絵本編集者の担当本ごちゃごちゃ雑記 『いじわるちゃん』への(個人的な)考察

担当本についてごちゃごちゃ書いてみる第2回は『いじわるちゃん』(たんじあきこ 岩崎書店)について。前回ご紹介した『やましたくんはしゃべらない』と同じ「こんな子きらいかな?」シリーズの1作です。

例によって読んでいただいてからの方が良いのですが、とりあえずこちらを貼り付けておきます。

周囲にいじわるをしまくって恐れられている子どもが、そのいじわる力を見込まれておばけにスカウトされるのですが、あまりのいじわるさにおばけにまで見放されてしまい、たった1人になってしまいます。色々なトラブルに見舞われつつ這々の体で町まで帰り着きますが、みんなの姿を見たとたん、あれあれ、なんだか泣けてきてしまいます。

散々な目に遭わされたのに、みんなも優しいですね。そっか、これで一件落着、いじわるちゃん、これからみんなと仲良くね、的に終わるのかと思いきや、いじわるちゃんはにやりと笑います。あれ、いじわるちゃん、なに、その「にやり」……当然そうなるであろう安全安心の結末が待っていると思いきや、なにやら不穏な終わり方でちょっと心がざわつきます。

このラストがあることにより、この絵本は賛否両論が結構分かれます。やっぱり反省して改心して終わって欲しいんですよね。色々あったけど、そうやって反省してこれから良い子になってくれるならいいよ、明日から仲良く遊ぼうね的な安心感。それがもう少しで得られると思ったタイミングでのある種の裏切りですね。なので反発を覚える方もいるかも知れません。

まず考えたいのは、いじわるちゃんは、本当に、そもそも「いじわる」なのか、ということ。もっというと、いじわるちゃんはその報いを受けるべき「悪」なんだろうか、ということです。確かに、ここに描かれている行動としては「いじわる」と言えるかも知れません。でも、例えば「いじめ」ではないですよね。いじめは、多くのものが寄ってたかって、1人、または少数の者、立場の弱い者を標的にして心身ともに痛めつけ、苦しめる状態が多いかと思います。そう思っていじわるちゃんを見てみると、いじわるちゃんはいつも1人です。周囲から孤立しています。それは、いじわるだから孤立するのか、そもそも、なんらかの原因があって孤立し、精神的に追い詰められて、その結果、「いじわるちゃん」と称せられる行動を取るようになったのか、それは示されていません。(ここでは深掘りしませんが「いじわるちゃん」が本名かニックネームか、自称なのかという視点もありますね。冒頭に そのこのなまえは いじわるちゃんといいます とあるので普通に考えれば本名ですが、さてどうでしょうか)

この絵本を読んだ時に、例えばそういう視点を持ってもらえたら嬉しいです。表面に現れている事象、その根っこにはなにがあるのか、考えることはとても大切です。その上で、周りにこんな子がいたらどうするのか、自分だったらどうだろう、と考えてもらえたら。いじわるちゃんはなぜ孤立してまでこういう行動を取るのか、自分なりに考えてみるのも良いと思います。

最後の「にやり」、ここも様々に解釈できると思いますが、僕が考えていることを書くと、人間そんなにシンプルじゃないし、何かあったからってすぐに変わらないし、時には変わる必要もないかも知れないですよね。何か大きな出来事があってその時は「これから〜しよう」と思っても、実際はなかなか変われなかったり、一時的に変わっても元に戻ってしまったり。自分を振り返ってみても、その繰り返しだなと思います。なので、この最後のニヤリも、一瞬ぎょっとするかも知れませんが、考えてみたらむしろ自然なことかも知れないと思ったりします。もしかしたら、いじわるちゃんの中で、自分では意識していないけれどなんらかの変化があり、これから少しいじわるの表現方法が変わるかも知れないし、全く変わらないかも知れないし、でも、まあ人間そんなもんだろうと。本当のところは本人にしか分からない訳ですし。

他人が何を考えてるかも、本当のところは分からない、目に見えている、自分がそのように感じていることが全てではない、それで良いんだと、むしろ「だから」良いんだと思うのです。他人がどうだろうが、何だって構わないというか、他者としてきちんと尊重した上で、違うということを受け入れる。どんなに中が良い友達でも恋人でも、何を考えているのか、本当のところは分からない、だからこそ、他者を尊重するんだ、ということです。「分かり合える」とか「分かり合わなければいけない」という考えから解放されるだけでむしろ他人にも優しくできるようになるかも知れません。

少しだけテクニカルな話をすると、絵本の中にいくつか数回リフレインされるフレーズがあります。例えば「へへんのへーんだ」(やや変形していきますが)だったり、話題に出ている「にやり」だったり。お話が展開していくにつれて、それらのフレーズから受ける印象は変わっていきます。同じフレーズでも文脈によってニュアンスが違う。こういうところ、たんじさん上手いなぁと思いますね。

あと、中盤でおばけたちが逃げていってしまって一人になってしまう場面。森の中でぽつんと立ち尽くすいじわるちゃん。テキストはありません。この場面もとても重要で、これがあることにより、いじわるちゃんの心情を読者が想像する余地が出来ます。表情(絶妙ですね)ともあいまって、いじわるちゃんの孤独に思いを巡らす人がいるかも知れません。

話は変わりますが「らくだ」という古典落語があります。様々な名人が演じている大ネタです。あらすじは下記。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%A0_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)

古典落語といっても、昔からの型をそのまま演じるのではなく、現代に通用する、血の通った作品として提示するために演じる人が様々なアレンジを加えるのが常です。例えば僕は立川談志が好きなのですが、談志の演じる「らくだ」でらくだに散々な目に遭わされてきた屑屋が「そういえばこの前、らくだの野郎が雨の中でぽつんと立ってるのを見たな」という場面が出てきます。らくだが屑屋に「この雨を買え」とか言うんですね。それをおそるおそる断ると、いつものように無茶な行動に及ぶでもなく、そのまま去っていく。それが入ってくるだけで、傍若無人な振る舞いで、長屋とそこに出入りする人々の顰蹙を買っていたらくだの孤独が垣間見えるようで、印象が変わりますね。「らくだってどんな奴だったんだろう」と聞き手も考えるようになります。キャラクター造形に奥行きを与える、非常に秀逸なアレンジだと思います。談志ファンの間では有名な「雨の中のらくだ」というやつです。長くなりましたが、何が言いたいかというと、いじわるちゃんがぽつんと立ち尽くす場面にも同様の効果があるのではないでしょうか。

もちろん、これらはあくまでひとつの見方であって、正解ではありません。それぞれ見方、感じ方があると思うので、自分なりに考えてもらえたら。絵本は短いテキストと絵というシンプルな構造上、メッセージを乗せやすいメディアなので、つい、言いたいこと、伝えたいことを全部描いてしまいたくなりますが、それをやってしまうと、それ以上でもそれ以下でもない、単にそれが言いたいだけのものになってしまいます。一番言いたいことを決して言葉にせず、抽象化して表現する。そうすると、想像力を喚起し、様々な見方ができる、奥行きのある作品ができるのだと思います。

さて、そんなたんじあきこさんですが、現在ウレシカで展覧会が開催中です。東京近辺の方、期間中に東京に行くという方はぜひ。今回のために本も作ったそうです。見てないくせになんですが、絶対ぐっとくるやつです。会場では『いじわるちゃん』も販売していただいていますので、よろしければぜひ。

たんじあきこ 個展「ある3びきのきょうだい猫の話」
2020年 3月12日(木)~3月23日(月)
休み(close):17日(火)、18日(水)
営業時間(open):12時~20時

という訳でまた次回。



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