2つのゴジラから受け取るもの
あんたには今見たい映画ってのがあるかい?
俺は基本的に出不精なところがあって、映画はよっぽど気になるものしか見ないんだけれど、「とりあえずこれは見とかないといかんだろ」って思っててなかなか見に行けてなかったのをようやく見に行ったんだよ。
ゴジラマイナス・ワンだ。
アカデミー賞取ったでおなじみのあれね。
最寄りの映画館はいっぱいだったので、ちょっと遠出して見てきたんだよ。
あえて陳腐な言葉で言うけれど、いやすごかった。
いや、細かいこと言うとさ。
VFXとかは、前情報としてあまり予算をかけていないって聞いてたので、確かに「おおう、ちこっとこのシーンはチープに見えるな」ってところがチラホラあった気がする。
でも、そんなんどうでもいいくらいに「楽しかった」んだよ。
今回はストーリーそのものというより、何を楽しんだのかってことを考えてみる回だ。
ちっと俺たちがゴジラ映画に何を求めているのかってのを考えてみようぜ。
シン・ゴジラと比べてみる
よく、ゴジラマイナス・ワンはシン・ゴジラと比較されると思うんだよね。
シン・ゴジラも楽しんだんだけれど、ゴジラマイナス・ワンとは面白さのジャンルが違うと感じたんだよね。
両方ともゴジラという怪獣映画というフォーマットで描かれているんだけれど、描こうとしているものは違ったような気がする。
シン・ゴジラは「組織を支える個人」が描かれていたと思うんだ。
そしてその組織の力でゴジラという状況に対応する。
対してゴジラマイナス・ワンは「家族に支えられる個人」が描かれていた様に思うんだ。
家族に支えられる事によってヒトと関わることを覚悟する。
どちらも個人を描いているんだけれど、そこから感じられた感情は違い種類だと思ったんだよ。
組織を支える個人から感じたこと
シン・ゴジラで感じたのは組織が成し遂げる大事ってのを意識して、その組織が成果を出せなかったことを個人がその各々の立場で背負えるだけ背負い切る。
そんな悲哀みたいなものを感じた記憶がある。
そして、それは悲哀であるのと同時に「仲間とともに取り組むヨロコビ」みたいなものも感じた気がするんだ。
しかもプロ同士で全力で取り組むヨロコビだ。
その全力が自分の知らない世界を作り上げるというプロの覚悟だ。
その覚悟を持った奴らがお互いを補完しながら無理難題をこなしていく。
シン・ゴジラではそういうプロの覚悟ってのが感動を呼んでいたと思うんだ。
家族に支えられる個人から感じたこと
対してゴジラマイナス・ワンは家族の物語だと思う。
言い換えるなら、組織というルールによってつながるヒトではなく、家族という感情によってつながるヒトたち。
家族。ここで言う家族ってのは血のつながりじゃなく、感情でつながるヒトたちのことだ。
ゴジラマイナス・ワンはルールじゃなくて感情でつながるヒトの物語だと思ったんだよね。
ルールでつながるには何等かの覚悟が必要になる。
対して感情でのつながりは否応なしにつながってしまう。
そしてその否応なきつながりは切り離すことが出来ない。
というか切り離そうとそもそも思えない。
そして、その切り離すことの出来ないつながりは、個人に覚悟を決めさせる。
なすべきことは何なのかという「物語」を自ら紡ぎ始める覚悟だ。
2つの覚悟
じゃあ、シン・ゴジラのプロとしての覚悟とゴジラマイナス・ワンの感情に引き起こされた覚悟。
これはもう、どっちが良いとかそういう話じゃなく、覚悟のあり様ってのがヒトを楽しませるということだと思ったんだよな。
それらの覚悟を作品の構造上ぶつける相手が必要だったんだと思う。
だから、シン・ゴジラもゴジラマイナス・ワンもゴジラは絶対的な恐怖である必要があったんだと思ったんだ。
つまり俺たちは「恐怖に立ち向かうヒト」を楽しんでいたってわけだ。
なあ、あんたはどうする?
この2つのゴジラから受け取った覚悟を見た俺たちはどんな覚悟をしていこうか?
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