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猫と愛してるのあ 第7話


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 梅園町の菅野邸には相変わらず額に〆印のトラ猫がいた。訪れると床の間の猫ベッドで居眠りをしており、あぐりの姿を認めると胡散臭げに尻尾を動かしてからまた目を閉じるのだった。
 菅野夫人から電話で三月の月命日にもお経を上げに来て欲しいと頼まれたのだ。けれど休日ではないと断ったところが、
「じゃあ、この週の日曜日にいらしてちょうだい。お昼を用意しておくからお腹を空かせていらしてね」
 と嬉しそうに乞われるのだった。
 あぐりはもはや宅配ドライバーではない。けれど足軽運送の社員ではあるから会社の顧客にサービスすべきとは思う。とはいえこの誘いはどうなんだろう? 
 判断しかねてランチタイムに社員食堂で相談したら吉田くんはいとも簡単に、
「いいんじゃないの?」
と言い、杉野さんは、
「社員証! スープカレーに浸ってる」
と注意するのだった。あぐりの社員証は味噌やカレーで既に満身創痍である。
ともあれ、迷いながらも月島でもんじゃ焼き煎餅などを土産に買って梅園町を訪れたのだった。
 菅野夫人はあぐりが卵が好きだと言ったのを覚えていたらしく豪華な献立の中には茶碗蒸し、鰻巻き、ゆで卵入りの豚の角煮など卵料理が多くあった。その対価は般若心経だけである。毎日の読経がなくなって物足りなかったあぐりは(信仰というよりあれは毎朝の発声練習として最適だった)腹の底から声を出して読経するのだった。
 食後にお勤めが終わって菅野老人と共にこたつでお茶を飲んでいると、老夫人は弁当箱を盆にのせて持って来る。
「篠崎さんは都内で一人暮らしを始めたんでしょう。これを持って行くといいわ」
 ご飯やおかずが詰まった弁当と、豚の角煮や鰻巻きがそれぞれに詰まった密封容器だった。
「このお弁当は今夜のお夕飯ね。こっちのおかずは冷凍しておいて、食べたい時に一つずつお皿に出してチンすればいいから」
 説明しながら刺し子の刺繍がされた布製のエコバッグに入れている。
「祖母もよく弁当を作ってくれて……」
 と言いかけて涙が出そうになる。歯を食いしばって堪えていると、
「もしや去年の終わり頃に?」
 驚いてただ頷く。
「篠崎さんのご様子が少し変わった気がして。何かあったのかと思っていたら配達に来られなくなってしまって。及川さんに伺ったら転勤されたそうじゃない。本当に心配したのよ」
 やばい。と思う間もなく、また目頭が熱くなって涙が頬に流れている。本当に涙腺がだらしなくなっている。
「婆ちゃ……祖母は家の駐車場で転んで、車に頭をぶつけて亡くなりました」
「まあ、何てことかしら。お家でなんて、お辛かったわよねえ」
 との言葉に許しを得たかの如く、盛大にしゃくり上げている。何なんだ自分は? と呆れる自分と、嗚咽を上げながら訴えている自分がいるのだった。
「その時、僕……僕は恋人と一緒にいて、無断外泊したんです。祖母は僕を探して、夜中に外に出て転んで……僕がちゃんと帰っていれば……」
 さすがに恋人が同性とまでは言えなかったが、それがきっかけで恋人とも別れたと真実を打ち明けていた。
 ティッシュボックスが差し出された。こらにも刺し子刺繍の布カバーが付いていた。
「篠崎さんたら。恋人と別れたりしちゃいけないわ。悲しい時こそ一緒にいるものよ」
 ティッシュで涙を拭いて洟をかむ。小学校低学年以来泣いたことのないあぐりは、涙と共に鼻水が出ることさえ忘れていた。そして〝恋人〟はやたらに涙を流しては鼻をかむ人物だったと思い出す。
「いいこと。帰ったらすぐ仲直りなさいね」
「無理です。もう別れちゃったし……」
 半分笑いながら答えると、弁当箱の入った手提げ袋を手に取った。黙って話を聞いていた菅野老人が思いついたように言った。
「生きている限り無理な事なんかないさ。すぐに謝って許してもらいなさい」
「そうよ。一人より二人の方が耐えられることが多いわ。私は息子が亡くなった時、もう生きていても仕様がないと思ったの。でも……」
 と夫を見やる菅野夫人だった。
 諭すように言う老夫婦に頭を下げて、あぐりは屋敷を辞した。
 何だかよくわからなかった。涙腺が緩くなった自分もだが、菅野夫妻が親切にしてくれるのも何故なのか理解できなかった。
 なのに月島に帰る電車の中でスマホを出して、
〈真生さんの連絡先を教えてください〉
 などと里生に送信しようとしている。我に返ってあわてて削除した。
 もし仮に菅野老人が言うように真生に謝罪をするにしても電話やLINEはあり得ない。直接会って頭を下げるべきではないか? あそこまで酷い罵声を浴びせたのだから。いや、もし仮に、という話だ。別によりを戻そうとか思っていない。
 そこに三田村さんからLINEが届いた。
〈来週の土曜日、お昼頃に月の湯跡地に来てください。新しい餌場の準備をします。あぐりくんには段ボールハウスを作ってもらうので、よろしく〉
「いいけど、別に……」
 不満そうに独り言ちて既読スルーした。完全に保護猫団体のパシリではないか。
 その週は毎日のように真生に送る謝罪の言葉を考えて過ごした。
〈真生さんに謝りたいことがあります。お正月に風邪をひいているのに、ひどいことを言ってすみませんでした。謝罪します。でももう別れますが〉
 何もわざわざ念を押さなくとも、もうとっくに別れているではないか。
〈もう風邪は治ったと里生さんに聞きました。あの時ひどいことを言ったのは謝ります。すみませんでした〉
 せいぜいこの程度だろうか。
 スマホに入力するのみならず、わざわざ便箋にしたためてみて破いたりしているのだった。
 あぐりは自分が何をしたいのかいまいち掴めない。真生にきちんと謝罪する。しかしよりを戻すのは無理だろう。きちんと別れた後、新しい彼氏を探す方が建設的である。それに、今のあぐりには少々気になることもあるのだった。
 朝食に冷凍の豚の角煮を電子レンジで温めて炊き立てご飯と共に食べる。一人用炊飯器で米を炊く方法もやっと覚えた。菅野夫人に作ってもらった冷凍おかずはこれが最後だった。食後のほうじ茶は月島の茶舗で焙じたてを買ったものである。
「今時の若い人はお茶を焙じる香りを臭いとか言うのに。あなたは偉いわねえ」
 と、茶店の婆様に褒められる。新しい彼氏は見つからないのに、婆様にはもてもてである。
 今週末は保護猫団体の活動である。厚手のジャケットにマフラーを巻き、下は動きやすい服装にして家を出る。一時間半かけて真柴本城市に帰る。どうも週末ごとに帰省している気がしてならない。
 
 早めに駅に着いたので駅裏に足を向けた。久しぶりに焙煎珈琲黑河に行くつもりだった。細い路地を歩いているうちに、工事中のシートが掛かった一角に出る。かつて真生の住むアパートがあった区画である。こちらも既に取り壊されていたのだ。
 事ここに及んで自分はコーヒーよりも真生に出くわすのを期待していると気がつくのだった。きまり悪く踵を返す。
 いや、偶然出会ったら菅野夫妻に勧められたように謝罪をすればいいだけだ(夫妻の勧めを完全にはき違えている)。コーヒーは飲みたいんだし。とまた踵を返す。
 一人で行ったり来たりしている横を足軽運送のトラックが走って行った。そして急停車の音がする。
「でけートラックで入って来んじゃねーよ! 通れねーだろーがよ!」
 激しいクラクションの音と共に罵声が聞こえる。振りむいてため息をついた。
 この細い路地でベンツとトラックが向かい合っている。すれ違える道幅ではない。黒塗りのベンツはスモークガラスで、運転席から顔を出した強面も黒いサングラスをかけている。足軽運送のトラックといえばリヤドアの下部にドライバー名が掲示してある。〝森公治〟というのはもしやあの仕分けバイトの森くんだろうか。
 あぐりが考えている間にもトラックはにわかににバックを始める。歩行者の存在に気づいていないらしい動きにあわてて飛びのいた。後方でどかんぼこんと嫌な音がする。呑み屋の店頭にある電飾看板をなぎ倒したのだ。
「ストップ! 止まれ、止まれ! 森くん!! 止まれ!!」
 掌でぱんぱんボディを叩いて停まらせる。
 とりあえず壊れた看板は店の軒下に非難させて、運転席の前を回ってフロントガラスを見上げる。やはりあの森くんがハンドルを握っている。恫喝に怯えて思考停止しているらしく表情がない。
「すみません! すぐ下がりますんで。申し訳ない! 少しお待ちください」
 対面でトラックの運転席を睨みつけている強面グラサンに片手拝みで頭を下げる。
「開けろ! 森くん!! ドアを開けろ!」
 強引な命令口調は本来あぐりのものではない。真生の高圧的口調や、タケ兄ちゃんの号令を思い出して真似している。
 放心していた森くんは機械的に命令に従い運転席のドアを開けた。まるで目の前のヤクザに命じられたかのようである。
「どけ! シートベルト外せ!」
 森くんがシートベルトを外すなり、あぐりはステップに飛び乗りアシストグリップを手掛かりに全身に弾みをつけて運転席に飛び込んだ。
 勢いで森くんを助手席に移動させる。別の言い方をすれば、体当たりで突き飛ばした。ちょっと蹴りも入ったかも知れない。
「えっ? 篠崎さん⁉」
 こちらに尻を向けて転がった森くんは顔だけ振り向き、きょとんとしている。
「今すぐ下がります!」
 とドアから身を乗り出してベンツに向かって再度大声で言う。
 そしてドアを閉めるとシートベルトを着ける。シフトレバーを握りステアリングに手を掛けた。アクセルペダルに足をのせる。瞬間、とてつもない高揚感が全身を駆け巡る。車体のエンジン音が自分の鼓動と共鳴しているように感じる。
 バックで細い路地を下がって行く。この隘路は駅前の大通りに出るまでくねくね続く。出口まで下がって一旦左右確認してから九十度に曲がった大通りに尻から車体を出す。小刻みにハンドルを切って前後しては後退していく。この細かな動きもとても楽しい。ぴたりと動きが決まって内心快哉を叫ぶ。
 トラックは恙なく大通りに出た。するとベンツは待ちかねたかのように路地を走って来て、一瞬クラクションを鳴らして大通りを駅向こうへと猛スピードで走り去った。
 路肩に停車したままステアリングを両手で撫でさすっていたあぐりは、後続車にクラクションを鳴らされて、あわてて出て来た路地にまた頭を入れた。そして看板をなぎ倒した倒した呑み屋まで戻ると車を停めた。
「そこの壊した看板、すぐに写真を撮って会社に報告しろよ。主任か誰かが店に謝りに来るはずだ。帰ったら報告書も出しとけよ」
 また上から押し付けるように命令すると、ドアを開けてドアステップに足を掛けた。名残惜しくも地面に飛び降りる。
 まだ胸が高鳴っている。思わず両手の掌を目の前に広げる。ほんの短時間なのに素晴らしい充足感を覚えている。森くんがトラックを降りて壊れた電飾看板の写真を撮っているのに構わず、駅に向かって歩き出した。
「ありがとうございました! 篠崎さん」
 後ろから声をかけられて驚く。
「あの……篠崎さんて、やっぱオール特Aなんですね。運転すごいし。ホント助かりました」
 かつてアルバイトの森林コンビにこんな丁寧な言葉をかけられたことはあったろうか。
 プロレスごっこの時にタケ兄ちゃんに言われた。可愛い顔のあぐりが優しい口調で話せば卑しい連中は平気で舐めてかかる。
「関節技とか使わなくてもよ、言い方ちょい変えるだけで、相手の態度も変わんぜ。世の中案外ちょろいもんだぜ」
 だから〝ホモなんて異常者扱いさせるな〟と話は続いたのだが、ある意味正しい意見ではあったのだ。
 そしてまたトラックに乗りたいと痛感する。トラックの運転こそが自分の仕事である。この思いに関しては自分の中の誰かが罪悪感を抱いたり反対したりすることはなかった。
 駅に戻ってバスに乗ると月の湯跡に向かう。そして三田村さんに会うなり、駅裏で森くんに出くわしたことを伝える。
「でしょでしょ? 今はもうみんなドライバーよ。免許さえ持ってれば誰でも採用されるわよ」
「俺もドライバーに戻りたい」
 と本音を漏らすも、
「あらら。せっかく本社勤務になった人が何言ってんの」
 と軽くいなされる。
 銭湯跡地も実家と同じように工事用の仮囲いが出来ていた。高い煙突はもうどこにも残っていない。残された駐車場に停まっている車やバイクは保護猫団体の人々のものらしい。その中にシルバーメタリックのランドローバーはなかった。
 新たな餌場の空き地は枯れた雑草で覆われていた。男女入り混じった保護猫団体の会員達が鎌で枯草を刈っている。そして何故か雑木林の奥には腰高の真新しいスチール物置がある。
「これ、どうしたんですか?」
 尋ねるあぐりに三田村さんは得意気である。
「でしょでしょ。ここの地主さんが協力的で、いらない物置を寄付してくれたのよ」
 物置の上には既に何匹かの猫が身を寄せ合って香箱を作っている。
「里生ちゃんが交渉してくれたのよ。匿名だけど、お金持ちの地主様らしくて、避妊去勢手術の費用とか、わりと高額な寄付をしてくれたのよ。すごいと思わない?」
 物置から取り出されたプラケースが新たなネコベッドだった。中に断熱用の発泡スチロールを敷き、更に毛布やクッションを重ねればかなり温かいだろうとの意見だった。
 クッションは綿の生地に刺し子刺繍が施されたカバーが付いている。
「これって?」
 思わずクッションを手に取る。
「これも地主さんの寄付。刺し子の刺繍なんて、もったいないわよねえ。猫が引っ掻いてすぐボロボロになるのに。他にもフードとかどっさり寄付してくれたのよ」
「ふうん」
 あぐりは見覚えのある刺し子の刺繍をためつすがめつするのだった。
 この日の作業は整地と猫ベッド作りだった。男性会員の中には工事現場が本業の人もおり、雑木林の根が張った地面を整地して、猫ベッドが雨に濡れないようにビニールシートで屋根まで造るのだった。そして敷地の周囲には杭を立ててトラロープを張り巡らしていた。
 大吉運送の逞しいお兄ちゃん達が男性の基準であるあぐりとしては、ガテン系の筋肉質は嫌いではない。少し怪しい目つきで見ていたかも知れない。
 夕方になる頃には、その場は所有者が明らかな土地となっていた。「関係者以外立ち入り禁止 真柴本城市保護猫の会」と立派な看板も立てられた。奥にスチール物置が立ち、ビニールシートの下にはプラスチックの猫ベッドが並んでいる。中には座敷に置かれるにふさわしい刺し子刺繍のクッションが詰められ、既に猫が堂々と鎮座している。
 やがてここは繁殖力の強い雑草に取り囲まれるだろうが、逆に猫には過ごしやすくなるだろう。
 一同はファミリーレストランで打ち上げをするとのことで、それぞれ駐車場の車やバイクに乗り込んでいる。まっすぐ駅に帰ると言うあぐりを送ってくれたのはガテン系の男性だった。
 助手席であぐりは浅黒い男性の逞しい頤から首筋、肩、胸と心行くまで眺めて下心を満足させたのだった。左手の薬指に銀色の指輪があるのは残念な限りだった。
 その夜、あぐりはその男性に抱かれた。つもりで一人布団の中で悶えた。何故かトラックのコックピットでエンジン音に身を震わせながら逞しい男に抱かれている。筋肉質の厚い胸板を背中に感じて総毛立つような快感が走る。
「あっちゃん……あっちゃん」
 と耳元に低い声で囁きながら、その男性はあぐりのものを激しく愛撫する。この低くまろやかな声はあの男性ではなく、まるで真生のような……いや、そんなことはどうでもいい。ひどく興奮して、この上もない快感に激しく身震いして絶頂に達した。
 荒い息が治まらないまま熱い頬を冷たいシーツに擦り付ける。もう一度イケそうな気がする。淫猥に一人で舌なめずりするうちに、にわかに泣き笑いした。……出来た。勃った。
 真生とセックスしてから、いやハッテン場で乱交してから誰とも何もしていない。というか、反応しなくなっていた。
 それこそ街の工事現場でガテン系男性を見かけた時など、以前ならむらむらして下半身を宥めるのに大変だったのが、最近は見事なまでに静まり返っていた。実は正月休みにスマホで動画を見た時も、全く反応しなかった。
 どうせ死ぬんだし、相手もいない。勃起の必要などないだろう。心もまるで萎えていた。
 改めて思い起こすと熱い涙で視界が曇る。気にしていないつもりでやはり気になっていたのだ。布団の中に丸まって自分で自分を握って啜り泣き、その姿の滑稽さに気づいて笑ったりするのだった。
 
 ようやく真柴本城市に帰省しない週末が戻って来た。
 では都内の一人暮らしが楽しいかといえば、それはまた別だが。嫌々出勤してデスクワークをこなし家に帰って来れば、息が詰まるようなワンルームである。一人ご飯を炊いて卵かけご飯の食事をとる。菅野夫人の心尽くしの冷凍総菜はすぐに食べ尽くしてしまう。
 結果、卵を一週間に一パック消費する。目玉焼きぐらいは作れるようになったが、生卵が主である。インスタント味噌汁や納豆を添えることもある。食後は決まってほうじ茶である。誰かに「痩せ過ぎだ」とか「もっと食べろ」と言われるような気もする。
 ワンルームのバストイレは稀にシャワーを浴びるだけでとても湯船に浸かる気にはなれない。月島温泉に日参するのも飽きて、スーパー銭湯を探して出かけたりもする。
 ぼんやり湯船につかって思うのは、トラックドライバーに戻る方法だった。会社に交渉してどこかの営業所のドライバーにしてもらうか? 無理なら辞めて転職するしかない。及川さんの居るまほろば運輸ならすぐ採用されそうな気がする。
 だが今の社員寮は退去することになる。実家のマンションが完成して入居できるのは来年である。それまでの半端な期間を賃貸アパートで過すのも家賃の無駄である。では実家のマンションに入るまで、住まいの確保という意味で今の仕事に留まるか?
 都会の熱めの湯につかっては思い煩うのだった。
「せっかく本社勤務になったのにドライバーに戻るの?」
「頼み込めば戻れると思うけど、給料は下がると思うよ」
 昼休みに社員食堂で麻婆豆腐定食など食べながら思いを漏らすと、吉田くんも杉野さんもあまり賛同しなかった。熱いご飯を黙々と咀嚼しているうちに、
「いっそ開業しようかな?」
 まるで唐突に言葉が口をついて出た。
「ちょっと!」
 杉野さんが悲鳴に近い声を上げた。
 そんなに大層なことだろうかと杉野さんを見ると、あぐりの胸元を指差している。ワイシャツの胸ポケットに入れたはずの社員証が、こぼれ落ちて麻婆豆腐の上にぺたりと貼り付いていた。泡を食らって拾い上げる。ここから逃げ出したがっているのは社員証も同じである。

「いいんじゃないかな。私もサラリーマンのくせに別の仕事で起業したよ。定年までは二足の草鞋を履いていた」
 畳の上に落語全集のCDやライナーノーツを広げて眺めながら、世間話のように軽く言ったのは菅野老人だった。
 CDプレイヤーからは老人の贔屓だという噺家の落語「小言念仏」が流れている。差し込む陽の光も暖かくなって来た座敷である。床の間には相変わらず猫ベッドがあるが、トラ猫の姿は見当たらなかった。
「二足の草鞋って何の仕事を?」
「それはまた追々……いや、篠崎くんなら独立できると思うよ。資金はあると言っていたね?」
「はい。母親や祖母が残してくれた貯金で、安い中古トラックなら買えると思うんです。それで引っ越し屋が出来れば……最初は単身世帯や事務所の引っ越しだけど、いずれは人も雇って大きくしたいと思うんです」
「いいね。一度、事業計画書を書いておいで。見てあげよう」
〝事業企画書〟って何だ? 尋ねる前に老人は腰を上げた。
「起業の役に立つ本がいくつかあったと思う。ちょっと待ってなさい」
 と部屋を出て行こうとしたところで、やって来た菅野夫人にたしなめられる。
「あなた。いつもでもお話していないで。今日はお参りしていただく日なのよ」
「おお、そうだったな」
 と言いながら老人は書斎らしい奥の部屋に行ってしまう。
「もう。お父さんたら……」
 老婦人は仏間に繋がる襖を開けた。
 仏壇の正面には車椅子に乗った青年の写真がある。あぐりは写真と向かい合って座布団に座ると、手を合わせた。背後に控えているのは菅野夫人だけである。
菅野老人が奥の部屋で本を探しているのだろう、がたがたいう音が何やらおかしく笑いそうになりながら般若心経を唱えた。

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 三月に入るなり、御園生先輩から電話が入った。仕事から帰って夕飯の支度をしている時だった。朝炊いたご飯とインスタント味噌汁に付け加えるのは、菅野夫人お手製のチキンロールである。それを電子レンジで温めていた。
「あぐりっち。前に訊いたっしょ」
 と唐突に訊かれて訊き返す。
「何だっけ?」
「ほれ。神道で同性愛を認めるかどうか」
「ああ……」
 そんなことも尋ねたねと遠い昔のように思い出す。クリスマスイルミネーションが綺麗な季節だった。
「もしあぐりっちが男同士で結婚したきゃ、うちの神社で挙式してやんぜ」
「はい?」
 電子レンジの停止ボタンを押す。少し暖め過ぎたチキンロールは表面がパチパチいっている。
「俺もよくわかんねーんだけど。神社本庁では、日本では結婚は神話の昔から男女だってコメントしたり、各神社の判断つったり、はっきりしてないんだわ」
「神話の昔から男女って。じゃあ、ダメじゃん」
「けど、1998年に川崎市の神社が同性婚を挙げてんだわ。2023年には尼崎市の神社も」
「へえ」
「つまり各神社の裁量でやっちゃえばいいわけ。だから、あぐりっち、うちで同性婚しようぜ」
「いや。俺、相手いないし。結婚したくて訊いたわけじゃないから」
「今はいなくても。いつか相手が出来たらマジ坂上神社で挙式やろうぜ。テレビや新聞が取材に来て、うち全国的にメッチャ有名になんぜ」
 と嬉し気に高笑いする先輩である。
「ステマか?」
 笑いながら熱々チキンの皿とご飯と味噌汁を小さな座卓に揃える。座布団に正座して箸を取ろうとしたところ、
「それと、ライブよろしく!」
 出し抜けに言われてきょろきょろあたりを見回した。
「えっと……何だっけ?」
 知っているけれど、そう言ってみる。
「頼むよ。うちのバンドのライブ。今週末。来んだろ。久しぶりだから緊張してんだ」
「うん。大丈夫だよ。聞きに行くから頑張ってね」
 と言いながら、まだ小さなワンルームを見回している。もらったチケットはどこにしまったろう?
 食後、部屋中を探し回った結果、チケットはあの時下げていたショルダーバッグのポケットにチラシと共に挟んであるのが見つかった。また今週末も真柴本城市に帰省である。
 
 本城コンサートホールは本城駅からバスで十五分。老若男女で満員のバスでコンサートホールに向かう。ミソッチ先輩のコンサートがこんなに人気があるはずもないから、大ホールに有名人でも来るのだろう。
 バスの窓からシルバーメタリックのランドローバーが同じ方向に走り去るのを見かけてどきりとする。いや別にランドローバーのオーナーは田上真生だけではないだろう。いい加減に忘れろと自分に言い聞かせる。
 バスを降りてホールのエントランスに入ると案の定、人並みは大ホールに向かってぞろぞろ流れて行った。あぐりは一人で地下の音楽室に下りて行く。照明でさえ暗い地下音楽室の前では会議テーブルを並べた受付でパンクロックらしい衣装の若者がチケットをもぎっている。
 ちなみにあぐりはユニクロで買ったトレーナーやデニムを着てショルダーバッグを斜め掛けしている。本城駅に下りた時、コートを着て来なかったのを後悔した。やはりこちらの方が気温が低い。
「あ、あぐりっちさん」
 顔見知りのバンドメンバーが、チケットをもぎりながら顔を覗き込む。緑色の髪で赤いコンタクトレンズを付けてこちらを見るのは怖いからやめて欲しい。「あぐりっち」に敬称をつけるのも。
「これ、ミソッチから。年末の大掃除で見つけたそうです。いらなければ捨ててもいいって言ってましたよ」
「どうも」
 厚めの文庫本ほどの大きさの茶封筒を受け取るとショルダーバッグに入れた。
 観客は並べられたパイプ椅子の半分にも満たなかった。後方の席に老人達が座っているのは、坂上神社の氏子勢ではないかと思われた。
 ミソッチのバンドには会場のパイプ椅子など振り回す奴もいるのだが、老人達の安全のためにそれは憚るだろう。そう願いたい。
 背後の黒板には白墨で〝モッシュ、ダイブ厳禁〟とでかでかと書かれている。大丈夫だ。〝モッシュ〟や〝ダイブ〟の意味を知っている若い客も大していない。
 その数少ない若い観客は開演するなり立ち上がって拳を突き上げる。背後のジジババから「見えない」という声が聞こえたが、あぐりも日頃の憂さを晴らすべく早々に立ち上がった。
 力一杯拳を突き上げ飛び跳ねて、激しくヘドバンなどするのだった。ライブが終わる頃にはすっかり汗をかいていた。
 一階のエントランスホールに上がると、大ホールも催しが終わったようでぞろぞろと観客が出て行く。
 ガラス壁に囲まれたホールは外の様子が手に取るようにわかる。今バス停に言っても満員でとても乗り切れないだろう。自動販売機で冷えたお茶を買って、ホール片隅の飲食コーナーで一気飲みした。
 手持無沙汰にショルダーバッグを探っていると、手に当たったのは受付で緑の髪に渡された茶封筒だった。取り出して封筒の中身を広げて見る。思わず口元がほころんだ。婆ちゃんがミソッチの祖母、比呂代ちゃんに宛てた絵手紙だった。
〈また孫が生まれました。男の子です。あぐりと名付けたようです。絵手紙の先生からお祝いに伊万里のお皿をいただきました〉
 という絵手紙は実に二十五年も前のものである。葉書の隅が黄ばんでいる。色褪せた水彩画はまるで子供が描いたようだった。猿のような真っ赤な赤ん坊や、極彩色の伊万里焼の皿らしき丸が描かれている。
 葉書は十数枚あるようだが、二十五年分にしては少ない。婆ちゃんが気まぐれに送っていたからか、もらった比呂代ちゃんが適宜処分していたからか。その辺は知る由もない。
 あぐりの誕生以外にも、香奈叔母ちゃんの結婚、さおり姉ちゃんと経理事務員との結婚など家族のことや、旅行、料理など日常のことが綴られていた。年代順に並んでいるのは意外に几帳面なミソッチの配慮だろう。水彩画のみならずクレヨンやちぎり絵に挑戦した物もある。
 最後の一枚は、
〈新宿末廣亭に行きました香奈とあぐりと田上さんの四人です帰りに伊勢丹でご飯を食べてお団子を買いました〉
 という内容だった。
 いや、ちょっと待て。婆ちゃんがこの絵手紙を描いた時点で、比呂代ちゃんは亡くなって一年以上たっている。なのに御園生家は黙って受け取ってくれたのか。ありがたく思った途端に目頭が熱くなる。
 葉書には水彩絵の具で二人の男性が描かれている。一人は黒いスーツにネクタイを締めて、もう一人はトレーナーにデニムである。真生とあぐりだろう。背景には団子が散りばめられている。蜜と餡子らしい茶色と黒の串団子である。書ききれなかった文章が隅に小さく添えられている。バランスがいいとは言えない配置ではある。
〈田上さんはあぐりのお友だちです 二人がずっと仲良しだといいと思います〉
 読むうちにあぐりの視界がぼやけて来た。またぽろぽろと涙を流しながら、ぼやけた葉書を眺めていた。やがて嗚咽が止まらなくなり、背中を丸めて腕で顔を覆って泣いた。葉書を濡らさないように両手で掲げて、腕に顔を押し付けていた。
 遅いよ、婆ちゃん。もうお友だちじゃないし、仲良しでもない。
 そう思った途端に、菅野老人の言葉が思い起こされる。
「恋人に謝罪をして、仲直りをしなさい。生きている限り無理なことなんかない」
 それも程度問題だろう。あの玄関であぐりは真生に散々に喚き散らしている。おいそれと謝れることではない。
 誰かが背後にやって来たのが足音で分かったが嗚咽は止まらなかった。おそらくミソッチだろう。絵手紙を保管しておいてくれた礼を言わなければ。肩に手を掛けられて気が付いた。ヘアトニックの香りがする。
 顔を上げると、目の前にガラス壁に人影が映っていた。外はすっかり日が落ちて、ガラスは鏡になっている。手で涙を擦って目を瞬くとガラスに写る人物を見定めた。田上真生だった。絵手紙に描いてあるようなネクタイを締めたスーツ姿であぐりの肩に手をかけている。
「どうした。どこか具合悪い?」
 と顔を覗き込む真生はどことなく医師の表情だった。
 首を横に振りながら、差し出されたハンカチで顔をごしごし拭った。真生はあぐりの背後に立ったまま、大ホールの出口を振り返って言った。
「あっちゃんも落語を聞きに来たんだ?」
「音楽室……ライプ」
 とハンカチに顔を埋めたまま、また首を横に振る。
「ふうん。大ホールは新春特撰落語会だったよ。前にお婆ちゃんがここでお正月に落語会があると教えてくれたけど。ちっともお正月じゃないよな」
 あぐりは思わず吹き出して、お陰で涙が止まった。
 寄席では一月中席、二十日までは正月なのだ。その緩さが時に地方の落語会などに反映して〝新春〟や〝初春〟がいつまでも使われていたりする。三月で「新春特撰落語会」というように。そんな蘊蓄を述べた後、
「婆ちゃんが描いた」
 と含み笑いで絵手紙を背後の真生に手渡した。
 黙って絵手紙を見た真生はうつむくと、あぐりの肩にぱたぱたと涙を降らせた。自分の涙で濡れたハンカチをまた真生に返す。肩にかけられた手を握る。
 闇の中に浮かぶガラス鏡に椅子に座った男とその背後に立つ男が静かに映っていた。
 
 「家に来る?」
 と誘われて頷いた時点で別に理由はいらなかったのだが、
「あのトラ猫が戻って来たんだよ。お千代さんと梅園町に遠征していた野良猫。見に来ない?」
 と真生は言う。
 何だよそれ? とにやにやせずにはいられない。
 ホールを出て駐車場に向かう道は薄暗い。少しだけ身を寄せて歩く。
 新春特撰落語会には、かの二十人抜きの一人抜擢真打も出演していた。四人の落語家が話した演目は、真生が話す内容ですぐに見当がついた。前座が「たらちね」二つ目が「初天神」そして真打が二人「替り目」と「抜け雀」である。
「すごいな。すぐにわかるんだな」
 と真生に尊敬される。胸がくすぐったい。真生はまたしてもスーツにネクタイを締めて伝統芸能を鑑賞に来たのだった。
「正直、お婆ちゃんの追悼の意味もあったよ」
 とも言った。
「ありがとう」
 と答えてあぐりは真生の手を握ったが、すぐに放した。あぐりは婆ちゃんに「はしたない」という言葉を教わっているのだ。仮に同性愛者でなかったとしても、人前で恋人と手を繋いだり腕を組んだりはしないだろう。
 二人が抱き合ったのは国分寺町の真生の家に帰ってからだった。がらがらと音がする格子ガラス戸を開けて玄関の中に入るなり、ひしと抱き合い熱い接吻を交わした。
 玄関灯はあるが古い家は自動点灯しない。真っ暗闇の中で真生に強く抱き締められて、ヘアトニックや体臭など懐かしくも恋しい香りが全身を包む。それだけでもうあぐりは頭の芯がくらくらする。唇を強く吸い舌を絡ませ真生を堪能する。
「ごめん……」
 ようやく離れた唇の間から吐息と共に囁いたのは、今現在のことではない。けれど真生は今現在のことと受け止めたらしく、
「悪い。暗いよな」
 と身体を離して玄関を上がると明かりを点けた。
 橙色の柔らかい明かりが玄関を照らす。あぐりは恥ずかしさの余り顔を背けた。欲情に駆られて上気した自分が光の中にさらけ出されている。
 けれど謝罪は続けなければ。
「ごめん。前にここで酷いこと言った。真生さんに……」
「忘れた」
 真生はあぐりの手を取って沓脱石がある叩きから玄関の板の間に身体を引き上げる。あの時、玄関の断崖絶壁から真生を押し上げたのはあぐりだったが。そしてまた絡み合うように抱き合って濃厚な口づけを始めたところに、
「何をしてるんだい?」
 と聞こえた気がした。
 いや、座敷からやって来た千代がにゃーんと鳴いただけである。
「お千代さんと、ロブに……トラ猫にも、夕飯をやらなきゃ」
 短い言葉を真生は長い口づけの合間に切れ切れに言った。「うん」と頷いて身を離したあぐりは、足元を見下ろしてあっと思う。
「靴! 履いたまま」
 真生が指差して笑った。
 あわてて上がり框に腰を下ろすと靴を脱ぎ始めた。その横をぬうと通り過ぎて行くのは、かのトラ猫だった。ちらりとあぐりを見る大きな顔の額には〆印がある。こいつは千代の恋人なのか?
 座敷では上着を脱いで腕まくりをした真生が、千代やロブそしてトラ猫にも夕飯のカリカリを出している。台所に行き新たな水も汲んでいる。愛し気に猫を見つめる真生の目つきに何やら忌々しくなり、
「猫と俺のどっちが大切なんだよ」
 などと大胡坐で毒づく。何だこの台詞は。
 振り向いた真生はネクタイを緩めながらあぐりを睨んだ。襟から音高くネクタイを引き抜きながら、づかづかと近づいて来る。
 剣呑な気配に思わず後ずさりするが、がっつり頭を抱え込まれてまた濃厚なキスをされる。内心胸を撫で下ろし、両腕を肩に回してひしと抱きつく。脚も身体に絡ませて、何ならいっそこの場で……という気分である。
 と真生はあぐりを抱え上げ、足音も荒く寝室に運んで行くのだった。
 この態勢はまずい。非常にまずい。真生が動くたびに既に興奮している下半身に刺激が走る。だが二度と離れたくない一心で更に強く脚を絡めるから、まるでこすり付けているかのようだ。身体の中心がのっぴきならない状況に陥る。
 暗い寝室のベッドに押し倒される。真生は飽かずに唇を吸い舌をねぶりながらワイシャツを脱ごうとしている。あぐりは妙に冷静に衿のボタンを外してやる。そして自分のトレーナーも脱ぎ捨てる。互いの肌と肌がひたと触れ合う。途端に全身がざっと総毛立ち、
「はん……」
 と変な吐息が漏れてしまう。その唇をまた真生の唇が塞ぐ。頬が熱い。唇は横にそれるや首筋に下りて行き、この上もなく美味しいご馳走を味わうかのように歯を立てられる。襟元のあの位置。そこは弱いのだ。
「待っ! ちょ、真生、無理……やめっ、あっ!」
 もはや悲鳴に近い。息がひどく荒くなる。高みに昇ろうとしている。全身の血が急激に一か所に集中する。嘘だろう。あり得ない。
 気がついた真生がデニムの前立てを開けた途端、背中が弓なりになって大きく震えた。達した。服を着たまま。
 真生の手はまだあぐりのものに触れてさえいない。なのに接吻と抱擁だけでイッてしまった。早過ぎる。羞恥も極まり涙さえにじむ。
 耳元で真生が嬉しそうに、
「イッた?」
 確かめるな!
「そんなに僕とやりたかった? 待ち遠しかった?」
「うるさい!」
 と突き飛ばすつもりが何故か首っ玉にしがみついている。抱きすくめられる。どうも真生はくつくつ笑っているらしく、それもまた自尊心を傷つける。荒い息のまま腕の中でもがくも身体はきつくホールドされている。
「僕のあれが嫌で別れたのかと思った」
 と、よくわからないことを言っている。
「あれが嫌?」
「お婆ちゃんのことだけで、あんなに急に連絡がとれなくなって、機種変までするのは変だと思って……」
「……セックスが気に入らなくて別れたと思った?」
 すっかり脱力して真生の顔をまじまじと見る。
「それも理由の一つかと」
 目をそらす真生である。さすがに手紙には書けず一人で悩んでいたのかと思えばいじらしいが、
「バカじゃないの?」
 冷たく言ってあぐりは濡れた下着と共にデニムを脱ぎ捨てる。ついでに真生のズボンも下着も剥ぎ取る。
 舌なめずりすると、すっかり猛っているそのバカのものをやわやわと撫でさする。ちょいと切ない吐息が聞こえる。
「真生さんこそ、俺がいない間、浮気しなかった?」
〝何だこの台詞は〟第二段。真生は真面目に首を横に振る。
「あっちゃん以外の誰と何をするんだ?」
 と言う口に音をたててチューをする。
「こういうこと。誰かとしなかった?」
「してない」
「じゃあ、こういうことは?」
 にわかに激しく真生のそれを擦る。掌を淫猥に捻っては動かしている。
「あっ……ちゃん……」
 吐息が漏れないように堪えている顔も愛おしい。眉間の縦皺を舌でなぞってみる。そして堪え切れずに喘ぐ唇に唇を寄せて、
「俺はずっとこうしたかったのに」
頤、首筋、鎖骨、乳首から臍へとゆるゆる舐め下ろす。そして真生自身に口づけする。
「あれが嫌とか思われてたなんて……ショックだな」
 と見上げると真生は泣きそうに切羽詰まった顔をしている。
 少しばかりさっきの復讐心もある。手を添えて唇も舌も歯さえも駆使して思い切りいたぶる。
 
……そうして、烏カアで夜が明ける。

 
 いや、夜明け前にあぐりはにわかに飛び起きた。勢い余ってベッドから床に転げ落ちた。
「あっちゃん?」
 と問う声が誰のものだかわからない。心臓は恐ろしいほどにどくどくと鳴っている。
「あっちゃんがいないんだよ。誰かあっちゃんを見なかったかい?」
 と婆ちゃんがまた暗闇をさまよっていた。
 目を覚ましても室内は真っ暗である。
「帰らなきゃ……」
 動悸が治まらないまま身を起こした。
「どうした? あっちゃん」
 上から伸びた手が身体に触れる。荒い鼓動を確かめるかのように掌が胸に触れている。促されてベッドに這い上がる。
 気がつけば自分は本城一高の体操服を着ている。胸に「三年四組田上真生」と名札が縫い付けられているのが手触りでわかる。
 一瞬、自分がどの時空間にいるのかわからなくなりまた動悸が激しくなる。レモンメレンゲパイのあの後に戻った? ならば今すぐ婆ちゃんを安心させに帰らなきゃ。
 隣室で小さくみゃおんと猫の声がした。
 背中に真生のぬくもりが密着する。後ろから回された腕があぐりの身体を抱え込んでいる。
「お千代さんは時々寝言を言うんだよ」
 ふふふと笑うから、真生の身体は揺れている。
 そうとも。ここは真生の家だ。覚えているとも。
 昭和チックな家は風呂場のタイルも懐かしい水玉模様だった。二人で風呂に入ったのだ。そうしてまた真生の体操服を着たのだ(どんだけ物持ちがいいんだ?)。
 寝室のシングルベッドは二人で寝るには狭すぎる。折り重なるように眠ってもちょっと寝返りを打てばすぐ床に落ちてしまう。
 それだけのことだ。別に不吉なことなど起きていない。自分に言い聞かせながらも、小刻みに震えるのは止まらない。
「今度は誰が死ぬのかな?」
 思わず口をついて出た。真生の息使いや鼓動が背中から伝わって来るにつれ、たとえようもない不安が襲って来る。静まりかけた鼓動がまた激しくなる。
「二人でこんなことしてて……また何か起きたらどうする?」
「何か起きたら?」
「婆ちゃんは死んだ。二人でいたから、だからきっと……」
 にわかにあぐりは振り向いた。暗闇に見えるのは真生の影だけである。
「ねえ。今度は誰が死ぬの? 叔母ちゃん? まゆか姉ちゃん? それとも……」
 真生の両手があぐりの背中をゆるゆると撫でている。砂浜に押し寄せる穏やかな波のような動きである。
「名前を言って」
 質問の意味がわからない。反射的に、
「真生さん?」
 と答えると密着した身体が揺れる。くすくす笑っているらしい。
「私じゃない。自分の名前を言って」
「篠崎あぐり」
 それだけではいけない気がして訊かれていないことまで喋る。
「あぐりっていうのは余計な子供に付ける名前なんだ。俺は末っ子でいらない子供だったんだ。だから婆ちゃんはいつも……」
「あっちゃんと呼んでいたね。だから私も、あっちゃんと呼びたい」
 見えない中で、真生の顔を見上げた。意味を知っていたから〝あっちゃん〟だったのか。少し鼓動が落ち着いて来る。自分から真生の身体に両手を回す。
「昨日の落語会の演目、もう一度教えて」
 耳元でキスするように囁かれる。
 覚えているとも。昨日は本城コンサートホールにいた。婆ちゃんの行けなかった〝新春特撰落語会〟に行ったのは真生だけで、自分はすっかり忘れていた。やっぱり罰が当たるのではないか? 
「演目」とまた促されて、記憶を手繰る。
「開口一番が「たらちね」それから「初天神」「替り目」トリが「抜け雀」」
「トリは二十人抜きの抜擢一人真打だろう?」
 暗いけれど顔を覗き込まれている気配がある。なので黙って頷く。
「あれ、やって。昨日やってくれた。そもわが父は……だっけ?」
 と真生が促すのは、昨日コンサートホールからここに来るまでの車中で諳んじてみせた「たらちね」の言い立てである。
「そもわが父は京都の産にして、姓は安藤、名は慶三、字を五光。母は千代女と申せしが我が母三十三才の折、ある夜丹頂の夢を見てわらわを孕めるが故、垂乳根の胎内を出でし時は鶴女。鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め……」
 指先で口元を塞がれる。
「清女と申し侍るなり」
 と真生が締めた。そして、
「気づいた?」
 とおでこをくっつけて来る。ぽかんとして説明を聞いた。
「お千代さんの母親猫はお清って言ったんだ。これを聞くまで気がつかなかったけど、清女と千代女。お婆さんは「たらちね」の登場人物から猫の名前を付けたんだ」
「ここのお婆さんて落語が好きだったの?」
「うん。当時の私は全然興味がなかったけど。知りたいと思った頃にあっちゃんに出会って……教えてもらえて嬉しかったよ」
 あぐりはようやく口許が緩んだ。猫がするように真生の肩口に額をすりすりして目を閉じた。
 その後また眠ったらしい。
 今度こそ、烏カアで夜が明けた。
 

【第8話に続く】全8話

猫と愛してるのあ 第8話 | 

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