「脳コワさん」という言葉にお怒りの声をいただいて

昨月自分が刊行させていただいた『「脳コワ」さん支援ガイド』という本について、タイトルの「脳コワさん」(脳が壊れたの略)という言葉に傷ついたりお怒りだったりする方々がいることをSNSで知り、心からの謝意を表明するツイートをしました。

謝罪はしなくてもいい、本の中身を読んでもいない人に謝るんですか、その必要はないのではないか、等々と直接メッセージを贈ってくださった方もいました。けれど、不快で傷ついた気持ちや怒りを抱え続けることは、人にとってときに耐え難い苦しさを伴うことです。弁明より先に一刻も早く謝意を示すことで、傷ついたり怒ったりしている方々の気持ちを楽にする必要があると思い、謝意を表明しました。
その判断が間違っていなかったと思うのは、傷ついた、怒っているという方々の幾人からか、直接メッセージを頂けたことです。

まずはそうしたメッセージを送ってくださった方々に、改めてお詫びをしたく思います。なぜなら、傷ついたり怒っている感情を文字にして書くこともまた、大きな心の痛みを伴うものだと思うからです。つらい思いをしてメッセージをお送りくださったこと、申し訳なく思います。
ただ、そうしてくださったことによって、その方たちがなぜ傷ついたのか、なぜ怒っているのかについて具体的にいくつかのケースと背景を知ることができました(もちろんそれが全てとは思いませんが)。
ここでは、頂いたお声に対してのお返事に加え、どうしてこのタイトルで拙著を刊行するに至ったか、脳コワさんという言葉の是非についてどう考えているのか、改めて発信したいと思います。かなりの長文になって申し訳ありません。

まずひとつは、障害を抱えたお子さんや家族を持つ方たちからの声。そうした方々からは、脳コワさんという言葉が、新たなる「蔑称」「差別的なネットスラング」に引用されてしまうのではないかという危惧を問われました。
そのお声から僕が感じたのは、すでにその方たちがそうした言葉によって十分傷つき続けていることや、怒り、そしてこれ以上に傷つくことへの恐れ、怯えの感情です。
これまで自分は、スラング化、スティグマ化、記号化したいくつもの言葉があることを知ってはいても、それを使う側の人間こそ蔑むべき存在だし、そんな下劣な人々や言葉は無視すればいい(見なければいい)ぐらいに考えていました。要するに「そんな卑俗な言説は相手にする方が無駄」という考えです。
自身が高次脳機能障害の当事者になるまで続けてきた取材記者業においても、世の中でいわれなき差別を受けている人々のためになりたいと思ってきたはずの僕ですが、実際にそうした言葉を無視できずに傷つき続けている方々のお気持ちを真剣に考えたことがあったか? 
今回そのことを改めて真剣に考えて、自らの認識の甘さを恥じました。相手にしなけばいいけれど、相手にしてしまう、せざるを得ない人たちの苦しさは? すでに傷ついている人たちの生傷に触れたことは、お詫びこそあれど、弁解のしようもありません。

もうひとつ、脳コワさんの語源である脳が「壊れた」という言葉そのものに傷ついたんですとか、その感覚を疑う、信じられないといったお声がいくつもありました。これはご家族からも当事者からも、一部拙著がターゲットにしている援助職からもです。
出版や表現の世界では、こうした声に対して不誠実な造り手が「それは言葉の受け取り方の問題だ」と済ませてしまうことが往々にしてありますが、やはりそのような対応に逃げたくはないと思いました。そして、週末2日かけて、「壊れた」の是非について、考えてみました。
これは、僕がそもそもこのタイトルで版元に企画書を出し、そのまま刊行に至った理由にも絡むため、そこに触れたく思います。

僕は5年前に脳梗塞を起こして高次脳機能障害の当事者になりましたが、そこでつくづく思ったのは、「脳は情報処理の臓器である」ということです。胃腸が食物を消化して肉体や身体活動のもととなるエネルギーに変えていくのと同様に、脳は外部から受けた情報を処理・記憶し、それをベースに思考したり情緒を生み出したりコントロールする臓器に過ぎない。
それは、脳にダメージを負った結果、光や音や言葉や文字や、あらゆる外部から入力される情報の処理(記憶・思考)がぶち壊れ、心(気持ち)や言語といった脳の情報処理による思考の出力側のコントロールも失い、日常生活のあらゆるシーンに壊滅的な困難を抱えることになった自分の実感でした。
加えて、いろいろな診断名はあれど、脳に何らかのトラブルを抱えている当事者には、この情報処理の点で共通するお困りごとが底に流れているぞ、というのも、自身が当事者になっての大きな気づきだったのです。
けれど現状、医療や様々な支援の現場には、こうして脳に不自由を抱えた当事者のケアや基本的な配慮に、「共通点として脳の情報処理に困っている」という視座は備わっていません。診断名によってバラバラの医療、バラバラのケア、バラバラの制度で支援を受けている僕らですが、根本的に共通するお困りごとに対して、理解してもらえていない、「診断領域を超えて横断的に求めたい配慮がある」。それが、拙著を書いたモチベーションでした。
確かに脳の情報処理機能に不自由があることで、起こりうるお困りごとはあまりにも当事者自身とその環境によって違いすぎて、百人百様ではあります。
けれど、脳が情報処理の臓器である以上、消化不良のときに消化の良いものを食べさせるとか刺激物を控えるとか温かいものを食べるとか腹部を温めるとかといったものと同様に、通底する基本的ケアがあるはず。
魂とか心とか精神とか心理とか、とても複雑に分類され語られ、領域化され、時に不可知なものとして語られてきたものを、純粋に人の脳の活動に落とし込むことができれば、僕だけでなく脳の機能に何らかの不自由を抱えている人々に「基本的に共通する苦しさ」や「共通してお願いしたい配慮」をまとめ上げることができるはずだと思ったのです。
ただしここで、現状われわれ脳の機能に不自由のある当事者を「横断的に表す言葉」が存在しない。そこで使ったのが「脳コワさん」という造語だったわけです。

けれど問題はここで「壊れた」を語源とする造語をすることが、適切だったのかです。
二日考えての結論は、適切だったとも思うし、不適切だったとも思う、です。中途半端で大変申し訳ないのだけれど、仔細を説明させてください。

まず適切だったと思う理由は、第一に僕ら当事者にとって「自分の脳が壊れているんだ」という自己認識に至ることは、時に救いになるからです。
見えない障害である脳機能障害の当事者は、往々にして「できないことを頑張ろうとして」ものすごく苦しむ傾向があります。
なんで誰もが当たり前にできることができないのだろう。自分の努力が足りないからではないか、自分が駄目で弱い人間だからでないかと、真面目な方ほど自分を責めてしまうこともあります。
そんなとき、そのやれないことが、脳が何らかの機能を失っているからやれないんだと気づくことや、たとえ診断名が違っていても同じ不自由や苦しさを抱えている人がたくさんいるんだということは、いくつもの意味で救いになります。
自分を責めずに済むのは何より大きな救いですし、原因がわかれば対策がわかる、対策を他の当事者が知っているといったことも救いです。
例えば脳コワさんという横断的概念を持つことで、僕は多くの脳機能に不自由を抱える当事者からたくさんの楽になるメソッドをもらえました。
特に発達障害の療育界隈で育て上げられた環境調整・代償手段のライフハックや、脳の情報処理に困難を抱えた自閉症当事者の周辺で支援者やご家族が確立してくださった「当事者をパニック=脳の情報処理破綻に陥れないための配慮」は、全脳コワさんに共通して広めていただく必要のあるものだと、確信しています。
自分の機能が壊れていることを受け容れることで、「戦略的」に今後の人生を生きやすくする方がよい。その戦略のためのツールになることが、この言葉の利点の一つ目です。

加えて、適切だったと思うもう一点の理由は、この言葉がある意味「踏み絵」の機能を含んでいるからです。
脳は情報処理の臓器、胃腸は食物を消化する臓器。人が生きていくために必要な機能を担う臓器という意味で違いはありません。
けれど「胃を壊した」は差別的に感じないのに、「脳を壊した」だとなぜ駄目なのだろう。「胃腸炎です」と言われて「自分の胃腸は壊れてない!」という人はいないでしょう。脳に問題があることに限って、なぜそんなにも忌避するのか。
もしそこに触れてはならないものに触れてしまったような忌避感を感じるのであれば、それはなぜだろう? そんな問いかけも、この言葉には含まれていると思うのです。
当事者として思うことは、もう壊れてると言われようがなんだろうが、不自由を理解してほしい。不自由に対しての配慮がほしい。楽になるための方法論がもっともっと確立してほしいということです。
けれど一方、高次脳機能障害の当事者の中にも、告知の際に当事者ご本人やご家族が「自分は障害などない」「うちの家族は障害者になんかなってない」と、本来受けられるケアやサービスを自ら拒絶してしまうケースが往々にしてあります。
理想は、社会全体が、脳が壊れたと言われても、胃腸を壊して胃薬を飲んだり治療を受けたりするのと同様に「壊れたからしょうがない、じゃあどうするか考えよう」とすんなり思えるようなパラダイムに至ることであり、当事者が堂々と「壊れてるので配慮とケアをお願いします」と言えて、それを受け入れられる社会であって、僕らが申し訳なく隅っこに小さく収まっていなければならない社会ではないはずです。
そうした社会に至るための根源的な問い(踏み絵)を含んでいることが、この言葉を使うことの二つ目の利点です。

一方で、不適切だったと思うのは、「壊れた以外の言葉では駄目だったのか?」という問いかけに対してです。
「壊れた」には、本来「こうあるべきもの」とされている状態から外れている意味合いがあります。そう考えると、「壊れた」は多様性に反するワードですし、「定形でない」ことをマイナスに表現した言葉のようにも感じます。
脳が壊れたという言葉そのものに傷ついたという方には、「自分は脳が壊れた子どもを産んだつもりはない」「自分の子どもに壊れたなんて絶対に言えない」といった親御さんの声もありました。
僕の友人には先天性の脳機能障害を持つお子さんを抱えた親御さんやごきょうだいもいます。もしその友人の口からこれらの言葉が出たら、僕は土下座して謝るしかないと思いました。

かつての記者活動の中、明らかに障害を抱えているのに親の忌避意識や支援拒否から手帳取得に至っていないケースに行き当たったり、学童・学生時代に無理をして無配慮な一般クラスに通い続けて成人後にメンタルを病んでようやく診断に至る不定形発達の当事者などのケースを見知ったりしてきました。
ですが、そうしたケースに対して「当事者の意思不在の家庭」とか「支援の妨げになる家族」を否定的にとらえることはあっても、その背景にある「守らなければならない」という親御さんの願いをそれほど真剣に考えたことが、あったろうか。
当事者を育てていらっしゃる親御さんにとって、この「壊れた」の言葉がどうしてそれほど猛毒なのか。実はスティグマにより深く苦しめられてきたのは、当事者よりも、そのご家族なのではないか。自分には明らかにその視座が足りなかった。認めざるを得ません。彼らの気持ちを考えた時に「壊れた」は明らかに不適切でした。

「脳コワさん」の言葉は、脳に機能の問題を抱えて生きてきた当事者である僕の妻が、高次脳機能障害となった僕に対してつけてくれた言葉です。
「深刻になるな。あんたの不自由はずっとあたしが抱えてきた不自由だし、同じような人たちはいっぱいいるぞ。やれないことを無理してやるな、壊れちゃったんだから」
 そんな意図でつけてくれた、優しい障害受容の言葉だったという経緯があります。拙著の内容は、「僕たち脳コワさんをどう支援してほしいのかの提案」というあくまで当事者サイドからの提案でもあります。
けれど、今回の本は、そのターゲットとして援助職全般と同時に「ご家族」も想定しています。僕ら当事者にとって、生活時間の大半を共にする家族の理解と配慮を仰ぐことが、何よりの救いになるからです。

であれば、この「壊れた」の言葉がご家族に与えるダメージを考え、「脳困さん」とか「脳コマさん」でも良かったのではないか、むしろそうした思考の経緯も書き添えた本にすべきではなかったのか。
この点については、今回のご指摘を受けて深く反省するものがありました。

以上が、脳コワさんというタイトル付けについて、今の僕が思うことのすべてです。

この二日間、ずっと考えていたら、数年ぶりにヒステリー球(心因性失声)が戻ってきてしまい、声が上手に出なくなってしまいました。けれど、お怒りになった方々にも同じ苦しみを僕が与えてしまったと思います。
ただただ多くの当事者の方や、それを支援する方々が楽になってくださるために書いた一冊ですが、その本を出したことで苦しまれる方がいることは慚愧の極みです。誰の苦しさも無視したくないと思っており、お言葉は真摯に受け止めます。
脳に不自由のある方は、誰かが問い詰められたりしている姿を見るだけでも苦しくなる傾向がありますから、僕のツイッターをフォローしてくださっている当事者仲間の方にも苦しい思いをさせてしまったかと思います。
ただ、何かで自分を批判されたときに自己防衛的な怒りに振り回されたり感情的な反論をすることは、全く生産性のない行為であり、すでに傷ついている人を更に傷つけることでもあり、必要なのは歩み寄りと考えています。

改めて、苦しい思いで直接お怒りや辛さの気持ちをお寄せくださった方に、お詫びと、思考の機会を頂いたことへの感謝を申し上げます。
「あなたに感謝されたくて言ったわけではない」、と言われても仕方がありませんが、僕個人がお返しできるのは、今後も考え続けること、そして今後も脳にトラブルを抱えた当事者として、いわれない誤解や差別を受ける多くの当事者仲間のために、発言を続けることしかありません。

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