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わたしが韓国人と結婚して、バツ1/2になるまでの12か月【#創作大賞2024】


わたしの離婚歴は、1と1/2回。

中途半端になってしまったのは、このうちの1/2回分が国際結婚だからだ。

国際結婚というのはけっこう複雑で、2つの国で婚姻届を出さないと成立しない。

わたしの場合は、韓国と日本。韓国で結婚し、日本では婚姻届けを出せぬまま、12か月後には離婚した。

「言葉の違いが、原因でしょ?」
「文化の違いが、大変だったんでしょ?」

離婚をしたばかりのころはよく言われたけれど、そんなの、一切関係ない。

単純に、わたしと彼の間に、ほんのちょっとの愛と、想像力が足りなかっただけだ。


カナダでは、わたしたちは外国人。

深緑のにおいとキラキラな太陽。広い道路のわきの木々には、野良リス。

毎年10月から4月まで、1年のほとんどがまっしろな雪に覆われるトロントは、夏になると街に人があふれかえり、毎日のようにお祭りが開催される。

今日はチャイナタウンのお祭りで、明日は中央ストリートでゲイパレード、そしてその次の日は、ブラジルの伝統料理が食べられるフードフェスタ。

土地があり余っているこの国では、ご近所さんのところまで行くのに車が必要で、知らない人同士でも、会うとみんな笑顔になる。

街を歩くと聞こえてくる異国の言葉は、よくても3割しかわからなかったけれど、このときのわたしは「相手の気持ちを察するスキル」が異常に発達していた。

語学学校のレベル分けテストで、いちばん下のクラスになったって、さほど大きな問題はない。

そして、同じクラスを見渡すと、もうひとり。

英語がぜんぜんできないのに、コミュニケーションにまったく困っていない韓国人がいた。

それが彼だった。

わたしと彼は、なぜか言葉が通じた。

不思議なのだが、どんなに英語が上手でも、母国語が違う人とのやり取りに苦戦する人はいる。流ちょうな英語でべらべらとはなしまくった挙句、最終的にケンカしている人をたくさんみた。

「ねえねえ、これ。あの子が日本に一時帰国したときのおみやげ。みんなで食べてって」

「まじで?!ありがとう。みんな喜ぶよ」

もちろん、この会話は全部、英語。

文法がめちゃくちゃで、単語を重ねるだけのニセモノだったとしても、わたしたちはなぜか、意志の疎通ができた。

次第に周りは、日本人と韓国人のコミュニティの懸け橋として、わたしたちを利用しはじめる。

「思考回路が似ているんだね」

そう言われたけれど、今思えば、そんなことはあるわけがなかった。

メキシコ、イタリア、フランス、ロシア、中国、韓国、日本と、異文化がすぎるわたしたちのクラスでは、たまに不協和音が流れたけれど、わたしたちは、その不協和音にとても敏感で、争いごとは止めようとしていたし、止められた。

そしてわたしたちは、自然と一緒にいることが多くなった。

12か月前:わたしたちは似ている


朝5時のCNタワー in トロント

1年間カナダで同棲し、その後、2年間の遠距離恋愛の末、わたしたちは韓国で一緒に暮らすことになった。

韓国に行くことを決めた理由はシンプルで、働き先が見つかったから。

コネ文化が根深く残る韓国では、人と人とのつながりでいろんなことが起こる。

仕事を紹介してくれたのは、彼の、先輩の、友達の、友達。そうなってくると、さすがにもうよくわからないけど、とにかく会いに言った。

「日本の会社と韓国の会社のコラボで、新しいプロジェクトを立ち上げたい。その間に入って、調整役になってほしいんだ。」

プロジェクトの中身が多少ふわっとしていることに違和感はあったけど、わたしは思いのほか、するっと韓国で働けることになった。

「事業が上手くいけば、就労ビザも出せるかもしれない。」

わたしは、少しだけ期待した。

「とりあえず大学の語学堂に通って、学生ビザが切れるまでに婚姻届を出して、途中で結婚ビザに切り替えよう。」

彼の計画は、現実的ではあったし、わたしも異論はなかった。でも、ほんとうは不安だった。

結婚届は、ビザがほしくて出すものじゃない。

***

韓国語の日常会話に困ることはなかった。大変だったけど、日本で働きながら、大学の夜間講座で勉強してきて、本当によかった。

ビジネス会話ができるかどうかはやってみないとわからないけど、この2年で10回以上韓国を訪れ、彼以外の韓国人ともたくさんコミュニケーションをとっていたので、自信はあった。

彼との会話もいつも間にか、英語より韓国語のほうがラクになっていた。

もともとなんの不自由もなかったわたしたちのコミュニケーションは、わたしの韓国語によって、さらに強度を増した。思考回路の端と端がつながっているかのように、なめらかだ。

彼は相変わらず全く日本語ができなかったけど、そんなの、どうでもよかった。

***

韓国には、「ウォルセ(月貰)」と呼ばれる独自の賃貸システムがある。

最初に保証金を大家さんに預ければ、家賃は格安。

わたしは日本で働いて貯めたお金で、わたしたちの保証金と家賃を払った。生活費もあと1年分ぐらいなら、このお金でどうにかなる。

彼は同い年ではあったけど、1カ月前にやっと大学を卒業したばかり。大手経済新聞社の記者として、就職が決まっていた。

韓国の男の人は、社会に出る前に約2年、軍隊に行く。この2年の時間のロスが、韓国の経済的発展の遅れの原因になっていると、彼はよく言っていた。

遠距離恋愛をしている間に、わたしは2年働いて、ある程度のお金を作ることができた。だけど、彼は今からその2年を経験する。軍隊がわたしたちを経済的につらい立場に立たせているのは、たしかだった。

お金がないわたしたちは、わたしが日本から持ってきた全財産の200万円を頼りに、とにかく安い新居を探す。

保証金の100万円を提供すれば、家賃は1万4000円/月。

日本ではあまりない半地下の家は、秘密基地みたいでワクワクした。

9か月前:言葉の違い


韓国の居酒屋で飲んだソジュ(韓国焼酎)

韓国での生活は、とても忙しかった。

朝は大学の語学堂で韓国語を学び、昼からは仕事場へ。13時から21時まで仕事をして帰宅。22時ごろから夕食の用意をして、深夜24時ごろまでに食べ終わり、そのあとひととおりの家事を終え、大学の宿題をして、寝る。

語学堂でわたしが振り分けられたのは、上級クラスだ。

初級と中級には、韓国ドラマや歌手が好きなミーハーな日本人がたくさんいたけれど、彼らはだいたい1年で帰ってしまい、2年目からはじまる上級クラスにはきてくれない。

日本語を話す機会は、ない。

代わりに同じクラスにいたのは、国籍が韓国で、母国語が英語の韓国系アメリカ人。

「うちの親、英語話せなくて、コミュニケーションできないんだよね…」

そういわれて、なんかすごい、と思った。

韓国で仕事を見つけたいと言うカンボジア人の女の子もいた。彼女の手帳の中には、韓国アイドルの写真を入れるのと同じ感覚で、自国の王様の写真があった。

「かっこいいでしょ、うちの王様」

と言われて、びっくりした。かっこいいの定義が、むずかしい。

韓国の大学は、カナダの語学学校よりもさらに国際色豊かで、楽しかった。

***

予想はしていたけれど、わたしの韓国語は、仕事となるとぜんぜんダメだった。

分厚い資料を理解した上で書く企画書は、常にこれでいいのか不安だったし、大勢の前でするプレゼンテーションは、緊張するしないの問題以前に、聞き返されないようにするのが、やっとだった。

日本語を取り上げられたわたしは、常に仕事で5割くらいのパフォーマンスしか出せず、これが思いのほか大きなストレスになった。

さらに言えば、カナダにいた時は気がつかなかった、意外と大きな問題に遭遇した。

韓国本土には、日本のことが嫌いな韓国人がいる。

***

韓国人は、ひとりでごはんを食べることをよしとしない。

だから同じ空間にいると、一緒に食べようと誘われるのが普通。

ちょっと困るのは、近くの食堂に設置されたテレビから流れるニュースだ。このころの韓国は、毎日、竹島を巡る領土問題に関するニュースばかりを報道していた。

ある日、となりの部署の先輩2人から、一緒に食べようと誘われた。

とんかつがおいしい店があるらしい。

ひとりはよく仕事が一緒になる優しい先輩。そして、もうひとりは直接話したことはない、知らない先輩。

わたしたちはとんかつを頼み、テーブルに置いてある日本のウスターソースに目をやった。

知らない先輩が、日本から遠路はるばるきたはずのウスターソースを指さして言った。

「わたしコレ、嫌いなんだよね。初めて食べたとき、まじで死にそうになった」

わざわざ皿の上にソースをだし、なめて、顔をめちゃくちゃに歪ませる。

そして、食堂のテレビをぼーっと見ながら先輩は言う。

「竹島はうちらのもんなのになー」

ボソッと言われて、耳が熱くなった。

自分のことをたいして知らない人から向けられる、無条件な悪意ほど怖いものはない。

とんかつは、なかなかこなかった。

***

わざわざ日本人を個別攻撃してくる韓国人は、多くない。

でも、いつどこから飛んでくるかわからない攻撃をひとりで受けるのは、正直キツかった。

ずっとこのまま、ここで、この人たちと同じ仕事をしていくことはできない。

日本人であることに誇りを持てる、日本人であることを強みにできる仕事を早く見つけないと、わたしがわたしでなくなってしまう。

***

土日は、留学していたころに出会った友人たちと飲みに行った。

1次会、2次会、3次会まで飲んで、その後インターネットカフェに行き、みんなで朝までゲームをするのが、週末のルーティン。

わたしはみんながゲームをしているとなりで、日本語を勉強している韓国人に向けたブログを書くようになった。

韓国人にもっと日本人のことを知ってほしい。

知ってもらえたら、メディアの日本の取り上げ方も変わってくるのではないか。

わたしは、そんな自分勝手な夢ものがたりを信じ、ブログの更新に夢中になった。

寝る時間を削って、毎日10記事以上アップする。そんな日本人はめずらしかったようで、わたしのブログは注目され、賞をとり、あれよあれよという間に、書籍出版が決まった。

彼は「おまえ、やっぱり『天才』なんだな」と、顔をしわくちゃにして喜んでくれた。

カナダに住んでいた時から、彼は日本語の「天才」という言葉だけは覚え、よく使っていた。

「俺たちは『天才』だから大丈夫。なんでもできる。」

***

彼のおばあちゃんが亡くなった。突然だった。

入院しているのは聞いていたけれど、

「いつかおばあちゃんと会ってほしい」

と言われながら、結局、会うことはなかった。

もう婚約者として家族へのごあいさつが済んでいたわたしは、おばあちゃんのお葬式を家族の一員として迎えることになった。

お葬式の朝。

わたしはどこに行くのかもよくわからないまま、親戚一同で貸切った大きなバスに乗せられた。彼も、彼の家族も、みたことがない親戚のおじさん、おばさんも、だれも説明してくれない。

大きなバスは、ソウルの大都会から、ぐんぐん高速道路を走り、いつの間にかどこかの田舎街へ。そのあと、ぐるぐる回る山道を走って、走って、走ったら、どこかわからない街が見渡せる、高い山の上についた。

1台の大きな、オレンジ色のショベルカー。

韓国は、土葬だ。

ショベルカーが大きな穴をこれでもかと掘っているあいだ、親戚一同はこれでもかと、大きな声を上げて、泣いた。

なんの前ぶれもなく泣きはじめた人たちに驚いたわたしをみて、彼が、韓国では大きな声で泣くことに、弔いの意味があることを教えてくれた。

おばあちゃんは、土にかえり、泣き声はやんだ。

***

山の近くの小屋には、かんたんな食事が用意されていて、わたしは家族の一員として、親戚一同の配膳の準備をした。

わたしの持ち場は、テンジャンチゲ。

「彼は男なので、キッチンに入ってはいけないの」

知らないおばさんがそう言って、わたしと彼を引き離し、テンジャンチゲのよそい方をおしえてくれた。慣れない年配の方の発音は聞き取りにくく、何を言っているのか、正確にわからない。

わたしのよそったテンジャンチゲを見た知らないおじさんが、少し怖い顔をして、大きな声でなにかを言った。

わたしには、なにを言っているかわからなかった。

6か月前:文化の違い


近所の韓国屋台でよく食べたトッポギ

彼は家事ができない。

カナダで同棲している時も、わたしがほとんどの家事をしていたが、当時はヒマだったのでたいして気にしていなかった。

わたしは相変わらず、学校と、仕事と、出版活動で忙しい。毎日3~4時間しか寝られない。

「今日仕事で遅くなるから、とりあえず、たまごだけゆでといて」

とお願いしたら、すごかった。

キッチンは割れたたまごが散乱し、白い殻がリビングまで飛んでいた。それ以来、わたしは彼に家事を頼まなくなった。

夜中の24時に帰ってきて、食事の支度、掃除、洗濯をしていると、今が朝なのか、夜なのか、よくわからなくなってしまう。

「明日までに、この原稿書かなくちゃ」

深夜2時。彼はまだ帰ってこない。

彼は飲んで帰ることが多かった。新卒1年目の新人新聞記者の仕事は、良い記事を書くことではない。

先輩が気に入る居酒屋を探すこと。予約をすること。飲んだ後、タクシーを捕まえること。先輩をタクシーに乗せること。

韓国はタクシーが激安で、みんな自分の家の車のようにタクシーを使う。

彼は毎日タクシーで、夜中の3時に帰ってくる。

***

留学時代の友だちの中に、韓国人同士のカップルがいた。

カナダにいる時から付き合っていて、彼らとわたしたちはよく一緒に飲みに行った。ふたりとも韓国人なのに、将来は、オーストラリアで暮らすという。

「なんで韓国で暮らさないの?」

と、わたしは聞いた。

「韓国はいろいろ大変だもん。もっと自由になりたい。」

ふたりは、あたりまえのようにそう言って、オーストラリアに旅立った。

***

新年が来た。

韓国では、女の人だけ年末に長男の家に泊まり込む。そして、泊まり込みでお正月の料理を作る。

本来ならわたしも泊まり込むべきなのかもしれないが、「行きたくない」とわがままを言って、当日だけお手伝いをすることを選んだ。

彼が、電話口でだれかに謝っていた。

韓国では、ポジションごとに正確な持ち場と役割を与えられる。

わたしは、自分でもあまり意識しないまま「次男の嫁」という持ち場と役割を与えられ、困惑していた。

男はこっち、女はこっち。

長男はこっち、次男はこっち。

長男の嫁はこっち、次男の嫁はこっち。

たぶんこのポジション分けは、ずっと続いてきたし、これからも永久に続くんだろう。

わたしがもし彼の子を産んだら、次男の長男はこっちで、次男の次男はこっち。次男の長男の長男はこっちで、次男の次男の次男はこっち。

ほんとに、ほんとに、永遠に続く。

このころから、わたしは本格的にひとりになりたがるようになった。でも、やっぱり韓国は、わたしをひとりにはしてくれない。

***

仕事場でのお昼ごはん、わたしはひとりになりたくて、お弁当を持っていくようになった。

食べ終わったお弁当箱を洗っていたら、うしろからひそひそと話し声が聞こえた。

「へー。日本人も同じように洗うんだね」

あの、日本嫌いな先輩だった。

宇宙人じゃないんだから。そりゃ洗いますよ。その韓国語、ほぼ聞こえてますよ。

仕事で使う韓国語は、良くて8割しか聞き取れない。なのに、悪口やウワサ話は、ほぼ10割。完璧に聞こえてしまう。

仕事から帰る電車の中、理由がわからない涙がでて、止まらなくなった。

なぜ自分が泣いているか、よくわからない。もしかしたら、少し前からそうだったのかもしれない。

さすがに涙が止まらなすぎて、近所の公園を歩いてから帰ることにした。今日は彼が早く帰ってくるので、涙がみられると、やっぱりまずい。

公園を歩いていると、携帯電話がなった。

父からだ。

滅多に電話なんてしてこない、父からの電話。

日本からの電話。

途中までは業務連絡だったのに、何もはなさなくても「どうした?」と聞かれて、焦った。

父はわたしの気持ちを察する能力が、異常に高い。また、涙が止まらなくなった。

泣いた。とにかく泣いた。

父はめったに泣かないわたしが泣いているので、ちょっとびっくりしていた。そして、帰っておいでとだけ言った。

そろそろ学生ビザが切れてしまう。就労ビザは、出してもらえる気配がない。

わたしたちは、婚姻届けを提出した。

***

初夏。ちょっと早い夏休みをとって、わたしたちは中国へ。北京から上海とまっすぐ縦に移動する。気持ちいい。

わたしたちは、また外国人になった。

わたしたちは外国人同士になると上手くいく。

英語も、韓国語も、もちろん日本語も、なにもいらない。

3か月前:わたしたちは似ていない


カナダで見た、ナイアガラの滝と虹

壁がカビた。

旅行から帰ってきたら、壁一面が緑だった。びっくりした。

梅雨の時期、韓国の半地下住宅の壁がカビるのは、よくあることらしい。

彼は笑いながら、大丈夫、大丈夫と言って、となりのスーパーで除湿剤を買ってきた。小さい除湿剤を部屋の四隅に置いたけど、そんなのなんの意味もない。

壁は、すでに緑なのだ。

***

全ての家事をあたりまえにわたしがやるようになったころ、彼はわたしがする家事のひとつひとつに、細かい文句を言うようになった。

「ワイシャツの首のところは黒くなるから手洗いしてっていったじゃん。愛してればできるでしょ?」

彼は、お願いごとの下の句に「愛してればできる」と、つけたがる。

その度にわたしの頭は「愛してる」の意味を反芻し、よくわからないその言葉の意味についていったん保留し、とりあえず「わかった」とだけ、言うようになっていた。

そんなことより、明日までに、ここまで原稿を書かないと。

もう、ねむくて、頭がいたくて、早く布団に入りたかった。

原稿を書こうとしたら、彼はもう寝ていた。

***

ニュースは、危険。

突然、竹島の話をする。

わたしは原稿を書きながら、ニュースではなく、子ども向けの教育テレビに耳を傾けるようになっていた。

韓国にも、教育専門チャンネルがある。

キャラクターが出てきて踊ったり、歌ったり。子育て中のお母さんに向けた、ドキュメンタリー番組も多い。

かわいい子どもが出てきて、鼻歌を歌う。

わたしは耳を疑った。

3歳の女の子が歌う鼻歌の歌詞が、「竹島はわたしたちの島」だった。

チューリップの花が咲くように、ぞうさんのお鼻が長いように、韓国では竹島はわたしたちの島なのだ。

ニュースとは、わけが違った。竹島は、普通の3歳の女の子の日常だった。日常に溶け込みすぎた竹島は、もうわたしにはどうすることもできない。

あたりまえだけど。

どんなにわたしが、この原稿を書いても、日本人のことを伝えても、たぶんそれはなんの意味もない。

もうわたしには、なにもできない。

***

深夜3時。わたしは、とうとう彼に言った。がまんしていたことを全部。よくないなと、思った。思ったけど、限界だった。

会社で日本人が嫌いと言って文句を言ってくる先輩がいること。竹島の話ばっかりされること。半地下の家は寒くて、虫が多いこと。温度を測ったらトイレはマイナス10℃だったこと。壁はずっと緑なこと。彼は時間があると寝てばかりで、家事は全部わたしがしていること。彼は自分で稼いだお金を家に入れてくれないので、わたしが日本から持ってきたお金がもうほとんどなくなっていること。お金の管理を自分に任せろというから任しているけど、何に使っているか全く報告してくれないこと。手がたまに震えること。頭痛が止まらないこと。毎日電車の中で、涙が止まらなくなること。涙が止まるまで家に帰れず、近くの公園を5周ぐらい歩いていること。ワイシャツの首のところの手洗いは自分でやってほしいこと。

そして、最近はぜんぜん彼の頭の中の声が聞こえないこと。

あなたが発する言葉の意味が、ぜんぜんわからないこと。

わたしたちは、似ていないこと。

わたしたちの脳はぜんぜん似てなかった。おそらくカナダで似ていると感じたのは、彼がわたしに合わせてくれていたからだ。彼がわたしのことが好きだったから、合わせていただけのはなし。そういう、よくある恋愛の、単純なはなし。そして、わたしは、あの時のわたしたちは、言葉ができない分、「相手の気持ちを察するスキル」が異常に高かった。

彼は、言った。

「おまえは韓国の悪口ばっかりだ。ここは韓国なんだから、おまえが韓国に合わせるしかない。ここは日本じゃない。おまえが正しいと思っていることは、ここでは間違いなんだよ。」

悪口なんて、言ったことなかった。そんなつもりなかった。

韓国語が聞き取れなければごまかせた。でももう無理だ。ごめん。わたしはもう、韓国語がペラペラだ。

韓国語、めちゃくちゃ勉強した。あなたと生きていきたかったから。早く韓国で、韓国人と同じように働けるようにならないと。あなたはまだ学生で、わたしがお金を稼がないと暮らしていけないと思った。

言葉をしゃべれればしゃべれるほど、言葉が聞こえれば聞こえるほど、善意も悪意も表面しか見えなくなって、想像力が働かなくなっていくなんて、気持ちがこんなに食べられてしまうなんて、そんなの、わたし、知らなかった。日本で勉強しちゃったせいで、いろいろ順番がおかしくなった。勉強してこなきゃよかった。一歩ずつ文化に慣れながら、一歩ずつすすめばよかった。

彼は彼で、深夜までの残業と付き合いの飲み会で、それはそれは疲れているように見えた。

だからオブラートにつつむ余裕なんかなく、出てきた本音は、本音だった。

「韓国にきて、最初から韓国語がしゃべれて、やっぱり『天才』だと思った。でもやっぱり俺にとっては母国語で、言葉のせいか、子供みたいに見えた。カナダにいたころは、なんでも俺よりできて何をしても勝てなかった。尊敬してたのに、俺の方が教えることが多くなって、もう疲れた、ごめん。」

わたしとあなたは、どこも似てない。

性別も国籍も、頭の中も、ぜんぜん似てない。

そして、わたしたちは別れることを決心した。

韓国に来て、約12か月が経過していた。

0か月前:離婚。そして…


カナダでみた夕日

結果、わたしたちは離婚した。

国際結婚というのはけっこう複雑で、2つの国で婚姻届を出さないと成立しないにも関わらず、韓国ではしっかり結婚が成立してしまっていた。

わたしは一度日本に帰国した。

彼はあろうことか、「絶対に離婚しない」としばらく言っていたけれど、言い出したら聞かないわたしの性格を知っているので、あきらめてくれた。

次に韓国の地に足を踏み入れた時は、家庭裁判所の前で待ち合わせをした。

常に灰色だった韓国の空は、この時ばかりは真っ青で、わたしたちはお互い「ありがとう」と言って、ハグをした。わたしたちは、笑顔だった。

彼は「どっかで、めしたべてく?」と言ったけど、わたしは「ううん、いいや。」と答えた。

そして、その足で、空港に向かった。

結局彼は、最後まで、日本語が話せなかった。

***

国際離婚の原因をよく聞かれるけれど、正直、説明がむずかしい。

国籍の違いがどーのとか、文化の違いがどーのとか、そういうことじゃない。

単純に、わたしと彼の間に、ほんのちょっとの愛と、想像力が足りなかっただけだ。

わたしの離婚歴は、1と1/2回。

実はもう1回離婚しているけれど、それはまた別のはなし。

おわりに


多様性がより重視されるようになったこの時代、ほんとうに大事なことは、言葉や文化への理解ではなく、ほんのちょっとの「愛」と「想像力」だと思います。わたしはこのころ、言葉や文化などの表面上の理解を焦ったばかりに、「愛」と「想像力」がわからなくなっていました。ほんとうは得意なはずの「相手の気持ちを察するスキル」が、全くなくなっていました。

自分とは違う環境で育ってきた、となりのだれかを大事にしたいと願うあなたへ。自戒の念を込めて。

2024年5月吉日
離婚歴1と1/2の女、枝豆より

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