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猫と愛してるのあ 第4話

  8

 何やら風が冷たいと気がついたのは本城三叉路に来てからだった。濡れたあぐりの服は風に晒されて、身体まで冷やしている。
 振り返って見れば乾いた空に〝月の湯〟と描かれた煙突がそびえ立っている。銭湯はもう開店しているだろう。客も少ない時間帯だろうから、入浴してべたべたしたクリーム汚れを落としてしまおう。
 踵を返した途端に、
「あぐりくーん!」
 ばたばたと駆け寄って来る足音がした。三田村さんが後を追って来たのだ。手にはあぐりがその存在すら忘れ果てていたジャケットやバッグが握られている。
「信じらんない! あの人たち、始めからあんなことするつもりでレモンメレンゲパイを注文したのよ!」
 銭湯に向かうあぐりについて歩きながら、三田村さんは怒り狂っている。
 思い返せば、みんなの軽口は「乗る」だの「後ろ」だの、とうにあぐりがゲイだと気づいていたではないか。襟首タオル先輩も、森くんも林くんも。そして江口主任はふられた腹いせにあぐりを売ったのだろう。たとえばロッカー室で無理やり迫られたとか言ったのかも知れない。
 ノンケの男どもと一致団結するために。同性愛者という薄気味悪い存在を共通の敵にして男どもは友情を確かめる。嗚呼、仲良き事は美しき哉。
 月の湯の駐車場にシルバーメタリックのランドローバーが停まっていた。その車の横を通り過ぎて、銭湯の入り口に行く。けれど扉にはシャッターが下りていた。
「ウソウソ! 今日は臨時休業だって」
 と三田村さんがシャッター横の貼り紙を指差している。あぐりは呆けたようにただその文字を眺めていた。
「家に寄ってお風呂に……」
 と言いかけて、にわかに三田村さんは明るい声になった。
「あらら、久しぶりじゃない。忙しいんじゃなかったの?」
 駐車場の隅の空き地ではプラスチックの皿を何枚も広げて、猫の餌を配っている男性がいる。
「里生が風邪で寝込んで。代りに来ました」
「やだやだ。里生ちゃん大丈夫なの?」
「もう殆ど治ってますけど。季節が変わると決まって熱を出すんですよ」
「ならいいけど。そうそう。黒猫は元気なの?」
「お陰様で。全然人見知りしないですよ」
 聞き覚えのある声が会話をしている。ぼんやり二人を眺めていたが、それが誰なのかどうしても思い出せなかった。
 男性は野良猫たちが皿に顔を突っ込んで食べるのをひとしきり眺めてから、たった今気がついたとばかりに「やあ」とあぐりを見やった。
「はあ……」
 この人は知っている。けれど今が今、知りたくない。
 あぐりの心はもはや冷え固まった火砕流である。その下にあったはずの優しい心も愛しさも焼け焦げて見えない。
「あらら? 田上さん、あぐりくんと知り合いだった?」
 尋ねる三田村さんに、田上真生はこの上もなく嬉し気な笑みを浮かべるのだった。実はあぐりが熱で倒れた時の配送先が自分の家だったと話して聞かせている。
「やだ、うそ。世界は狭いわね。そうだったんだ」
 話の合間にこちらを見る真生の顔ときたら、まるで遠足に出かける朝の男の子である。疑いのかけらもない期待に輝く瞳である。その眩しさにあぐりは思わず目を逸らした。

 三田村さんが家の風呂を提供すると申し出たのを真生は我が事のように断わって、あぐりを国分寺町の実家に連れて来た。ちなみに三田村さんはその場に残って保護猫の食事の後片付けをするとのことだった。
 国分寺町とは、かつてあぐりが三毛猫を捕まえて本城駅裏に走った因縁の町である。ランドローバーは件のアオキの生垣のある家を通り過ぎて隣の家の前に停まった。田上家は新建材で建てられた四角い箱のような家である。隣の昭和チックな木造平屋建てとは異なり、明らかに平成の建築だった。
 真生に促されて玄関を入るとカレーの香りが漂っていた。
 目の前の階段から三毛猫がしずしずと降りて来る。玄関に入ったあぐりを睨むようにして歩を進めている。ボブテイルがぴこぴこと間断なく動いているのは用心している証拠である。
 あぐりは思わず飛びすさった。
「これ……前に連れてった猫。俺の手を引っ掻いた……」
 真生の背中に隠れるように立つ。左手の甲には引っ掻き傷が白い線になって残っている。
「あの時の三毛猫、お千代さんだったのか」
「お千代さんて?」
「隣の猫だよ。あのアオキの垣根がある家。里生が引き取って……」
 説明しかけたところに、
「ドア閉めて! またお千代さんが逃げる」
 と強い命令口調が飛んで来た。真生はあわてて扉を閉ざし鍵まで掛ける。
猫に遅れてパジャマの上にカーディガンを羽織った女性が降りて来た。黒々としたボブヘアだが、後頭部の髪だけあちこち飛び跳ねている。
「お邪魔します」
 あぐりは礼儀正しく頭を下げたが、
「お千代さん。夕ご飯にしようね」
 女性はまるで構わず三毛猫を抱き上げて奥に行こうとしている。
「いや。熱は?」
 強引に真生が女性の額に手を当てて「まあ、いいか」と勝手に納得している。既視感のある風景である。あの掌が冷たかったことは覚えている。
「妹の里生。双子なんだ」
 真生が紹介する。なるほど真生の小型版と言いたい程よく似ていた。里生は「病人にカレーってないでしょう」とぼやきながら猫と共に立ち去り、あぐりも上がり框で脱いだ靴を揃えるふりで顔も上げなかった。
 あぐりはどうにもうまく現実と寄り添えないでいた。主任の家を辞した後は本城駅裏のアパートを訪ねる予定だった。だから偶然にも真生と出会えて嬉しいかといえば、そんなことはない。せっかくのおしゃれシャツもチノパンもべとべとに汚れているし。
 真生も週末に休暇をとったが、妹が熱を出したので保護猫活動の代理を引き受けたという。これまでに見たことのない家庭的な姿にときめいてもいいはずが、あぐりは何の感慨も浮かばない。レモンクリームに感情が遮られているかのようだった。どう動いて何を言えばいいのかわからないのだ。
 玄関からいきなり風呂場に案内されて身体を洗った。既に風呂は沸かしてあった。ぼんやり湯船に浸かっていると、
「汚れた服は洗ってるから、乾くまでこれでも着ていてくれ」
 と声をかけられる。もちろん真生は、あの男とは違うから話しかけるふりで風呂場を覗いたりしない。
〝あの男〟って誰だっけ? 思い出さなくてもいい男である。
 貸してくれたのは体操着だった。胸に本城一高と刺繍があり「三年四組 田上真生」という名札も縫い付けられている。紺色のジャージの上下。ズボンの横には白い線が二本入っていた。あぐりには少し大き目で、袖口も裾も折って着た。
 玄関を入った時から匂っていたカレーは、カウンター式キッチンで真生が作っているものだった。あぐりが風呂から上がって食堂に行ってみると、妹の里生が食べ終えた食器を洗っているところだった。
「病人にカレーってあり得なくない?」
 とまだ言っている。
「お粥は嫌だって言ったのはそっちだろう」
「レトルトが嫌なの。他にあるでしょうに」
「僕はカレーしか作れないんだよ」
 まるで漫才のように言葉のテンポが合っている。抑揚もリズムが奇妙に似ている。話しながら真生は手を休めることはなく、二人分のカレーやサラダをテーブルに並べている。
「どうせ送った野菜も開けないで腐らせてるんでしょう」
「別に腐らせてない。ちゃんと医局でみんなに配ってる」
「ママに言ってるのに。真生は受け取る暇もないんだから送ってもしょうがないって」
「悪かったよ。なるべく返送にならないように再配送してもらってる」
 定期的に送られる田上姓が発送元の荷物のことらしい。
「足軽運送のドライバーさんだよ」
 と、ついでにあぐりを紹介するが、妹は見事にスルーする。
 家族の会話を聞き流し、あぐりはただ促されるままにテーブルでカレーを食べるばかりだった。
 市販のカレールーで作ったのだろう。黄色くどろりとしたカレーだった。大き目に切ったにんじん玉ねぎじゃが芋がごろごろ入って、福神漬けも添えられている。婆ちゃんもこんなカレーを作って、上に固ゆで卵を輪切りにしてのせてくれる。
 真生の体操着を着てちんまり座ったあぐりの隣に真生が座る。
「二階に行くよ、お千代さん」
 と猫に声をかけながら里生はちらちら真生とあぐりを見比べていた。多分、今日でなければ気づかなかったろう。思わず椅子から腰を上げたところを、
「どうぞ。ごゆっくり」
 と手で座るように促して里生は食堂を出て行った。
「何?」
 まだ立っているあぐりを真生が見た。すとんと椅子に腰を下ろして、スプーンを動かした。機械のように皿の物をすくっては口に運ぶ。その合間に言ってみる。
「妹さんは知ってるの?」
「何を?」
 カレーの皿が空になったら、サラダももしゃもしゃ口に詰め込む。
 ようやく気づいたらしく唐突に真生が言った。
「私は家族にカミングアウトしている」
 少しぞっとする。遠くの方で「ホーモ! ホーモ!」「おかま!」と囃し立てていた声が蘇る。里生が二人を見比べていた目つきは、彼らのものと似ていた気がする。
「ごちそうさま。俺もう帰る」
 今度こそ立ち上った。
 面食らっている真生を残して「荷物は?」と風呂場にとって返した。乾燥機の中で回っている服を手を束ねて見ていると、何やら玄関の方が騒がしくなった。
「ええ? 何で」
 と声を上げているのは里生である。
 そっと玄関に行ってみると、里生や真生がスーツケースを持った男女を迎えている。おそらく両親だろう。
「向こうは大雪だそうだ。羽田から飛行機に乗って新千歳空港の上空まで行って、何時間も上空を旋回して、結局着陸できないで戻って来た」
 不愉快そうに靴を脱いでいるのは父親だろう。
「一日中飛行機に乗っててどこにも行けないんだから」
 ため息まじり母親も玄関を上がる。
 真生によく似た硬い髪に白髪が混じった父親は、ちらりとあぐりに目をやり、
「これもアレか」
 吐き捨てるように言うと奥に立ち去った。一瞬のその目つきはまるでゴキブリか蛆虫でも見るかのようだった。
「私の客だ。何だその言い方は」
 低い声で真生が腹の底から唸るように返した。
 夫が脱ぎ散らかした靴を揃えていた母親が、
「いいから。真生はもうアパートに帰るんでしょう」
 と飛んで来て息子の腕を引いている。
「客に対する礼儀はないのか!」
 怒鳴りながら父親の後を追う真生を、母親や妹が全力で遮っている。
 あぐりは、静かにやって来た三毛猫が完全に閉まり切っていない玄関ドアの隙間からするりと外に出て行くのを見た。
「猫が出て行くよ」
 誰にともなく言うと「えっ⁉」とサンダルを突っ掛けて外に飛び出したのはパジャマ姿の里生だった。
 真生は母親を押しのけて奥に父親を追っていた。リビングで父子が何か怒鳴り合っているが、あぐりはただ棒立ちになっていた。頭が声を言語として認識するのを拒否していた。
 主任の家で「ホーモ! ホーモ!」と囃し立てていた男どもの声がまた蘇る。結局のところ真生の父親が息子に対して怒鳴っているのも似たような内容だった。
「親を旅行に追い出して、薄汚いホモを家に引っ張り込んだのか! どういう神経をしてるんだ」
「あなたってば。真生も里生も銀婚式のお祝いに旅行をプレゼントしてくれたのよ」
 と母親は夫と息子の間に立って、争いが言葉以上になるのを防いでいる。
 全く唐突にあぐりは叫んでいた。
「悪かったよ! ごめんなさい! ホモなのに人ん家に上がり込んで」
 レモンメレンゲパイを投げ付けられて以来、感情には薄い膜が張っている。だから言葉がどこから湧いて来るのかも知れないが、リビングの戸口に直立不動になり拳を握って叫んでいた。
「気に入らないならレモンパイぶつければいい! カレーぶっかけてもいいよ! 薄汚いホモで悪かったね!」
 父親の胸倉を掴まんばかりにしていた真生は、その形のまま固まってあぐりを見た。
「でも、真生さんは、真生さんは……。父親がそんな言い方ないだろう! 親が、家族が味方しなかったら、誰がいるんだよ。レモンパイぶつけられた時に誰が庇ってくれるんだよ⁉ 真生さんは何も悪いことしてない。なのに、何で家族がそんな風に……」
 喉が裂けんばかりの大声で怒鳴り散らしていた。乾いていない洗い髪から水滴が飛び散り、泣いてもいないのに涙を流しているかのようだった。
「いい。やめろ! 悪かった。連れて来て悪かった!」
 あぐりの視界が遮られた。真生が全身でその姿を父親の視界から隠そうとしたからである。それでもあぐりの言葉は途切れることなく続いた。
「男と女でマンコするのがそんなに偉いのか⁉ マンコ出来ないからって何でみんなしてレモンパイなんか……」
「マン……マン……」
 と、さすがに言葉を失っている父親である。
「いいから。ごめん。帰ろう」
 真生はあぐりを強引に抱え込んで玄関を出た。けれど、あぐりの言葉は止むことのない永久機関のように続いていた。
「女を孕ませられないのが悪いかよ⁉ だから真生さんは産婦人科医になったのに。そこまで気を使ってるのにノンケは平気でホモを馬鹿にして! ただ多数派に生まれただけなのに、何でそんなに偉そうに自信満々で人を馬鹿にする⁉ 好きでこうなったわけじゃない!!」
 壊れた人形のように喚きながら真生にランドローバーの助手席に担ぎ上げられた。罵りながらも泣いてはいなかった。
 むしろ涙を流しているのは真生だった。あぐりのシートベルトを着けている間も声を殺して泣いていた。
 隣のアオキの生垣の中では里生の声がしていた。
「お千代さん。いるの? いるんでしょう。お千代さん」
 とてつもなく優しい声だった。
 真生が運転席に乗り込んでエンジンをかけると妹の声は消えた。車のライトが隣家を照らし出す。
 家屋の横に立っている柿の木に猫の瞳が光っていた。三毛猫である。そろそろと木の枝を伝って瓦屋根に近づこうとしている。
 屋根の上にも猫がいた。巨大なトラ猫である。額に〆印のあるヤクザじみた猫。やがて二匹は寄り添って車を見下ろすのだった。
「あそこがお千代さんの本当の家だから」
 何の脈絡もなくそう言うと、真生はアクセルを踏もうとした。
「待って! これを持って行きなさい、真生」
 何やら詰め込んだ手提げ袋を抱えて母親が車に駈け寄って来た。まだ助手席のドアを閉めていなかったあぐりに、
「あなたの服やバッグでしょう。まだ乾いてないけど」
 と押し付けた。
「嫌な思いをさせてごめんなさいね」
 と床に揃えてスニーカーを置いた。抱えられて来たから玄関に置きっ放しだったのだ。
 いつもなら常に愛想のいいあぐりが、もう何の反応も出来なかった。黙って靴に足を突っ込んだ。そして手提げ袋を抱いてドアを閉めた。真生は黙って車を発進させた。

 道はいくつかあったのだろう。
 まっすぐ自宅に連れ帰ってもらう。
 このまま真生のアパートに行く。
 だが、あぐりが言ったのは「コーヒーが飲みたい」だった。
 焙煎珈琲の店、黑河でカウンターに並んでコーヒーを飲んだ。
 あぐりはまた新しい種類のコーヒーを試した。今回は酸味がかなり抑えられた甘味のある物だった。そして訊いたのは三毛猫のことだった。
「お千代さんて、里生さんの猫じゃないの?」
「もともとは隣の家の猫だった」
 田上家があの地にマイホームを構えたのは真生と里生が小学校に上がる年だったという。その頃、アオキの生垣がある隣家には老夫婦が住んでいた。子供がいない夫婦は双子を我が子のように可愛がってくれた。
 やがて老人が亡くなり、一人暮らしになった老婦人は猫を飼い始めた。その猫が産んだのが千代やリリカだった。
「え、リリカとお千代さんは姉妹なの?」
「そう。私たちが高校に入学した年だ。お千代さんは隣のお婆さんが飼って、リリカは家で引き取った。ほとんど里生の猫だったけど。猫ベッドも里生の部屋にあったし」
「なら、何で真生さんが大学に行くのに東京に連れてったの?」
「さあね。里生はわりと心配性だから」
「何を心配したわけ?」
 真生は黙ってコーヒーを飲み干した。先ほど泣いたせいか目が真っ赤になっている。
「隣の家に柿の木があったろう。そこにぶら下がったことがある。ロープを首に掛けて……」
 カウンターの下で真生の膝にそっと手をのせる。千代にひっかかれた傷が残っている左手である。そして、
「何で?」
 と尋ねるのに真生は、口の端を上げて首を傾げた。
「カミングアウトしたのは高校二年の二学期が始まってすぐだ。家ではあのザマで……学校でも結構な目に遭って……」
 真生には隣の家のお婆ちゃんだけが救いだったという。下校すると自宅には帰らずまっすぐ隣家に行った。千代と遊んだりお婆ちゃんとお茶を飲んで話したりした。勉強もほとんど隣の家でしたという。だが、ある夜ふとクライミングロープを携えて隣の庭に忍び込んだ。
「柿の木というのは枝が折れやすいそうだ。すぐに折れて……お千代さんにワーワー鳴かれて参ったよ。お婆さんやうちの親も飛んで来て……」
 テーブルの上から真生の右手が下りて来た。膝の上にあるあぐりの左手に手を重ねる。あぐりは掌を返して指を絡ませた。
「それで、一人で東京に行って何かあったらと思ったんだろう。里生は東北の大学に行ったけどリリカは貸してくれた。わりと正解だったかもな」
「猫って撫でてると何だか落ち着くよね」
 真生は笑って頷いた。
「三年前にお婆さんは亡くなって、隣はずっと空き家のままだ。お千代さんは家で引き取ったよ。でもやっぱりお婆さんの家がいいんだな。ああやって家を抜け出しては隣の家に行っている」
「ごめんね」
「何が?」
「リリカのこと……亡くなった時、たかが猫とか思ってた」
 真生はまた笑った。
「たかが猫だよ。それに意味を与えるのは人間だ」
 にわかにけたたましくドアを開けて女性が飛び込んで来た。
「マスター、出来てる?」
「苦めのを濃く入れておいたよ。夜勤だろう」
 マスターがサーモスタンブラーを差し出している。どこかで見たような光景である。女性はそれを受け取って帰りかけたが、
「田上先生!」
 真生を二度見した。
「北海道じゃ? ご両親の銀婚式のお祝いで家族旅行って。だから電話しなかったのに。いるなら来てくださいよ」
 何だそのわかりやすい嘘は。両親を北海道旅行に送り出したついでに自分もそうであるかのように偽ったのか。呆れて真生を見れば、見事なまでに慌てふためいている。もう残っていないコーヒーカップを持ち上げて飲むふりをしたりソーサーに置いたりした揚句、
「今日、今日は絶対に休みだって言ったじゃないか。何があっても出ないぞ」
「だって、こないだの患者さん。やっと産気づいたんですよ。田上先生じゃないと無理です」
 真生はあからさまに女性から顔を背けようとしているが、あぐりはその腕をつついた。
「行ってあげたら? 俺は先に部屋に帰ってるから」
「でも……明日まで帰れないぞ」
「いいよ。だって真生さんは、それぐらいしなきゃ神様に申し訳ないんでしょう?」
 少しばかり嫌な顔をして真生はあぐりを見やった。そして立ち上がると、
「明日の帰りも遅くなると思うが……勝手に寝ててくれ」
 とサーモスタンブラーを持った女性と共に店を出て行った。
 コーヒーを飲み終えて黑河を出ると、あぐりは牧原産婦人科クリニックの方向に目を向けた。ここからは見えないが走って行けば十分程で着くはずである。
 ああ、やっぱり好きなんだ。
 まるで嘘がへたで、正直さの余りにカミングアウトしてしまう田上真生が。あぐりの意志を尊重してくれる、後頭部の髪がつんつん立っている、そんな田上真生が好きなんだ。
 そう思えば笑うことが出来る。レモンメレンゲパイの脂分が遮っていた気持ちがやっと心に寄り添った。

   9

 真生の部屋では黒猫のロブが待っていた。もう慣れているから玄関に入るとやって来てあぐりの脚に額を擦りつける。額から出る匂いをお気に入りの物につけているのだ。
 真生の母親に持たされた手提げ袋を床に置くとそれにも額を擦りつけている。
「いい子でいたか、ロブ?」
 部屋に上がると明かりをつけた。猫の餌皿には山盛りのドライフードが盛ってある。今夜のように突然帰れなくなった時のために、餌は多めに置いてあるという。敷き詰められたホットカーペットが暖かいのは、夜から朝にかけて点くようにタイマーセットされているのである。
 温もっている床に腰を下ろして室内を見回すと、随分と整理整頓されている。机の下に重なっていた段ボール箱も片づけられている。思わず「ははは」と声を出して笑ってしまう。
 大掃除をしたのだろう。あぐりを迎えるために。朝早くからうきうきと掃除をして、それから妹が熱を出したと連絡を受けて実家に走ったに違いない。多分あの妹は保護猫の世話を代理でして欲しいと頼んだだけのように思う。なのに真生は唯一出来る料理のカレーを作ってやり、月の湯に出かけてあぐりに出会った。
 充実した休暇ではないか。あぐりとはあまりに違う様相に何故だか笑いが止まらない。ひくひくと腹を痙攣させながら寝転ぶとロブがやって来て脚の間に横たわった。顎を脛に乗せて落ち着く。
 隣の寝室もさぞやベッドに真新しいシーツが敷かれているだろうが今は覗く気になれない。いつものようにクッションを枕に毛布を被って眠りにつく。ずぶずぶとまるでレモンメレンゲの中に沈み込むような睡眠だった。

 目が覚めると窓の外から雀の鳴き声がした。近くの本城駅から電車が動く音がごとごと響いて来る。這いずって隣室の襖を開けて見る。真っ暗な寝室にはベッドばかりが鎮まり返っている。
 結局、真生が帰宅したのは正午に近い頃だったらしい。あぐりが昼食を買いにコンビニに出かけて帰ってみると玄関に靴が脱ぎ捨てられていた。いつもの習慣でそれを揃えて並べてから寝室を覗くと真生が眠っていた。
 疲れ果てた様子で熟睡している。うっすらと髭が伸びているのも、眉間に皺が刻まれているのも敗軍の将さながらだった。仕事はあまり良い結果ではなかったのかと想像する。
 ベッドの傍らに座り込んで寝息に耳を傾け、寝顔を堪能する。眉間の縦皺に指先で触れてみたが「んん」と呻って手で払われただけだった。
 真生がにわかに身を起こしたのは、一般的な飲食店のランチタイムが終わる時間帯だった。
「腹が減った」
とシャワーを浴びて身支度をしている。
「もうお店はランチタイム終わってるよ。コンビニおにぎりを買ってあるから……」
 と声をかけるも「いいから」と真生は強引に出かけようとしている。
 あれ? と思い出す。そう言えば、出会った頃は命令口調の偉そうな奴だった。別にそれは今も変わってないのだ。
 先に立って玄関で靴を履いていると、上着を羽織りながら真生が来た。上がり框から下りようとしている姿に、ドアを開けるのをやめてにわかに振り向いた。
「待って」と上にいる真生の首っ玉にしがみつくようにしてキスをする。面食らっている真生に、
「こないだの続き」
 へへっと笑って見せる。
 むっとした表情の真生に、怒らせた? と案ずる間もなくきつく抱きしめられ、もっと濃厚なキスを返される。たった今使ったアフターシェーブローションの香りがあぐりを包み、悩ましさにくらくらする。
 悶えるような両の手で逞しい腕や肩に触れずにはいられない。真生はあぐりを痛いほど強く抱き寄せて、玄関から部屋に抱き上げようとしている。
「靴! 待って待って待って」
 叫べばすぐに力をゆるめる真生である。
 玄関を上がってから靴を脱いだのは以前にも覚えがある。靴を脱ぐと上着を剥がされながら寝室に誘われる。
「昼飯は?」
「後でいい」
 と言いながら、着たばかりのジャケットもシャツも脱ぎ捨てている真生である。あぐりとて洗って皺だらけのボタンダウンのシャツを脱ぎ散らかしているのだが。
 居間の猫ベッドで眠っていたロブが、ちらりと顎を上げたが寝室に消える二人を興味なさそうに眺めるとまた目を閉じた。

 烏カアで夜が明けて……
 落語で色っぽい場面の際よく使われる台詞である。
 だが今は昼過ぎである。
 昼下がりの情事。

 荒い息がまるで静まらないまま、あぐりは口元をゆるめて笑わずにはいられない。頬を寄せた真生の鼓動も同じようにまだ荒ぶっているのだ。「もう一回」と呟いたのが誰かは知らないが、ぐうと大きく応えたのは間違いなく真生の腹の虫だった。
「すまん。飯に行こう」
 と起き直る真生に、
「一回じゃ足りない」
 とか何とか言っている。この台詞を言うべきはこの凶悪顔で高圧的な男ではなかったのか? あり得ない。
「帰ってから……」
 と身支度をしながら真生も満更ではない笑みを浮かべていた。

 夕暮れの町を並んで歩く。案内されたのは駅前にある老舗の洋食屋だった。ごく気楽な店でギンガムチェックのクロスがかかったテーブルにフォークやナイフ以外に割り箸も置いてある。
 あぐりはナポリタンの目玉焼き添え、真生はハンバーグ定食にまたビールを付ける。
 あぐりが手を出すのを断わり、真生は自分で丁寧にグラスにビールを注いでいる。真っ白で細かい泡が立っている。
「俺はちょっとでいいから」
 とグラスを差し出して注いでもらう。
 白い泡に蓋された琥珀色の液体が健啖家の口中にすいすい飲み込まれて行く。そうしてグラスを空けるまでの流れが真生には楽しくてたまらないようである。だから他人にビールを注がれたくないと言う。
 あぐりはといえば、その様を見つめるのが好きなのだ。目で促されて注いでもらったビールを持ったままなのに気づき、あわてて吞む。
「真生さんて三度三度ちゃんと腹が減るんだね」
「そう言うあっちゃんは飯を抜いてるんじゃないか? 痩せ過ぎだ」
「別に……」
 言い訳しかけて思わず頬が赤らんだのは〝痩せ過ぎ〟という言葉につい先程までの痴態が思い起こされたのだが。
「べ、別に食べてるけど……婆ちゃんのことや、会社のこととか、いろいろあって何だか面倒になって」
 そんな心を知ってか知らずか、真生はナイフとフォークでハンバーグを切り分けながら、
「三田村さんが言ってたけど……」
 ちらりとあぐりの顔を見る。
「会社の人達に、ひどいことをされたとか」
 ひょうと風が吹いて心が異次元に飛ばされそうになる。でも飛ばされやしない。身体にはまだ愛の余韻が残っているし。
「いやなら話さなくてもいい」
 健啖家の口中にハンバーグは次々に飲み込まれて行く。
「真生さんて三田村さんと知り合いだったの?」
 とビールを呑みながら違うことを言っていた。
「元々は里生の知り合いだ。あいつは大学で保護猫活動を知ったらしい。本当ならリリカを連れて行きたかったんだろうに……。こっちに戻ってから地元の団体に入った」
「ロブも三田村さんとこの保護猫だったの? 耳にV字のカットがあるし」
 頷いて真生はあぐりの皿を示すと「食べて」と促す。仕方なく割り箸で目玉焼きをつつく。やっぱり卵ラブである。
 そして江口主任の誕生パーティーにおける仕打ちについて話して聞かせる。まるでニュース原稿を読むアナウンサーのように淡々と事実のみを並べた。
 真生がフォークで口に運ぼうとしていたライスがぽろりと皿に落ちた。見れば真生はうつむいて震えている。チェックのテーブルクロスにぱたりと落ちたのは涙だった。
「何で?」と首をかしげたのはあぐりで「何で……」と言葉に詰まるのは真生である。
 また泣かせた……と思いながら紙ナプキンを差し出す。そして、
「ねえ、食べちゃおうよ」
 今度はあぐりが促すのだった。
 ついでに自分のナポリタンの半分を真生の皿に取り分けた。
 紙ナプキンで顔をこすると真生はわしわしと食べ進む。丈夫そうな顎が食物を咀嚼する様を眺めるのは楽しい。自分もケチャップ色の麺を箸で摘んでは口に運ぶのだった。

 後になって考えればこの週末、地獄のような土曜日と極楽のような日曜日は、あぐりにとって忘れ得ぬものだった。川底にきらきら輝く砂金のような時だった。二十五年間の人生を凝縮したとてこの短い時間にかなうものではない。
 二人が洋食屋を出たのは辺りが夜の闇に包まれる頃だった。晩秋の日曜日である。本城駅前コンコースに人は多いがどことなく週末が終わる寂しさが漂っていた。
 喜びに満ち足りて歩いているのはあぐりと真生だけに思えた。部屋に戻ってまた睦みたい気持ちと、いつまでも話していたい気持ちが平行線で、並んでひたすら歩き続けた。
 照明でまばゆい駅二階のコンコースを降りると暗い道を探して、またしても駅裏の迷宮をめざしているのだった。
 田上真生の意識高い系高校生活について聞いたのはこの時である。真柴本城市内のLGBTQ団体に属したのは高校生の頃だったという。大学生も社会人も属する団体である。ここで学び活動した真生は(初体験の相手もここで見つけたに違いない、というのはあぐりの邪推である。何せあぐりの高校生活は出会い系サイトで淫欲まみれだったから)、迷うことなく家庭や学校でカミングアウトした。
「その結果が……あれだ」
 と肩を抱かれる。
「父が失礼なことを言ってすまなかった。謝るよ。嫌な思いをさせて悪かった」
 あぐりは首を横に振ると、真生の腕から抜け出た。一人でけんけんぱのふりをしながら先を行く。いかに真柴本城市の新宿二丁目とはいえ、男同士で肩を組んで歩くのはまずかろう。真生の勤め先も近いのだ。
「結局一人のことじゃ済まないんだ。里生とは高校までずっと一緒だったから……何も言わなかったが、からかわれたりいじめられたりしたらしい」
「本城一高でしょう?」
 あの体操着にも書いてあった。この辺で最も偏差値の高い高校である。真生は頷いて、
「だけどずっと里生の方が成績が良かった」
「どっちにしても本城一高だもん。俺の真柴高校とはレベルが違うよ」
「あいつは生理痛がひどくて、毎月寝込んでは何日も欠席した。私のせいでストレスが多かったせいかも知れない」
 けんけんぱ。で振り向いた。
「うちもまゆか姉ちゃんがいつも寝込んでたよ。明日香姉ちゃんは平気だったけど」
「ああ……言ってたな」
 と、顔を直視されてどぎまぎする。おかしな話である。もっと身近でいちゃつくよりも距離を置いた方が恥ずかしいのは何故なんだ?
「前にあっちゃんの小母さんに相談されたよ。婦人科検診に行くように勧めたけど」
「何それ。いつ?」
「寄席に行った時。あっちゃんは熟睡してたろう」
 にわかに思い出す。そう言えばあの夜、叔母ちゃんはしみじみ産婦人科医の田上真生を褒めていた。
「へえ。婆ちゃんは、まゆか姉ちゃんが寝込むと病気じゃないのにって怒ってたけどさ」
「病気の場合もあるから恐ろしいんだ。里生も毎月のたうちまわって吐くほどに苦しんで。あまりに酷いんで母親が病院に連れて行ったが……」
 ふと真生は言葉を切って、
「だから、あっちゃんのお姉さんもちゃんと病院に行った方がいい」
「うん。言っとく」
 と頷いてから、唐突に閃く。
「だから真生さんは産婦人科医になったのか」
 つい真生と腕を組んでしまった。腕を取られて真生は「はあ?」と真顔であぐりを見つめている。
「妹さんが生理痛で苦しんでるのを見て?」
「ええ? まさか……もともと二人とも医学部に進むつもりだったし。でも結局、里生は法科に進んで弁護士になった。ずっと僕と一緒じゃきつかったのかもな」
 腕を組まれたまま真生はしきりに「え?」と首をかしげている。そしてとうとう言い切った。
「だから、僕は産婦人科医になった?」
 もう両手であぐりの両手を握って尋ねている。まるで二人で通りゃんせを始めそうな勢いである。
「知らないよ。真生さんのことだもん。何か、そう思っただけ」
「いや、単に専門を決める時に……何となく……え? そうか。そうだったのか」
 まるで砂漠に蜃気楼を見た人のようなぽかんとした表情の真生の背後を、見覚えのある顔が通り過ぎて行った。思わずあぐりは真生の身体に身を寄せて姿を隠した。
 言霊というのはあるのか。さっき話した江口主任だった。高校生のようにも見える年若い男の子の肩を抱いてラブホテルの玄関に入って行った。
「帰ろ」
 あぐりは身体ごと真生を押しやって進路を変えさせた。二人は申し合わせたように焙煎珈琲の黒河に向かっていたのだが、そのままアパートへ帰って行った。

 部屋に戻ると改めて赤ワインとビーフジャーキーで乾杯をした。
 真生が台所の棚からいそいそと取り出したのは、大分前にあぐりがお礼に持って来た品である。黒猫ロブがビーフジャーキーの袋をふんふんと嗅いでいる。
「これは猫にはどうかな?」
 と袋の裏表をためつすがめつしたが結局ロブに与えたのは、ビーフ味の〝チャオちゅーる〟だった。黒猫がちゅーるを貪っている間に、あぐりは赤ワインの栓を抜いた。
「栓を抜くのがうまいな。あっちゃん」
 言われるまでもなく篠崎一族はワインの栓を抜くのに長けているのだ。ワイングラスはないのでコップに赤い液体を注ぐ。
 居間の小さな座卓に向かい合ってワインを吞みながら、
「そういうわけで」
と真生はにわかに居住まいを正した。胡坐の中にいたロブは、迷惑そうにあぐりの膝に移って来た。
「田上家には二人も子供がいるのに孫はもう生まれない」
「まご」と口だけ動かして、あぐりは赤ワインを流し込む。慣れ切った味である。
「妹さんが産むでしょう」
 言ってから外孫ではなく内孫のことかと思う。そんなことを気にするのは爺ちゃん婆ちゃんの年代だろうが、あの真生の父親ならこだわりそうな気がする。
 真生はその辺には触れずに続けるのだった。
「たとえば……私が女性に精子提供して子供を産んでもらうことは出来る」
「真生さんが女とセックスするの?」
「いや。違う。人工授精をするんだ」
「ええと……それって、女の人が人工授精をして妊娠して子供を産むの? そんなの引き受けてくれる女の人がいるの?」
「私が所属していた団体では、そういう例もあった。しかるべき所で探せば見つかるさ。そうして、パートナーがいれば二人で子供を育てられる。両親にも孫を見せられる」
「まご」ともう一度呟いてしまう。あぐりの頭にはない発想だった。既に兄や姉に子供がいる末っ子の気楽さかも知れないが。
「だから……あっちゃんとパートナーになりたい。一緒に暮らして子供を育てて。猫も飼うけど……どうだろう?」
 と言う真生の顔が硬直しているのは真剣に答えを待っているのだろう。
 けれどあぐりには言葉がない。
 さすがに神を持ち出す産婦人科医は(その神は妹だった可能性もあるが)そんな計画の下に男性パートナーを探していたわけか。単なる助平心が基準のあぐりとは大違いである。想定外の発想過ぎてとてもついて行けない。
「ふうん……そうなんだ?」
 と言葉を濁すばかりである。
 真生がきらきらした瞳で顔を覗き込んで来る。決死のプロポーズなのだろうが、どうにも答えようがない。
 むしろ座卓を回って真生の胡坐の中に入ってしまう方が気楽である。もちろん向き合って座るのだ。肩に両手をかけて「んふふ」と笑って唇で言葉を封じる。

 そうして言葉のない世界にまたたゆたう。互いの身体を貪り合う。
カリカリと襖を引っ掻くのは黒猫ロブだった。仲間に入れてくれとでも言っているのか。そんな時だけ正気にもどる。
「ねえ。ゴールデンバンブーで何を買ったの?」
 今更あの時の配送品について尋ねてみる。何とも言い難い笑みを浮かべて、真生はベッドサイドの棚から例の化粧箱を取り出して見せた。
「この通販を使ったのは初めてだ。どんなものかと思って……」
 シーツの上に広げたのは、キラキラした箱に入ったコンドームやデザイン性の高いボトルに入ったローションなどである。確かに真生が用意したコンドームは、色気のない実用品だった。
「製薬会社がサンプルに持って来るんだよ」
「産婦人科って避妊具もあるんだ?」
「そりゃあるよ。産ませたり産ませなかったりするわけだ。感染防止の意味もある。年寄りの先生方は私が独身だからって、余ったサンプルを持って来るんだ」
 それに比べればゴールドバンブーの商品はラメでキラキラ光ったり芳しい香りがついていたりする。
「これって匂いがついてて何か意味あるの?」
「試してみる?」
 などという仕儀になり、お互いどこまで体力があるものやら。
 烏カアで夜が明けて……烏は鳴いてばかりである。

   ⒑

 月曜日の朝、あぐりは全日出勤のシフトだった。到底会社に行く気になれず欠勤の連絡をしようとしたが、スマホはバッグにもポケットにも入っていなかった。
 どこに置いて来たのか記憶にない。というか思い出したくもない。
「行ってらっしゃい」
 と玄関で真生を送り出す。
 居間のカーテンを開けて見るが、北向きなので特に朝日は入って来ない。しばしロブと遊んでから近所のコンビニに出かけた。昼食のおにぎりと歯ブラシも買って来た。浴室の小さな洗面台のコップに真生の青い歯ブラシと共に自分の緑の歯ブラシを差してにやにやする。
 コンビニおにぎりを食べようと思っているところに、騒々しく白衣姿の真生が飛び込んで来た。初めて見る医師らしい姿に惚れぼれする。所謂ケーシータイプ、立ち襟で肩にボタンのある医療衣である。パンツも同じく白である。実は白が似合う男だったのか。
「どうしたの。忘れ物?」
「すぐ家に帰れ。送るから」
「何で?」
「お婆ちゃんが……」
 あっと思った。とうとう婆ちゃんがやった。おそらく仏壇の蝋燭を倒して家中焼いたのではないか。
 泡を食ってあぐりが靴を履いていると、真生はまた黒い診療鞄のファスナーを開けている。大判の傷絆創膏を出すとあぐりの襟元に手際よく貼ってから「よし」と玄関から連れ出す。
 気が動転しているあぐりは何をされたかわからない。とにかく駐車場に走り、ランドローバーの助手席に乗り込む。真生も運転席でシートベルトを着けてから、
「あっちゃんの電話がつながらないって、小母さんから僕の携帯に電話があった。お婆ちゃんが……」
「家を燃やした?」
「いや」
 駅裏の細い路地を慎重に運転して、大通りに出てから言った。
「亡くなったそうだ」
「へえ」
 他人事のようにあいづちを打っていた。
 家に着くと、ちょうど玄関からまゆか姉ちゃんが出て来るところだった。喪服を着ている。
 停車しているランドローバーから地面に飛び降りた。
 砂利の駐車場や中古のホンダを見ると何かが常とは違っている。人間はほんの一瞥でどれ程の物を見て取れるのだろう。後で知った知識でこの一瞥がジグソーパズルのピースのように全てぴたりと嵌まったのだが、この時はただ変だと思っただけだった。
「さっき遺体が警察から戻って来て。家はまだ臭いから、萬徳寺で今夜お通夜をしてた、明日が葬儀だって」
 あぐりは促されるままに二階の自室で箪笥から喪服を引っ張り出した。これを着るのは爺ちゃんの葬式以来である。入れっぱなしだったから少し黴臭い気がする。気持ちぶかぶかなのは昔の方が太っていたのか?
 真生が運転する車で萬徳寺に向かった。後部座席にまゆか姉ちゃんと並んで座り、婆ちゃんの最期を聞いた。
「あっちゃんが帰らないって探しに出たらしいよ。あぐりってば叔母ちゃんが電話しても全然出ないんだから。お婆ちゃんが落ち着かないって、うちにも何度も電話が来たよ」
「それ……いつのこと?」
「土曜日の夜。お婆ちゃんは、いったん布団に入れて寝かせたけど、夜中にがたがた音がして玄関から出て行ったらしいのよ。叔母ちゃんが追いかけて行ったら……死んでたって」
「待って待って待って。それ、わかんない」
「だから……砂利で足を滑らせて、車に頭をぶつけて。頭とか血まみれで倒れているから、救急車を呼んで……呼んだけど、もう死んでいたって。警察で検視があって、やっと遺体が帰ったところ」
「解剖……されたの?」
 というあぐりの問いに答えたのは、運転席の真生だった。
「その場合、解剖はないと思う。診るだけだ。お婆ちゃんの身体は大丈夫だよ」
 ジグソーパズルのピースが嵌まった。砂利が赤黒く染まっていたこと。黒いホンダの助手席の腹がベコリと凹んで剥げた塗装に赤黒い汚れが付着していたこと。あそこが婆ちゃんの終焉の地だったのだ。
 「すまない。仕事の途中だから。また後で伺うよ」
 と車で走り去った真生は心配そうな目をしていた。
 けれど、あぐりはランドローバーが発車する前に背を向けて寺に向かっていた。
 それからのあぐりの記憶は途切れ途切れになっている。
 婆ちゃんの遺体の前で手を合わせて読経をしたのかしなかったのか覚えてない。
 それ以前に死に顔は見たのだろうか覚えていない。
 ただ通夜ぶるまいの酒を吞み過ぎて、早々に寝てしまったことは覚えている。
 二つ折りの座布団を枕にして寝転がっていると誰かが毛布をかけてくれた。
「あの頃は大吉運送も大忙しでねえ。兄さんが大雑把だから事務方の悦子さんは大忙しよ」
「そうそう。あぐりを生んですぐ仕事に戻ったでしょう。男ばかりの事務所でおっぱいをやるのよ。みんな目のやり場に困るって言うから、あの中国式の衝立を贈ったのよ」
「でも結局、搾乳して冷凍したのをお婆ちゃんがあげるようになってねえ。実際にあぐりを育てたのは婆ちゃんよね」
 女たちがぼそぼそと話している声が夢か現か遠くに消えて行った。
 翌日の葬儀は二日酔いの頭痛のお陰で、記憶能力は更に遠くに消えていた。
 通夜には間に合わなかったパラグアイの父親が葬儀に出席していた。外国人の女性を伴っていた。
 真生も来てくれた。凛々しい喪服姿に見惚れる節度のなさを叱る人はもうどこにもいなかった。坂上神社の宮司である御園生先輩も黒紋付の和装で来てくれた。会社からは三田村さんがやって来た。三人とも、あぐりの行方不明について叔母ちゃんから電話を受けていた。
「ごめんなさい。あの時、私が主任の家に忘れて来たから」
 と三田村さんが出したのは、あぐりのスマートフォンだった。主任の家でケーキの動画を撮ったまま、その場に放置されていたのだ。それを主任が会社に持って来て、三田村さんに託したらしい。
「別に三田村さんのせいじゃないです。忘れたのは俺だし」
 淡々とそれを受け取った。電源は既に落ちていた。後になって充電したところ、叔母ちゃんや会社から何本ものLINEや電話が入っていた。
 結局、叔母ちゃんは思いつく限りの所に電話して、最後に一度だけ会った(だから遠慮もあったろう)田上という青年を思い出した。それが通夜の日だった。
 お斎の席で叔母ちゃんと兄ちゃんが強い口調で言い合っていた。何より叔母ちゃんが憤懣やる方ないのは、富樫のおっちゃんを使って駐車場に砂利を撒かせたきり改善しなかったことだった。それが婆ちゃんの死因になったのだから当然の怒りではある。けれどその裏には、勝手に持ち去られた檜の一枚板のテーブルや食器類についての恨みもあるようだった。
 あぐりには叔母ちゃんの気持ちは理解できた。あの食卓は大吉運送の家族団欒の象徴だったのだ。一族が楽しく集っていた頃の。婆ちゃんが認知症を患って以来帰りたかったのは多分あの頃の家だったのだろう。
 あたりを見回せば、当時ドライバーとして働いていた男たちも弔問に訪れていた。金髪頭はタケ兄ちゃん、寄り添っている赤毛は妻のマリ子さん。ゲンさん、アクタ兄さん、タツキさん。覚えているのは呼び名だけだが、ちびっ子だったあぐりが憧れた男たちだった。いずれこうなりたいと思っていた男たちが喪服姿で酒を酌み交わしている。
 兄は兄で父親が連れて来た外国人女性について文句を言っていた。それは正式な妻なのか。現地に子供はいるのかと。兄がパラグアイ女性を見る目は、真生の父親があぐりを見た時の目に似ていた。まるでゴキブリか蛆虫を見るような目つき。
 何故だかあぐりはその場の流れとはまるで脈絡なく、茶碗蒸しのスプーンでカンカンカンと食器を叩いて一同の注文を集めた。そして、
「言わなかったけど、俺ホモだから。ゲイ。同性愛者。だから一生結婚しないよ」
 と宣言していた。どう考えてもこの場にふさわしい告白ではない。
怪訝な目があぐりに集中した。
「いいから。そんなの知ってるから」
 あぐりの膝をばたばたと叩いたのは、まゆか姉ちゃんだった。
「何で知ってんの?」
「何となく」
 他の家族は特に何も言わずに自分たちの話に戻っている。
「だから婆ちゃんはあんな死に方したのかな? 俺がホモなんかじゃなく、ちゃんとしてれば、もっと長生きしたのかな?」
 あぐりは一人呟いた。そして密かに頷いた。
 婆ちゃんが夜中に一人で死んだ時、自分は何をしていた?
 黑河でコーヒーが飲みたいと言ったのだ。
 もしあの時、まっすぐ家に帰りたいと言っていたら。
 真生のランドローバーで家まで送ってもらえば、駐車場の砂利はあんな色に染まっていなかったし、中古のホンダだって凹んではいなかったはず。
なのに真生と一緒にいた。
 みんなが喪のために奔走している時、あろうことか自分は男と閨にいた。日にちも時間も失う程にひたすら愛欲にまみれていた。到底許されることではないだろう。

 葬儀が終わり一族はそれぞれ萬徳寺から帰途に着いた。婆ちゃんが残した焼け焦げた匂いのする家に戻ったのは三人だった。富樫のおっちゃんが運転する便利屋のバンに、叔母ちゃん、まゆか姉ちゃん、そしてあぐりが乗って帰った。
 おっちゃんは家の前でバンを停めて三人を下ろすと、夜の道をテールライトを揺らしながら走り去った。
 食堂の安っぽいテーブルでほうじ茶を啜りながら、頬杖をついた叔母ちゃんが言った。
「あっちゃん。崇さんや他の人に何を言われても、マンションに部屋をもらうのよ」
「マンションて、ここを取り壊して造る?」
 叔母ちゃんは頷きながら、黒真珠のイヤリングを外してコロンコロンとテーブルに置いた。
「欅のテーブルや伊万里の大皿がなくなったみたいに、誰かがうまいこと言ってあっちゃんの権利を奪うかも知れない」
「権利って、大袈裟な……」
 あぐりはあまりこういう話が好きではない。立ち去ろうとしたところに、納戸から出て来たまゆか姉ちゃんに行く手を遮られた。赤ワインとビーフジャーキーを持って来たのだ。テーブルにワイングラスを三つ並べると、叔母ちゃんの隣に座ってワインの封を開けながら、
「一応聞いとくけど、あっちゃんマジでゲイなの?」
「……マジ」
「だよね。思ってた。あんなにバレンタインチョコもらって、女の子の誰にも手を付けないんだもん」
「その言い方」
 あぐりが眉をひそめて言ったのは、婆ちゃんがいたら言うだろう台詞だった。
「あっちゃん、同性愛者なら結婚しないんでしょう?」
 と叔母ちゃんはまゆか姉ちゃんに赤ワインをグラスに注いでもらっている。
 結婚……どこかで誰かにプロポーズされた気もするが、遠い夢の世界のことである。
「なら余計に、自分の遺産や権利は手放しちゃ駄目よ。あんた人がいいから」
「そうだよ。バレンタインチョコだってほとんど食べなかったし。みんな家族にあげちゃって」
「まゆか姉ちゃんがいちばん食ったくせに」
 言われて次姉は知らん顔でビーフジャーキーを齧っている。
 叔母ちゃんは片手にワイングラスを持ったまま立ち上がるりと、中途半端に立ち去りかけていたあぐりの肩を叩いた。
「言っとくけどね。大勢いる孫の中で婆ちゃんの世話をしてくれたの、あっちゃんだけだよ。迷子になれば探して、いろいろ面倒みてくれて……」
「でも、最後があれじゃ駄目だろ」
「だから何なの? 今日集まった親族の中で、スマホの待ち受けを婆ちゃんにしてんのはあっちゃんだけだよ。それだけでも慰労費をもらっていいぐらいよ」
「慰労費なんて。叔母ちゃんこそもらわなきゃ……」
 と笑うあぐりの腕を引いて叔母ちゃんは椅子に座らせた。そして赤ワインが注がれたグラスを強引に差し出した。二日酔いが未だ消えないあぐりはアルコールは入れたくない。仕方なく形ばかり口をつける。
「あっちゃんはもっと自分のことを大切にしなさい。周りのことばかり考えなくていいの。もしかして自分は同性愛者だから、何かしてもらう権利はないとか思ってた? 違うからね。あっちゃんはすごく大事な子なんだよ。わかる?」
 唐突に、プロポーズしたのは真生だったと思い出す。頭を振って赤ワインを一気吞みすると、
「でも俺、名前あぐりだしさ」
 と言って顔色を変えた叔母ちゃんが何か言い出す前に、
「もう寝るわ」
 と、その場を立ち去った。
 自室に入りベッドに寝転んでも、階下の食堂で叔母ちゃんとまゆか姉ちゃんがいつまでもぼそぼそと話す声が響いて来るのだった。
「あぐり」という名前について婆ちゃんはことある毎に憤っていた。だから殊更に「あっちゃん」と呼んだ。
 鈴木亜久里というレーサーにちなんだと言ったのは父親で、吉行あぐりという朝ドラのヒロインにもなった美容師にちなんだと言ったのは母親だった。だが小学校の授業でパソコンの操作方法を覚えたあぐりは、その名前の意味を検索してみてひどく納得したものだった。
 労働力となる男児が尊ばれた時代、女児ばかり続いて生まれた家庭ではもう女児はいらないという意味で「あぐり」と名付けた。「末」「留」「捨て」などの名前も同様の意味である。婆ちゃんの篠崎スヱという名前も、篠崎あぐりと大差ない。だからこそ両親の命名に憤ったのかも知れない。
 あぐりは四人兄弟の末っ子である。崇という漢字の立派な名前をもつ長男の後は、さおり、まゆか、あぐりと平仮名名前が続く。長女、次女はともかく次男の自分までも平仮名なのがいかにもである。女の子ではないけれど、両親にしてみれば四人目は何かの手違いだったのだろう。だから、あぐり。
 中学生になっても一向に女の子に興味のもてない自分を知り、名前の意味も重ねて見れば人生全般に興味を失うのだった。いつ死んでもいいや。どうせ、あぐりだし。

 社内規定で祖母の忌引きは三日である。けれど、あぐりは残っている有給休暇を総ざらえすることにした。婆ちゃんの介護で目減りしていった有給休暇である。もう使う必要もない。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 と電話口で謝る相手は江口主任である。誕生日パーティーで「こいつホモなんだとよ!」と、いの一番に騒ぎ立てた男である。
「大変だったろう。しばらくゆっくり休むといいよ」
 鹿爪らしい声で言う。そんなものに傷ついてはいられない。
 出社すれば今度は葬儀で迷惑をかけたとみんなに謝って回らなければならないのだ。唾吐きかけて足蹴にしてやりたい連中に。
 葬儀の翌日もまだ二日酔いは残っていた。というか叔母ちゃんに勧められた最後の赤ワインが止めを刺した(アルコールに弱いにも程がある)。喪服を脱ぎもせずベッドで寝落ちして、目覚めたらとうに出勤時間は過ぎていた。あわててスマホで会社へ連絡したのだ。
 二度寝しようとジャージのパジャマに着替えていて気がついた。首の根元に絆創膏が貼り付いている。
 いつ貼ったっけ?
 まるで記憶にないけれど剥がしてみる。
 部屋の鏡に映して見れば赤黒い歯形が隠れていた。キスマークなどという生易しいものではない。完全に歯で噛みつかれた跡である。
 恐る恐る自分の身体を見回せば、あちこちに似たような色合いの印が見て取れる。
 あの汗と唾液と何だかわからない粘液にまみれた、夜だか昼だかわからない捻じれた時の流れに印された淫乱の証。
 この絆創膏は真生がアパートの玄関を出る時に貼ったのだ。
 あぐりは指に貼りついた絆創膏を両手でぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
 震える手でパジャマの上着を臍が隠れるまで下ろし、袖も手首まで引き下ろす。ズボンもきちんと履く。衣類の外に見える跡はない。それだけを確かめてまたベッドに倒れ伏した。
 頭は真っ白になっている。がんがん痛むのは二日酔いのせいに過ぎない。ただそれだけである。
 それから数日間あぐりは家に籠った。叔母ちゃんに呼ばれた時だけ階下に降りて食べ物を口にした。それ以外は部屋のベッドに籠ってひたすら眠った。あの猥らな夜の睡眠不足が今になって襲って来たに違いない。

「あっちゃん、いるか?」
 どんどんと部屋の戸を叩く音と、懐かしい声が聞こえた。布団の中から目だけ出して伺っていると、引き戸を開けて顔を出したのは、
「地元の農家で芋をもらって来たぜ。焼き芋をやるから降りて来いよ」
 と、金髪頭のタケ兄ちゃんだった。
 便利屋の富樫のおっちゃんに招集されて、元ドライバー達が来ているという。じきこの家は取り壊しになるのだが、婆ちゃんの血痕が残った砂利の駐車場を放っておくに忍びないと叔母ちゃんが言い出したらしい。手の空いているタケ兄ちゃんやゲンさんが集まって対策を検討しているという。
 タケ兄ちゃんは大吉運送で働いていた頃から格闘技オタクで、よく試合を見に連れて行ってくれた。プロレスの技を教えてもらっていたのは遊びだが、若い娘が多かった当時は折に触れて護身術、痴漢撃退法なども伝授していた。
 それが今や本業になっている。千葉県で奥さんのマリ子さんと共に空手道場を主催しているのだ。

 外が騒がしくなったので階下に降りてみると、問題の駐車場脇で盛大に焚火を焚いていた。古い書類や未だに残っている〝大吉運送〟のロゴ付き段ボール箱を焼いている。何がなし婆ちゃんの供養に見えなくもない。
 実際の供養には仏間に四十九日まで中陰檀が設えられている。叔母ちゃんが毎日線香を上げているらしい。仏間の鴨居にかけられたご先祖様の写真の中には婆ちゃんの遺影が加えられた。かつての朝のお勤めが嘘のように、あぐりはこの部屋に顔を出さなくなっていた。
 アルミホイルに包んださつま芋を焚火の中に放り込むという乱暴な焼き芋だが「ほら食え」と出されれば、この数日ほとんど物を食べていなかったから、ほくほくの芋にかぶりつかずにはいられない。
 軍手をした手で肩を叩かれ、
「婆ちゃんが死んでショックなのはわかっけどよ」
 とタケ兄ちゃんに話しかけられる。
 子供の頃は見上げるような大人に思えたタケ兄ちゃんも、こうして並べばあぐりと殆ど身長差がない小兵なのだった。もう少し背が高いのは誰だっけ? ちょうどあぐりの頭が肩口に当たるような……今が今、思い出さなくてもいい男である。
「香奈叔母ちゃんをあんま心配させんなよ」
 と、しみじみ言われる。
「あっちゃんはアイドルみてえな顔してっからよ、なめくさった冗談言う奴がいるかも知んねえけどよ」
 タケ兄ちゃんの妻マリ子さんは何かといえば、あぐりは推しアイドルの〇〇くんに似ているとはしゃいで言う。〇〇くんはよくテレビにも出て来るが、あぐりは何度見ても自分の顔に似ているとは思えない。
「誰かにホモとか、からかわれたんだろ。でも葬式で言うもんじゃねえよ。あっちゃんはホモなんて異常者じゃねえんだから」
 そうか。ホモは異常者か。あぐりは芋を頬張ったまま肩を震わせた。
タケ兄ちゃんは泣いていると思ったのか、震える肩を優しく抱いた。
「教えてやったろう。プロレスの関節技。可愛いからって甘く見る奴にはガツンとお見舞いしてやれ」
 密かに笑っていたあぐりだが、しまいにはげらげら声を出して笑っていた。何をどう勘違いしたのか、タケ兄ちゃんはあぐりの肩をばんばん叩いた。
「そうだよ! あっちゃんはマジ男なんだからよ。ホモなんて変態じゃねえぞ」
 そうして後は、ゲンさんや富樫のおっちゃんまで加わってプロレス大会である。あぐりは身体のあの痣が服から覗かないか案じながら、子供の頃に覚えた関節技をかけ合っているのだった。

【第5話に続く】全8話

猫と愛してるのあ 第5話 | 


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