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猫と愛してるのあ 第2話

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 あぐりは退院後も二日間寝込んで仕事を休んだ。その間、婆ちゃんはにわかに正気に戻り、やれお粥だ葛根湯だと二階に来てはまめまめしく介護してくれた。
 お陰で叔母ちゃんは休むことなくシフト通りに仕事に行った。365日二十四時間営業しているコールセンターでパート勤務をしているのだ。
「あっちゃんずっと病気でいれば? お婆ちゃんが元気になるから」
 などと無茶を言う。とはいえ面倒を見る人が現れれば、面倒を見られる人ではなくなる。真理かも知れない。
 あの午後、あぐりが参加できなかった介護認定調査で婆ちゃんは要介護1になったらしい。まだ正式に認定通知は来ていないが。家族会議では婆ちゃんを老人ホームに入れる方針が決まり、何か所か候補も絞り込まれていた。今年中には入居させたいとのことだった。
 兄の崇はこの家や土地に関しても、パラグアイの父と連絡を取り合っているようだった。婆ちゃんの先行きが決まったら、家を取り壊してマンションにする計画だという。
「崇さんはマンションには私たちの住む部屋も用意してくれるんですってよ。でもねえ……そりゃこの広さに私たち三人だけが住んでるなんて不経済だけど。勝手に横浜に行っちゃった崇さんや、パラグアイに飛んでった兄さんに言われてもねえ……」
 と香奈叔母ちゃんがぼやくのも道理である。
 たとえば、あのぬかるみの多い駐車場に砂利を敷くように手配したのも横浜住まいの兄である。大吉運送の元社員で今や便利屋になっている富樫のおっちゃんが兄の命を受けて飛んで来て、作業をしてくれた。
 婆ちゃんが兄に愚痴ったのがきっかけとはいえ、あの砂利に足をとられて転びそうになるのはこの家に暮らすあぐり達なのだ。どうも何か奇妙な気がする。
 三人の兄姉と一人のいとこの下で末っ子として育ったあぐりは家のことなど何も聞かされて来なかった。自分から積極的に訊くこともしないので、土地の権利だの税金だの難しいことは何もわからない。現状この家の収入は隣の月極駐車場や若干の不動産収入によるもので(思いついたようにパラグアイからの入金もあるらしいが)それらの管理は兄の会社が請け負っている。
 月々の生活費は叔母ちゃんが兄の会社経由で受け取っているらしい。それが如何ほどかも知らぬまま、あぐりはただ宅配会社で働いては収入の半分を家に入れている。叔母ちゃんがコールセンターでパートをしているのも収入のためなのか、気晴らしのためなのかもわからない。
 考えてもみれば自分は単なる与太郎(落語では愚かしい者を指す)である。大体自分は何故いつまでもこの家に留まっているのか。高卒後、引っ越し会社に就職した際、寮に入る手もあった。けれど、それは、やはり……
「ゴールドバンブーだよなあ」
 布団の中で寝返りをうって、左手で手枕しかけて痛みに飛び上がる。腫れたひっかき傷はまだ治りきっていない。右手の腕枕に変える。
 思春期を迎えて明らかに自分が異性より同性が好きと知った時、先々についてあれこれ悩んだ。今でさえ少数派なのに大学などに行けばもっと少数派になり周囲に合わせるのに苦労するのではないか?
 同級生女子の誰が可愛いの、おっぱいが大きいの、あそこの形はどんなんか、太腿が、胸の谷間が……そんなことどうでもいいけど、人生の重大事のような顔をして騒がねばならない。
 だからこそ進学は諦めたのに(単に勉強が嫌いだったせいもあるが)就職して男子寮などに入ればもっと厳しいことになる。四六時中ノンケの仮面を被っているのはつら過ぎる。実家の自室は必要不可欠だった。
 白状すればネットでゲイ専門アダルトグッズの店〝ゴールドバンブー〟を食い入るように見つめていたのはあぐり自身である。注文こそしなかったが涎を垂らさんばかりにして同性愛者関連のグッズや情報を漁っていた。出会い系サイトでセフレや彼氏を見つけるのが自室での楽しみだった。
 いずれ大吉運送は大吉引っ越し会社に発展するという兄の野望は果たされず、あぐりは宅配会社に転職した。こちらにも社員寮はあったが、やはり実家に留まった。
 社内不倫でセフレができたのはラッキーだったのかアンラッキーだったのかわからない。

 足軽運送真柴本城営業所は、真柴駅と本城駅のほぼ中間地点にある。線路沿いの雑木林や田畑を切り開いた広大な駐車場に倉庫兼事務所を併設しただけの殺風景な場所である。車や自転車がなければ通えない。
 近所にはコンビニエンスストアと弁当屋が一軒ずつと、昼時だけ開くそば屋や定食屋がぽつぼつ建っているだけである。だから、あぐりは毎日婆ちゃん手製の弁当を持参するわけだが。
 週半ば、いつもより早めに家を出たあぐりは婆ちゃんの弁当は断り(ゆで卵八個のショックは大きい)コンビニでおにぎりを買い込んで出勤した。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。今日からフツーに仕事します」
 事務所に入ってタイムカードを押すと、まだ江口主任しかいなかった。
「大変だったなあ。猫に引っ掻かれた傷から黴菌が入ったそうだね」
 主任は怖いもののようにあぐりの左手を見つめている。包帯は婆ちゃんが毎朝巻き直してくれるから真っ白である。
「僕もその傷に触ったけど……違う病気じゃないだろうね」
 とアルコールチェッカーを手にして近づいて来る。
 触ったどころか舐め回したくせに。
「違う病気って?」
「HIVとか……」
 ふいに辺りに音がしなくなった。主任は照れ笑いのように歪んだ笑みを浮かべている。あぐりは何故だか小刻みに震え始めた手でアルコールチェッカーをひったくると、強く息を吹きかけた。
 ドライバーは出勤するとタイムカードを押してアルコールチェックをするのが決まりである。
 あの朝もそうだった。主任はあぐりを抱擁せんばかりにしてアルコールチェッカーを口元に差し出した。そして耳に舐めるような口づけをしていたのだ。フツーあの時点で相手の体調不良に気がつかないか? 単なる客の田上真生は触れもしないで気がついたのに。
 それが今になって〝違う病気〟って何なんだ? HIVだと? ようやく震える手が怒りを表していると気づいた時、
「あらら。あぐりくん。もう大丈夫なの?」
三田村さんや森林コンビがどやどやと出勤して来た。
主任はとっくに自分の席に就いていた。
 首にタオルをかけた先輩ドライバーが、あぐりの肩に手をかけた。バイト学生にあぐりと共に〝襟首タオル組〟と呼ばれている先輩である。
 欠勤のあぐりに代わって配送をしてくれたのだが、昨日の荷がまだ回り切れずに残っているという。
「篠崎くんが復帰したなら頼んでいいかな」
「もちろんです! ご迷惑をおかけしました」
 コンビニ袋を持ったまま逃げるように事務所を出る。今日はのんびり休憩室で昼食をとる暇はないだろう。あったとしても主任とはもう顔を合わせたくない。車内で食べるつもりだった。
 背後では、みんなが料理の話をしている。
「今年はお寿司がいいなあ。手巻き寿司なんかどお?」
「俺は中華! 餃子やシュウマイを食べたいな」
「いや、おでんだよ。ぐつぐつ!」
 と口々に言っているのは、料理のリクエストである。そういえば、そろそろ主任の誕生日が近い。
江口主任は料理が趣味で毎年自宅に部下を招いてご馳走している。この際バースデーケーキを持参するのが社員の役目である。昨年の誕生パーティーにテラスでこっそり誘われたのが不倫関係の始まりだった。妻がいる家の中でよくも誘ったものである。
 ステアリングは重かった。今日の荷物だけでなく昨日の残りが積み込まれているからである。今日は田上真生に届ける物はあるだろうか。などと考えている。
 ランドローバーの車内でLINEは交換したから、すぐにお礼は送っておいた。だが菓子折りの一つも持って直接お礼に行くべきだろう。そう思うだけで頬がにやにや緩むのは何故なんだ? 

 南米産のビーフジャーキーや赤ワインを贈答用に包むのも、婆ちゃんや叔母ちゃんにはお手の物である。病院に運んでくれた客へのお礼とあぐりが口にしたのは、本城駅ビルの名店街で(この辺ではそこが唯一の高級品売り場である)どんな商品を贖えばいいのか相談するつもりだったが、
「じゃあ、パラグアイから来たあれでいいじゃない」
 と二人口を揃えて言うのだった。
 あぐりとしては田上真生に贈る品は自分の金で買いたかったが、プロ並みの技術で包装されて手提げ袋に入れられると断ることはできなかった。
 宅配ドライバーの仕事は必ずしも土日休ではないし、産婦人科医もそうだろう。土日配送に訪れては不在票を投函しているのだ。礼に行きたいとLINEで予定を問えば、礼は不要とにべもない。となれば、適当に行くしかない。シフト外の土曜日に本城駅裏のごみごみした街を訪れた。
 未だに包帯が巻いてある左手にはパラグアイ名産品の手提げ袋を下げて、右手には空のキャリーケースを下げている。あの時、国分寺町まで野良の三毛猫を入れて帰った物である。
 外の路地とブロック塀で仕切られたアパートの通路を奥に向かう。するとドアが開いて田上が顔を出すのだった。何故いつもあぐりが来るタイミングでドアを開けるのだ?
 その場で足を止めて「あ、どうも」と言えば「どうも」と返される。
いや、お礼に来たのだからと足を進めて玄関の前に立つと、改めて頭を下げた。
「先日は大変お世話になりました。ありがとうございました。今日はお礼に伺いました」
 手提げ袋を差し出すと、田上は大してためらわずに受け取った。贈答品をもらい慣れている。そんな気がする仕草だった。
「あと、これ……」
 猫用キャリーケースを差し出すと、田上は黙ってそれを見つめた。
「よかったらお焼香でもしてやってください」
 なるほど室内から線香の香りが漂って来る。首をかしげながらも促されるままに玄関に入る。そして室内に上がったところで、
「おい!」
 にわかに怒鳴られた。
「はあ?」
 と示された先を見て呆然とする。靴を履いたまま台所に上がっている。
「あっ、やっ、すすすいません。ごめんなさい」
 あわてて玄関に戻ってスニーカーを脱ぐ。田上は吹き出して笑った。凶悪顔がまた一気に丸みのある表情になる。
「いくらボロアパートでも、靴のまま上がるか?」
「こ、こないだ靴のまま台所で、だから……」
「あれは緊急だったからだ。しっかり洗ったつもりだが菌が入ってたんだな。悪かった」
「いえ、違います。田上さんのせいじゃないです」
主任に傷口をべろべろ舐められたことを思い出し同時に〝HIV〟発言まで蘇り、くらくらする程の怒りに駆られる。
「めまい?」
 心配そうに顔を覗き込まれて、強く首を横に振った。
 2Kのアパートだった。細長い台所はLDKではなく単なるKと呼ぶべきだろう。あぐりが招じ入れられたのは居間らしき六畳間だった。押し入れの襖は勉強机や難しそうな医学書が並ぶ書棚が塞いでいる。向かい側の棚にはテレビやパソコンが並んでおり、その横に純白の小さな骨袋と三毛猫の写真が並んでいた。手前には香炉や鈴も並んでいる。
「これ……リリカちゃん?」
 振り向くと田上が頷いて手を差し伸べている。仕方なく置いてある箱から線香を取りライターで火を点ける。
 細い煙をたなびかせる線香を香炉に差すと、両手を合わせた。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切空厄舎利子色不異空空不異子色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子……」
 般若心経である。
 あぐりは筋金入りのお婆ちゃん子であるからして、毎朝の亡き祖父や母へのお勤めで諳んじているのだ。お経の最後にもう一度鈴を鳴らして振り向くと、いつの間にか正座していた田上真生は、
「ご丁寧にありがとうございました」
 深々と頭を下げた。
 なかなか顔を上げないと思っていたら、涙ぐんでいるようだった。田上が見ている方に目をやると、クッションを敷いた籠があった。おそらくリリカの寝床だろう。先ほど返したキャリーケースがその横に置いてある。
 立ったままお経を上げていたあぐりは向かい合って正座した。
「リリカちゃんは、いつ?」
「すみませんでした」
 と田上はまた頭を下げる。
「あの時おたくに電話した時は、もう亡くなっていました」
「えっ、亡くなっていたのに電話を?」
「いえ、そうではなく」
 と、ようやく田上は顔を上げるとまっすぐあぐりを見つめた。何故か今度はあぐりがら目をそらしてリリカのベッドを眺めた。
「あの日、朝からリリカはいなかった。私はよく家を空けるんで、窓はいつもストッパーをかけて細く開けて、出入り自由にしていた。本当はそういう飼い方は良くないが……」
 猫の寝床の上にある腰高窓は今も細く開いていた。あぐりの掌の幅ぐらいである。あんな細さを猫が通れるのか?
「いつも朝には帰って来てご飯を食べてベッドで寝る。あの日も帰って来たのに……気がついたらいなくなっていた。ちょうどその時、足軽運送さんが来た。荷物を受け取ってから、ひょっとしたらと思った。リリカはトラックや車に乗るのが好きだから……」
「それで、電話をくれたんですね」
 田上は黙って頷いた。
「電話の後も家中探して……病院から電話が入ってたんだ。急患が、難しい患者が緊急入院したからすぐ来いと。あわてて探し回って……天袋が開いているのに気がついた」
 机や書棚に隠された押し入れの上には、天袋の襖が閉ざされている。
「あそこはいつも閉めてあるんだが、リリカは自分で襖を開けて入っていることがある。それで覗いてみたら奥で寝ていた。よかったと思って手を伸ばしたら……冷たくなっていた」
 リリカの亡骸を籠のクッションに安置して出かけようとした。あぐりが野良の三毛猫を連れて来たのはその時だった。
「あなたはいつもタイミングがいい……と言うのは変だが、何故か合う」
 と田上は首をかしげている。いや、それを言いたいのはあぐりの方だ。
 あの時、田上は急患を診るために急いでいたのに、あぐりのひっかき傷を治療するのに時間を割いてくれた。
「何で亡くなったんですか?」
「さあ。外で何か悪い物でも食べたのか。それに腎臓病を患っていたし。もう十四才……人間でいえば七十二才の年寄りだった」
「七十二才じゃまだ早いですよ」
「…………」
「でも、ちゃんと家に帰って来て……田上さんのそばで安心して旅立ったのかも知れませんね」
「ありが……」
 田上は言葉半ばでうつむいた。正座した膝にぱたぱたと涙が落ちる。泣かせた。と思う一方で、たかが猫と思うからこそ安易に慰めが出たとわかっている。
「たかが猫で……すみません」
 いや、だから何で人の心を読むのだ?
 田上はティッシュで涙を拭いている。そして音をたてて洟をかんだ。
 何となく目を背けて机の下を見た。そこにはいくつかの段ボールが積まれていた。いつもあぐりが届けている荷物である。中には未開封のゴールドバンプーの化粧箱も混じっていた。

 猫の話は町中華でも続いた。
 昼食に誘われた店は本城駅裏の市内でも名高い町中華の老舗とのことだった。赤いデコラ張りのテーブルが並ぶ店内は、土曜日の昼下がりとあって混み合っていた。テーブルに向かい合い、それぞれ炒飯とラーメンのセットを注文する。田上はビールと餃子も追加した。グラスを二つ頼んで一本のビールを分け合う。
「よかったらどうぞ」
 と餃子の皿を差し出され嬉しく箸をつける。
 リリカは田上の妹が拾って来て実家で飼っていた猫だった。国分寺町が実家と聞いて箸を止めた。
「何?」
 と尋ねられたが、
「いい町だよね。国分寺町や梅園町とか。走りやすいし、お客様も感じがいい」
と誤魔化した。あの野良猫がいたのも国分寺町である。もしやリリカと血のつながりでもあったかと推測したのだが、言えばまた悲しませるような気がして。
「名前をつけたのは妹だ」
 と言われて吹き出してしまう。
「何かおかしいか?」
「いや、別に」
 大学進学の際に共に実家を出たという。都心の医学部に通っていたから、当時は大学近くのワンルームアパートに隠れて飼っていた。
「ペット禁止の賃貸アパートが減れば、犬猫の殺処分も多少は減ると思うが」
 というのが田上の意見だった。あぐりはと言えば、先日初めて猫の身体がみょーんと伸びるのを知ったばかりである。黙って拝聴していた。
 田上はビールを呑み干すと、もう一本注文した。ななかペースが早い。あぐりはアルコールはそれほど強くないのでゆっくり吞む。
 本城駅前の産婦人科病院に就職して田上は真柴本城市に戻って来た。今のアパートはペット可である。というか人間が住んでも大丈夫なのか? と心配になる古さではある。
「今年で築二十五年だったかな」
 と田上が言う。あぐりは思わず、
「俺と同い年だ」
「二十五才? 十代に見えるな。学生バイトじゃないのか」
「いや。ビールを勧めておいてないでしょう。成人ですから。そういう田上さんは?」
「成人だ。ゴールドバンブーを利用するに差し支えない三十才」
 たちまち全身がかっと熱くなる。すっかり忘れていた。あの時、自分はゴールドバンブーと散々に連呼したのだ。熱に浮かされたせいとしか思えない。
「すすす、すみませんでしたっ」
 真っ赤になってテーブルに額をぶち当てんばかりに頭を下げる。あぐりが頭を上げるより早く、
「田上先生! その節はどうもお世話になりました」
 新しく店内に入って来た男性客が田上に声をかけていた。連れの男に、
「うちの子をとり上げてくれた先生だよ。もう大変な難産で……」
 などと説明している。
 あぐりは医者とサラリーマン風男性とのやりとりを尻目にラーメンスープを飲み干した。赤くなった顔を丼で隠したかった。醤油味の東京ラーメンはあっさり味で滞ることなく最後の一滴まで飲み干せた。
 挨拶を終えて男性客二人は奥の席に就いた。
「何の話だったっけ?」
 と途中だった餃子をまた食べ始めて田上は、
「そうだ。ゴールドバンブーの話だ」
「だ、だから。俺、僕あの時は熱でおかしくなってて……お客様の荷物については絶対に言っちゃいけないのに。ごめんなさい。すみませんでした」
 また頭を下げざるを得ない。健啖に餃子もラーメンも炒飯も平らげながら田上は心なしか笑っている。瓶に残ったビールを丁寧にグラスに注いで飲み干す。
 気まずく沈黙していると、背後の男達の会話が耳に入って来た。
「いいよなあ。産婦人科医って、やり放題だもんなあ」
 その男の言葉を要約すれば、産婦人科医は公に女の股を開いて局部を子細に見られる上に、好きなだけ手指を出したり入れたり出来るから羨ましいとのことだった。
 さすがに赤ん坊を取り上げてもらった連れは、
「おまえなあ。出産てのは命がけなんだぞ」
 とたしなめていた。
「もう行きますか?」
 あぐりは気を使ってそう言ったが、
「まだ食べてる」
 田上は無頓着に餃子を食べ続けている。健啖家の証拠のような頑丈な顎と白い歯をじっと見つめる。全ての皿も丼も空にしてから、ようやく田上は席を立った。
「ここは僕が払います」
 すかさず伝票を取りレジに向かう。さながら巾着切りである。支払いをするあぐりの横に立った田上はまだにやにやしているように見えた。

   4

「コーヒーでも飲みに行こうか」
 と田上は駅裏の入り組んだ路地を迷うことなく歩いて行く。
 終戦直後に闇市が出来て、そのまま今に到ったこの辺は毎年のように市議会で再開発の話が出ては立ち消えになる。この地域を偏愛する人もいるらしく「再開発反対」の貼り紙も見受けられる。
 宅配ドライバーのあぐりにしてみれば、番地も適当で店はよく潰れて入れ替わるし魔境に近い場所である。更に奥地に足を踏み入れて、
「この辺は真柴本城市の新宿二丁目と言われてる」
と言ったのは田上だった。
「銀座パリス吉祥寺店みたいな?」
 何か違うなこの答えは。
 と自ら首をかしげた目の先に見覚えのある姿があった。華奢な男の子の肩を抱くように歩いている中年男性……江口主任ではないか。何なんだあれは?
 立ち止まってしまったあぐりに田上は、
「自家焙煎の美味しいコーヒー屋があるんだ」
 と指差して見せた。
ちょうど江口主任と男の子がラブホテルの中に消えて行った先に〝焙煎珈琲 黑河〟の看板があった。
「新、新宿二丁目は行ったことないけど、新宿三丁目ならよく行くよ」
 とっさに言って、目にしたものは忘れることにした。

 ゲイが集まる新宿二丁目と道ひとつ隔てて新宿三丁目はジジババが集まる。末廣亭という落語の寄席があるのだ。
 あぐりは幼い頃から爺ちゃん婆ちゃんに連れられて落語を聞きに通ったものである。爺ちゃんは既に亡く、婆ちゃんはもう遠出をさせられない。足腰は丈夫だが迷子になるのが怖い。自然あぐりも寄席に足を運ばなくなった。
 細長い店内のカウンター席に並んで座り、泥のように濃く芳ばしいコーヒーを飲みながらそんなことを話した。田上は妙に落語の話題に食いついた。
「落語というと笑点?」
「いや。笑点は落語じゃないよ。大喜利っていう落語家の遊びをテレビ番組にしただけ」
 日本の伝統芸能を学びたい。いつか寄席にも行ってみたいと言う田上に思わず、
「今度一緒に寄席に行ってみる?」
 これはデートの誘いではないか? 言ってから内心あたふたするあぐりだが、田上はすぐに頷いた。
「じゃあ、志ん生って落語家を聞いてみたい。有名なんだろう。だから真生をしんしょうと読んだ?」
「うん。古今亭志ん生は昭和の名人だけど、もう生きていないよ。爺ちゃんと婆ちゃんは生で聞いたって言ってたけど」
「すると今はどんな落語家がいるんだろう?」
「そうだね。真生さんが楽しめそうな芝居があるか探してみるよ」
 田上さんを真生さんに変えて呼んでみる。特に嫌な顔をされることもなかった。ただ不思議そうに尋ねられた。
「いや、芝居じゃなくて落語がいいんだけど?」
「寄席の番組を芝居っていうんだ。ええと、つまり定席の寄席っていうのが……」
 ……から始まる基礎知識を語って聞かせる。まさか自分が医者にレクチャー出来ることがあるとは思わなかった。真剣に聞いている田上いや真生は、たちまち知識をメモリーに読み込んでいるようだった。
 ひとしきり語ってまたコーヒーを啜る。冷めているのに味わいは変わらない。苦味の中にほのかな甘みと酸味が感じられる。なるほど良いコーヒーとはこういうものなのかと知る。
 寄席に行くのに互いの日程を合わせているうちに、いよいよ心弾んで来る。スマホのスケジュール表を見ながらふと思いついて、
「何で産婦人科医になったの? 外科医の顔してるのに」
 と訊いてみる。同じ医者でも外科医なら先ほどのサラリーマンのような下卑た羨望を受けることもあるまいに。そんなあぐりの意見を真生は黙って聞くと、
「何でかな……考えたことないな。専門を決める時に迷わず産婦人科を選んでいた」
 と首をかしげている。
「私の恋愛対象は男性であって、女性は関係ない」
「え、や、あ……」
 あぐりは変な声を出して辺りを伺ってしまう。そんなことを公衆の面前でつらっと言っていいのか。だが男女入り混じった客の誰もこちらを見ていない。真柴本城市の新宿二丁目?
「だから、放っておけば私の人生に女性はいなくなる。しかし女は存在している。母親とか妹、同僚、ご近所さん。恋愛対象じゃないからって人生から省くのは……どうだろう?」
「俺は別に省いてないよ。婆ちゃんも叔母ちゃんも」
「篠崎あぐりは省いていない」
 と微笑む産婦人科医。
「私も省いてはいけないと思った。ノンケの男が女と協力して次世代を生み出すなら、せめて私は産婦人科医になって手助けをすべきかと」
 あまりに気高い志に言葉を失う。
 にやりと笑って真生は、
「と言えば聞こえがいいだろう?」
 とコーヒーを飲む。
 何だこいつは? と、あぐりもコーヒーを飲む。
「とりあえず、人が生まれて来るところは見たかったな。自分が何故こういう人間に生まれたのか、何故女性に欲情しないのか。わかるんじゃないかと思って」
「わかった?」
「わかるわけない」
 ふっと苦味を含んだ微笑みが、めまいがする程に魅力的だった。まずい。目が離せない。
「今は、赤ん坊の一人も取り上げてみれば……そんなことはどうでもよくなっている。ぶっちゃけ女はすごいぞ」
「すごいの?」
「あのサラリーマンが言ってた通りだ。あそこがガバッと裂けて赤ん坊が出て来るわけだよ。私たちはそこに手を突っ込んで引っ張り出したりする」
「は……そ、ですか」
 あぐりは話だけで青ざめている。
「あそこが裂けりゃ麻酔なしで縫ったりもする。会陰縫合の痛みなんざ陣痛に比べれば屁のようなものらしい。脳内麻薬物質が出ているし」
「麻酔なし……ですか」
 と気つけに苦いコーヒーをがぶ飲みする。
「出産というのは、ひどく原始的な……男女のセックスから繋がる大自然の営みだよ。その大自然の前ではゲイなんて……ほんのバグだよ」
 嫌なことを言わないで欲しい。黙り込んだが、真生は薄く笑っている。
「従って、バグとしては産婦人科医にでもならなきゃ申し訳ないかと」
「申し訳ないって、誰に?」
 真生が沈黙しているところにスマホのバイブ音がぶぶぶとなった。産婦人科医、田上真生がまた病院から呼び出しを受けた音だった。
「わかりました。すぐ行きます」
 と病院からの電話を切って真生は一言、
「大自然に……いや多分かみに……」
 とあぐりを見つめた。
「かみ?」
 それが〝神〟だと理解したのは別れて家路をたどる時だった。
 産婦人科医にでもならなきゃ神に申し訳ない。
 あぐりは唇を嚙みしめた。

 田上真生と新宿末廣亭でデートをする。寄席がはねたら新宿二丁目に移動して酒と食事。そして、あわよくばホテルまで……あぐりは一人ベッドで妄想にふける。頬はにたにた緩んでいる。
 江口主任はあれ以来、あぐりにあまり近づかない。あぐりもなるべく見ないようにしている。本城駅裏のラブホで見たのが主任だったのか似た男だったのか、もはやどうでもいい。
 もともとあぐりは主任に恋愛感情は抱いていない。同じ職場に同性愛者がいて、それが嫌悪感を抱かない程度の男で、口説かれたら関係するにやぶさかではない。単なる性欲解消。身も蓋もないがセックスフレンドに過ぎない。
 とはいえ、今早計に江口主任と別れるのは如何なものだろう。田上真生があぐりにそれ程好感を抱いてない可能性もある。とりあえずセフレはセフレとして確保しておく方が得策だろう。などと一人ベッドで思い巡らせるうちに、神まで持ち出す同性愛者に比してレベルの低さがハンパないと少しへこむ。
 ともあれ。初心者を落語に連れて行くなら、より良いものを聞かせてやりたい。
「友達が寄席に行きたいって言うんだけど。いつの芝居がいいかな?」
 などと、つい婆ちゃんに相談してしまうのが、末っ子の甘々なところである。
 夕食の席である。欅の立派な一枚テーブルの片隅に、ちんまり三人が集って食べるのだ。婆ちゃんは焼きたての秋刀魚にのせた大根おろしに醤油をかけながら、
「私なら今月は末廣亭の中席の昼を聞いてみたいね。あの二十人抜きの抜擢真打がトリなんだよ。今じゃテレビやラジオにも出ている人気者だよ。休みの日はきっと込むから平日がいいね」
 あぐりも、秋刀魚の身と大根おろしをご飯にのせて盛大にかっ込む。今の時季なら誰かしら「目黒のさんま」をかけるだろう。落語ではそんな風に季節の噺を楽しむことも出来る。
 そして、あの有名な二十人抜きの抜擢一人真打(それが何かは真生に説明する準備も出来ている)なら初心者でも楽しめるだろう。幸いなことにあぐりも真生も平日の休みがある。昼席でまったりと落語を聞くのも悪くない。
 にやにやとほくそ笑んでいたのは、婆ちゃんが卓上カレンダーを手にして、
「デイケアや病院がなくてヘルパーさんが来ない日だと、この日が空いてるね」
 と自分のスケジュールを言い出すまでだった。
「寄席に行くなんて久しぶりだねえ」
 しみじみ言われて慌てて「いや、今回は俺と友達だけで」「新宿は混雑して危ないから」などと言い訳をしたが「落語なら本城コンサートホールで新春寄席があるから」という最後の言葉が火に油を注いだ。
「来年の新春寄席なんか私はもう行けないよ。今年中に老人ホームに入るんだから」
「いや、老人ホームでも外出は出来るし」
「あぐりの友達は婆ちゃんが一緒じゃ嫌って言うのかい。そんな意地悪な子と遊ぶもんじゃないよ」
 言い張る婆ちゃんである。ほうじ茶を淹れていた叔母ちゃんに救いを求めて目を向けると、
「そうよねえ。みんなで一緒に寄席に行くなんて最後かも知れないわね。私も行きたいわ」
 って待てよ! みんなって何なんだ? 叔母ちゃんまでついて来るのか? デートなのに‼
 女二人を阻止することが出来ず、二階の自室で殆ど泣きそうな声で真生に電話をすると、
「だから言ったろう。女を人生から省いちゃいけないって」
 と、げらげら大笑いをする。
「あの、真生さんと出かけるのはまた今度ということで……」
「何で? いいよ。あぐりのお婆さんと叔母さんに会ってみたい」
 あれ? 名前で呼ばれてる。そのことに喜んで、つい「うん」と頷いていた。

 かくして新宿末廣亭十月中席昼の部に、あぐりと婆ちゃんと叔母ちゃんと田上真生の四人で繰り出すことになった。デートというより大人の遠足だった。けれどそれも平穏無事に終わるものではなかった。
 昔は電車で新宿駅まで出て、そこから末廣亭まで歩いたものだが、今の婆ちゃんには酷だろう。あぐりが中古のホンダを運転して行くことになった。後部座席に婆ちゃんと叔母ちゃんを乗せて、本城駅前で待つ真生をピックアップする。
 助手席に乗って来た真生はスーツでネクタイまで締めている。これまでに見た服装といえば、くたびれたTシャツに膝の出たチノパンというあのボロアパートにふさわしいものだった。
「寄席は普段着でいいんだよ」
 と言いながらも見惚れてしまう。
「一応、伝統芸能観賞だから……」
 と言う真生である。ユニクロの普段着で来たことを大いに後悔する。後部座席の女性陣にも好印象で、ほやほやと音のしそうな笑顔で見ている。
 高速道路に乗るために本城駅南に向かう。そして坂上神社にさしかかった時、婆ちゃんが神社に参拝すると言い出した。無視して車を進めようとすると、婆ちゃんはプチパニックに陥った。
「止めて! 止めてよ! お参りするんだよ! 比呂代ちゃんにも挨拶しなきゃ」
 運転席の背もたれを揺さぶり、あぐりの肩を叩く。
「お婆ちゃん。比呂代さんは去年亡くなったのよ。葉書をもらったでしょう」
 宥める叔母ちゃんの言葉に聞く耳もない。
「比呂代ちゃんに会うんだよ! お嫁に来た時からの仲良しなんだから!」
 あぐりが助手席をちらりと見て口を開くより先に、真生が言った。
「いいね。私もこの神社は初めてだから、お参りしてみたい」
 何かとんでもないことを(愛してる!とか)口走りそうになり、ぐっと奥歯を噛みしめる。
 車を駐車場に入れて四人で神社の鳥居をくぐる。それぞれに神前でお参りして授与所に向かったところが、待ち受けていたのは、
「ちーっす! あぐりっち」
 思い切りチャラい宮司だった。
「おーっ! 大吉運送のお婆ちゃんと小母ちゃんも。どーもどーも、お参りご苦労さんっす」
 白い着物に浅黄色の袴を着けてはいるが、口調はまるで神職ではない。あぐりは先日迷子の婆ちゃんを見つけてくれた礼を言う。このところあちこちに礼ばかり言っていると思いつつ。
「何の何の。大したことないっす。それより、ご朱印帳どお? うちのご朱印もう押してあるから。スタンプラリーだよ。どーぞどーぞ!」
 と祖母ちゃんと叔母ちゃんに一冊ずつご朱印帳を売りつけてから、
「ちょ、待て。あぐりっち俺の二コ下じゃん。てことは今年二十五才。マジ厄年! ヤベーよヤベーよ。厄払いしなきゃ」
 などと言い出すチャラ宮司である。
 寄席に行くからと断る間もなく叔母ちゃんにばんばん背を叩かれる。
「ウソ! あっちゃん厄年だったの? 駄目よ。厄除祈願は大切よ。私が離婚する羽目になったのも、それをしなかったせいよ!」
 違うだろ!
「だって真生さんは初めて寄席に行くんだよ。一番太鼓から聞いて欲しいのに……」
 地団駄を踏まんばかりにしているあぐりを、真生は肩をぷるぷる震わせながら見て、
「ついでだから厄除祈願もやってもらったら?」
 と言う声は笑いで裏返っていた。
 拝殿に四人並んで新人宮司の厄除祈願を受ける。先輩のサービスかと思ったあぐりはやはり末っ子の甘々で、安くない規定の玉串料を取られるのだった。
 ちなみにこの宮司は、御園生慶尚(みそのおよしなお)という難読氏名である。誰も御園生とは呼ばず、あだ名はミソッチなのだった。
 ようやく坂上神社を出て、田園地帯を走り抜けて高速道路に乗り新宿に着いてからも、空いてる駐車場を探してさまよった。四人が末廣亭に着いた頃には、とうに昼席は始まっていた。
 途中入場は、落語家が高座を下りて前座が座布団やメクリを返す間に、すかさず席に就くのが礼儀である。
「ほら、早く早く」と叔母ちゃんは真生の手を引いていち早く席に着いた。つまり席順は叔母ちゃん、真生、婆ちゃん、あぐりとなった。女男女男って合コンか?
 これじゃ真生と話せない。いや、寄席で話していいのは噺家の入れ替えの間か、仲入りだけである。
 でも隣同士で肘掛けにのせようとした手が触れてドキドキするとか、そういう淡いふれあいを期待していたのに。あぐりの手を握っているのは婆ちゃんなのだ。まるでドキドキしない。
「おなーーーかーーーいりーーーーー!」
 幕が下りて前座の声が響く。お仲入りとは休憩のことである。
 慣れたこととて婆ちゃんは席を立ちそそくさとトイレに行く。「私もトイレ」と叔母ちゃんがあわててそれを追って行く。
よし、今だ! と席を詰めて真生の隣に座ろうとしたところが、
「じゃあ、私もちょっと……」
と膝を越えてトイレに行かれてしまう。一人ぼつねんと座席に残され、あぐりは想像とまるで違うデートにうなだれる。
「ねえ、お婆ちゃんは?」
 と叔母ちゃんが戻って来たのは、開演五分前のブザーが鳴ってからだった。真生も既にトイレから戻って席に就いている。
「トイレにいないのよ。客席を見て回ったけど見当たらないし……」
 あぐりは血の気が引く思い出立ち上がった。
「婆ちゃん! 婆ちゃん!」
 大声で客席を呼ばわる。三百余席のキャパシティの会場は、人気真打のトリのため満席に近い状況である。それらの客が怪訝そうにこちらを見ている。
 叔母ちゃんは係員に婆ちゃんを見なかったか尋ねている。あぐりもスマホの待ち受け画面を出して、
「この人を見ませんでしたか?」
 と観客に聞いて回った。
 出し抜けに肩を叩かれてぎょっとする。振り向くと真生がスマホを差し出していた。
「その写真、こっちに送って」
 慌てて写真を送信する。少しばかり指先が震えている。真生は画面に婆ちゃんの写真を確かめると、
「外を一回りして来る」
 躊躇なく寄席を飛び出して行った。
 一瞬にしてあぐりの待ち受け写真の意義を理解した。〝ババコン〟などと言う男とは違う。と惚れ惚れしている場合ではない。あぐりは再度、客席や桟敷席にスマホの写真を見せて回った。
 開演ブザーが鳴るまでの五分間で、婆ちゃんは場内にいないと判断できた。寄席を出て行ったと考えるしかない。すごすごと外に出ると、真生が走って戻って来るところだった。
「この建物を一周したけど、お婆ちゃんはいなかった。あそこに交番があったから届けて来た」
 と言いながら、あぐり達がまだ祖母ちゃんを見つけていないことを知って、
「どこから探す?」
 と辺りを見回す。
 何なんだ。この適確で素早い行動は? あぐりが呆然としているうちに真生は指示を出している。
 叔母ちゃんは婆ちゃんが戻るかも知れないので末廣亭前で待機。あぐりはJR新宿駅に向かって探して行く。真生は地下鉄新宿三丁目駅方面を探して行く。
 そして、ぬかりなく真生は叔母ちゃんと電話番号の交換をしているのだった。
 あぐりが走り出したのは、かつて爺ちゃんや婆ちゃんに手を引かれて歩いた道だった。すれ違う人々に待ち受け画面を見せながら小走りに行く。
 JR新宿駅の改札口まで辿り着くと足を止めて辺りを見回した。平日の昼間なのに人でごった返している。続々と湧いて出る人並みに酔いそうな気がする。この中に婆ちゃん一人を探すのは不可能だろう。
 呆然としながら今度は地下街を通って末廣亭に戻って行く。そこにスマホの着信音が鳴った。婆ちゃんの携帯電話からだった。
「こちらは伊勢丹新宿店と申しますが、篠崎スヱ様の携帯電話からかけております」
 婆ちゃんに持たせているガラケーから電話をしているのは、伊勢丹新宿店の店員だった。
 実は婆ちゃんは自分では殆ど携帯電話を使えない。けれど携帯させているのはこんな時のために緊急連絡先を入れてあるからだった。老舗デパートの店員は見事にそれを見つけて連絡してくれたのだ。
 あぐりは叔母ちゃんと真生に電話でそれを伝えながらデパートに向かって走った。
「あっちゃん、どこに行ってたの? 心配したよ。店員さんに探してもらってたんだよ。お爺ちゃんは、お団子を買いに行ってるからね」
 デパートの総合案内所で保護されていた婆ちゃんは、あぐりの姿を見るなり言ったものだった。
 確かに昔は、寄席がはねると爺ちゃんは追分団子本舗に土産を買いに行き、あぐりは婆ちゃんに手を引かれて伊勢丹の大食堂に先に入ったものだった。おそらく婆ちゃんは仲入りなのに寄席が終わったものと勘違いして外に出てしまったのだろう。
「駄目じゃない! 勝手に寄席を出て行ったりして。心配するじゃないの!」
 と叔母ちゃんは怒鳴っていた。
「見つかったからいいよ。もう帰ろう」
 叔母ちゃんを宥め、デパートの店員に頭を下げて外に出ようとしたが、手を取った婆ちゃんは足を踏ん張って動こうとしない。
「寄席がはねたら食堂でご飯を食べて行くんだよ!」
 子供か!
 いつになくカッとなり強引に婆ちゃんの手を引っ張る。引きずってでも帰ってやる。そもそもこれはあぐりと田上真生とのデートなのだ。腹立たしい事この上ない。
 その真生は伊勢丹に着いた時には額に汗を浮かべてネクタイは外し上着も脱いで手に下げていた。
「僕もご飯を食べて行きたい。悪いけどかなり腹が減った」
 と婆ちゃんの味方をした。あぐりは唇を引き結んだまま真生を見上げた。〝私〟がいつの間にか〝僕〟になっている。だからどうだというわけではない。
 七階のイセタンダイニングで四人でテーブルを囲んだ。叔母ちゃんが、
「ビールでも頼みましょうか。田上さん?」
 と声をかけたが首を横に振って、
「帰りに追分団子でお土産を買って帰りますか?」
 婆ちゃんに話しかけている。
 何なんだよこの男は! あぐりはテーブルに両肘をついてうつむいている。
 何なんだよ! 何なんだよ? 泣きたいのか笑いたいのかわからない。ただ、今この場で抱きつきたい心を抑えるのに精一杯である。
〝何なんだ〟は単に〝好きだ〟の代りでしかない。
「あっちゃんが好きなお子様ランチがないね」
 メニューを見てがっかりする祖母ちゃんに真生は、
「きっとこれがお子様ランチですよ」
 とオムライスプレートを示した。小旗こそ付いていないが、エビフライやハンバーグが盛り合わせになっている。そして、あぐりを見て言う。
「これでどうだろう? あっちゃん」
 誰があっちゃんと呼んでいいと言った!
 田上はサーロインステーキがのったピラフを注文して、毎度力強く咀嚼する。あぐりはうつむいたままオムライスプレートを平らげた。婆ちゃんと小母ちゃんは共に天せいろを啜っていた。
 伊勢丹を出ると追分団子本舗で土産を買った。
 ショーケースを覗き込んで婆ちゃんが、
「蜜がいい。蜜―」
 と駄々をこねるように言うから、あぐりは、
「餡子にしておけ」
 と言わねばならない。
 毎回この店で言い合う台詞だった。婆ちゃんでなければ爺ちゃんが言う時もある。
 あぐりはふいと傍らの男を見上げてそれが爺ちゃんでないことに、と胸を衝かれる。立っているのは田上真生である。当たり前だ。爺ちゃんは五年前に死んでいる。特別養護老人ホームに入院していたが肺炎で亡くなった。
「初天神ていう落語の台詞だよ」
 思わず真生に解説する。
 天神様のお祭に団子屋で子供が蜜の団子をねだるのに、父親が蜜は着物を汚すから餡子にしろと説得する場面である。
 そこに叔母ちゃんが団子の包みを差し出した。
「田上さんもお団子食べるでしょう?」
 包みを二つにしてもらったのだ。一つを真生に渡そうとしている。
「真生さんは一人暮らしなんだから。そんなにたくさんあげても困るよ」
 と思わず口出ししている。
「大丈夫よ。お団子は冷凍できるから。少しずつチンして食べればいいわよ」
 そして、真生は渡された物は拒まないのだった。
「ありがとうございます」
 と淡々と受け取っている。甘い物は好きなんだろうか? あぐりはまだ知らない。
 ちなみにイセタンダイニングでの支払いは真生が出そうとするのを、あぐりや叔母ちゃんが全力で遮っていた。
 帰りに車の運転をしたのは真生だった。駐車場であぐりは肩を並べて歩いている田上に言い訳がましく言ったのだった。
「迷惑かけてごめん。婆ちゃんは昔は、あんなんじゃなかったんだ。あんな風に怒鳴ったり怒ったり……本当は違うんだよ」
 と、遅れてやって来る祖母ちゃんを振り返りながら。
「謝ることはない。わかってるよ」
 微笑みながら真生はあぐりがポケットから出したキーをごく自然に手に取っていた。魔法か? あぐりがキーの失せた自分の手を見つめているうちに、勝手にドアを開けて運転席に乗り込んでいる。
「帰りは運転する。どうぞ、お婆ちゃんと小母ちゃんも乗ってください」
 真生に言われて女性二人は大人しく後部座席に乗り込む。
 あぐりはぽかんとしたまま助手席に着き、真生のスムーズな発進を見た。だからビールを断わったのか。と思った後の記憶はない。

   5

 強く肩を叩かれて我に返った。車はまだ発車していないのか?
 辺りを見回すと、後部座席の叔母ちゃんと婆ちゃんが降車するところだった。
 家に到着したらしい。外はぼんやり薄暗い。もう日も暮れている。
「あ? え、何?」
 声はまだ眠っている。運転席の真生はシートベルトを外しながら、
「家に着いたよ。よく眠っていた。かなり疲れていたらしいな」
 と車を降りかけて「おわっ!」と妙な声を上げた。砂利で足を滑らせたらしい。
「危ない。大丈夫でした? 田上さん」
 と叔母ちゃんが声をかけている。あぐりはまだぼんやりと水の底に漂っているような気分で、のそのそと車を降りた。真生は婆ちゃんや叔母ちゃんに挨拶をして、真柴駅に歩いて行くと言っている。
「何を言ってるの。電車なんかで帰らなくても。あっちゃん送ってあげなさい」
 はい。言われなくてもそうします。ただ、まだ頭がぼんやりしている。車を降りて運転席に回ろうとした途端に砂利で足が滑り、見事なまでに脚を振り上げ派手な尻餅をついた。
「あっちゃん、気をつけなさいよ」
 と叔母ちゃんはふらふらしている婆ちゃんを抱くようにして言えの角を曲がって行く。どうやら婆ちゃんも完全に熟睡していたらしく、叔母ちゃんはこのまま布団に入れて寝かせてしまうつもりらしい。玄関に向かう二人の姿は見えなくなった。
「じゃあ、僕が運転して家まで帰らせてもらっていいかな」
 と真生は、あぐりの腕を取って立ち上がらせる。
「え、でも……」
「まだ眠いんだろう。あっちゃんは帰りだけ運転すればいい」
 誰もあっちゃんと呼んでいいとは言ってない。と睨みつけただけなのに、
「あっちゃんて呼んじゃ駄目?」
 許可を求められる。いや、顔がずいぶん近いんだけど? 黙って顔を離そうとした途端に口づけされた。ちょんと軽いご挨拶。
「あぐりがいい」
 言いかけてあぐりが身動きすれば自然に真生も脚を動かし、またしても「わっ!」と足を滑らせて尻餅をついた。腕を掴まれていたあぐりも真生の上に倒れ込む。この砂利は何とかしないと、いずれ怪我人が出るぞ。
「いててて」
 と真生はしかめっ面をしている。砂利に座り込んで二人で抱き合っている格好である。
「あっちゃんは駄目か?」
 おでこをくっつけられてもう一度訊かれる。
「あぐりのがいい」
 と、また睨む。
「じゃあ、あぐり」
「俺は真生って呼ぶよ?」
「どうぞ」
 あぐりは真生の身体に両手を回して抱き締める。力強い肩と腕を掌で触れてみる。唇を開いてご挨拶ではない口づけをする。強く抱きしめられて、健啖家の舌が唇を割って入って来る。舌と舌を絡ませて甘い吐息が出そうな時に、肢の下で砂利が鳴った。二人の身体が動いたせいだが、とてつもない大音声に聞こえる。
 思わず真生の身体を突き放して辺りを見回す。誰も見てはいない。そう言えば富樫のおっちゃんが、砂利は防犯にもなると言っていた。
 耳元で真生が、
「好きだ」
 と言ったような気がしたが、砂利の音のせいで定かには聞き取れなかった。
 すっかり覚醒したあぐりは、そそくさと助手席に乗り込んだ。尻がじんじん痛むのは転んだ時に尖った砂利が当たったからである。それりよりも顔が真っ赤になっている。心臓はまだどきどき飛び跳ねている。
 黙って運転席に乗り込んでシートベルトを付けている真生に、
「砂利、痛くなかった? 転んだ時。大丈夫だった?」
 うつむいたままベルトバックルに掛けた真生の手に手を重ねた。
「多分、明日痛みが出て来るな」
 と真生はその手を握り返して来る。
「……さっきの、よく聞こえなかった。もう一回行って」
「だから痛みは明日……」
「じゃなくて。好きって言った?」
 にわかに握った手を引き寄せられて、また口づけをされる。あっと言う間もなく唇が離れると、エンジンをかける音が聞こえた。
「好きだ」
 と、もう一度聞きたかったのに。

 本城駅前ロータリーで停めた車を降りて真生が運転席を降りた。助手席に座ったままあぐりはそこを動きたくなかった。
 たとえばこれから真生の部屋に行きたいと言う手もある。いや、しかし、そんな性急に、何を馬鹿な……と内心じたばたしていると、窓を叩かれた。
後部座席に団子の包みが置きっ放しだった。仕方なくそれを取って車を降りる。
「じゃあ、また。お婆ちゃんや小母ちゃんによろしく」
 と団子の包みをぶら下げて田上真生は駅コンコースへの階段を上って行く。
 ええと……キスをしたような気がするのだが、夢だったのか。自分はまだ熟睡していたのかも知れない。
 ぼんやりと車の前を回っていると、二階コンコースの手摺りから真生がこちらを見下ろしていた。思わずふるふる手を振って運転席に乗り込んだ。ほんの少しシートを前に出さなければならない。このわずかな差が真生とあぐりの身長差である。そんな違いにさえ、ときめいてしまう。
 家に戻ると叔母ちゃんが食堂でワインを飲んでいた。だだっ広い欅の一枚テーブルに一人ちょんと居る様は、絵画ならば〝孤独〟とタイトルを付けても差し支えないだろう。
 食堂の壁に設えた食器棚も大層な設えである。中には様々な陶器やガラス器が並んでいるが、ワイングラスは数える程しかない。大吉運送の頃は酒といえば日本酒だったから、徳利や盃の方が多い。だが父がパラグアイに行ってからは、この家で呑む酒は赤ワインがデフォルトになった。肴はもちろんビーフジャーキー。今日は団子も並んでいる。ワインに合うとは思えないが。
 叔母ちゃんは空いたグラスに手酌でワインを注ぎながら、
「あの後、お婆ちゃんたらまた市川湯に行くって大騒ぎよ」
「寝たんじゃなかったの?」
 あぐりもグラスを差し出して注いでもらい、立ったままワインを口に含む。
「寝たけど、また起き出して。何とか宥めて、うちのお風呂に入れて寝かせたわよ」
 どうあっても婆ちゃんは銭湯に入りたいらしい。近いうちに浦安のまゆか姉ちゃんに来てもらって連れて行ってもらうか。本城町の月の湯がまだ潰れていないと聞いたことがあるし。
「あっちゃん、ガラケーでもGPSを使えるって知ってた? 田上さんが言ってたのよ。お婆ちゃんのガラケーに入れとけばいいって」
「うん。今度見てみる」
「いい人よねえ……」
 蜜の団子を齧りながら叔母ちゃんがしみじみ言う。あぐりは知らんふりで「何が?」と言ってみる。
「田上さん。牧原産婦人科クリニックのお医者さんなんですって? 優しいわよねえ。私が明日香を生む時の医者ったら、ひどかったわよ。田上さんみたいな先生に診て欲しかった」
「へえ」
「あれで独身なんて。三十才でしょう。お見合いする気はないかしら」
 などと明日にでも見合い写真を持って来そうな勢いである。
「彼女いるの? いるわよね。いないわけないわよね」
 一人で頷いている叔母ちゃんに、あぐりも少々不安になって来る。
 いかに同性愛者とはいえ、あのスペックの三十男が独身とは考えにくい。江口主任のように世を憚って結婚している可能性はある。疑わしいのはあのアパートに定期的に届く田上姓発送の荷物である。別宅の妻が送っているとか?
「俺も風呂入って寝るわ」
 とグラスのワインを吞み干して食堂を後にした。
 恋心に兆す疑心暗鬼は娯楽の一種と言えなくもない。田上真生既婚説を疑って風呂に入っているうちに、あぐりはいつしか頬をゆるめている。今日一日の出来事がニュース映像のように脳裏を通り過ぎ、締めはやはり真生とのファーストキスだろう。自分の指で唇をそっとなぞり、ぐふふと怪しく笑っていたりする。
〈今日はいろいろありがとう。婆ちゃんは無事に休みました〉
ベッドにもぐってLINEをすると、すぐに既読がついた。
〈団子おいしかったです。今日はもう寝ます。あっちゃんは?〉
〈あっちゃんて呼ぶな〉
〈あっちゃんのあは愛してるのあだけど?〉
 あっちゃんの「あ」は、愛してるの「あ」?
 眠気がぶっ飛ぶ。身を起こしてきょろきょろ部屋中を見回した後、
〈俺も愛してる〉
 と文字を打つ。
〈真生さんを〉
 とも打ってみる。送信しないうちに、
〈おやすみなさい〉
 が飛んで来た。遅れをとった。
〈おやすみなさい。アイシテル〉
 あ、カタカナになっちまった。勢いで送信して枕に頭をつけるなり眠りに落ちた。温かい真綿の中に沈み込むような眠りだった。

 恋する者はすべからくスマートフォンにかじりつく。翌朝、目覚めるなり枕元のスマホを手にして、その姿勢のまま固まってしまった。
 部屋の入り口に婆ちゃんが立っていた。あぐりの部屋は洋間だが、入り口は引き戸である。そこを細く開けた隙間に見えるのは、
「あっちゃん。お爺ちゃんとお母さんにお参りしなさい」
 と両手に一本ずつ蝋燭立てを持っている老婆である。それぞれの蝋燭には火が灯り、かすかな風に炎が揺らめいている。横溝正史の世界? 
 あぐりはスマホを打ち捨てて婆ちゃんの手から蝋燭立てをとり上げた。そして火を吹き消す。
「危ないから、火を持ち歩かないでよ。お参りはするから」
 パジャマのまま婆ちゃんと共に階下に降りて、仏間で座布団に正座すると改めて蝋燭に火を点けた。線香も点けて、思い切り大きな声で般若心経を唱える。横に座った婆ちゃんも唱和するから、家中にお経が響く。
 昔はこれをやっていると出勤して来たドライバーや社員達も顔を出して唱和したものだ。当時は、長姉さおり、次姉まゆか、いとこの明日香など誰かしら女の子が座っていたから、彼らの目当てはもちろんそちらだった。
 そして長女のさおり姉ちゃんは、経理事務の男と結婚して今は夫の実家がある四国は松山に暮らしている。
 便利屋になった富樫のおっちゃんも頻繁に読経に現れていたが、この家の女たちとは縁がなかったらしい。未だに独身である。
 朝のお勤めを終えて台所に顔を出すと、叔母ちゃんがうんざり顔で朝食の支度をしていた。
「見てよ、これ」
 と差し出したのはあぐりの弁当箱である。
 中を見るなり息を飲んでしまった。詰め込んだご飯の上に線香の束が広げてある。そしてゆで卵の輪切りが並んでいる。柴漬けなども散らしてあるから、白に緑に黄色に赤紫と彩りだけはいいが、すさまじく抹香臭い弁当である。
「崇さんはもうお婆ちゃんに家事はさせるなって言うけど。子供じゃないんだから、勝手に料理をするわよ。それでこの有様よ」
「弁当はもういいって婆ちゃんに言っとくよ。コンビニで買うし」
 叔母ちゃんを宥めるように言いながら、この弁当を会社で開けなくて良かったと胸を撫で下ろす。
 そんなこんなで真生のLINEを確かめたのは、昼になってからだった。
このところ妙に荷物が多く、午前中の配送が昼過ぎまで伸びてばかりである。 

【第3話に続く】全8話

猫と愛してるのあ 第3話 | 




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