がきっかけで退職したのだ。当時つきあっていた恋人は別に引っ越し会社の社員ではなかったが、会社帰りにデートをした場所を忘れたかった。全てを刷新したかったのだ。
 辞める時に惜しまれたが、自主的に入社したわけでもないから特に未練もなかった。今になってみれば何も辞めることはなかったのではないか? 心地よく汗をかいて荷造りしながら、あぐりは過去の自分の自主性のなさに呆れていた。
 兄たちはトラックに荷物を載せて走り去った。それを下ろす際どうなるかは、あぐりの知ったことではない。以前なら心配して車に同乗していたような気もするが。
 ともあれ汗をかいたから月の湯でも行こうかと思えば、そこももうないのだった。物がなくなり以前より更にがらんとした家で風呂に入った。内風呂だと湯上りもうすら寒いような気がしてならなかった。

 翌日は起きるなり節々に痛みを覚えた。特に腰の辺りが不穏に強張っている。転勤以来デスクワークばかりだったとはいえ何とも情けない。よちよちと階段を下りると、食堂では既に叔母ちゃんと富樫のおっちゃんがトーストで朝食をとっていた。おっちゃんもまた随分と早く来るものだなあと思いながら席に着くと、
「あのね、あっちゃん……」
 コーヒーを出しながら叔母ちゃんが遠慮がちに言った。トーストを齧りながら一口啜ると黒河の泥のように濃いコーヒーが思い出された。今日飲みに行ってみようか。
「話があるんだけど……」
「うん」
 妙に気をもたせる叔母ちゃんに目を上げると、今度は富樫のおっちゃんが、
「あの、あっちゃんな……」
 と口を開く。
「俺、これから本城駅で待ち合わせなんだけど」
 里生と共に梅園町に三毛猫を引き取りに行くのだ。だから話はさっさと済ませてくれと言いたいのに、二人は顔を見合わせては言い淀んでいる。結局、口火を切ったのは叔母ちゃんだった。
「私、則之さんと一緒になるから」
「則之さんて誰?」
 言ってから気がついた。富樫のおっちゃんこと富樫則之。二人揃って見事に頬を赤らめている。
「つまり、その……俺は香奈さんと結婚しようと思ってる。いや、香奈さんは再婚で俺が初婚なんだけど」
 それ、わざわざ言うことか?
「いいだろう、あっちゃん?」
 それも、わざわざ言うことか?
 あぐりは熱いコーヒーをごくごくと一気飲みした。そして、
「そうなんだ」
 とだけ言って席を立った。
 富樫のおっちゃんは別に朝早くから来たわけではなく、昨夜から泊まっていたのだ。もしかしたら今夜だけではなく、あぐりが月島に行ってからずっとそうだったのかも知れない。まるで気づかない自分は、やはり男女のことには疎いのだろう。まゆか姉ちゃんも〝鈍感〟とか言っていたし。
 食堂を出ようとするあぐりに二人は縋りつくようにして口々に言うのだった。この家が解体になる前に叔母ちゃんは富樫のおっちゃんの家に移る。新しいマンションの部屋に住むかどうかは未定である。結婚式は上げないが、家族の紹介も兼ねて食事会だけはしたい等々。
「あっちゃんには黙っていて悪かったけど……札幌の明日香にはね、一応許しをもらってるのよ。友則さんをお父さんとは呼びたくないとは言ってるけど……」
 富樫のおっちゃんは香奈叔母ちゃんの十歳近く年下のはずである。明日香姉ちゃんが「お父さん」と呼びたくないのは当然だろう。あぐりは二人の話に「ふうん」「へええ」と軽いあいづちを打って、そそくさと家を出た。

 待ち合わせ場所の本城駅前ロータリーに現れたのは、シルバーメタリックのランドローバーだつた。真生の車である。ぎょっとして立ち竦んでいると、
「早く乗って」
 と声をかけたのは里生だった。車を借りて来たのだという。梅園町の菅野家を訪ねると、来客用ガレージの自動扉を開けてもらった。奥には自家用車らしいベンツが停まっている。配達に来ただけではわからない豪邸ぶりだった。
 里生は運転席を下りると後部座席から猫用キャリーバッグを取り出してあぐりに持たせた。ちなみにあぐりは本城駅ビルで買った羊羹をぶら下げている。栄転祝いのお礼である。里生は大きなショルダーバッグを肩に掛けた。A4書類やパソコンがぎっしり詰まるビジネスバッグである。あまりに重そうなので、
「持ちますか?」と手を出したが、里生は驚いたような顔で「大丈夫」と答えて玄関に向かった。
 今日は老人は留守らしく、対応してくれたのは菅野夫人だけだった。広い玄関を上がると廊下の奥から千代がやって来た。
「お千代さん!」
 と声をかけた里生に、にゃーんと鳴いて答えている。おまけに里生の脛にしきりに額をこすりつけている。これは猫が親愛の情を示す仕草である。
先を歩いていた菅野夫人が寂しそうに微笑んでいる。
「三毛ちゃんたら、私や主人が呼んでもちっとも答えてくれないのにねえ」
 千代は一同を先導するかのようにすたすたと座敷へ入って行くのだった。
 大きなこたつに足を入れて、里生がバッグから出したのは古いアルバムやクリアホルダーに挟んだプリントしたての写真だった。供されたお茶を呑みながら、千代の来し方を語って聞かせる。古いアルバムは元飼い主の婆様の遺品だという。あの家で遊ぶ子猫の千代やリリカの写真が何枚も貼ってある。
 だがあぐりが目を奪われたのは千代ではなく、真生と里生の写真だった。
「国分寺町に引っ越したのは小学校に入学した頃で。それからずっとお婆ちゃんにはお世話になっていたから」
 と示す写真では小学生の真生と里生があの昭和的な家の縁側で、千代とはまた違うサビ猫と遊んでいる。
「これはお清さん。お千代さんやリリカの母親猫。五匹も産んで雄の三匹はもらわれて行って、雌だけが残ったの。お千代さんはお婆ちゃんちに、リリカは家に引き取った」
 特筆すべきは小学生の二人は男女の区別もつかない程そっくりなのだ。
「これ……どっちが真、里生さん?」
「こっちが真生で、こっちが私。真生は中学生になるまで私と区別がつかないぐらいそっくりだった。知らない人には双子の姉妹と思われてたよ」
「へええ」
 あぐりは田上兄妹の姿ばかりを写真に探しているのだった。菅野夫人は膝に清をのせた婆様の写真を眺めている。
「この飼い主さんは、もう亡くなられて?」
「そうなんです。だから家で室内飼いにしようとしたんですけど、やっぱり育った家がいいらしくて。何度も逃げ出して隣の家に戻ってしまって。でも今回みたいに遠出をしたのは初めてです」
「きっとレオちゃんが誘って連れて来たのね。国分寺町から梅園町までなんて私だって歩くのは大変なのに」
「あのトラ猫はしたたかなボス猫です。月の湯の餌場にも来るし、あちこちの家で餌をもらっているようです。ここまで泊まりながら来たんだと思います」
「まあ。それじゃレオちゃん達は東海道五十三次みたいに、宿場町ごとに泊まって歩いて来たのね」
 などと語り合って、千代を連れ帰る承諾を得た。しまいには里生は保護猫活動のチラシまで広げて老婦人に活動内容を説明している。
 見た目は真生に似ているが、弁舌の鮮やかさときたら大違いである。これが弁護士というものかと変に感心するあぐりだった。
 千代をキャリーケースに入れたのはあぐりである。あのボロアパートで真生が三毛猫(実は千代)をキャリーケースに入れた時、手品のようだと思ったものだが、今やあぐりも簡単に猫を扱えるようになっていた。黒猫ロブと遊んだ甲斐がある。
「レオちゃんには冬の間だけでも家にいて欲しいわ。それとも千代ちゃんと一緒の方がいいのかしら?」
「毎年のことなら、こちらで越冬させてやってください。筋金入りの野良猫だから、好きな時に出て行いくと思いますよ」
 とトラ猫には冷淡な里生である。
 ランドローバーに乗った後で、
「場合によっては長期交渉も辞さないつもりだったから」
 と里生は後部座席のビジネスバッグを示すのだった。法廷並みにどちらが千代を引き取る権利があるか主張するつもりだったらしい。
「じゃあ、僕は駅で降ろしてもらえますか?」
 尋ねると里生はまた驚いたような顔をする。
「菅野さんから引き取った責任上、お千代さんが元の家に戻るのを見届けるべきだと思うけど」
 言われてみればもっともである。あぐりは思わず頷いてしまう。

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 生垣のアオイは冬ざれた中でも青々とした葉を茂らせている。その中で屋根に寄り添った柿の木がすっかり葉を落としていた。てっぺんの木守柿だけが朱色を残している。
 あぐりが生垣の中に入るのは初めてだった。隣の田上家だけでなく他の家々も新建材を使った平成の建築であるのに対して、ここは木造平屋建てで屋根瓦がのっている典型的な昭和の建築だった。
 里生は自宅ではなく、その昭和建築の方に迷わず入って行く。短い敷石を伝って玄関でガラガラと音をたててガラス格子戸を開けた。あぐりは狐につままれた気分で後について行く。
「ただいま」という里生の声に「お帰りなさい」と奥から出て来たのはあの美女、刈谷医師だった。
「お千代さん帰って来たよ」
 と里生が見せた輝くばかりの笑顔にあぐりは一瞬その場に立ち竦んだ。愛想なしの里生にこんな表情があったのか。
 昭和の家はバリアフリーではない。玄関もかなり高めの上がり框で沓脱石がある。里生はその上がり框にキャリーバッグを置くと、そろそろと扉を開けた。三人の人間が見守る中、千代はすんなりバッグから出ると軽く身震いしてから、しゃなりしゃなりと歩いて玄関の隅に行った。床に置かれた陶器の鉢に水が常備してあるらしい。小さな音をたてて水を飲んでいる。
「この家、もしかして保護猫団体が借りたとか?」
 あぐりは里生と刈谷医師とを見比べた。
「真生に聞いてなかったの?」
「……?」
「ここ、真生が借りた家だよ。駅裏のアパートが取り壊しになって」
途端にあぐりは踵を返し、
「じゃあ、俺帰るから」
 と玄関の外に出ようとした。そこにフシャーッという声が響いた。台所の奥を見やると、千代の向こうに黒猫のロブがいる。細い身体の毛を逆立てて千代を威嚇しているのだ。
「閉めて」
 言いながら里生はあぐりを押しのけて玄関の引き戸をぴしゃりと閉めた。猫達が逃げ出さないためだが、あぐりも逃げ出せなくなった。玄関の戸を背にして呆然と立ち尽くすばかりである。
「ロブ。それはお千代さん。これから一緒に暮らすんだよ」
 と里生が黒猫に声をかけている。千代はといえばロブの威嚇にまるで動じていない。若い黒猫が必死でシャーシャーと恐ろし気な顔をするのを珍しいもののように眺めている。
「何……うるさい……」
 奥からみしみし足音をたてて出て来たのは真生だった。しゃがれた風邪声である。たった今まで寝ていたのだろう。くたくたのパジャマに頭髪は逆立ち無精髭まで生やしたザ・病人である。
「風邪?」
 思わず訊いてしまう。刈谷医師が頷いている。
「急性上気道炎。単なる風邪だね。熱も下がったようだし」
「別に刈谷を呼ばなくても……産婦人科だって風邪薬ぐらいある」
 真生は里生に不満を表明している。
あぐりの存在に気づいているのかいないのか、立っているのも億劫らしくその場に胡坐をかいてしまう。すると千代がふんふんと匂いを嗅いで、更に膝に前脚をかけて伸びあがると真生の鼻に鼻先を近づけた。そして、よっこらしょとばかりに真生の胡坐の中に入ってしまった。
「お千代さん、やっと真生を同居人と認めたみたいだね。今まで近づかなかったもんね」
 にやりと笑う里生。
 散々に千代を威嚇したロブはまだ疑わし気に真生の回りを歩き回っている。
「ロブ。お千代さんは先輩だぞ。挨拶しろよ」
 ロブは真生の言葉を理解したかのように胡坐に近づくと千代と鼻先を合わせた。猫の挨拶である。
「はい。ご挨拶済みました。じゃあ、あぐりさん上がって」
 とタイミングよく里生が背中を押す。真生はとうに気づいていたらしいが、猫にかまけてまだ気づかないふりをしている。
「いや、俺はもう……」
「お茶ぐらい飲んでくのが礼儀でしょう」
 誘ってるわりには、どうにも偉そうな里生の言い方である。
「じゃあ、私は帰るから」
 と刈谷医師が逆に靴を履いて出て行こうとする。
「待って、玲奈ちゃん。家にあるお団子を持って行って」
 里生は刈谷医師の手を取って玄関を出て行ってしまった。
 一人叩きに残されて、あぐりは更に狐につままれた気分である。この家には何匹狐がいるんだ?
「この家……真生さんが借りたの?」
 尋ねるのに真生はこくりと頷くと、
「お千代さんは……」
と言いかけて咳き込む。億劫そうに千代を抱いて腰を上げた。老人のように頼りない足取りで座敷に向かうのを見かねて、あぐりは玄関を上がると肩を貸した。まだほのかに熱っぽい身体である。風邪で寝込んでいたせいか蒸れたような体臭がするのだが、それさえ懐かしく感じる。
 座敷には障子越しに午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。真生に畳に下ろされた千代は、迷うことなく障子のマスを潜り抜けて廊下に出て行った。障子一マス分だけ髪を取り去って猫の通り道にしてあるのだ。廊下の座布団はガラス窓から差し込む光で温まっているのだろう。千代はちんまり丸まって目を閉じた。
 真生は八畳間の中央にあるこたつに入ると天板に額を付けるようにして背中を丸めた。あぐりは辺りを見回して、
「何か羽織る物ないの? パジャマのままじゃ冷える」
「隣の部屋にフリースが……」
 そう言われて襖を開けると、同じく八畳間らしい隣には見覚えのあるベッドが据えてあった。あのボロアパートにあった家具を取り急ぎ運び込んだ印象である。もともとこの家にあった古い家具と並んで奇妙な調和を見せている。ロブがすいとベッドに飛び乗ると、ここは自分の領分だと言わんばかりに横たわった。あぐりはベッドに放り出してあるフリースを取って出る。
「お千代さんは、この家がいいんだよ。いくらうちで里生たちが可愛がっても、隙を見てはこっちに戻ってしまう」
 まだ天板に額を付けたまま真生はほとんど独り言である。この背中に抱きついてしまいたいと思う心を抑えてフリースを着せかける。
「じゃあ、猫のためにこの家を借りたの?」
 と真生から離れるとわざとらしく室内を見て回る。再会が嬉しくてたまらないような真生の含み笑いから顔を背けるために。
 あぐりの問いに答えたのは、刈谷医師を見送って戻って来た里生だった。こたつの上でお茶を淹れながら説明した。
「この家は借主がなかなか見つからなくて取り壊しの話も出ていたの。そこにちょうど真生のアパートも取り壊されるってことで、即決でここを借りた。だってお千代さんが育った家だよ」
 と茶托に茶碗をのせてあぐりに差し出す。
「お千代さんはお婆さんの匂いのするこの家を離れたくない。もう十四才……人間でいえば七十二才。なら、ここで最期を迎えさせてやりたいじゃない」
 あぐりは、ぽかんと口を開けてしまう。
「マジで猫のために家を借りた?」
「だけじゃないよ」
 と里生はくすくす笑った。菅野家で見せた職業的な笑顔とは異なる雅やかな笑顔である。この眩しさはやはり真生に似ている。目を逸らすと相変わらず口元を緩めて自分を見ている真生と目が合いそうになる。目のやり場に困る。
「いずれ親の介護とか考えるとね。あの父親は真生と暮らすのは嫌がるだろうけど。スープの冷めない距離っていうの? 隣なら我慢するかも知れないし」
「お父さんは納得したの?」
 あぐりの率直な疑問に対して、里生はにやにやしている。
「納得も何も。隣の借家を借りたのが誰であれ、うちは異議を唱える立場にないからね」
「というか、里生が実家を出るのが想定外のショックだったらしい」
 としゃがれ声で言い添えるのは真生である。
「私は石女だから」
あぐりは黙って聞いた。婆ちゃん子はろくでもない言葉も知っている。〝うまずめ〟とは子供を産めない女性のことである。真生が濁した言葉の先を知った気がする。内孫、外孫の次元ではなかったらしい。
その真生は「里生」とたしなめるように口を挟むが、当人は知らん顔で言葉を継いだ。
「高校の時に病気で子宮を取った。だから子供は産めない。父親みたいな旧弊な男は石女なんて傷物はとても嫁には出せないと思ってる。一生実家で面倒を見る気だったのが、いきなり出て行くと言ったから、かなりに取り乱してる」
「家を出られるんですか?」
 尋ねるあぐりに里生は頷いて追分団子の包み紙を開いた。
「ショックで混乱した父親が山ほど買って来たお団子」
 すました顔で一本ずつパックされた団子をあぐりに差し出す。こし餡、つぶ餡、白餡、みたらし、胡麻餡、ゆず餡、栗餡などいろいろある。にわかに真生があぐりに向かって、
「蜜がいい」
 と言った。ほとんど脊髄反射のようにあぐりは、
「餡子にしろ」
 と口にしていた。
「蜜。蜜。みーつー」
 笑いながら真生に言い返された途端に奇妙なことが起きた。
「着物を汚すから、餡子にしろって……」
 言っているうちに突然視界が曇った。目頭が異常に厚くなりぽたぼたと涙が流れ落ちて来た。顔全体が真っ赤になっているのがわかる。あぐりは頬に滂沱と涙を流し泣いているのだった。ぶるぶると身体が震えて嗚咽が停まらない。
 あの日、団子屋の店先で婆ちゃんと同じことを言い合った。落語「初天神」の台詞である。叔母ちゃんも真生もいて、あぐりはイライラしていたけれど幸せだったはずだ。なのに……
「帰る」
 ぼろぼろ涙をこぼしながら立ち上がり座敷を出た。
「待って。悪かった。待て、帰るな」
 真生も素早く立ち上がる。風邪声が更に裏返っている。
 一向に止まらない涙を手や腕でごしごし拭いながら玄関に向かった。歩くたびにみしみし床が鳴る家である。追って来る真生は突然こたつを出て冷えたせいか激しく咳き込んでいる。つい振り返ったあぐりは奈落の底に落ちた。
 いや、そう思っただけで実は玄関の上がり框から足を踏み外して叩きに落ちただけだった。朝から痛かった腰を沓脱石にぶつけたらしく、すぐには立ち上がれない。呆然と叩きに座り込んで沓脱石に腕を掛けている。にわかに喚いた。
「何なんだよ!」
「落ちたんだよ」
 真生は裸足で叩きに降りて、あぐりを助け起こそうとしている。そしてまた咳き込む。その手を力づくで払って、
「病人は寝てろ!」
「ごめん。すまなかった。無神経だった」
「悪化して死んだらどうするんだよ!」
 自分が言った言葉に空恐ろしくなり、更に涙が吹き出して来る。盛大にしゃくり上げながらも、真生を上がり框に抱え上げようとする。まるで断崖絶壁から這い上がるかのような二人である。実際は泣きじゃくるあぐりの腕を引っ張り上げているのは真生だったが。
「叔母ちゃんが富樫のおっちゃんと一緒になるって……何で俺が最後に知るんだよ! 明日香姉ちゃんは札幌なのに、一緒に住んでる俺はのけ者かよ!」
 一体自分は何を喚いているのだ? 涙も涎も巻き散らしながら。
「叔母ちゃんて……あっちゃんのとこの小母さんが?」
 真生は理解しようと努めているが、わかるわけがない。あぐり自身が理解していないのだから。ただ滝のように涙を流して号泣している。
「もう嫌だ。人が死んで……みんないなくなって、家もなくなる。叔母ちゃんだって……何なんだよ! 何で俺だけ残して……」
「だから一緒に暮らそう。ここで……」
「こんな所に住まない!」
「じゃあ、あっちゃんの好きな所を探す。ここでなくてもいい。一緒に住みたい」
 気がつくとあぐりは上がり框にうずくまり囂々と泣いているのだった。真生の両腕に抱かれて。病人の匂いの向こうに懐かしい真生の香りがある。まるで銭湯のぬる湯に浸かったかのような安寧な気分になる。涙に濡れた頬を猫のようにパジャマに擦りつける。その胸に縋りたくなるが逆に突き飛ばしていた。
「一緒になんか住めない! 住めるわけないだろ!」
 座敷の襖の陰に立っている里生の姿が目の端に入った。幼女のように団子を食べながらこちらを覗いている。みたらし団子らしい。蜜の団子。
「何が蜜だよ! 団子なんかいらない!」
 と里生まで怒鳴りつける。何の罪もないのに。里生はもぐもぐ口を動かしながら座敷の奥に消えた。
「婆ちゃんは俺を探して死んだ! 今も俺を探してる! 夢でずっとずっと探してる‼」
 真生の無精髭にまみれた顔が無惨なまでに蒼白になった。あぐりに向けて伸ばした手を宙に浮かせたままである。
「婆ちゃんが一人でさまよってるのに、俺だけ幸せに暮らす⁉ あり得ない! 何で、何で死んじゃうんだよ‼ 俺に黙って……そんなの、そんなの……」
 ぶるぶる震えて言葉にならない。
自分では気づいていなかったが、あぐりが婆ちゃんの死に関して泣いたのはこれが初めてだった。そもそも婆ちゃんがあぐりにとっては母親同然であることさえ気づいていなかった(母親は十五才の時、高校入学間近に死んだが、あぐりは別に泣かなかった。だから祖母の死で泣くはずがないと思い込んでいた)。呆然としている真生に向かってガキ大将のように腕を振り回して言い募る。
「触るな! もうあんたとは会わない! これっきりだ! 今日は里生さんと、お千代さんを届けに来ただけだ!」
にわかに立ち上がった。座り込んで見上げる真生に構わず靴を履くと玄関の戸を開けた。
「手紙なんか寄越すな! あんなの読んでない! もう二度と会わない! 本当だからな!」
 言い捨てると道に駆け出した。いつも配送の荷物を持って走った大通りである。今日はバスで帰るしかない。走っている間も流れる涙は止まらなかった。
 バス停には枯葉が吹き溜まっているだけで人の姿はない。ようやく涙が止まってべたべたの顔を袖で拭っては持て余していると、目の前にシルバーメタリックのランドローバーが停まった。
「駅まで送るから」
 と里生が助手席のドアを開けた。
 黙って助手席に乗ると、そこにあぐりのショルダーバッグやスマホが置いてあった。
「珍しい人だね。平気でスマホを忘れるんだ」
 と妙な感心をしながら里生はグローブボックスから濡れティッシュを出して渡す。それであぐりが顔を拭っているうちに車を発進させた。黙々と運転していたが駅に近づくと口を開いた。
「月の湯の跡地がマンションになるのは知ってる?」
 あぐりは黙って頷いた。
「取り壊しや建設工事が始まれば、猫達は怯えて来なくなるかも知れしない。三田村さんはあの近所に別の餌場になる場所を探してる」
 何匹もの猫が集まって餌を貪るのを嫌がる住民は多い。保護団体では食べ跡は掃除をするし、糞尿の後始末もする。けれど反対だけならまだしも虐待したり殺したりする人々もいる。三田村さんは餌場に出来る安全な場所を提供してくれる人を探しているのだ。
「新しい餌場が決まったら伝えるから」
 ハンドルを切りながら言うのに、あぐりは言い返した。
「別に俺、保護団体の会員じゃないし」
「いいじゃない。あぐりさんの作った段ボールハウスは好評だよ。猫達も出て行かないし」
 あぐりが黙って車窓を見ているうちに車は駅前ロータリーに入って行く。里生は車を停めると、改めてあぐりを見て言った。
「今日はどうもありがとう。お陰でお千代さんが帰って来られたよ」
 あぐりはやはり黙って頷いて車を降りた。
 車中で真生について触れるかと身構えていたが、特に言及はなかった。これでもう自分は田上真生とは何の関係もなくなった。妹の里生とだって関係はない。
 スマホを入れたショルダーバッグを肩に掛け階段を上がり二階コンコースに出る。冬の曇天にそびえる駅ビルを見上げるも視界が随分と狭まっている。泣き腫らした目のせいらしい。里生は特に何も言わなかったが、さぞ見苦しい顔だったろう。
 心はすっかり沈静化していた。婆ちゃんが死んでからの躁鬱の大波小波が消え去って凪になっている。涙とは心の中の屈託を洗い流す効果があるらしい。
 そして鎮まり返った心であぐりは、今度こそもう生きていなくてもいいやと思うのだった。真生とはもう会わないし、叔母ちゃんには富樫のおっちゃんがいる。あぐりが死んで最も悲しむはずの婆ちゃんは既に彼岸にいるのだし。
 少しずつ身辺整理をして向こうに逝こう。それが新年の抱負になった。

   ⒖

 翌日には月島のワンルームマンションに戻った。朝起きた時から腰に鈍痛があった。真生の家で玄関の沓脱石にぶつけた打撲傷である。ドラッグストアーに塗り薬を買いに出て、ついでに文具店が初売り出しをやっていたので便箋や封筒を買い求めて来た。痛みの記憶が消えないうちに真生に別れの手紙を書いた。以前書いた文章を空で書くことが出来た。封筒の中には避難所つまりボロアパートの鍵も入れた。そして年賀状を出す客でにぎわっている郵便局に出かけて、料金を計ってもらい切手を貼って投函した。
 その夜、残った便箋に書いてみた。
〈もう生きていなくてもいいです。今までありがとう。さようなら。〉
 篠崎あぐりと署名をした。
 誰に対する遺書だかわからないが、とりあえず白い封筒に入れて見る。それを持って部屋の中をうろうろした。封筒を置くべき場所がわからない。仕方なく玄関の靴箱の上に置いた。いつでも見られる。いつでも使える。
 正月らしい晴天が続く。けれどあぐりは狭い部屋の万年床に横たわり明け方から日暮れまで漫然と過ごした。気が向くとスマホで動画を眺めたが、小さな画面でちまちま腰を振る男が(そういう動画である)みじめったらしく思え、結局落語の配信を流して聞いた。
 すっかり重く固まった身体を動かしたのは、正月休みの最終日だった。配信落語でも聞いた「佃祭」はこの辺が舞台である。近所をぶらつくだけで落語散歩になる。月島もんじゃストリートを抜けて佃大橋を渡る。渡った先に昔の船着き場の石碑があるはずである。
 隅田川(昔風に言うなら大川)の川面には冬の日差しがきらきら輝いている。何も夜中まで待たなくとも、今ここで飛び込んでもいいではないか。泳ぎを知っているあぐりでも、この寒さなら凍えてろくに泳ぐ間もなく彼岸に流されることだろう。欄干にすがって身を乗り出していると、
「あけましておめでとうございます」
 と肩を叩かれた。
 振り向くと小太りの男が頭を下げている。日吉営業所から来た吉田である。
「今年もよろしくお願いします」
 と、あぐりも頭を下げる。
「こんな所で何してるの?」
 問われて素直に落語の舞台を歩いていると説明する。
「へえ。篠崎さんて見かけによらず渋い趣味なんだ」
 と感心される。あぐりは構えることなく落語「佃祭」のあらすじを語っているのだった。どうせもうすぐ死ぬのだから、落語好きの爺むさい奴と思われたって構わない。既にカミングアウトもしているし。
 ぶらぶらと歩いて向こう岸にある石碑を眺め、築地本願寺まで足を伸ばした。吉田は実家に帰省したものの親が結婚の孫のとうるさくて早々に帰って来てしまったと言う。まだ初詣をしていないとのことだが、あぐりも同じだった。ミソッチ先輩の坂上神社に行ってやればよかったと今更思う。
 築地本願寺は大勢の参拝客で芋を洗う騒ぎだった。何となくそれを眺めてお参りを済ませた気になって、また歩き出す。
「こないだ……忘年会で、すいませんでした」
 歩きながら吉田はぺこりと頭を下げた。
「俺も大概鈍感だけど、杉野も恋バナになると夢中になっちゃってさ」
「はあ」
 何を謝られているのかわからなかった。
「もんじゃ焼き屋で、篠崎さんがゲイだって……回りのお客さんも聞いてたのに、引っ越し会社の彼氏と別れたこととか根掘り葉掘り……」
「いや、引っ越し会社は俺が勤めていただけで、相手は違うから」
 あの時、気がついてないわけではなかった。周囲の客は袖を引き合って「ゲイ」「あのイケメン」「だよねー」と噂をしていた。だが、もうどうでもよかったのだ。というか皆の失恋話もそれなりに面白かったし。
「あれはないですよね。結構みんなジロジロ見たり、噂してましたよ。別に篠崎さんが迷惑かけたわけでもないのに。BLTSだからってあんな目で見られるのは、きついですよね」
 あぐりは思わず吹き出した。
「俺ってベーコンレタストマトサンド?」
「あ、いや……えっと何だっけBCG?」
「それ、ワクチン。いいよ別にベーコンレタストマトサンドで」
 げらげら笑いながら目をこすった。涙がこぼれそうになっていた。真生の家で号泣して以来、些細な事で涙腺を刺激されて困っている。
 境内に並ぶ屋台には「初天神」ではお馴染みの飴屋も団子屋もなかった。吉田くんがふらふら吸い寄せられているのはシシカバブの屋台だった。

 豊洲駅に近い教育研修センターで後期研修が始まった。朝九時に出勤して社員証を入り口のセンサーにタッチしてストラップで首に掛ける。胸で揺れるそれを夕方五時までぶら下げている。
 昼休みは社員食堂で定食を食べるが、味噌汁椀にそれをどっぷり浸けてしまったこともある。以来、味噌汁やスープが出て来ると、
「ほら、気を付けて。社員証は胸ポケットに入れるの」
 注意するのが杉野さんの役割になった。するとあぐりだけでなく、吉田くんもいそいそと社員証を胸ポケットに入れるのだった。
 一月半ばで研修は終わり、それから配送接客マナーのマニュアル改訂作業に入る。現行のマニュアルに新たに現場の意見を反映させるというのだ。それと同時に今春入社する新人ドライバー研修が、あぐり達抜擢組の最初の現場仕事になる。
 会議をしてパソコンを打ちマニュアルを作り接客指導のシミュレーションをする。ただ肩が凝り腰が痛くなる作業が続く。夕方五時では終わらずに七時八時と残業も多くなった。
 そんな中であぐりはHIV検査に病院に出かけた。身を清めて彼岸に旅立ちたいではないか。というか向こうで婆ちゃんに変な病気に罹ったと知られたくない。結果は陰性だった。
 真柴本城市の実家では、あぐりの仕事初めと時を同じくして家屋の取り壊し作業が始まっていた。
〈電気ガス水道などの配線配管の撤去を依頼しました。面倒な手続きは則之さんが手伝ってくれるので助かります。ライフラインがなくなって、この家は人が住めない家になりました〉
 と、その都度、叔母ちゃんから連絡が届いた。叔母ちゃんはとっくに富樫のおっちゃんの家で暮らしている。便利屋の手伝いもしているらしい。
〈家の周りには囲いが出来ました。月極駐車場だけが残っています。本格的な工事現場みたいです。〉
〈今日は襖や障子、畳なんかをまとめて外して運んで行きました。明日は鉄製品やガラスを外して持って行くそうです。〉
〈今日から重機が入りました。あっという間ですね。壁が壊されて支柱が残っているだけ。これも明日あさってには壊されて撤去されるそうです。〉
 あぐりだけではなく、まゆか姉ちゃん、明日香姉ちゃんなどに同文を送信しているらしい。もしかしたらパラグアイの父親(叔母ちゃんにとっては兄だが)にも報告していたのかも知れない。
〈完全に更地になりました。〉
 との連絡が来たのは一月も終わる頃だった。
 二月半ばには叔母ちゃんと富樫のおっちゃんの結婚披露宴がある。真柴本城市のホテルの結婚式場で食事のみのコースである。
〈こういう機会に礼服を買っておきなさい。後で役に立つから。三越とか伊勢丹とか東京のデパートでなるべくいいのを一揃い買っておきなさい。〉
 と叔母ちゃんに言われて、日曜日に銀座に出かけた。
「あっと。俺も親に言われてたんだ。今度、従兄が結婚するから式服を買っておけって」
 と言う吉田くんと出かけた。小太りのわりにファッションに詳しい(完全なる偏見)吉田くんはあぐりに似合う服を見立ててくれた。
「えっと。篠崎さん、そのピカピカのスーツはちょっと輩っぽいよ。こっちのが似合うと思うけど」
 どうもあぐりが選ぶ物はおしゃれではないらしい。吉田くんの勧めるままに靴やコートも合わせて購入した。
〝銀ブラ〟とは銀座をぶらぶらすることだと婆ちゃんが言っていた。そんな豆知識を披露すると吉田くんに「物知りなんだね」と感心される。昭和過ぎると馬鹿にされるかと思ったのに。
 二人で礼服を入れた袋やデパートの手提げ袋をぶら下げて〝銀ブラ〟をした。
「へえ。日本一古いコーヒー屋なんだってさ」
 初めて入った銀座のカフェは老舗のようだった。
黑河のそれに比べると軽く爽やかな味わいのコーヒーだった。飲みながら吉田くんの顔をまじまじと見てしまう。何故このノンケは自分と普通に接するのだろう? すると吉田くんはその問いに答えるかのように口を開くのだった。
「篠崎さんて可愛い顔してるけど、けっこう鋼の心をもってるよね」
「はあ?」
 意味が分からない。
「あっと。可愛いって言い方もジェンダー的にいけないのかな? でも杉野さんも言ってた。篠崎さんは一人で道を切り拓いて来た人の強さを感じるって」
「はあ……」
 別に何も開拓とかしてないし。でも、とりあえず褒められたようなので、
「じゃあ、ここは僕が」
 とレシートを取ると「いや駄目だよ」と奪われ、結局ワリカンとなる。
 帰りの地下鉄で、礼服を買った理由を改めて詳しく話した。
「気がつかなかったの俺だけなんだよね」
 と今度の恋バナは、叔母ちゃんと富樫のおっちゃんが主役である。
 正月に打ち明けられて二月に結婚式なんて早過ぎると、まゆか姉ちゃんにぼやいたところがまた「鈍感」と言われてしまった。二人の仲は大分前から公然の秘密だったらしい。式の予約もかなり前からしていたそうである。
 一緒に暮らしているくせにあぐりだけがいつまでたっても気がつかないから、仕方なく正月の告白と相成ったらしい。
「俺ってやっぱ男女のことは全然わかんないよ。BLTSだから」
 地下鉄の音に負けないように大きな声で話すのに「BLTS」は便利だった。吉田くんはすぐに理解して返すのだった。
「BLTSは関係ないでしょう。僕だって親戚の叔母ちゃんの恋愛なんて知りたくないもん」
 何だか少しほっとする。
 こんな身内のことや自分の気持ちを隠さずに話したのは初めてだと気がついたのは、社宅のマンションでそれぞれの部屋に別れてからだった。

 二月の最終週の日曜日。食事会の前に真柴駅で降りて実家まで歩いて見た。月島に比べるとこちらはやはり冷え込む。
 駅から行くと目安になる月極駐車場の看板だけが賑々しく残っており、その先には工事中の仮囲いがある。もっと大きな家だと思っていたが、こうして仕切られてみるとせせこましい土地でしかない。ここがあぐりが生まれて育った場所であり、婆ちゃんが亡くなった場所でもある。囲いの上には灰色の冬空が広がっていた。
 トラジマ模様の仮囲いの下から赤茶色の地面が覗いており、よく見ると霜柱が立っている。都心にいると霜柱どころか土さえ踏まなくなっているが、子供の頃は霜柱を踏んでは登校していた。水気を含んだ土が靴裏に付いて歩くほどに重くなったものである。
 礼服に合わせて買った革靴の先で、ちょんと霜柱を突き崩してみた。爪先に少し泥が付いただけだった。
 本城駅前に出るとすぐタクシーに乗った。歩けない距離ではないが途中に牧田産婦人科クリニックがある。日曜日でも真生は働いているかも知れない。未練を断ち切れないあぐりを乗せてタクシーは一気にそこを走り抜けてくれた。
 ホテルの個室宴会場で一族十数人(覗くパラグアイ在住者)が集っての午餐。おばちゃんは華やかな色留袖で、隣に座る富樫のおっちゃんは黒紋付。白髪混じりの天然パーマは整えたようだが、やはりくるくるしている。
 フレンチのコースは料理と料理の間が長い。話題といえば家の工事や独身者の縁談についてである。この場で独身者は、まゆか姉ちゃん、明日香姉ちゃん、そしてあぐりだった。どこぞの誰の何某はどうかという話の俎上にあぐりまで上るのは驚きだった。葬儀の時のカミングアウトはなかったかのようである。
「あっちゃん。仕事が落ち着いたら家に遊びに来てくれよ」
 みんなに酒を注いで回っていた富樫のおっちゃんは、あぐりにそう言うのだった。
「そうだね。そのうちね」
 と答えながら何となく富樫家に行くことはないだろうと思っていた。
 引き出物の手提げ袋を一様にぶら下げて、あぐり、まゆか姉ちゃん、明日香姉ちゃんの三人がタクシーで本城駅に戻った。札幌に住む明日香姉ちゃんは彼氏が出来たようで、車中でまゆか姉ちゃんと恋話に余念がなかった。母親が年下男と再婚して複雑な心境だろうと慮っていたあぐりは拍子抜けした。女は実に逞しい。
 車中、三田村さんからLINEが届いた。
〈月の湯が更地になりました〉
 取り壊し工事中、餌場に来なくなった保護猫もいるという。そして銭湯の一町ほど先にある空き地の地主が餌場としての利用を認めてくれたとのことだった。送られて来た写真を見れば、空き地というか雑木林への入り口である。下草が生い茂り、野良猫が好みそうな場所ではある。
〈春の子猫が生まれる頃なので、なるべく早く整備して段ボールハウスを作りたいと思っています。あぐりくんも、ぜひ手伝いに来てください〉
 完全に保護猫団体に属している人間への呼びかけである。いつから自分はそうなったんだ?
 タクシーが本城駅ロータリーに着く頃には既に冬の日は暮れていた。
「俺、寄る所があるから……」
 と駅前で女二人と別れた。
 二階コンコースに上がると改札口から出て来た人々は留まることなく足早に立ち去って行く。妙に寒々しい風景だった。
 クリスマスにはサンタクロースやトナカイが、正月には松竹梅の凧や羽子板などイルミネーションが煌いていたが、二月になって撤去され今は何の飾りもない。二十一階建ての駅ビルを見上げると、のっぺりとホテルの窓が連なっているだけである。
 そろそろもういいだろう。手摺にもたれてビルを見上げながら、うっすら微笑んだ。これ以上生きていなくてもいい。ホテル玄関のエレベーターから一気に最上階に上り、非常口に出ればいい。足を向けた途端に肩を叩かれた。
 ぎょっとして立ち止まった。背後に真生が立っているような気がして振り向けなかった。
 いつでもどこでもあぐりとタイミングの合う田上真生。
「あぐりさんも結婚式の帰り?」
 だが声をかけたのは田上里生だった。
 表情がこれまでになく華やかに見える。鮮やかなコーラルレッドのドレスは軽やかな膝上丈で、シルバーメッシュ入りのボブヘアからはパールのイヤリングが揺れて覗く。片手に下げた引き出物の手提げ袋は、あぐりの持っている物と同じデザインだった。
 同じホテルで結婚式に出席していたようである。不躾に上から下まで眺め回しながら、
「……風邪、治ったの?」
 と主語を省いた質問は、まるで里生が風邪をひいていたかのようだった。里生はこくんと頷いてから、
「ちょっと上でお茶して行かない?」
 同じ披露宴に出席したかのような二人は本城駅コンコースからホテル専用エレベーターに乗った。あぐりは何やら悪事を見つかった気分で二十一階のボタンを押す。
 最上階でエレベーターを降りると横手に重々しい鉄の扉がある。緑色のピクトグラムが非常口を表している。目指していたのはここだったはずだが、
「こっち」
 と里生に腕を取られて逆方向のコーヒーラウンジに足を踏み入れる。横にはフレンチレストランやバーの入り口もある。ふかふかの絨毯を踏んでウェイトレスに席まで案内される。席と席の間を広くとった贅沢な設えである。
 メニューを開くとコーヒー一杯がおそろしく高い。あぐりの中ではこの辺では焙煎珈琲黑河が最も高価だったが、それを上回る価格である。
「味は黒河のが上だから。あの味を求めるならコーヒーはやめた方がいいかもね」
 だから、誰もコーヒーの値段なんて口にしてない。この双子は何でこんなに勘がいいんだ?
 里生は紅茶とケーキのセットを注文する。結婚式でたらふく食べて来たのではないか。あぐりは胃袋にまだフレンチが居座っているので、紅茶だけ頼む。
「真生は、季節が変わると決まって熱を出す」
 どこかで聞いた台詞である。
「おまけに失恋してもすぐ寝込む。今回はダブルパンチだったわけ」
 里生はちらりとあぐりを見たが知らんふりをする。
「正月休みでちょうどよかったよ。風邪ひいてなきゃ休みでも呼び出されて働いてるから。あいつちょっとワーカホリックの気がある」
「……ふうん」
 まるで興味なさそうに相槌を打つ。
「私が実家を出ることは話したよね」
 頷く。
「刈谷玲奈とルームシェアする」
「ああ、あのメッチャ美人なお医者さん」
 言った途端に、ふわりと匂い立つような笑みが返って来た。何なんだ? と思っているところにウェイトレスが注文の品を運んで来た。
 里生は黙って目の前に置かれるフランボワーズケーキと紅茶を見ていた。
 紅茶はそれぞれにポットで供されている。砂時計を逆さにして三分間待つ。あぐりは紅茶をカップに注ぐとミルクも足した。
「こんな薫り高い紅茶初めて飲んだ」
 思わず漏らした本音に、
「でしょう?」
 里生はストレートで飲んでいるが我が事のように自慢する。真生や里生が連れて来てくれる店はどこも美味しい。二人とも健啖家であり美食家でもあるのだろう。
「真生にしかカミングアウトしてないけど」
 とケーキをフォークで切って口に運んでいる。一口が大きい。あんな小さなケーキ二口で食べ終えてしまうではないのか? 
〝カミングアウト〟という言葉を無視して考える。
「だって、真生は高校に入るなりゲイをカミングアウトしてるんだよ。両親はこの世の終わりみたいに嘆いて。私だけはちゃんと結婚して子供を産まなきゃって思ってたのに、病気で子宮全摘して石女に……」
 何だかその言葉は言わせたくなくて被せるように言った。
「だから真生さんは産婦人科医になった」
 ティーカップを口に当てたまま言う。里生はにわかにフォークを持つ手を止めた。
「え……そうなの?」
「僕はそう思った。本人はどう思ってるか知らないけど」
「ふうん……」
 と目を泳がせる双子の妹である。
「ともかく、ゲイの真生は子供が出来ないし私も産めなくなったわけ。でも両親を安心させなきゃって義務感だけはあって。医学部をやめて法学部にしたのは、父親と同じ業界なら安心するだろうと思って」
「お父さんも弁護士なんだ?」
「ううん、検察官。私は弁護士になって、でも結婚だけでもしなきゃと思って婚活までした。とにかく必死だったよ。女の子に魅かれはしたけど、それは友情であって……認めるわけにいかないじゃない」
 その辺の自身では認めがたい性認識については、あぐりにも理解できる。
「でも、真生が刈谷玲奈を連れて来て……一瞬でわかったよ。ああ、この人だって」
「あの、教授が勲章とかもらったパーティーで?」
「そう。酔っ払って足にマメが出来た玲奈ちゃんを実家に連れて来た。男一人のアパートに泊めるわけにもいかないって。何だかんだ言って実家を頼るんだよ、あの人は」
「つまり、里生さんは、ええと……」
「真生がカムアウトした後で散々からかわれたよ。じゃあおまえはレズビアンだなって。尚更認められないよ。だから男の子に申し込まれてつきあったりしたよ。家に連れて行って親公認のカップルになったりして。本当は男となんて嫌でたまらなかったけど」
「真生さんが熱を出したのって本当は……」
 上目遣いで里生を見てしまう。
「私のカミングアウトのせい?」
「いや……別に……」
「熱が何よ。こっちは青春台無しにされたんだから。兄がゲイってだけでいじられて」
「でも、里生さんのがずっと勉強が出来たって聞いたよ」
「そりゃ、勉強するよ。くだらないいじりをする連中を黙らせるには成績を上げるしかない」
「それは少しわかる」
 頷くあぐりに、里生はにやりと笑って見せた。その笑みはやめて欲しい。真生に似過ぎている。
「真生が家に連れて来た中では、あぐりさんがベストだったよ」
 思わず知らず眉をひそめる。何人中のベストなんだ?
「ああ、ごめん。一応過去はあるよ。三十男なんだから。ただ真生の相手はね、私は常にいけ好かなかった。あいつはどうも輩っぽいのが好きみたいで……」
 輩とはつまり不良とかヤンキーとかいう意味で、タケ兄ちゃんのような金髪とかに対して使う言葉ではないのか?
「俺って輩?」
「ごめん。最初はそう思った。でも躾が出来てるって言うか」
「躾の出来た輩?」
「ごめんてば。何かあったらしいのはわかったけど。なのに、ちゃんと挨拶して玄関で靴まで揃えるんだもん。素直そうな礼儀正しい男の子だなあと思って。そうしたら、もうビアンでもいいやとなった」
「はい? ……そのつながり、わかんない」
「うん。つまり……真生はちゃんとした男の子をつかまえた。あぐりさんとつきあっていれば安定するだろうと思った。だから、私ももう女の子とつきあってもいいかと思った」
「真生さんが安定するのを待ってた?」
「意識はしてなかったけど。とにかく私はちゃんとした長女で、両親を安心させなきゃいけなかった。ゲイをカミングアウトして輩とつきあっては別れてばかりいる長男とは違うって。一人で勝手にそう思い込んでいた」
「一人で勝手にそう思い込んでいた……」
 また涙が出そうになっている。意味がわからない。あぐりは唇を噛みしめて、拳で強く目を擦った。一人で勝手にそう思い込んでいた……同じ言葉が頭の中でリフレインする。
 里生は残ったケーキを案の定わんぐりと一口で食べ終えるとフォークを置いた。
「私は間もなく刈谷玲奈と一緒になる。国分寺町の家を出るから、真生にあぐりさんが付いていてくれれば安心なんだけど」
「俺はもう関係ないし。別れたから」
 とテーブルの会計票をひったくるように取る。
「うん、ごめん。あぐりさんにはあぐりさんの気持ちがあるよね。あくまでも私の希望です」
 と里生はバッグから財布を取り出して「ワリカン」と言う。あぐりは暗算で金額を言って受け取るとレジでまとめて支払った。
 帰りのエレベーターホールで横を見る。非常口の緑色のピクトグラムが光っている。
 一人で勝手にそう思い込んでいた……その言葉が頭から離れない。
 月島の部屋に帰って靴を脱いでいると、靴箱の上の封筒が目に入った。
 遺書。のようなもの。
 それを取り、重さを確かめるように掌にのせてから半分に折った。部屋に上がりながら更に四半分に追ってゴミ箱に捨てた。

【第7話に続く】全8話

猫と愛してるのあ 第7話 | 


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