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俺たちが求める家族と言う物語

あんたのタイムラインにもこのよくわからない政治の話が流れてきたかい?

どうも、民法上での家族の呼び方を「父」「母」じゃなくて「親1」「親2」にしようとしとるんだと。

なんでそんな事するんだって?
なんか、男女の区別をなくして家族間の平等性を確保するって話らしい。

………なんか、めちゃくちゃじゃね?
親1、親2って名前からして序列があるじゃん。

きっと家族によって父親が親1になる場合と母親が親1になる場合があるイメージなんだろうけれど、その名前がつけられた時点で家族の中で序列がつけられるようなもんじゃないか。

いつもは俺は誰かの意見を全否定するってのは避けているつもりなんだけれど、これは流石にダメだ。

どうも同性婚を想定すると「父」「母」と言う表現が成り立たないからってことなんだそうだけれど、そういうセクシャルマイノリティのヒトたちを意識して多数派である家族の形を変えることの意味ってのはえげつない物があると思うんだよな。

今回はこの議員立法について考えてみる回だ。

ちっと家族ってものの形を考えてみようぜ。


同性婚を想像する

まず、俺自身は異性愛者であり、同性愛者の感覚を正確に想像することは出来ないと思う。

ただ「誰かと家族になりたい」と言う思いがあるってのはなんとなく想像が出来る気がする。

男性同士であっても、女性同士であっても「家族である」と言う物語は必要とされるケースはあると思う。

もちろん、法制的に家族になることで受けられるメリットはある。

でも、おそらくはそのメリットよりも「家族になった」と言う社会的物語を享受したいと言う方が意味としてはデカいと思うんだよな。

自分たちの関係性を受け入れてもらいたいって感じ。

それそのものには全く違和感を感じない。
むしろ、積極的に祝福したい感覚もある。

家族と性別

で、今回の立憲民主党の議員立法を眺めてみると、要するに同性婚の家族が成立するための法的な基盤が「夫婦」だとか「父母」だとかの男女で形成されることが前提になっているから、その言葉から変えていきませんか?ってことなんだと理解した。

いや、言わんとすることはわかる。

男性同士、女性同士の家族で「夫婦」だの「父母」だのが成立しないよねってことだよね?

ならいっそのこと家族と言う枠組みから性別を取っ払っちまえって考えにたどり着くのは分かんなくはない。

でもね。
ホントにそれで日本の家族って枠組みを変えちまって良いのか?

家族の枠組みを足す

俺の個人的な感覚でしか無いとは思うんだけれどさ。

家族ってのは自分の命を誰かと混じり合わせるって覚悟を決める話だと思うんだ。

このヒトと一緒に暮らしたい。
このヒトと同じものを見ていたい。

そして、もしかして子どもが生まれたりしたら、その子どもに自分たちが信じてきた幸せを感じるように生きてもらいたい。

幸せってのはヒトごとに違う。
夫婦でも違うし、親子でも違う。

違うものを交わらせるのが家族だと思うんだ。

そこで「夫婦」だとか「父母」だとかの言葉を考えてみる。
違うことが大前提になっている言葉だと思うんだよ。

男女っていう生き物的に違う性質を持っているヒトがだ。
家族と言う物語を信じる。
そうして俺たちは生まれてきた。

もちろん同性婚を否定するつもりはない。
彼ら、彼女らがそうであることには何も問題があることじゃない。

ただ、彼ら、彼女らの婚姻の成立をするために、今の俺たちの家族の形を変えるのは違うと思うってだけだ。

ならどうするのか。

夫、夫。
妻、妻。
父、父。
母、母。

この組み合わせを許しながら、性自認が生物的な性別と異なるときは女性を「父」、男性を「母」としても良いんじゃないか。

男性に母子手帳を発行しても意味がないかもしれない。
何しろ生物学的に女性として管理するべき内容が書かれているわけだしね。

ただね。

父でありたい。
母でありたい。

そう思うヒトには、それをフォローすれば良いんじゃないかって思ったんだ。
そう名乗ることを否定しなければ良いんじゃないか。

夫。妻。父。母。
その言葉を無くして、配偶者、親なんて言葉でくくるのはさ。
なんつーんだ。
嫌なんだよ。ホント。

だって、俺たちは間違いなく父と母から生まれた。
そして、夫や妻と呼べるような大切なヒトと巡り会えるかもしれない。
そのことを表す言葉を薄めてしまう言葉を「標準」にしてしまっては、俺たちがどこから生じてどこに向かっていくのかってのがあいまいになっちまう。

なあ、あんたはどう思う?

この難しい課題にどう向き合っていこうか?

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