日本人の読解力の低下が深刻だって?『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の著者のひとり、田野大輔先生からメッセージを頂いて、読んだ。学んだ。(すんごい長文)

タイトル!盛り込みすぎ!

1,日本人の読解力が落ちているとはよく聞く話。こちらが意図しない読み方をされ困惑。どう伝えればよかったのだろう・・・そうか、こうすればよかったんだ!

2,私のポスト(ツイート)が、プチ炎上した。まったく見ず知らずの方々から、予想外の非難を浴びた。一方で『検証 ナチス「良いこと」もしたのか?』の著者様から、有難いメッセージを頂いた。そこで著作を拝読し、とても勉強になったので、紹介させて頂きたい。

以上について「まったく興味が無い」方は、スルーでお願い致します。すんごい長文です。

では以下詳細。

8月10日、私はX(Twitter)でこんなポスト(ツイート)をした。

そうすると、まったく見ず知らずの方々から、こんな反応が。

私の書き込みに、不快な思いをされた方々がいらっしゃるということだ。そっとフォローを外された方もいた。すみませんでした。

最初、私の脳裏をよぎったのは、

「日本人の読解力の低下が著しい」

という言説だった。

しかし、自分が思いつきで推敲もせずつぶやいた独り言は、不特定多数の方々が目にするところで公開しているものであり、そこでどんな読まれ方をされても、それは自分の力不足であると思いなおした。

何が「良いこと」で何が「良いことではない」のか。時代により環境により価値観により、変わること。ナチスの悪事を擁護する気は一切ないが、悪事のみで国民の支持を得られる訳が無いよな、と小5の頃思っていた。担任に尋ねたら「子どものくせに!この軍国主義者め!」とビンタされた。今も謎。

8月10日の私のツイートより

句読点の打ち方からして、まずかった。太字のところ、どこからどこまでがカタマリなのか、あやふやだ。

思い出話のつもりだった。

私は小学5年生の頃(1983年)、ある人物に憧れて、タミヤ模型の「ミリタリーミニチュアシリーズ」にドはまりしていた。

ある人物とは、クラスメイトの兄。熱烈な戦車模型のマニアだった。彼の家にはタイガー戦車や88ミリ高射砲、ナチス親衛隊のフィギュアなど、第二次世界大戦中のドイツ軍の模型が所狭しと飾られていた。

おさな子が、ダンプカーやショベルカーに憧れるように、小5の私は武骨な兵器模型のかっこよさに憧れた。

学校ではガンプラブームだったが、断然、ドイツ戦車の方がかっこいいと思った。

お年玉で買った二号戦車は、宝物だった。模型製作は家庭の経済的事情で継続するのは困難だったので、学校やまちの図書館で、ナチスドイツについての著作を探すようになった。

もちろんナチスドイツについて書かれた本の多くは、小学生が読んで理解できるような内容ではなかった。ただ、悪いことをしていた、というのはわかった。アンネ・フランクの話を読んで、泣いた。

それでも、当時の私にとって「ナチスドイツ」=「かっこいい軍隊」だった。二号戦車もメッサーシュミットも、親衛隊の制服も、かっこよかった。

当時は熱烈な「ガンプラ」ブーム。みんなはジオン軍に夢中だったが、ジオン軍はナチスドイツがモデルなんだぜ、とわけのわからない優越感を抱いていた。

友だちになりたくない。こんな小学生。

あるとき、誰が告げ口したのか知らないけれど、担任教師が、

「ナチスドイツに興味があるんだってな」

と、話しかけてきた。

この先生、5・6年の担任だったから、強く記憶に残っている。

先生は、ナチスドイツがいかに野蛮な奴らだったのか、という話を始めた。

その流れで、小5の私が疑問に思ったのは以下のような事だった。

何が「良いこと」で何が「良いことではない」のか。時代により環境により価値観により、変わること。ナチスの悪事を擁護する気は一切ないが、悪事のみで国民の支持を得られる訳が無いよな

小5のわたしの感想

・・・だって、戦国時代は、敵の首を切断して盛り上がっていたんだし、台湾のある部族は、食人文化があったのだろう。戦士たちは人を殺して出世していった。何がよくて、何が悪いかなんて、時代や、思想や、価値観の相違で、いくらでも変わってしまうものではないかな。

これは、先生の話を聞いて、強烈に疑問に感じたことだった。もちろん「思想」・「価値観」・「擁護」なんて難しい言葉、使っていたかどうか怪しいけれど、だいたいこんな意味の質問をしたのだ。40年前のことだからあやふやな点もあるさ(言い訳)。

ともかく、率直な疑問を、先生にぶつけた。ナチスドイツが何もかも悪いというなら、それをなんで国民が支持したのか、という「子どもの質問」だ。

そうしたら、

「子どものくせに!この軍国主義者め!」

といって、ビンタをされたのだ。

今も謎だと思うのは、どうして先生は激高しなければならなかったのか。

小学生の疑問に対し、「軍国主義者め!」と叫び、

ビンタをしなければならなかった理由が、

今も、謎なのだ。

そのことを、タイムラインで流れてきた「ナチス」の文字で思い出し、140字で伝えようとして、失敗した。

私の不用意なつぶやきが、多くの人を不快にさせてしまった。

結局、読解力の低下云々というより、私の記述がまずかった、と反省した。

ではどうすればよかったか。

今の時点での、私の答えはこうだ。

「何が【良いこと】で何が【良いことではない】のか。時代により環境により価値観により、変わること。ナチスの悪事を擁護する気は一切ないが、悪事のみで国民の支持を得られる訳が無いよな」と小5の頃思っていた。

修正案

これで筆者の意図とは違う読まれ方をすることは各段に減る、と考えている。「意味のカタマリ」を明示することが大事なのだ。

いまさらだけれど。

大人になった今、ナチスを肯定するなんてことは一切ない。

私のナチスブームは、小6で終わった。「北斗の拳」ブームが来たからだ。友人たちと一緒に、秘孔を正確に突くための研究に勤しむようになった。

今回、1点だけ、良かったことがあった。

何と『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか? 』の著者のひとり、田野大輔先生から、メッセージを頂いた!やったあ!私は先生の教え子ではないけれど、著作からとても大切なことを学ばせて頂いたので、もう先生。

田野先生から頂いたのは以下の言葉だった。

国民の支持を得たことは必ずしも「良いこと」をしたことを意味しません。『検証ナチスは〜』では「価値観は時代によって変わる」といった価値相対主義的な視点からナチスを見ることの何が問題なのかについても論じていますので、まずはお読み下さい。

田野大輔先生から頂いたメッセージ

著者ご本人から「まずはお読みください」と直接言われたら、そりゃあ、読むでしょう。

そんなわけで、拝読。本書の内容についての詳しい感想は、また別の機会に。

そこで学んだことのひとつ。とてもとても大切なこと。

【事実】→【解釈】→【意見】という直線モデルについて、

【解釈】を飛び越えた【意見】はとても危険なのだ、ということ。

『検証 ナチスは~』では、歴史学の姿勢として【事実】→【解釈】→【意見】という直線モデルが紹介されている。

しかし、これは歴史学のみならず、すべての「読解」のために重要な直線モデルではないか。

(さっきから「直線モデル」と連呼しているが、認知心理学の用語を勝手に使用している。矢印でつながる一直線の構造を指す。)

書かれている文を、どう【解釈】するか。その解釈の違いは、【意見】の違いを生む。

いろんな解釈が生まれることもある。そこで議論になることもある。

それはむしろ推奨されることである。その蓄積の先にしかたどり着けない「正しい解釈」があると信じている。

恐いのは【解釈】をないがしろにして、一足飛びに【意見】へ至ることである。

かつて、「柿本人麻呂の歌には、韓国語のメッセージが隠されていた」という本がよく売れて話題になった(『人麻呂の暗号』藤村由香 新潮文庫)。

しかしその【意見】は、本職の萬葉集研究者の間では、黙殺された気がする。

先人のたゆまぬ努力により、平安時代から脈々と受け継がれ発展してきた「萬葉集の解釈方法についての知の集積」というものがある。

わたしはかつて、三重県伊勢市の私立大学の国文学科の、「上代文学研究会」というところで、4年間、萬葉集をみっちり学んだ。

そこで「人麻呂の暗号」について、萬葉集研究のプロの先生方に質問したら「解釈に至るプロセスが間違っているから、学問として成立しない」とのことだった。

そのことを、田野大輔先生の、

【事実】→【解釈】→【意見】

という直線モデルを見た時、思い出したのだった。

そう、読解とは「正しく解釈する」ことで、そこをすっ飛ばしてしまうと、あるいは、ないがしろにしてしまうと、とんでもない意見ができあがってしまう。

(・・・あの・・・すみません、どなたか、ここまで読んで頂いた方いらっしゃいますか?長々と申し訳ありません。あともう少しだけ、お付き合い下さい。最後をちゃんと見て欲しいので・・・)

わたしたちは「正しい解釈の方法」をちゃんと学んでいかないと、どんどん読解力が低下して、とんでもない意見を持つ人たちになっちゃうよ、という心配があって。

じゃあ「正しい解釈の方法」って何だよ?って話で、

先に述べた、私が大学時代に学んだ萬葉集研究。

たかが学部生で4年間学んだだけで、何が「研究」だ、と思われるかも知れないが、

正しい解釈の方法を徹底的に仕込まれた。

【一字一句をゆるがせにしない厳密な解釈】=【訓詁の学】=【わたしたちの学問】

カルト宗教の教義かよ!という位に、徹底的に叩き込まれた4年間だった。

繰り返すが、萬葉集研究においては、正しい解釈のための方法論というものが、受け継がれている。

解釈の違いは平安時代から生じており、令和の今でも議論されてはいるが、正しい方法に則っているから、学問として成立していて、きっと千年先も、日本語が存在する限り、研究は続けられるに違いない。

では、現代を生きる私たちにとって、歴史を、事実を、正しく解釈するとはどういうことなのか?

【事実】→【解釈】→【意見】へと正しくつながっていくとは、どういうことなのか?

それは

ぜひお読みください!!

おしまい。

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