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暗い森の少女第一章 ② 緑の監獄




緑の監獄


梅雨の始まった6月、祖母の布団の中でぬくもりに包まれながら、花衣は自分の憂鬱を窓に打ち付けられる雨音の数の分、増やしていった。
今月から通うようになった保育園は、早くも花衣には恐ろしい場所になっていたのだ。
どこまでも続く水田の中、「四方山」と呼ばれる小さな山の麓に、花衣の通う保育園はあった。
同じ敷地内に、分校のような小学校もある、地域に密着した保育園だが、それが徒になってたのだ。
この村は、8割が農業で生計を立てている。
地主、小作人、分限者、という言葉が子供の耳にも入ってくる。
のどかな田園風景の村では、農業を営んでいない、よそ者は徹底的に排除された。
そういえば、春、忙しく田畑で働いているひとがいる道を、祖母と散歩していたとき、日に焼けた顔を笑顔の形に向けて、
「いい天気だね、おばあちゃんと散歩?」
と声をかけてくれる。
祖母はなんだか気まずそうに、
「はい、この子は弱くて、あたたかい日に少しだけしか外に出れなくて」
と、固い笑顔で答える。
「いいねえ、綺麗な服を着て」
「いえいえ、とんでもないです」
祖母は、ざっくりとした綿のワンピースの上に、いつもの白い割烹着を着ている。
花衣の着る服は、母が選んでいる。
母は、花衣がズボンをはくことを嫌がったので、花衣はいつもワンピースか、ブラウスにスカート、という格好だった。
特によそ行きでも、またおろしたての服でもなく、もうそろそろブラウスは袖が短くなっていたし、スカートは祖母が何度か繕っているいつもの服。
それを、上から下まで舐めるように見てから、農作業にもどりながらそのひとは言った。
「ちゃらちゃらスカートなんてはいちゃって、商売女みたいだねぇ」
話しているのが、真っ黒に日焼けして、泥に汚れた服を着ているが、女のひととやっと気がつく。
女のひとの足元に、レンゲの花が咲いている。
遠くから鳥の声が聞こえ、水っぽい、土の匂いがする。
どうやってその場から離れたか覚えていない。
花衣は、体が弱くて、あまり祖父母以外の大人と出かけたり、遊んだりしていたことがなかった。
だから、その女のひとの言葉が【悪意】と気がつくには、それから10年以上たってからだ。山にはいつも、緑が濃かった。
家の前に広がる田んぼに水が入る季節が好きだった。小さな川からはいつも水音が流れてきて、花衣はその音を聞きながらぼんやり本を読むことが好きだった。
家の裏にある崖には、大きな藤の木があって、花衣は紫色の花が部屋まで香ってくる季節を愛していた。
しかし、「うちは村八分だから」と、祖母がひんやりとした土間の台所で花衣の頬を撫でながら言った日から、花衣の世界は少しずつ変わっていったのだ。
保育園には、地元の子供たちしか通わない。
そこは、村の縮図だ。
子供たちは残酷に、大人たちが家で語っているのだろう、花衣の家の悪口をはやしてる。
「おまえんち、貧乏なんだろう? 働いてないんだもんな」
「違うよー。『男のひととお酒飲む』、簡単でエッチな仕事しているんだよね」
人見知りで、家族以外とうまく喋られなかった花衣は、兄弟のいる頭の回転のいい子供から向けられる、本人も意味が分かっていないだろう、悪意の言葉に打たれて、動けもしない。
当時はよく分からなかったが、祖父は公務員であり、毎日市役所に通っていた。
祖母は花衣が生まれる前に体を壊して、今は専業主婦をしているが、それまでは勤めていたそうだ。
母も、叔父たちも、会社に勤めている。
しかし、こに閉鎖的な村では、「農業をしていない」ことは、働いていないと同義だった。
8割は兼業農家であったが、その認識は揺らがない。
「よそ者とは口をきくなー!」
いつも花衣に執拗に責め立てる男の子が叫び、花衣を囲んでいた子供たちは、飛ぶ去るように花衣から離れる。
遠くで笑い声がする。
曾祖父の代からこの土地に住んでいるが、たかが4代しか続いていない家は、この村ではいつまでも「よそ者」であった。
園庭の隅に、クローバーにからすえんどうが絡みついて、倒れている。
その、小さなピンクの花と細い、蔓の頼りなさが、花衣の心に寄りそった。
いつしか、悪意しか向けられないことになれて、花衣は大人も子供も、顔を覚えるのをやめてしまった。
しかし、そのことが、また花衣を「知能が遅れている」と噂され、祖父母たちまで嘲笑されることになるとは思い至らなかったのだ。



青いクリームソーダ


「おかあさん」
という存在を、いくつの頃から認識していたのか、花衣は覚えていない。
花衣を抱きしめる腕は、祖母の柔らかくあたたかいものだった。
祖母の作った料理を食べて、掃除をする祖母のお手伝いをして、祖母に添い寝してもらい眠ることは、物心ついた頃には、すでに当たり前のだったのだ。
「おかあさん」は、いつも綺麗な服を着て、お化粧をしている。
それは、よその「おかあさん」とは違う。
よその「おかあさん」は、普段は化粧なんてしない。服も、いつも農作業用の服か、Tシャツにズボンだ。
うちの「おかあさん」は、パンツスーツを着て会社に出かける。まれに、綺麗なレースが重なったドレスのようなワンピースを着る。
近づくと、かすかに甘い花の匂いがした。
母の愛したディオールのディオリシモの香りは、花衣には母の匂いである。
ほっそりした体に、自分に似合うように選び抜いた服を着る母は、子供心にも美しい。
二十歳で花衣を産んだ母は、その頃23歳か24歳だった。
むせかえるように女の成熟期を迎えていた母は、友人も多かったが、恋人もいたようだ。
美しい母は、花衣のことに興味がないように振る舞う。
休みの日は、小旅行に行く。
旅行に行かない日は、友人の経営する喫茶店に入り浸っていた。
そんな時、母は気まぐれに花衣を連れ出した。
よく連れて行かれた店は、青い天鵞絨で壁を埋め尽くした、窓もない薄暗い喫茶店だ。
毛足の長い絨毯も青く、天井のシャンデリアのガラスも青く光る店は、今から考えいると、夜はお酒を出すのだろう。
昼、いつ行っても母と、その友達しかいないようなその店で花衣に話しかける大人は母を含めていなかった。
母の思いつきで急に祖母から離されることは、花衣を傷つけたが、家や親戚の間でいつも注目を浴びることが多く、そして家の外では無視をしてくれれば楽なのに悪意の言葉で花衣を取り囲むひとたちに、花衣は疲れていたので、こうやってほったらかしにされるというのは、不思議と花衣の心を慰める。
喫茶店で花衣が注文するのは、いつも「クリームソーダ」だった。緑色にアイスクリームが乗った飲み物がとても好きだ。
マスターは、まれに、紫色や深い青色のソーダを出してくれる。多分、カクテル用のシロップを使ったのだろうが、幼い花衣には魔法のように思えた。
母たちはカウンターで、花衣だけはソファ席に座る。
ソファも青い。柔らかく深く花衣を包む。
その席で、花衣は目の前のクリームソーダのアイスクリームを必死に食べる。
味は大好きなのだが、アイスクリームが溶けて、ソーダが濁ることが花衣にはとても悲しいことに思われた。
頭が痛くなっても、頑張ってアイスを食べる。
少しだけ、ソーダに白い泡がついているが、それもスプーンで綺麗にすくう。
そこまでして、やっと花衣はソファから飛び降り、壁に設置された天井まである本棚に向かう。
母は喫茶店巡りが好きで、花衣も付き合わされることがあったが、この青い喫茶店ほど大きな本棚を置いているお店はなかった。
母の部屋にも大きな本棚が何個もあって、四隅全部が本棚の部屋と、コレクション用の本を段ボールに保管している部屋も別にある。
家で過ごすことは少ない母だったが、家にいるときは、いつも必ず本を読んでいる。
花衣にも何冊も本を買ってるし、花衣は本を読むことが好きだ。
あまり話さない母と、本を読むことでつながれるような気持ちになる。
喫茶店にあるのは、マンガばかりだった。
家にない本を選んで、花衣はソファに戻る。
手塚治虫のブラックジャックを読む。
花衣は、子供の頃から体が弱く、入院もよくしていたし、通院も毎週していたが、こんなすごいお医者さまなら、花衣の体も治してくれるのかしら、そう思う。
大事な息子が死んでしまって、そっくりな娘の性転換をする話に、ぞわりとして、背中に汗が流れた。
(男の子になれるの? )
花衣は、男の子になりたい、と思っていた。
それは、トラスジェンダーだからという理由ではなく、あるいじめのためだ。
普段、花衣が近寄ると、
「ばい菌がうつる! 」
とはやし立てる男の子や女の子たち、保育園が終わって、家に帰ってから近くの公園でひとりで遊んでいると、その子たちがやってくる。にやにやとしながら。
公園とは名ばかりの、墓の前の空き地は、夏の一世清掃があるまで、背の高い草に囲われて、子供の姿など隠してしまう。
そこで行われる「遊び」が、花衣は嫌だった。
下着をおろされ、ブラウスをはだけられ、太ももの内側やたいらな胸をまさぐられる。
「こうやるんだぜ」
花衣を執拗にいじめていた男の子は、花衣の上になって強く動く。
「やめて」
花衣の小さな声に誰も反応しない。
女の子も、面白がって花衣の胸を撫で、下腹にふれる。
「スカートなんてはいてるのは、こんな風にされたいからだろ」
花衣は唇を噛んで、涙を流した。
ふと、
(こんなことははじめてじゃない)
そんな気持ちになった。
(黙って触らせてやれよ、こいつらはそこまでひどくしない)
花衣の中から、花衣ではない誰かが話しているように感じだ。
「花衣」
本の世界と自分の体験の奥底に潜り込んでしまっていた花衣の精神は、母の呼び声に急速に浮上に、そのショックでめまいがした。
「サンドイッチ、食べる? 」
白い皿の上に乗ったサンドイッチも、青いライトに照らされて染まっている。
花衣は、首をふり、氷が溶けきった青いソーダ水を、ストローでゆっくりと飲んだ。

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