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この週末「依存」って言葉について考えて欲しいのです・1


せっかくnoteをつくったのに、全然更新頻度があれな鈴木です。
きょうは、「依存」って言葉について、ちょっと言いたいこと。うそ、かなり言いたいこと。

なんか僕があまりに嫌いで、見るのを拒否して屋根のアンテナごと折っちゃってる「地上波の刑事ドラマ」かなんかで、シャブ山シャブ子なんて凄い名前のキャラが登場して物議をかもしたらしいんだけど、もうこれが放映されるまで内部で問題視されない時点で、やっぱ我が家が物理的に地上波放送見れない状態にしてあるのはとっても僕の精神衛生上宜しいなと再確認(うちの屋根にはスカパーのパラボラしか立ってないよ)。

とか言いつつネットでちょっとその場面だけみて、薬物依存当事者についての、猛烈な差別と偏見と無知が描かれた様に、言葉を失った。もう、そこに描かれたものが当事者をどれだけ傷つけるのかを考えたら、制作に携わった人間全員を「社会的傷害罪」やら「社会的殺人未遂罪」に問いたくなるよ。そんな刑法ないけどね。

けどひとまず落ち着いて、まあそれをみて「依存症ってこんなだよね」って腑に落ちる人たちがまだまだ沢山いるから、またそう思うことが悪いと感じていないから、そういう表現をする人たちもいるんだろう。なぜなら多くの人の腑に落ちるところを表現するからそれが商業創作物として成立するわけで、そのドラマを作っているサイドからしたら「正しい薬物依存の姿なんか書いたら、物語の本筋に視聴者がついてこない」「演出だから」「正しい依存症を伝えるのはドキュメンタリーの仕事」なんでしょ?
まあ、糞なことには変わりないんだけど、彼らの仕事は人々に大きな疑問を投げかけることじゃない。まあ糞なことには変わりないけど(しつこい)。糞だな(。

でもその依存症って、実際にはどういうものなんだろう。

ちょっと前、ちくま書房さんから『薬物依存症』(著・松本俊彦さん)って新書が出て、むさぼるように読んだんだけど、僕が座右の書にしている『その後の不自由』(著者は依存症サバイバーの自助団体であるダルク女性ハウスの上岡陽江さんとそれいゆを立ち上げた大嶋栄子さん)って本への、真剣な回答だったと、読者の僕は思った。

思えば2015年の5月末、ずっとずっと会いたかった陽江さんにお会いした翌日に僕は脳梗塞を起こしてしまったのだけど、陽江さんたちが支えてきた薬物やアルコール依存の当事者には、みんな共通して過去に壮絶な被害体験があったり、喪失体験があったりした。

何でそういう人に限って何かの依存症になってしまうのかと言えば、こんなシーンを考えて欲しい。

あなたがもし寒い冬の街中で、着るものもなく下着一枚で転がっていて、全身あちこち大怪我をしていて、もう寒くて痛くて苦しくて、声もあげられずにいる人だとします。
しかも困ったことに、周りの人からすると、あなたはきちんと服を着ていて、怪我もぱっと見たところ見えないし、そもそも「今日ってそんな寒くないんじゃね?」みたいに思ってる。
だから、横たわっているあなたに、誰も声をかけないし、むしろ「そこ通路だから邪魔っすよ」みたいに言ってきたり、迷惑そうにみる人もいる。
でもあなたはもう、寒さと痛みで動けないわけ。

そんな時に、目の前に薬の瓶がおかれます。置いた人はこう言う。「あなた、他の人には分かんないかもしれないけど、苦しくて動くこともできないでしょ。この薬ね、凄いから。ひとくち飲んだら、どんな薬も楽にしてくれなかったあなたの苦しさを、楽にしてくれるよ」
で、その薬を飲んだら、マジでこれが効く!
効く!
効く!
んだけど、一時的。そして同じ苦しさか、ヘタしたらもっと大きな苦しさが後から襲ってくる。

さてそんなとき、あなたは目の前にある薬の瓶に、手をつけられずにいれる程の強さがありますか?

これが陽江さんたち当事者が訴えてきた、依存症のリアルだった。

薬に手を出してボロボロになったんじゃないよ。手を出した時点で、もうそこに救いを求める以外にないほどに、ボロボロだったんだよ。

ぱっと見たら服は着てるし五体満足で手足揃ってるし、目も耳も見えているけれども、彼らの心(脳と僕は言う)はもうボロボロで、普通の人は平気な環境でもめっちゃ寒いし酸素薄くて呼吸もできないし、でも誰も分かってくれないという状況だったんだよ。

弱いんじゃない。その苦しさに耐えられるひとなんていうのが、そもそも存在しないレベルの孤独と苦しさ。
なるほど、だから依存症の人は、元々激しい被害経験をもっていたり、自尊心を奪われ続けてきた人たちばっかりなわけだ。元々ボロボロなんだ。


だったら、その依存以前のボロボロをどうにかしないと、薬やめたって楽になんないじゃん。「その後の不自由」ってタイトルの「その」の部分(過去)で受けた傷を、どうにかして癒していかないと、ずっとずっと楽にならない。余計苦しむのが分かっていても、また依存に戻ってきちゃう。

ということで、陽江さんは元当事者だから、そのボロボロをどうするかを、同じボロボロの人同士でどう繕って、どうやってその尊厳を取り戻していこうかってことを、ほんとうにぼろぼろになりながら暗中模索でやってきたひとたち。
そして松本先生は医療者として、そして研究者として、その「孤立の病」をどう治療し回復を支援していくかってやってきた。

不勉強ながら僕は松本先生のことを知ったのは去年の頭に荻上チキさんらとともに依存症報道についての適正化運動を立ち上げた際だったのだけど、『薬物依存症』はまだ発行から間がなく、新書形態であることもあって、結構多くの書店さんに置かれています。

この記事読んだ読者さんは、今週末書店に行って、是非手に取って、巻末325ページの「終わりに」からで良いので、手に取って読んでいただきたいなと思います。そこでグッと胸に来るものがあったら、ちょっと遡って302ページ「第九章・安心して「やめられない」と言える社会を目指して」から読んでください。

この土日の読書にこの一冊をお勧めします。

って僕は別にキュレーターじゃないし、僕が書店員だったらたとえ判型違いでも『薬物依存症』と『その後の不自由』と『生きのびるための犯罪(みち)』の三冊をレジ前で平積みするけど。

そして「依存」という言葉について書こうと思った内容はまた別のお話なのだけど、時間がないので「続く」にします。嗚呼。

つづく


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