誰かの過ちとともにあろうと考えるってこと

あんたは何かのニュースで「あいつ許せない!!」って思うことがあるかい。

俺自身も結構政治がらみで「許せん!!」って思うことがチラホラあったりする。

その許せない行動がいかに多くのヒトを不幸にしているのかとか考えるともぉたまらない気持ちになるんだよな。

麻生太郎さんがかつて総理大臣だったときに、国民の経済を立て直すために赤字国債をそれまで以上に発行することで政府支出を増やしていたのに、財務大臣になった途端に、まるで手のひらを返したように緊縮財政に走ったことは多くのヒトが違和感を感じていると思うんだ。

でも、麻生太郎さんはその政治力で社会人として生きられないほど追い込まれるようなことにはなっていない。

そらまあ、麻生太郎さんの人間力によるものもあるとは思うけれども、ちょっと思うことがあったんだ。

誰もが過ちに対する非難とそれに迎合する世界に耐えられるもんじゃないよなぁってさ。

今回は過ちに対しての「許す」って行為について考えてみる回だ。

闇雲に許すってことじゃなくて、俺たちにとって誰かを許すってことが俺たちにどんな価値を生み出すのか。
ちっと一緒に考えてみようぜ。

俺たちが誰かを許さないことによって起きる被害

まあ、こう言うことを考える切っ掛けのニュースがあったわけよ。

あのさ、もうこの話題よくない?って思ってるやつって結構いる気がするんだよね。

俺としては渡部くんがやらかした不義理はいかがなものかってのは間違いなく思うわけだけれども、それと渡部くんがオモロイって評価とは別のモンなんだよね。

渡部くんのオモロさってあの裏付けのない自信に満ちたグルメリポートだったり、そもそものツッコミの能力だったりするわけじゃんか。

要するに渡部くんの性については俺たちはどうこう思っていなかったんだよ。

でも結婚をすることになって、結婚が決まったってニュースが流れた当時は奥さんの佐々木希さんに対する「よくやった」的なコメントも散見されたと思うんだ。

でも、渡部くんの一連のやらかしに対する世の中のバッシングは渡部くんだけじゃなく佐々木希さんに対しても非常に大きな試練を与えているってことなんだよな。

なるほど。俺たちが誰かを避難するときはその親しいヒトも含めて避難しているってことを俺たちは理解しておく必要があるってことなんだろうな。

罪を憎んでヒトを憎まず

結局の所、この罪を憎んでヒトを憎まずって言葉を俺たちはもう一度マジメに考えとかないといけないってことなのかもしれない。

何?渡部くんのやったことはヒトとしての個性を否定するような行為だったろうって?

それは全くもって同感。
その上で思う。
なんで、渡部くんはそれをして良いと思えたんだろう?

これって何気に難しいテーマだ。
まずは俺自身は渡部くんのことを個人としては全く知らない。
なので、そう考えた背景ってことについて全く知っていないんだ。

なので自分だったらって想像するしかない。
今の俺の感覚だと、渡部くんのした行為は、なんつーんだ?
肌がゾワゾワするくらいのおぞましさを感じてしまう。

立場の違いを利用して、誰かに何かを強制するって行為そのものが、ものすごい嫌な感覚を俺の中に発生させる。

これはきっと男女の関係の話だけじゃない。

例えば、筋骨隆々とした男性がいたとして、そのヒトの腕や足の筋肉の腱を身動きできなくなった上でナイフで切り裂くようなおぞましさを感じるんだ。

そのヒトが持っている尊厳そのものを踏みにじるような行為。

それ自体に総毛立つほどの感覚があるんだ。

でも渡部くんはそれを出来た。
なんで出来たんだ?

多分、そのことは俺だけじゃなくて誰も理解できていないと思うんだ。

だから俺たちは渡部くんを攻撃してしまう。
なにしろ「理解できていない」んだからな。

でもさ、ちっと考えてみよう。
その攻撃が生み出すものがあるのか?

何しろ「理解できていない」んだから、「何を直せばいいか」を理解しているヒトなんていないわけだもんな。

その結果生まれるのは終わりのない個人攻撃。

そして、個人攻撃である以上は、その周りにいるヒトも巻き込んで攻撃していく。

それってよ。
悲しいじゃんか。
悔しいじゃんか。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはあの過ちからの立ち直り方をどうすれば一緒に考えることが出来るんだろう?

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