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暗い森の少女 第一章 ⑤ 生贄のいる家


上の叔父



祖父が亡くなってから、花衣の世界は点滅を繰り返しながら徐々に暗転していった。
祖父が亡くなったことで、祖母はずっと体調を崩しがちになり、寝込む日が増える。
母と、友人の多い下の叔父は友達の家に泊まり歩くようになった。
上の叔父だけが、愚直に仕事に行き、そのまま帰宅する生活を送っていたが、それは祖母を助けるためではなく、友人もいない、恋人もいない叔父は、仕事を終えて行く場所がなかったのだ。
祖母は、叔父のために無理をして起き、弁当を作り、洗濯をし、夕飯の支度をする。
まれに会社の飲み会があるというとき、花衣とふたりきりの食卓では祖母は白い飯と切ったちくわだけという手抜きもした。
好き嫌いの多い、食の細い花衣はそのことに不満はなかったが、祖父が生きているときは、村では肩身が狭そうでもあっても、いつもほがらかに笑っていた祖母の体が心配だ。
6歳の頃から、花衣は家事をする祖母について、まず料理を覚えていった。
祖母は料理がうまく、さっと作れるものから、手の込んだものまで幅広く作る。
米を研ぐことから教わり、あとは祖母の手元を見て同じようにやってみる。
「もしかしたら花衣は料理の才能があるのかも」
祖母は久しぶりににっこりと花衣に笑いかけた。
「今日のごま和えは、花衣が作ったのよ」
夕飯の膳に、ほうれん草のごま和えの入った小鉢を置きながら、祖母は叔父に言う。
「これが本当に美味しくて」
「いらない」
叔父は短くそう返す。
「子供の作ったままごと料理なんて出すなよ。こっちは一日中働いて疲れてるのに」
不機嫌そうに、味噌汁を飲みこんだ。
「親父が死んでから、手抜きだよな。弁当も佃煮で埋めてばっかりで」
「ごめんね」
祖母は体を縮めて、叔父に謝る。
「だいたい、姉貴を甘やかしすぎだろ。女なんだから家のことをさせろよ。いつだってお袋は姉貴と弟優先だよな」
いつもむっつりと黙って、なにを考えているか分からない叔父は、祖母とそう変わらない小さな体をいからして、怒鳴りつけた。
「そもそも、ここは松下の家だぞ? いつまで姉貴と花衣を置いてやってんだ。家のこともしないなら、葛木の家に行かせろよ」
「そんなことを言っても」
おろおろと祖母は、叔父と花衣を交互に見る。
「……そんなことを言っても……」
6歳の花衣は知らなかったが、祖父の遺産を相続したのは祖母と叔父たちであったが、祖母の相続分は、祖父の建てた家だけであった。
また、叔父ふたりは、家にお金を入れておらず、祖母や花衣の生活費、祖母の通院費、また、叔父たちの食費や、自宅の固定資産税など払っていたのは母だったのだ。
葛木本家からの送られてくる花衣の養育費は、曾祖母が管理している。
母は、家事などしている余裕はなくWワークをして家計を支えていたのだ。
それを知っている祖母は、母が自宅に寄りつかなくても黙っていた。
その頃から、上の叔父は何かにつけて花衣の行動を責めた。
箸の使い方、好き嫌い、外で遊ばず本ばかり読むこと。
そして、来年から小学生になる花衣が、校則に従って腰まで伸ばしていた髪をおかっぱに切ったとき、叔父はなぜか、花衣の頭を殴った。
「女が髪を切るな!」
自分の意志で切ったわけではなかったのに。
祖母はずっと花衣を抱きしめながら、叔父に謝り続けていた。

下の叔父


時たま帰ってくる下の叔父は、友人を何人も連れてきて、部屋で大騒ぎをしていた。
もともと、気性が荒いが情に厚い下の叔父は、不思議と慕われている。
そんな日は、祖母は食事や酒の支度で忙しそうにしていたが、ひとがたくさんいる家は、祖父が生きていたときのように空気が明るく、大変そうにしていたが機嫌がよいようだった。
そんな日は、いつも自室に閉じこもっている上の叔父も仲間に加わえてもらい、花衣に対するねちねちした嫌味を言うこともなかったので、それも助かっていたのだ。
しかし、誰も連れずに下の叔父が帰ってきた日、花衣は、上の叔父が側に来たときより、強く緊張するようになっていた。
祖父が生きているときは、下の叔父は酒を飲んで感情的になって、母や祖母に怒鳴ることがあっても、花衣に怒鳴ったことなどない。
「お前は妹みたいなもんだから」
そう言って、気まぐれに可愛がっては去って行く、そんな存在だった。
だが、祖父が死んでからの下の叔父は、飲酒運転で事故を起こし、酒の席で暴力沙汰を起こし、祖母は下の叔父を警察署まで迎えに行く日が増える。
もともと体格のいい下の叔父は、少しでも暴れると家族も友人も止めることが出来ない。
「ひいおじいちゃんに似てる」
祖母は疲れたようにつぶやいた。
下の叔父はどんどん飲む酒の量を増やしていき、酒を飲むと暴れるのが当たり前になってきたのだ。
話にしか聞いたことのない、曾祖父のように。
「花衣」
ある日、花衣が部屋で眠ろうとしていると、帰ってきた下の叔父が起こしに来た。
「土産がある、食べろ」
それは、折り詰めの寿司だったり、お好み焼きであったり、花衣の好物ではあったが、6歳の子供が寝ようとしているときに食べれるものでもない。
テーブルに乗せられた食べ物を前に、うとうとする花衣を揶揄いながら、叔父は一升瓶をラッパ飲みしていく。
1本で終わるなら、いい。
しかし、2本目の中身が半分に減ったころ、叔父の、花衣を見る目つきが変わる。
花衣の目の前に、どんっと大きな音を立てて酒瓶を置く。
花衣は飛び起きた。
「お前、俺を舐めてるのか?」
低い声で叔父は言う。
びっくりした答えられない花衣に、叔父は激昂して怒鳴りつける。
「俺が買ってきたものを食べれないって言うのか!」
叔父の太い腕が花衣に伸ばされ、肩を掴まれる。
折れるほど力を込めた手は、花衣の体をがたがたと揺すった。
「お前の口はなくなったのか! おい!」
口を開けば下を噛むだろう。
そんな勢いで前後に肩を揺さぶられたあと、叔父は花衣を床に引き倒し、花衣の腹を殴りつけた。
衝撃と痛みに、花衣は胃液を吐いてしまう。
「なんとか言え!」
叔父の手が、花衣の顔を殴ろうとしたとき、じっと部屋の隅で固まっていた祖母が止めにはいった。
「やめて、もうやめて」
祖母は花衣の頭を庇った。
「傷が目立つところは殴らないで」
言われている意味が花衣には分からなかった。
そうして、叔父は花衣の胴体を殴り、けり、無理矢理、花衣の口に酒を流し込むようなこともあった。
その間、祖母は叔父が顔を殴りそうなときだけ声をかえて止める。
同居している上の叔父には、その物音は聞こえているのだろうが、けっして部屋から出てくることはない。
2時間ほど、理由の分からない折檻をして、だいたい下の叔父は酔っ払ったまま運転をして出かけてしまう。
下の叔父の車のエンジンの音が完全に遠ざかったのを確認して、祖母は花衣の体を抱きしめる。
「いい子にしようね。おじさんを怒らせては駄目だよ」
優しく顔を撫でながら細かく目を走らせるのは、花衣の顔や手など、目立つところに傷がないか見ているのだろう。
「花衣が殴られるのは、花衣が悪いから」
吐瀉物を片付け、花衣に着替えをさせながら、祖母は繰り返しそう言う。
当時の花衣が知ることはなかったのだが、下の叔父は中学生の頃荒れて、仲間とシンナー遊びや万引き、カツアゲなどしていたそうだ。
祖母は、その度に飛んでいって、謝罪し、金を渡し、下の叔父の行動が祖父の耳に入らないようにしていた。
「シンナーはやめて。少年院送りになる。せめて、煙草とお酒にして」
祖母はそう言って、下の叔父に小遣いを渡し続けた。
今、家計を管理しているのは花衣の母親である。
祖母の自由になる金は、生活費を除けば微々たるものであった。
金が手に入らない鬱憤なのか、下の叔父が泥酔すると花衣を殴るのは当たり前になっていく。
(おかあさん)
そんなとき、花衣は、帰ってこない母を思った。
(おかあさんなら、助けてくれる)
ある日、叔父に殴られ、畳の上で腹を抱えてのたうっているとき、部屋の襖が少しだけ開いた。
ちらりと見えたのは、母だ。母の姿であった。
(助けて)
声にならない声で、花衣は母に手を伸ばす。
しかし、静かに襖は閉まっていく。
叔父の拳がまた、花衣のみぞおちに入った。
襖の向こうにいたのは母なのか、いや、本当にそこにひとがいたのか。
花衣は暴力の嵐が過ぎるのを、朦朧としながら待つしかなかった。

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