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感情を紡ぎ共有すること

あんたは結婚式に呼ばれたりしているかい?

俺くらいのオッサンだと後は子ども世代の親戚の結婚式くらいかと思うけれど、それは当分先なんだろうなって思う感じなんだよね。

で、いつも通りなんとなーくネットを眺めていたらこんな記事があった。

記事を読んでみると、結婚式の二次会に「スーツで来て」と言うドレスコードがあったからモビルスーツ着てったって書いてあった。
正確には「コスプレで来て」だったので完全に正しいんだけれど、ここまでヒトを楽しませる気持ちってすごいよなぁって素直に思ったんだ。

個人的にはコレがツボった。

いや、確かにこれは戦わないとおかしいw

結婚式と言う幸せの塊がそこに充満している会場を最高に演出する姿だと思っただよね。

今回はヒトを楽しませるってことについて考えてみる回だ。

誰かの感情をプラスにすることについて考えてみようぜ。


日常にある楽しみ

こんな極上のコスプレみたいなことまでしないでもさ、普通に家族や仕事仲間に対してさ、軽口を言って笑わすようなことってあるじゃんか。

あれってどうしてそんな風に笑いを取りに行ってるのか?って問われたら、あんただったらなんて答える?

「だって楽しいほうが良いじゃん」

そんな感じのシンプルな答えになる気がするんだけれどどうだろう?

これ、ちょっと考えると結構オモロイと思ったんだ。
だって、笑っているのは自分じゃなくて相手だろ?
相手が笑っているのが俺たちは楽しいんだぜ。

その楽しさを感じたくて軽口や冗談を日常的に俺たちは口にしているってわけだ。

感情のための職業

で、当然これは日常だけの話じゃなくて、そんな「楽しい」だとか「感動」だとかを届けることを職業にしているヒトも大勢いる。

いわゆるお笑い芸人だったり、アーティストだったり。
なんならこのnoteでエッセイだとか小説、マンガの有料記事を出しているヒトも含まれると思う。

で、職業として「場の感情」を提供するヒトってさ。
基本、観客、読者との間に壁があるもんじゃん。

お笑い芸人にしてもアーティストにしても、舞台の上から薄っすらと表情だったり、コール&レスポンスを受けられる事はあると思う。

ファンレターだとかSNSだとかで感想を聞けることはあるかもしれない。
ただ、それは「場の感情」を共有するってのとはちっと違う。

noteでのコメントをもらうようなことも、「場の感情」とはちっと違う。

もちろん、そういう間接的な感情の共有だってものすごく嬉しい。
ただ、飲み会みたいな場で醸し出されるあの状態とは違うってだけね。

感情のための職業についているヒトって、多くの感情を生み出すことになるけれど、その数が多ければ多いほど、その感情が「手に届く」って感覚って遠のいて行くんじゃないかって思ったんだ。

手の届く感情

でね。
今はSNSが前提にある世界観じゃんか。

手軽にコミュニケーションを取るって意味だとXみたいな短文のSNSが良いのかもしれないけれど、短文だとどうしても誤解が生じる事が起きる。

そもそも非同期での感情の交換になるのはどのSNSでも同じだしね。

じゃあ、zoomとかでリアルタイムでやればいいかって言うと、それも結局は会話に参加しているヒトの間で壁みたいなものを感じることもある。

ただ、これはなぜその壁を感じるのかってのが実のところ俺にはわかってない。
通信ラグみたいな問題なのか、それとも匂いだとか熱だとか視覚、聴覚以外の感覚を共有できないからなのか。

これは、ホント俺の個人的な感覚に過ぎないんだろうけれど、「手が届く」って感覚が無いんだよ。

話しているときに視線が合うあの感覚。
意気投合できたときのあの熱。

もしかしたら技術的にクリア出来るときも来るかもしれない。
今は、俺にその感覚が無いってだけね。

でもさ。
それでもさ。
俺は今日もあんたに俺の感情を共有してもらいたいと思ってコレを書いている。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの間にある、この得体のしれない壁を表現で突破できると思うかい?

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