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彼と喧嘩(後)

父はとにかくお酒が好きな人だった。
呑まない日は一日もなかった。

ある晩、寝ていた私は父の声で目が覚める。今夜は会社の人も一緒らしい。
しばらくすると、母が部屋に入って来て挨拶しなさいと言う。
もう深夜。明日も学校だし、母に「寝てるから断ってほしい」と頼んだ。
「わかった」と母は部屋を出るものの、すぐに戻ってくる。
「ちょっとでいいから出てきて」と。

私、母を追い返す。母、また戻ってくる。
とうとう母が「起きなさい、出てきなさい」と泣きそうな声を出すので、私はしぶしぶ父たちのところへ行った。

テーブルのうえに並ぶ酒とつまみ。
全て母が用意したのだろう。母も明日(というか今日)は仕事なのに。
父が稼げないから、母は働かなくちゃいけないのに。

私は男に挨拶をして酒を注いだ。
男が言った。

「凜ちゃんはいい子なんだけど、お父さんは一つだけ心配なことがあるんだって。それは凜ちゃんが人見知りなところ」

深夜に人の迷惑顧みず家に入りこみ、小学生の子供を叩き起こし酒を注がせ、あろうことか「人見知りだから出てこなかった」と思い込んでる厚かましい男の顔を、私は今も忘れることができない。

「弟はずっと寝ていられた。一度も起こされなかった。私はあの家で小さいときから水割りやらお湯割りやら、梅干いれたり檸檬しぼったり、何千、何万杯と酒を作ってきた。弟は一杯も作ったことないの。いつも『酒!』っていうお父さんの声は私に向けられるの」

ねぇ、どうしてなの?

どうして弟は寝ていられて、私は起こされるの?
弟は勉強だけしてればいいのに、どうして私は皿を洗って洗濯して掃除してお酒を用意しなきゃいけないの?
どうして弟は私立に行かせてもらえるのに、私は地元の公立にしか進学させてもらえないの?
どうして弟は浪人が許されるのに、私は許されないの?

私が女だから?


家事や育児は女の役割で、勉強と仕事が男の役割だから?

じゃあ、どうして母は働くの?

父が転職するたびに年収が低くなるから母は働き始めたのに、どうして家事育児は母だけの役割なの?娘の役割になるの?
母と私はあんなに変わったのに、どうして父は「昔の男」のままなの?

男はどこまで女からチャンスを奪い取ったら気がすむの?
どこまで女に役割を押しつけたら気がすむの?
どこまで女に甘えたら気がすむの?

女はこんなに変わっているのに、男はいつになったら変わるの?

「それでもあなたは馬鹿にしちゃいけないって言うの?私にはあの人たちを馬鹿にする権利は十分にあると思うけど?」

「凛子の言う『あの人たち』って誰のこと?凛子のお父さん一人で、男がみんなそうだとは思わないでほしい」

ヨーグルには申し訳ないことをしたと思ってる。
そもそも、ヨーグルを男というだけで父と同じにしてしまっては気の毒だ。話の始まりも、私の「メールの返信を私が代わりにしましょうか?」という提案を「僕がする」と断ったことなのに。

私の不満が、男と女という枠組みだけで片づけられる単純な問題でないことはわかってる。
でも父までとはいかないまでも、父のような男性は多いと思う。女にも稼いでほしいけど男が家事育児するのは無理、あくまでお手伝いの範囲で、みたいな意識の人。

娘の幼稚園、小中学と役員をしてきたが、役員会はほぼ全員女性で占められていた。スケジュールを調整してやってくる彼女たちをみて「仕事を休むのはやっぱり女なんだな」と思ったが驚きはなかった。
働いている女友達も多いが、彼女たちをサポートし育児を担っているのは彼女たちの旦那ではなく、彼女たちの母親だ(だからみんな実家近くに引っ越す)実家を頼れない友人たちは、ほとんどがパートに切り替えた。

男性の中には子育ても家事も本当はしたいけど、仕事に拘束される時間が長くて無理という方もいるだろう。そもそも転勤が多くて家族と離れて暮らしてる男性も多い。
そうなると、今度はこれだけ仕事に拘束されてるのに年収が低すぎることや、国力が弱まり先行き不透明な不安からお金への執着心が一層深まったこと、根強く残る学歴社会の影響で教育費が高騰化すること、新たな問題が絡まってくる。

「ごめん、凛子」

ヨーグルが謝ってくる。

「凛子の事情もよく知らないくせに勝手なことを言った。悪かった」

ヨーグルは悪くない。
わかってるのに、あのときの私はヨーグルに優しくなれなかった。

「いい。あなたには一生わからないことだし。あなたにこんな話をした私が間違ってた」

「そういう言い方はしないでほしい」

嫌な言い方をしたと思うが、これは事実だと思う。
彼は知らない。彼の周囲に父みたいな人はいない。どこまでも彼のような人ばかりだ。父の周囲に父みたいな人しかいなかったように。

後日、彼から新刊をもらった。
いつもと同じように「凛子様」とあり、彼のサインがある。
でも、今回は「凛子様」のあとに「いつもありがとう」というメッセージがあった。
彼らしいな、と思った。

こういうとき、私も素直に「ありがとう」と言える人になりたいな。