思考:202405


他者を承認するだけの人生はかなり惨めである

もっと自分自身が他者に承認されるために努力するべきだと思う。自分自身への承認を後回しにして、他者への承認を優先する必要はないと思う。資格に合格することや、受験に合格することは自分自身への他者の承認であり、公の承認でもある。多くの人間が、受験や資格を、自己の承認欲求を満たす為に活用しているのだ。考えてみれば、資格試験や受験問題を作成した人間を、その試験や問題に対して価値がある物として受験することは、その試験や問題に価値を与えることになり、作成者を承認することにも繋がるだろう。しかし、受験や資格は、思考の起点を他者に与えられているのであって、自らその問いを考えているわけではない。人生で必要なのは、自ら問いを立てて、それに答えて行く事でもある。他者から与えられた質問に答えるという状態を変えない限り、人生の主導権を自分自身に取り戻すことはできない。他者の作った基準を満たす為に努力し続ける人生になることは容易に想像できる。資格や受験に価値がないと言っているわけではない。その問いには普遍的な価値があり、その問いについて考えることは、自分自身を成長させる上で必要なプロセスであるようにも思う。しかし、自分を起点にしなければ、おそらく努力は続かないだろう。他者から与えられる指示を待つだけの人生に成り兼ねない。

関わるだけで不幸になる人間

自己主張ばかりで、他者寛容性がなく、他罰的な人間とは関わらない方が身の為である。このような人たちは、他者寛容性がないので、自分とは異なる他者の存在を許容することが出来ず、すぐに他者に対して攻撃を仕掛けてしまう。暴言を吐いたり、暴力を振るったり、その攻撃手段は様々である。どのような理由であれ、他者を攻撃する人間との関係は回避した方がいい。自分自身への攻撃でなくても、他者に難癖をつけたり、暴力を振るう人間とは関わらない方がいい。その暴力のベクトルが、いずれは自分自身に向く可能性があるからである。いわば、他者への暴力は、あなたへの脅しなのだ。意に反すれば、暴力を振るうという宣言でもある。また自己の身体的欲求を満たすことしか考えておらず、相手の意思なんて一切気にしない。自分の願望が実現できれば、それだけで満足できてしまう自己完結型の人たちである。

攻撃的な人間

他者に迷惑を掛けていない人間を攻撃する理由なんて無いが、相手の存在そのものが気に食わない人間は、そこに居るだけの人間を攻撃対象にしてしまう。加害者は本人の感情を制御できない為に、相手に一方的に当たる。こういう人に対しては子供時代の情操教育が失敗しているのだろう。こういう人は自分自身が改心しない限り、気に食わない相手に遭遇するたびに、相手に対する攻撃を繰り返すことが容易に想像できる。被害意識の強い人間は、攻撃的になりやすいというが、本当だろうか?自分自身の被害感情を打ち消す為に、自己の正義の名の下に他者を裁き、憂さを晴らしているのだろうか?存在しているだけの相手に攻撃を仕掛けているところを見ると、人種差別家なのかもしれない。被害者である自分は、何をしても許されるという特権があると思い込み、他者への攻撃を継続する。育ての親が無意識的にこのような感情を植え付けたのだろうが、その家族でないものからしてみれば、その存在は迷惑極まりない。存在しているだけの人間を、自身だけの正義に基づき一方的に裁いてしまうその独善性は、まさに独裁者そのものだろう。本人に反省する意思がない以上、関わらないに越したことはない。相手の攻撃対象にならないように、視界に入らないように注意するしかない。存在しているだけの人間は無害である。なぜそのような人間を攻撃するのだろうか?気に食わないという独善的な理由で攻撃されたら溜まったものではない。それとも存在しているだけの人間は、加害者にとっては許せないのだろうか?自分は努力しているのに、何もしていないことが許せないのだろうか?そういう意味では加害者は自身が評価されないことに対して欲求不満を抱いており、そのような反撃してこない無辜の人間を攻撃することで、自身が被害者である状況を相手に押し付けているのである。まさに被害意識のすり替えである。他者を攻撃する事で、その相手に被害者である特性を押し付けて、自己の身代わりにしているのである。加害者の心が弱いといえばそれまでだが、努力するのは何の為なのか考えたことはあるのだろうか?自己が評価される為に、努力しているのであって、その過程における苦しみを、他者にぶつけるのは、筋違いもいいところである。努力するストレスに押し潰されて、その捌け口に反撃しない他者を見つけ出し攻撃するような行為を選択する位ならば、最初から弱い自分を受け入れて、そのような努力を辞めれば済むだけの話である。しかし、このような加害者は自己の功名心の為に、それができない。自分自身の感情を制御できていない時点で、どんなに学歴を積んでいようと、このような人間に対する教育は失敗しているのである。日本の教育の一つの目的は情操である。そういう意味で、こういう人はその目的が達成されていない。感情はアクセルのようなものなので、行動の言動力になるのかもしれないが、高学歴の割に、思考が幼児的過ぎないだろうか?そのような人間を量産してしまうのは何が原因なのだろう?おそらく本来、自分自身で答えを見つけなければならないものを周囲が与えすぎてしまった事が原因なのかもしれない。周囲に察せられて、幼児的な精神から大人の精神へ成長できなかったのかもしれない。与えられた知識でも生活には困らないが、それだけでは自身の感情を制御する為の要素としては不足している。自ら不足している知識を補う努力が必要なのだ。それは本人しか分からない。他者が察することができる範疇を超えた領域にそれは存在するからである。そのような感情制御因子を自ら発見し、取り入れる努力をしない限り、周囲がどんなに協力したとしても、情操を成功させることはできない。いつまでも経っても、自己の感情の制御に他者の犠牲を要求する構造を変えることが出来ない。これは加害者本人の問題である。加害者が自己の意識と向き合う以外に解決方法ないだろう。外科的に、感情に起因する脳領域を改変すればいいのかもしれないが、現実的ではない。反省するのは嫌なことかもしれないが、自分の犯した罪と向き合い、行いを改めなければ、同じことを繰り返してしまう。自分一人でできないならば、専門機関に頼るべきである。被害者への攻撃依存を解消しないかぎり、良好な人間関係を構築することは難しいだろう。

他者の主権を認めない人間の怖さ

他者の主権を認めない人間は他者の人生への一方的で身勝手な介入を繰り返す。まるで相手を管理している支配者のように振舞う。私的なルールを相手に適用し、自分が主人であるかのように振舞う。なぜ上下関係の維持に執着するのだろう?いつまでも食い下がる理由が分からない。相手が自由に振舞うことを妨害している様は、あたかも相手に見ヶ〆料を要求しているようにさえ思える。なぜ一々行動に対して、この人たちに許しを請わなければならないのだろう。そんなに自分自身が正しいと思うならば、司法場でその行動の是非を検証すべきではないだろうか?ただ気に食わないという個人的な感情に基づく、この人たちが勝手に決めた主観的で非客観的な私的ルールに従う理由などあるのだろうか?なぜ自分の判断が正しいと思えるのだろう?この人たちにとって自分が正しいと思う根拠は一体何なのだろう?個人の感覚というその人にしかわからないルールで、相手を私的に裁くその身勝手さに呆れてしまう。日本に住んでいるのに、まるで異国に住んでいるかのようである。なぜこの人たちが勝手に決めた身勝手なルールに従わなければならないのだろうか?どう考えても、この人たちの頭は狂っていて、異常である。法律という共通認識をなぜここまで無視できるのかが不思議でならない。法律を理解して、その法律に基づいて自らの行動を正すことはできないのだろうか?この人たちの身勝手さには呆れてしまう。私的に人を裁く事なんてできない。人を裁くのは、法律に基づいてのみである。司法の場で、その行為を法的に検証することで、はじめてその罪が明らかになり、その罪が確定した後でなければ、人は裁けないのである。刹那的に、感覚的に、その行為の罪性を確定することはできないのである。個人の判断で人を裁くなんて以ての外だ。

オフサイドトラップ

高卒によって仕掛けられる大卒への知識トラップ。仕事の中で求められる成果をより少ない知識で実現することにより、大学で身に付けた知識の無用性を強調し、大卒の自信を喪失させることが目的の仕掛けである。学歴が高ければ、把握している情報はより現実的になるので、成果を上げる為のゴールにそのポジションはより近くなる。しかし、高卒はゴールから離れた位置に配置されているので、より努力しなければ大卒の位置には辿り着けない。そこで、高卒同士が組織化することで、より前線にいる大卒のポジションをゴールから遠ざける罠を仕掛けてくるのである。ある意味で、現実を記述する情報を近似することで、情報の詳細さを無効化しているのかしれない。意図された行為なのかわからないが、知識量の少ない高卒が大卒に勝利する為に必要なトリックにも思える。

学歴は現実に対する解像度

中卒→高卒→大卒→院卒はTVの解像度としてその性能を変換してみるとHD→2K→4K→8Kというように、映像の解像度で示されるような情報量の差で表現できるかもしれない。学歴の差とは、現実を情報化する解像度の差でもあるのである。学歴を積むことにより、より詳細に現実を情報化できるようになるのである。TVを視聴する上では別に2Kでも構わないという人もいるかもしれない。無理して解像度を上げる必要はないのである。その人の予算に合ったTV(学歴)を選択すればいいのである。学歴というデバイスで体験できるコンテンツはさほど変わらない。同じ世界に存在しているので、体験できる世界は変わらないのだ。しかし、そのTVによって再生できるコンテンツが変わるので、より詳細な情報を求める人は、HDでは満足できないかもしれない。そういう人は予算を高めに設定し、より解像度の高いTVを選択する必要がある。フラグシップTVを導入しなくても、生活する上では困らない。学歴もまた然り。高性能の装置が求められる環境下では高額なデバイスが必要かもしれない。要は、何を選択するか環境依存なのである。設置環境で必要とされていない性能は不要なのである。自分自身がどのような環境で生活するのかをよく考えて、学歴は選択する必要性があるだろう。

自己実現に対する諦めと現実の受容

私が夢を諦めた原因を考察してみると、私の周囲に、私を利用する者は多く存在したけれど、私を支援してくれる者は少なかったからといえるかもしれない。自己実現を果たせなかったのは支援者の少なさが原因と言えるかもしれない。少々他力本願気味ではあるが、自助努力には限界があるのも事実である。周囲に存在する人間の行動によって、人生は大きく左右されるのだ。自助努力だけで夢を実現できる程、現実は甘くはない。周囲の助力が在って、夢は初めて実現できるのである。もしくはその実現可能性を向上させることができるのだ。努力しているだけでは夢が実現する可能性はそれ程上昇するものでもない。答えが分かっている人間と比べると、目標を達成するまでも設置された関門を突破する事は容易ではない。知っていると知らないとでは大きな差があるからだ。情報が高度化された社会で、凡人が夢を実現する事は至難の業である。そんなことを意識せずに、努力を継続できる人間に、勝利の女神は微笑むのかもしれない。私はそのような競争社会からは既に脱落してしまっている。後は現実を受容し、できることをこなしていくしかないのである。夢を実現することよりも、仕事に対する明確な目標はないが、与えられた仕事を着実にこなし、成果を上げられるように努力するしかないのである。少し挫けそうではあるが、脱落してしまった以上、受け入れざる得ない現実でもある。正直、出会った友人に恵まれていなかった。友人ガチャに対する運が無かったのである。ただそれだけの話である。恵まれた環境で努力できる人は羨ましいけれど、自分にその環境が与えられなかった以上、今自分自身が置かれた現状を受け入れるしかないのである。出口の見えない日常を過ごす毎日でもある。

学校

大学へ進学するだけで、高卒に妬まれるのだから、困ったものである。経済的理由で大学へ進学できないことに対する妬みの対象にされているにすぎない。権利の平等性を求めるのも分かるけれど、ようやく掴んだ切符なのだから、その権利を奪おうと試みないで貰いたいものである。それともこの考えは甘えなのだろうか?他人の成功を妬むような人間とは知り合いになりたくはなかった。またそのようなネガティブな感情を抱くような人間とは知り合ってしまったことに対する自分自身の運の悪さを呪うしかない。公立の小中は努力しても、一緒に生活を送る同級生を選択する事が出来ない。同年齢というだけで集められた集団に過ぎない。お互いの特性なんて、一切考慮せずに集められた集団である。その為には、地域内で割り当てられた年齢の近似性以外に共通点はないのである。そのような無選別な環境下で生活する事は、実社会を学ぶ訓練にもなるだろう。知らない人間同士が協力して学校生活を送る事で社会性を身に付けるのである。

加害者有利の世の中で

気に食わない、許せないという一方的な自己感情に基づき、他者に対して多大な迷惑を掛け、なおかつ他者を自身の感情の捌け口にしてきた人間が、社会の中に善人面して紛れ込もうとする試みを黙って見過ごさなければならないのだろうか?嫌がらせを受けた人間の一人として、正直、納得がいかないし、許せない。一切反省の態度を示さないつもりなのだろうか?全て有耶無耶にされ、被害者は泣き寝入りするしかないのだろうか?こんな馬鹿げた茶番が罷り通るならば、この世界は、反省しない加害者にとって、とても過ごしやすいことだろう。しかし、嫌がらせを受けた一人として、私はこの人たちの蛮行を忘れないし、絶対に許さない。しかし、なぜこの人たちは自分の非を認めようとしないのだろう?己の行為を正当化する根拠は何なのだろう?ただこの人たちの憂さ晴らしによる嫌がらせに耐える事しかできないのだろうか?このような存在はこの世から早く消滅して欲しいものである。この人たちの存在はこの世界に不要である。資源を浪費する為だけに存在しているので、社会にとって何の役にも立たない。本当に迷惑な存在である。
→自分自身は、相手への過ちを許されることなく、一方的に加害されたのに、相手のそのような過ちを許すことを私は強要されなければならないのか?加害された時点、関係を継続する理由はなくなる。加害されなくても、相手と気が合わなければ、縁を切っても問題ないのではないだろうか?嫌がらせを受けてまで、継続する価値のある人間関係なんて、この世の中にあるのだろうか?

原罪とその贖罪

自分自身の原罪を、私を生贄として世間に差し出すことで、己の贖罪を果たすつもりなのだろうか?自身の罪は自分自身で償うしかない。自身が犯した罪から逃れられると思ってはならない。逃げ得を許してはならない。犯した罪を必ず償ってもらう。なぜこの人の原罪を私が贖罪しなければならいのだろう?

独善

自分自身の為だけに行動していて何か楽しいことはあるのだろうか?自分一人が楽しむことに何か喜びはあるのでしょうか?あなたはあなた一人で楽しんでいて虚しさを覚えないのでしょうか?


栄枯盛衰と達観している場合では無い。


自覚

私は一体全体何をやっているのだろう?この人たちは一体全体何をやっているのだろう?今日まで自分自身の不真面目さに気付けなった。今までずっと何をやっていたのだろう。

神の与えた試練

あなたに罪を背負う覚悟はあるのか?
動物は己の行為に罪悪感を抱くのだろうか?

許しを乞う前に、己の罪を自ら償うの方が先ではないでしょうか?罪を償わない人間を無償で許すことは、本人の為になるとは到底思えません。本に償い方を教えてもなりません。自ら償う方法を考えさせなければ、己の過ちに対する罪の意識が芽生えないからです。本人に償い方を考えさせるのです。これは許しを乞う相手を許さずに、一方的な加害を継続したことに対する罰です。他者が罪人を助けてもなりません。助力した人間は同罪です。あなたに罪人と同じ罪を背負う覚悟はございますか?自分自身で償い方を考えることが更生への第一歩です。

あなたが日々の生活で抱く罪の意識は何ですか?
あなたが犯した罪は、あなたはどのように償うのですか?

自分自身という存在への罪の意識の低さ
その程度の償いで、自分の事をよく許せると思う。
私は自分自身への過去の過ちに対する罪の意識は消えることはない。

あなたが抱える罪の意識は何か?

行動の原動力は、自分という存在への罪の意識である。

正義

力の在る者は正しいのか?それに従う必要性はあるのか?なぜ自分自身の思考や行動が正しいと思うのだろう?自分自身の思考が正しいと判断する根拠は一体何なのだろう?その判断が正しいとなぜ言い切れるのだろう?自分自身の思考の正しさを意識する理由は何なのだろう?己の行使する正義について少しは疑ったことはあるのだろうか?力の在る物は正義だと思うならば、力在る物に従えばいいだけの話だ。自身の信念を他者へ強制してはならない。他者への自身の思想の強要は独善に過ぎない。その正義を行使する相手を誤ってはいないだろうか?発揮すべき正義感を行使する対象を誤っているとは思わないのだろうか?自身の個人的な感情に基づく、独善的で独裁的な裁きに過ぎないのではないだろうか?罪は司法の場で裁かれるものである。罪なき人を私見で裁くべきではない。人が人を裁くなんて間違っている。人の犯した過ちは司法の場で公平に裁かれるべきである。力無きものが罪人だと思うならば、それは間違っている。弱者は罪人になる事はない。罪人になるのは力ある強者である。強者が人間の共通ルールを力で個人的に逸脱した時に、罪が引き起こされるのである。自分自身の考えが正しいと思うのは自分自身の置かれている環境によって導かれた結果に過ぎない。そのような主観的で客観的性のない価値観を他者に強要することは誤りであることを自覚すべきである。

分析と統合

分析は意識による作用である。統合は生感覚に基づく作用である。分析とは客観的な意思であるのに対して、統合は主観的な意思である。分析とは集団的であり、統合とは個人的である。分析は集団の為に行うものであり、統合は自分自身の為に行う作業である。共通認識というメスで対象を切り刻める無神経さが無ければ、生きた人間を分析する事なんてできない。生きた感覚を共通性で、切り刻み、ピン止めしていく行為は相手から生、自分という身体と精神の統合性を切り離す作業でもあるかもしれない。そのようなことを自覚できなくても、平然と生きた人間を分析しようとするその鈍感さ、無神経さには呆れてしまう。人体実験に等しい作業である。

意識と感覚

意識とは他者に与えられた客観性であるのに対し、無意識とは自身に内包された自我である。自我を意識化する作業が、自身を知る上では必要である。集団内で共有された共通言語で、自我を言語化しなければならない。自我を意識する作業は、自己を駆動する無意識に可視化して、その形を探る作業でもある。意識は集団的、感覚は個人的。自身の感覚を集団化しない限り、誰にも理解されないことは自覚するべき。感覚は極めて個人的な性質なので、感覚をベースに、他者を関係を構築することはできないと思った方がよい。他者との関係を構築するには、意識による共通認識をベースにするしかない。自分自身という存在を集団内の共通認識をベースに語らない限り、誰にも理解されない事は覚悟した方が良い。仲間を作りたいならば、努力するしかないのだ。努力をせずに仲間を求めることは、ただの我儘である。それすらも意識しないで、受容されない事の苛立ちを相手に一方的にぶつけている自分自身の身勝手さをもっと自覚するべきである。みんな天才である。天性の感覚を、共通認識に置換する過程で、感覚はその全一性を失い、自分そのものではなくなる。自分そのものを他者に受け入れさせるのことができないのだ。それが人間の宿命である。未完成の人工的な表現方法の中で、自分自身という表現対象を、他者へ明示していくしかないのである。明示できない自分自身というものは、他者には理解されないことも自覚すべきである。分かり合えなくて当たり前。不完全な人間が、不完全な道具を用いて、自己表現しているのである。理解し合えるなんて、思わない方が良い。相手に歩み寄る努力しない人間が、相手に理解されようと要求するのは虫が良すぎる。そうは思わないだろうか?自分自身の身勝手さをもっと自覚し、もっと努力するべきである。

自己と非自己

物質には自己と非自己が存在する。精神にも自己と非自己は存在する!?私には表現物にも個性があると思っています。全ての表現物にある個性を感じ取れないだろうか?もちろん分からない表現もあるけれど。文章にだって、自己と非自己がある。それが分からないのは、自分自身の鈍感さが原因である。要点だけ押さえて、同じと言っているだけではないだろうか?その表現を形づくる作用を感じ取れるだろうか?自分自身の意識よりも身体感覚が強い為にそうなるのだろう。意識をベースに、物事を理解しようとすれば、自分と同じかどうかを意識するようになる。感覚をベースに、物事を受容しようとすれば、自分と何が違うのかを意識できるようになる。相手の個性を大切にするとは、相手の抱える個性を否定せず、全肯定することである。一定の共通認識に基づいて、価値判断する作用、分析、ではないと言えるだろう。人間の表現物から想起される生気を感じ取れれば、他者理解に繋がるのではないだろうか?人の作成する情報には精霊が宿っているのかもしれない。相手の個性を受容できないにも関わらず、自己の個性の受容を他者へ要求してはならない。自己と非自己、異なる存在でいいのである。お互いの違いを認めることが、関係を構築する為のファーストステップである。

他者との共通性

自分の身体を世界を受容するアンテナのように働かせ、身体が受容した世界を共通認識というルールに基づいて情報化していく。自分自身の用いる言葉を常にアップデートし、受容した世界を的確に表現出来なければ、表現者として誰からも相手にされないだろう。ルールに基づかない情報化では、作成された情報は不完全であり、誰にも理解されないだろう。

自分自身の受容を望まなければ、自身を無理して言語化する必要はない。言語化する事で、自己表現と身体感覚の間には乖離がもたらされる。他者の誤解を防ぐ為には、言語化しない事が必要なのかもしれません。

他者と同じというレベルの自己理解で満足できるだろうか?私は欲深いので、それができない。自己と非自己の違いが分かるまで、自己理解を進めなければ、満足できない。

他者と同じでなければ受容されない不寛容な社会ではなく、他者との違いを受容できる寛容な社会の実現すれば良いと思う。善意に基づく多様性が尊重される社会である。

個性レベルでは社会性を維持できない未熟な集団なのかもしれない。集団内の共通性で、個性を統制しなければ、集団を維持できないのかもしれない。悪意ではなく、善意に基づく社会であれば、個性を尊重した相互信頼に基づく社会が実現できるのかもしれない。悪意は利己性でもあるので、損得のみが関係を維持するルールになり、損得勘定を満たせない存在には対して不寛容である。

創作物と身体感覚の一体性
他者と自己との共通性を理解する
他者と自己との共通性は、社会の在り方を決める形式であり、制度でもある。
他者との共通性が把握出来れば、物事を形式的に処理できる。他者に自己開示を要求することによって、社会制度に則り、合理的に物事を処理する為である。しかし、そう上手くはいかない。自己理解なんて簡単にできるものではないからだ。自己を理解しようとするよりも、自分自身が従える社会制度を探した方が社会参画をスムーズにできる。

課題に対する自主創造物の共通性が大切である。

合理性や効率性は、他者と自己との共通性によって達成される。

個性が排除した方が具体例は、インフルエンザワクチンである。卵へのアレルギーという例外を除けば、その汎用性は保証されるからだ。他にも法律も万人に共通である。法律に違反すれば、例外なく罰せられる。

個性を求めるよりも、他者との共通性を探した方が社会への参画を容易にできるだろう。汎用性の高い人間が重宝されるのは、その一般性による組織制度への柔軟さによるものである。

大切なのは、個性よりも共通性である。
現状の私の認識を述べてみました。
皆様はどのような認識をお持ちでしょうか?
個性重視それとも社会性重視(共通性)?
しかし、必要なのは両者のバランスを状況に応じて、使い分ける事であるとも思えます。やはり共通性よりも個性なのでしょうか?
このような疑問を抱く事自体誤りなのかもしれません。
自分自身の無能さに嫌悪感が生じてしまいます。

この記事が参加している募集

今月の振り返り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?