毒であり薬――藤田直哉『シン・ゴジラ論』(作品社)書評

(シミルボン2019年10月09日投稿)

「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」と銘打たれた『シン・ゴジラ』が、人々の多様な解釈・議論を巻き起こしたのはなぜか? に迫る。なぜだろう? 

ゴジラは政治・哲学が届かない〈美〉の問題をあつかう「魔法の箱」(テリー・イーグルトン)として機能している。悪夢として、そして快感として、おもわず何度も反復してしまう。もはや「神の国」ではなくなった日本の空虚を埋めるサブカルチャー・アイコンなのである。そもそもカルチャー(文化、宗教、サブカルチャー)は現実との緩衝材であり、また緩衝材であるがゆえにイデオロギーによる政治利用=プロパガンダになることもあった。これは諸刃の剣というか、毒にもなれば薬にもなるということ。エンタメとして「だけ」楽しむのも危険だし、政治・イデオロギー「だけ」を読み込むのも、また野暮だ。両者の重なりあり、せめぎあいの場としてとらえるべきというのが筆者の主張。そのうえで『シン・ゴジラ』が今の日本社会が大きく流されている「右」に掉さすものではないか、と注意を喚起している。

『シン・ゴジラ』論はたくさんあるが、初代『ゴジラ』以外の、平成シリーズやミレニアム・シリーズまで俯瞰し、〈ゴジラ〉というイデアを抽出、その上で再び『シン・ゴジラ』を論じた第四章が、個人的には面白かった。というのも私はほとんど『ゴジラ』を見たことがないので(『シン・ゴジラ』とハリウッド『ゴジラ』ぐらいか)。

追記(2024年5月17日)

庵野『シン・ゴジラ』のあと、小松左京原作『日本沈没』がTBSドラマで『日本沈没―希望のひと―』というタイトルでリメイクされたが、庵野『シンゴジ』が311後の表象であるなら、『希望のひと』はポストコロナの表象であった。若手官僚を主人公にすえ会議室で事態が進んでいくシーンは『シンゴジ』を連想させた。『希望のひと』は見事に失敗したが、シンゴジにあった「日本は頑張れる」成分は純化して、山崎貴監督『ゴジラ-1.0』になったのではないか、と思う。『マイゴジ』はエンタメとイデオロギーのブレンドが絶妙だったのだろう、だから広くヒットした。戦争の亡霊を民主主義的な手続きで、国家に動員されず市民の自発的協力で、海に沈める。全方位的に配慮したゴジラであった。(むろん賛否はある)『シンゴジ』が

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?