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映画感想文【ピアノ・レッスン】

1993年 オーストラリア・ニュージーランド・フランス合作
監督:ジェーン・カンピオン
出演:ホリー・ハンター、ハーベイ・カイテル、
 サム・ニール、アンナ・パキン

<あらすじ>
19世紀半ば。エイダはニュージーランド入植者のスチュアートに嫁ぐため、娘フローラと1台のピアノとともにスコットランドからやって来る。口のきけない彼女にとって自分の感情を表現できるピアノは大切なものだったが、スチュアートは重いピアノを浜辺に置き去りにし、粗野な地主ベインズの土地と交換してしまう。エイダに興味を抱いたベインズは、自分に演奏を教えるならピアノを返すと彼女に提案。仕方なく受け入れるエイダだったが、レッスンを重ねるうちにベインズにひかれていく。

映画.com


昔なぜか家にあったサントラCD。
マイケル・ナイマンという名の音楽家による美しく物悲しい旋律、『悲しみを希う心』は良く覚えている。

6歳で喋ることを止めたという主人公エイダ。
彼女は自分の声としてピアノを奏でる。嬉しさも悲しさも、そして言葉にならない激情も。であるから、モーツァルトだとかバッハだとかのような耳に心地よいものばかりではない。技術ばかり高いそれはいっそ不協和音とも言えるかもしれない。
劇中では嫁ぎ先の女主人(夫の叔母?)も「気分が良くない」と評するが、むき出しの感情をぶつけられると考えればその意見も納得がいく。
どの優れた音楽も、生まれでたばかりの瞬間はきっとこんな不完全で掴みどころがなくて、しかし強く共感を生むものだったのではないだろうか。

スコットランドからニュージーランドへ。
口も聞けず(おそらく)私生児の娘を抱えた訳あり物件であるエイダの結婚は、厄介払いの意味もあったに違いなく、娘のフロラにとっても不満な処遇だったろう。「絶対パパって呼ばない」というフロラは、奈良美智の描く少女のように利かん気の強さと可愛さが詰め込まれ、優れたキャラクターで観客を引き付ける。
映画の主人公は間違いなくエイダであるが、フロラの存在も欠かせない。
母親の声代わりという役目を与えられ、どんなに賢しらがっても子供は子供。物語のクライマックス、エイダの不義を密告という彼女なりの正義によってもたらされた悲劇はあまりにショッキング。
チャリティー劇で扮した衣装を気に入って、いつも身につけている天使の羽が、天使のようでもあり悪魔のようでもある、そのキャラクターをより際立たせている。
ある意味一卵性母娘、エイダの劣化コピーのように描かれているフロラ。成長した彼女は一体どんな娘になっているのだろうか、非常に興味を唆られる。
演じたアンナ・パキンはアカデミー助演女優賞を受賞。納得。

性描写にしてもクライマックスの悲劇にしても、描写は過激である。家族でのお茶の間の鑑賞には適さない。むき出しの愛憎は、苦手な人は苦手だろうと思う。
だが彼らの激情に見た目に優しい美しさを求めるのも筋違いだろう。激情とは理性を取り払ったその向こう、本能にも等しい感情のことなのだから。
エイダとベインズ、野生の求愛を描き切ったからこそ、この作品は高く評価されている。

己の決めた道だけを生きるエイダの姿は、『哀れなるものたち』のベラに通じるものを感じる。
どちらも女性は貞淑であれ、とされる世界において自らの意思を決して曲げなかった。
『哀れなる〜』とは異なり『ピアノ・レッスン』の世界は現実のものである。エイダのような鋼の意志をもった女性であっても、社会のシステム(結婚)には従わざるを得ない。
エイダとてそれは理解しているだろう。であるから父に従い一度は嫁いだ。しかし彼女の心は彼女自身にすらままならないもので、自分の意志の伴わないところでは結局は生きられない。そして周囲もダイヤモンドのような美しく強い彼女の意思に巻き込まれ取り込まれ、従わざるを得ない。
ホリー・ハンターの鉄壁の美貌と、それに比例したかのような生きづらさ、切なさが強く印象に残った。

ラスト、ピアノとともに海の底に沈み、エイダは一度死を遂げたのか。
生まれ変わったかのように柔らかく微笑む彼女の姿に、また『哀れなるものたち』とのリンクを感じる。
鑑賞には覚悟がいるが、深く様々な感想をもたらす文学作品であった。◎


※参考として


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