映画『ギャングース』公開に寄せて1
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映画『ギャングース』公開に寄せて1

いよいよ僕が原作を担当した漫画『ギャングース』(原案本・「ギャングースファイル・家のない少年たち」「奪取・特殊詐欺犯罪十年史」)の実写映画版の公開が迫ってきました。

映画『ギャングース』 監督・入江悠 公開・11月23日

思えば「加害者の中にある被害者性」という分かりづらいテーマを何とか読者に届けたくて、ノンフィクション作品の中に物語表現を込めてきた僕が、漫画化という新たな「伝えるためのツール」に挑戦し、かつそれを大好きな映画監督である入江悠さんが、僕の伝えたかったことをきちんと汲んで映像化してくれるという、しかも出演者の方々もその荒波に真剣に乗ってくれたという、本当に執念のバトンが渡ったみたいな作品が、この映画『ギャングース』です。

公開を前に、漫画「ギャングース」の第一巻と最終巻によせたあとがきを再録します。
僕の言うことはいちいち暑苦しくて面倒ですが、入江さんの作り上げた映画そのものは見事にエンタテインメントとしても完結していますので、ご安心を!
劇場に行く前に、そして劇場からお帰りになったあとに、改めてお読みくださればありがたい寄せ書きです。

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【漫画・『ギャングース』第一巻発行に寄せて】

「若き犯罪加害者からの聞き取り」というテーマで取材を始めてもう10年あまりが経ちました。その間に上梓した『家のない少年たち』は、21世紀初頭に吹き荒れた若い世代による振り込め詐欺や組織的窃盗など、様々な犯罪とその背景についてリポートしたものです。しかし実はその取材の間、僕の頭の中をずっとある一つの疑問が占めていました。

「どうして盗んだらいけないのか、暴力したらいけないのか、俺には分からない。相手が死ぬほど困るようなところからは、俺は盗みも叩きもしませんよ」
’04年頃、19歳のK君への取材で出てきた言葉です。K君は、文字通りの不良少年。13歳から自販機荒らしを始めて、15歳でゲームセンターの売上金を強奪、そして2度の少年院生活を経験。取材時は退院後1年で、昼は工事現場の足場屋をしつつも、全く懲りずに「高級車専門のホイール窃盗」を副業にしていました。僕はその鮮やかな手口を武勇伝のように語るK君の話を聞きながら、彼の言葉だけがずっと気になっていました。

たしかにK君は、街ですれ違ったら避けたくなるような19歳ではあります。金髪坊主にダブル鼻ピアスだし、膝丈のズボンからはタトゥがのぞいています。
でも普通に会話できるし、挨拶もちゃんとできる。根は明るくて良く笑う子だし、人の気持ちが全く分からないクレイジーなガキというわけでは全然ないのです。むしろ礼儀正しい。自分が19歳だった頃を思い浮かべると、比較にならないほど彼は大人でちゃんとしていました。

では、なぜこんなにしっかりした子が、「盗んだり暴力を振るったら駄目」という社会の当然のルールが本気で分からないというのだろう?

後に、K君が生い立ちについて語ってくれたことがあります。彼は、生みの親の顔を知りませんでした。生まれてすぐ、母親は遠縁の家に彼を預けて失踪。遠縁の家は代々農家だったようですが、離農して中古車屋を開業した直後にバブル崩壊。一家は離散し、K君は9歳でまた別の遠縁の女性の下に預けられます。6畳一間のアパートに、K君より2歳と4歳年上の「兄」がいる4人暮らし。とは言えその女性はほとんど家には帰らず、たまに帰るときは必ず男連れで、「兄」たちとともに殴る蹴るの暴行を受けて部屋を追い出されたと言います。K君はその「兄」たちと一緒に、自販機荒らしや強盗に手を染めたというわけですが、そうして稼いだ金の一部は母親が連れてくる男に「生活費」として奪われ、その奪われた金で焼肉を食いに行くというのが、彼にとっての家族団らんでした。

衝撃でした。先進国であるはずの日本で、こんなに身近に、これほどの貧困や悲惨が存在するとは……。それ以来、僕は犯罪の手口より、彼ら取材対象者の「本音」を聞き取ることに執心するようになりました。
自身が傷つけられ奪われてきたのに、なぜ自分だけが我慢して傷つけず奪わずに耐えなければならないのか? その一方で、傷つけ奪う者は憎い。こんな感情が混在して、中には自分自身が大嫌いでいっそ消してしまいたいと考えている不良もいました。全身刺青の強面兄ちゃんたちが、こんな多感な中学生女子みたいな苦しみを抱え込んでいると気付いたとき、僕の中の「犯罪者像」「不良像」は、ガラッと一変したのです。

とても切なかった。K君は、幼い頃から何度寂しさに膝を抱え、悔し涙をかみ締めて耐えただろう。大らかでよく笑い、頭の回転もすこぶる速いK君が、別の家に育ったらどんな19歳になっていたんだろう。

もちろん、被害者経験を持つ子どもが全て加害者になるわけではありません。誰だって犯罪の被害者になんかなりたくない。でも本当に犯罪のない社会を望むなら、生まれながらに被害者である子どもたちが加害者になる前に「救済」するのが筋ではないか。一般の報道によって見えてくる憎むべき犯罪者という像ではなく、僕が加害者取材にこだわった理由は、彼らを血の通った人間として知って欲しかったからにほかなりません。

そんなときに飛び込んできた、「家のない少年たち」の漫画化オファー。肥谷さんの『その子の笑顔が世界を救う』を読んだ瞬間、脳天に電撃が走りました。主人公のニート教師が仁王立ちになり、放ったメッセージの強さ。その流した涙が読者の涙になる一体感! 実際にお会いした肥谷さんは、吃驚するほど芯の強い男でした。肥谷さんとなら、そして漫画というメディアならば「彼らのの思いがもう少し届けられるかもしれない」。これが連載を始めての、正直な感想でした。僕はどこまでもルポライターとしてありったけのリアルをシナリオに込める。肥谷さんはそれをぶち壊し、未知の物語を創造する。この先に、『ギャングース』は、カズキはどこに行くのだろう。1巻刊行を前に、身の引き締まる思いを感じています。

2012年7月16日 鈴木大介

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【漫画・『ギャングース』最終巻発行に寄せて】

読者の皆様、連載4年弱、通巻16巻という長きに渡り、おつきあい下さり本当にありがとうございました。

カズキたちがそうだったように、僕が取材して来た犯罪の加害者に共通していた記憶が、子ども時代に堪え難い空腹を経験し、食品を万引きしたというエピソードでした。今日は我慢できたとしても「明日も食べられないかもしれない」。そう思った瞬間、飢えた子どもたちは食べ物を盗み取り、他人から奪おうとします。果たしてこの時点で彼らは「社会に反する者」でしょうか。決してそうではないと思うのです。

 奪い、たしなめられ、奪い、罰を受け、でも誰も救ってくれない。奪い、差別され、それでも奪わなくて済むほどは与えられない。いずれ奪うことが常習化していく繰り返しの中で、彼らは社会に反する者となります。
「加害者の多くは、被害者転じての加害者である」
「与えられていれば、奪う者にはならなかった」
 一貫して訴えて来た本作のテーマです。

 では奪う側に回った彼らは、その後どうなるのでしょうか? 残念ながら僕が取材して不遇な来歴を持つ裏稼業人のなかでは、本作のラストにあるような未来と居場所を得た者は、ほとんどいませんでした。裏稼業の世界で成功した者も、裏稼業から足を洗って表の社会で頑張っている者も少なからずいましたが、心の底から安心を感じる自分の居場所を得たり、真に幸福を感じられるような人生を送れるようになった者は、「いなかった」と言っても過言ではありません。

 一度社会からドロップアウトし、奪う側に回ってしまった状態から、本来子ども時代に受けるはずだった愛情・教育・発達を取り戻すことは、気が遠くなるほどに困難なのだというのが、これまで取材を続けて来て得た実感です。
 どんなに稼いでも、見たこともない額の現金を手にしても、その心から不安が拭えない。どんなに業界内での高いポジションを得ても、一時的に新しい家族を得たとしても、どうしても安心や満足を得ることができない。ずっと不安で、心が飢え続け、どうすれば楽になるか分からなくて足掻き続ける。

 取り戻すことの出来ない子ども時代や、癒せない心の傷が、いつまで経っても彼らを苦しめ続けます。そんな彼らにとって、同じ不安感を抱え続け、同じ痛みを共有できる仲間は、唯一安心を与えてくれる存在なのかも知れません。だからこそ、彼らは仲間に強く依存し、せっかく裏稼業の世界から足を洗っても、再びかつての仲間のところに戻ってしまうことも多い。とはいえ裏稼業はあくまで裏稼業。トラブルや裏切りも日常茶飯事という中で、彼らは一層心の疲労と傷を深めていきます。

 なんと不毛で残酷な世界なのだろう。世間一般で見れば悪辣な犯罪者であり、見るからに恐ろしげな彼らだけど、彼らの心の中にはずっと泣き続けている子どもがいる。
 そんな彼らの哀しさや絶望感を目の当たりにすると、カズキが目指したように、そもそもそうした不遇な子どもが再生産されない世の中=親世代の格差解消や、未就学~ローティーンのうちに不遇の中にある子どものケアを始め「社会が養護していく」ことこそが何より大事なのは言うまでもありません。

 幸いにも、連載を始めた当時に比較すれば、「子どもの貧困」という日本の社会問題は大きく表面化した感はあります。相対的貧困率で日本の子どもの6人に1人が貧困状態にあるというショッキングな数字に、メディアでも政策決定の場でも大きな議論が生まれました。
 ですがその一方で「日本に子どもの貧困があるなんて想像もつかない」「そもそも相対的貧困率とは所得の平均から出される格差の結果で、日本に餓死するような貧困は存在しない」と、いまだそんな声も大きく感じます。どの家庭も大変で将来が不安なのに、負担している税の使い道も不透明で信用できないのに、なぜ「実の親が面倒を見ない子ども」のために赤の他人が負担をしなければならないのか。しかも「実際にいるかどうかも分からない貧困児童」のために。

 社会全体の不安や閉塞感が、今そこにある子どもの貧困から人々の目を背けさせます。
「子どもの社会的養護」という言葉は、ひとつの重要なキーワードです。進行した格差社会や核家族化の中、夫婦のみで、まして片親のみで子どもを育てていくことは困難を増し、かといって三世代が同居するような旧来の大家族制度への回帰も現実的ではありません。しかし、子どもは社会が育てる=社会的養護とは、なにも自らの家族の外にある子どもに毎日直接手間をかけて育てようということではありません。まず第一に日本にカズキやサイケやタケオちゃんのような子どもがいることを知り、彼らをケアしなかった場合の社会の損失を考え、どうすれば支えられるのかを考え、彼らのためになる世の中を望んでいく。それだけでも、社会的養護の一歩なのだと思います。少なくともそれは、被害者転じての加害者である彼らを差別し排除する社会よりは、遥かにマシな未来につながっているはず。

 本作がそうした未来を考える上での、ひとつの入口になってくれることを、願ってやみません。

2017年3月23日 鈴木大介

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過去ルポライター→2015年脳梗塞発症で高次脳機能障害当事者になり、記者業引退でもまだ文筆業にしがみつき中。不定型発達の妻と5匹の猫とプチ田舎暮らし。代表(一番部数多い)作『最貧困女子』。病後の著作は『脳が壊れた』『されど愛しきお妻様』などです。