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自己否定が必要なくなる詳しいお話

やばい、、気づいちゃったかもしれない。
自己否定の鬼だった僕ですが、、

今日考えてたことの結論
自己否定の必要がないっていう理屈が通ってしまいました。

これが本当ならとても嬉しい。。


でもこれ、ほんとすごく簡単な話なんです。

ごちゃごちゃ考える必要はありますが、
考えてみれば当然のことで
何も難しい話ではありません。


時間は遡りまして
赤ん坊の頃のことを考えました。

今、僕は人体解剖学を趣味で勉強しているのですが
まず人間という生き物は
骨と筋肉、健幕、健、臓器、、、、などたくさんのパーツから成り立っていることを学んでいます。

言われてみれば当たり前のことですよね。うん。。

このくらい当たり前の話なんですが、
赤ん坊の頃は体があり、思考はないはずです。

人間は脳みその生き物だというのを聞いたことがあるくらい
自然界で唯一、思考で生きる動物です。

しかしながら、生まれた瞬間の赤ん坊の頃は思考を持ちません。
脳みそがまだ学習をしていないからです。

なので基本的には赤ちゃんは生理的欲求だけを頼りに生きています。

・食う
・寝る
・排泄

これは人類全員が同じはずなんです。


成長の過程で人はたくさん思考するようになります。
両親を認識し、発語し、読み書きし、人間関係を作り、文化に触れ、、、

そこで生まれるのが自我(自分)です。

自我は【自分】と普段から呼んでいるものです。

たくさんの人と触れ合い、関係を築きながら、好き嫌いを覚えたり
得意不得意を覚えたりした結果

自分が形成されていくと思います。

これは言葉を覚え、生まれた国の文化を学び、社会の仕組みを知り
周りの人間を見て覚えた自分の成り立ちであると思いました。

体【つまり、骨や筋肉、臓器など】に個体差があるように
脳みそにも個体差があるため、得意と不得意が成長の過程から顕れはじめたので
自分という自我【思考】が形成されていくと思いました。

そして、個体差があり自分ではない個体である人と比べる社会を知ることで
競争という概念を見つけ、生き残るためには競争に勝たなければならないことも知る、、、というわけです。

つまり、ここまで全てが自分・自我【頭で学んできたこと🟰思考】です。


よく言われている「自分」とは脳と身体の特性だと言えます。

自分という身体と脳みその性質に適合した得意なこと、不得意なこと【好き・嫌い】
これを自分とよく表現しているのを見かけます。


赤ん坊の頃にはなかった「自分」という存在が
成人になると発現する。

つまりは脳みその成長によって、思考する過程で生まれたものであるわけです。

なので、本当を言えば
「自分」というものは存在しなかったし、しないと思います。

まず、「自分」という何か形があるように感じるものは
特にないのだと思いました。

それは五感が感じとる好みと思考が作り上げた創作物のように感じます。

自分=自我=思考

なら、、自分とは思考のことになります。

思考はとてもとても複雑なものです。

人間は頭脳を持ち、思考する生き物であるがゆえに
自然界の生き物で唯一自殺する生き物です。

言ったら、そのくらい複雑ということです。

赤ん坊の頃は生きるのに必死です。
後に自殺をした人間であっても、赤ん坊の頃は生きるのに必死だったはず。

生きたいと思考することないくらい
生きることそのものだったと思います。


つまり、自分という存在の顕れが
人間を発展にも導き、苦しめるための道具にもなると言えます。

人類はまだ頭脳という人体の一部をうまく使うことができないみたいです。

自殺がある限りは。。


自殺があることから分かるように
脳は体と繋がっています。

体が先でもあるし
脳が先でもあります。

当たり前かもしれないですが、一体ですよね。


自殺はなぜあるのか?
という問いに関しては

いちばんは
自責・自己否定があるから。。だと思っています。


感傷的なショックから
後追い自殺という言葉もありますが、

自殺要因の
第一位は自己否定なんじゃないでしょうか。

後追い自殺も、自分より上に誰かの存在を置いた結果なので
それも自己否定の一種かもしれないですね。

自分を否定することで、簡単に脳みそは壊れるんじゃないかと思っています。
人間だけが高度に考える技術を持った生物です。

つまり、生物的に見ても横に拡がりのない
唯一の考える生き物ということになります。

だから、生存のための進化として
自己否定を自然に予防する仕組みが人体には少ないのじゃないか・・・
とも思いました。

日光を浴びる・よく寝る・穏やかな人間関係を築く
など、うつ病に効くとされる処方はあります。

だけど、これは意図的に行動を促さないとできないことです。
自然に予防するというものではないので
まだまだ人体としては不完全といえます。

つまり、自己否定に対する予防が
今現在仕組み化されていないのが

現代の人体ということになります。


なので、自己否定や自責は体に大きなダメージを残します。
多くの体力を奪いますし、病気を生むでしょう。

精神病になるのも脳みそ(思考)からです。


人間は思考をコントロールできるほどの人体システムが
確立されていないと言っていいと思います。

体調不良になる程度で、お知らせすることしかできません。
回復・治療ができないんです。

自分でなんとか気づくしか方法がありません。


自責や自己否定が必要がない理由があります。

そもそも自分というのが、赤ちゃんの頃にはなかったものだからです。
思考は受け継がれてきたものです。

周りの環境・生まれた国・両親・大人たち
その人たちから受け継がれてきた脳の創作物が自分というわけです。

だから、自分という人格は
成長過程で脳みそという人体が創作したものであって、
元々あったものじゃないんですね。

人体が作り出した創作物が自分です。

食べ物関連で言えば、うんちみたいなもんですね。


それに良いも、悪いもなくないですか?


最初に言ったように、人体には個体差があります。

僕は発達障害なので、通常よりも成長スピードが遅かったり、
能力には多少の偏りがあります。

性格だとか、人格は発達障害は関係ありません。

ただの脳という身体の性質なだけなんです。

みんなが脳みその機能や成長スピードが同じわけじゃないです。
きっとみんながバラバラですよね。

それは骨の形や長さ、筋肉量などもみんながバラバラ
であるように、個体差があるだけなんです。

だから脳みそも一緒で個体差が必ずあるわけです。

そこで比較や競争をする必要がまずないことがわかります。
だって、個体差があるわけだから。。。。

出来がいいとか、出来が悪いとか
個体差があるから当然出てくるわけです。

そこで落ち込んだり、自分の努力が足りないなどの
自己否定をすることが必要でしょうか・・・?

僕は必要ないんじゃないかと思います。

苦手があって、得意があるのも当たり前ですよね。

人と比べて苦手とか得意というのじゃなくて
なんとなく、自分の感覚として出来る出来ないがあると思います。

全部、個体としての人体の話です。

だから、自分という脳みその創作物である「自我・思考・自分」の話ではないわけです。


「自分」というのは脳の創作物なのだから
何か考えている時、それは脳みその運動であり、「思考さん」であることを確認します。

なんというか、切り離していいと思います。
ハサミでちょきんと。

これが自分であると思い込みすぎているというか
一体化していると、本当に辛いですよね。

あくまで、思考さんは思考さん。。
別物です。

受け継いできた脳みその創作物。

つまり、自己というのは、脳みその運動の結果。
生存本能から生まれた思考です。

それを否定しても、何も傷つかないでいいということだし
自己否定や自責なんて一切しなくてもいいよ

と思いました。


この国で生まれたからには、
この国の法律には従って生きてれば
攻撃もされないし、生きていけるから。


自責・自己否定には意味がないし、
自己とは受け継いできたもの・脳の創作物


これだけですノ


リョータ

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