緋色は霞んで遠からす

ヒーローになれるね。
母のことばは、自分に陽だまりの暖かさをつたえてくれた。父が叩き割った皿を拾いながら、父に抗議して殴られた頬に氷嚢をテープで貼り付けながら落ち込んでいた。そんな自分に母がかけたことば。

悲しそうに笑って、言われた。
わけが分からず、この不出来を憐れんで、父に勝てないこの身をあざ笑っているのでは、とすら思えた。

しかし、遠からず齢をかさねて、父に似た男をよく見るようになった。皿を叩き割ることに罪悪感も自責も覚えることがない人種。そうして当然と思える人種。唾棄すべき、殴ってしかるべき相手だ。

殴りかかるが、勝てなかった。
ヒーローになれない。殴り返されて苦痛と恥辱と自責に押しつぶされそうになる。ともに、皿の破片を拾うちいさな指が、そっと頬に伸ばされた。泣かないで、指の主人がそう言った。

もはやこの家の真なる主人は、この指先だ。あの男ではない。決して。知らずのうち、くちがひらき、呟いた。

「ヒーローみたいだね、舞ちゃん」

ああ。私はどうして女で。母と同じく、幼い娘に救いを見出して男性化を求めてしまうのか。わからなかった母は、ますます遠のいて、私自身も遠からず私から去り行く。

どうしてこうなったのか。これが私達の血筋であるのか。私と母、そして娘に連綿とながれる血の紅さであるのか。

緋色の呪いがのしかかる。その重さに悲しくなり、私が笑う。

娘が、意味がわからなさそうな、不審げな表情で私をじっと見つめる。
ごめんね。ごめん。

カラスみたいに、どこかへ飛び立ちたい。女のこの身を捨てて。娘を連れて、カッコウのように、托卵をさせて、娘を幸せな女の子にしてくれる誰かに育ててほしい。

私は、母になる。すでに母になった。私は、笑うことを止められず、悲しみも止められず、娘はますます眉をひそめる。

「舞ちゃん」

私は、母にヒーローになれと言われた。緋色の血の呪いが胸にある。
ただ、私は、本物のヒーローになろう、あのときそう誓ったんだ。そうなのだ。だから、

「いいんだよ。ここ、母さんが片付けるから。舞ちゃん、舞ちゃんはあんな男にだまされないでよ! 母さんにここは任せて。大丈夫、一人でも出来るから。母さんに任せてちょうだいね」

離婚を、しよう。
緋色の血をただのあかい血に戻すため、に。


END.

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