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はじめまして

misakobakes 身体に優しい
おやつ教室主催の
おがわみさこです。

皆さんに私の事を少し
知って頂きたく
自己紹介させてください。

私は幼少期の頃から
キッチンが好きでした。
玉葱の皮を剥いたり
ホワイトソースを
フライパンで混ぜたり
烏賊の皮を剥いたり
とにかく、母の側に
張り付いてキッチンに
立つのが好きなこどもでした。

お菓子作り

そんなキッチン大好きっ子だった
私は小学2年生頃から
徐々にお菓子作りに
ハマっていきます。
よく覚えてるのは
りんごのお菓子のレシピ本。
父が喜んでくれるのが嬉しくて
本がシミだらけになるまで
作りました。

小学校高学年では
和菓子作りに夢中になりました。
白インゲン豆を茹でて漉して
色鮮やかな練り切り作りが
楽しくて、高校は行かずに
京都に修行に行くと
自分の中で決め
茶道も習い始めました。

しかし親から反対を受け
高校までは出ておく様に
勧められて渋々家の近くの
高校に進学。
高校3年間も変わらず
お菓子を作っては友人
バイト先にせっせと
配る日々を送ります。

高校3年間を過ごし
和菓子の就職先は
男女の差がある情報を
仕入れていたので
サッと洋菓子に方向転換。
高校の友人が大学進学に悩む中
専門学校を選択。
免許が無くても
パティシエになれる事を
知っていたので
兎に角実習
なるべくケーキに触れる
回数を重視し
専門学校を選びました。

毎日ケーキ食べてた頃



2年間の製菓専攻科を
晴れて卒業。
東京・代官山にある
レストランに就職。
カフェ・レストラン・
バーに週末はウェディング。
様々なシーンに対応する
ケーキ・デザートを日々作ります。
パティシエなりたてで
メニュー作成から携われ
一緒に働いた仲間にも
恵まれました。
体力仕事で低給料と
離職率の高い職種だった
にも関わらず続けられたのは
そんな恵まれた
環境だったからだと
今でも当時の仲間と話します。

海外への一歩

やりたい事が出来て
仲間にも恵まれた環境。
何不自由なく大好きな
お菓子作りをしていたはずなのに
突然、今の環境で
良いのだろうかと
自分の中で疑問が生まれました。

新しい環境で
新しい事にチャレンジしたい。
自分の気持ちに
気がついてしまった私は
飲食系求人誌をチェック
ずっと憧れていた
海外での求人を見つけ
見事内定へ。

ステージは中国・上海。
高校のアメリカホームステイ以来
ずっと夢に描いていた
海外生活そしてパティシエとして
移住する事に。

プロデューサーは
イタリアンの巨匠、
芸能ネタに疎い私でも知っていた
イタリア人タレント。
外食産業がまさに
これから加速する
という時代の上海での
イタリアンレストラン
立ち上げに携わりました。
メニューは勿論
デザートに使う食器や
業者の選択、やる事に追われて
あっと言う間の
オープンとなりました。

100席を超える箱に
夜はバーから
大好きなJAZZ ライブが
聴こえてくる。
立ち上げ数ヶ月は
ほとんど徹夜の様な
働き方だったけど
この夢の様な環境で
アドレナリンが止まらず
楽しく働いていました。

レストランからの夜景

営業が落ち着き
働き方も落ち着き始め
たのがオープン1年程。
現地中国人スタッフとも
打ち解けペストリーメンバーで
夕飯を食べて帰ったり
時にサービスの女子たちと
遊びに行ったりと
プライベートも
充実し始めた頃。
幹部メンバーの売り上げ
横領が原因で
お店が潰れたと
報告を受けます。 

社長からは、私たち
キッチンスタッフには
別の選択肢の提案も
あったけどやりたい事とは
違っていたため私は辞退。
かと言って
この燃焼出来ない
気持ちのまま帰国なんてできない。 

選んだ次の道は
自分の足で探すこと。
現地のお店を周り
当時上海市内に3店舗ある
シンガポール女性オーナーの
カフェの扉を叩きます。
話を聞いてくれたオーナー
日本人で繊細な洋菓子が
作れると迎え入れてもらい
直ぐに3店舗の
デザートメニューを
1人で任される事に。

またデザート作りが再開でき
新しいスタッフとも日々楽しく
働ける様になり
上海生活再スタートを
きったと思っていたけど
少しづつ感情と行動に
ズレが生じてきました。

アパートへの引越しから
本帰国へ

当時外国人用
コンドミニアムに住んでいた私は
オーナーの勧めで、家賃の
かからない、店舗の隣にある
ローカルアパートに
引越しをする事に。
給料が半分以下に
なっていたため
ありがたい申し出でした。

が、そこは中国の
ローカルアパート。
冬の寒さからトイレに
座るとお尻が霜焼けになり
暖房器具とシャワー後の
ドライヤーを同時に使うと
電圧オーバー。
バッテリーが下がる
ではなく、ワイヤーが
溶けて切断される。
その度に修理屋に
電話してきてもらう。

発注のやり取りをするのも中国語。
簡単な食材ですらスムーズに
コミュニケーション取れない
ストレスから、何の落ち度もない
彼らをどこかで責めている自分に
自己嫌悪。

1年が過ぎる頃、オーナーから
就労ビザの話が出ていました。
何か違うと思いながら
働いていた私は、断っているつもりが
そこは海外。
ハッキリ伝えないと
伝わらない。
自分の意思とは
違う方向に話が進み
コントロール出来なくなっている事に
気がついた私は
当初の日本人シェフの
助けを借りて夜逃げ。
日本に本帰国したのでした。

お菓子の都、パリ

東京の実家に帰ってから
さて、どうしようと
考えていた時間は
ほんの僅か。
中国に行けたなら
どこにだって行けるんじゃない?
そんな考えが過ったと同時に
パリで暮らす方法を
調べていました。

その1カ月以内には
都内での職場で
留学前提な事を伝え
1年という期限付きで働く事に。

お金を使わず働き
生活費を貯め1年後には
フランスの学生ビザを
取得し渡仏しました。
期限付きで働いてた
レストランのシェフの紹介で
当面の宿泊先も得ることが
出来、順調にパリ生活を
スタートさせる事が出来ました。

パリでの生活はあくまで
学生ビザなので
学校に在籍しないといけません。
日本の専門誌で見つけた
パティスリーに連絡し
日本人初のスタージュ(研修生)
として働きながら
語学学校に通う日々が
始まりました。

最初の研修先のパティスリー

半年程の研修を終えて
パリのビストロや
レストランでのアルバイトから
人の紹介で戦後から続く
歴史ある3ツ星レストラン
での研修も経験。
その研修生活が終わる頃
日本人がシェフを務める
レストランと出会います。

オーナーとサービススタッフは
フランス人、料理人は
日本人という新しい環境で
働く事に。
相変わらず学生ビザ保持者なので
営業の合間に学校へ
通う日々が始まります。
短期間労働の研修生とは違い
早朝の市場仕入れから
ディナー営業
掃除の終わる24時過ぎまでの
フルコースな働き方。
ランチとディナー営業の合間に
メトロに乗って学校に通うという
超ハードなスケジュールを
こなす事になりました。
身体は毎日クタクタに
くたびれるけど
心はかつてない程
充実していました。

食材が素晴らしい
美味しいと素直に
伝えてくれるお客さんたちも素敵。

なにより現地の言葉を操り
この土地に根を張ってる
シェフたちとの日々は
今までにない刺激でした。 

そんな日々を過ごす中で
就労ビザを出してくれると
オーナーから話がきました。

自分の頑張りが認められたと
素直な嬉しさ反面
外国人へのビザ発給の
オーナー側の負担を考えると
その事の重さを感じずには
いられませんでした。

早朝から深夜までのこの仕事。
ビザを出してもらったら
お店のために最低でも
3〜4年は働くという覚悟が
私には持てなかったのです。

専業主婦・子育てという選択

月の半分は出張で不在な夫との
結婚生活が始まり、第一子を出産。
それまで特に専業主婦になりたいと
思った事はなかったけれど
多忙な夫と暮らす中で自然と
自分は子育てに専念するんだと
役割が生まれました。

母子旅行先でのマーケット

お菓子やパンを焼く事が
好きだった私は自然と
日々に取り入れていきました。
赤ちゃんだった娘をおんぶして
働いていた頃の人脈で
ケータリングの
仕事をたまにもらったり
パリ時代の仲間が
オープンしたパン屋の
手伝いをしたりと
bakingを生活に
取り入れながら充実した
東京での
子育て時代を過ごします。

シンガポール移住

第2子を出産、1歳を過ぎた頃
夫婦間で話に出ていた海外移住
海外子育ての準備が整ってきました。
自営業な夫はまだ東京を離れる
タイミングが持てず
最初は母子移住という
形にはなるけれど。

もともと海外のゆるりとした
空気感が生きやすいと
感じていた私は
いつでも出発する準備は
出来ていたので
話の出た翌月
キリの良い1日に
出発しよっかなという
軽いノリで
シンガポールに来星。

1歳と3歳を連れてのサービス
アパートメント暮らし。
家探しと同時に長女の
学校(幼稚園)探しの
日々がスタートしました。

海外子育て

いつまでと期限をつけていなかった
シンガポール移住生活。
元々1人で行動する事が
気軽で好きだった私は
日本人の付き合いは殆ど無く
初めてのママ友は
同じマンションの
母子家庭なフランス人の
ワーママ。
お互いダンナ不在
子ども中心な生活と
美味しい物が大好きな趣味が合い
週末はどちらかの家で
ご飯を食べたり
遊びに行ったり
たまにはこどもを預けて
夜出かけたり。

そんな生活が1年以上続き
しみじみと日々の生活に
幸せを感じ
それを彼女に伝えた時に
国帰を知らされました。

初めて、近しい人の離星。
母子共に仲良くしていたので本当に
辛かったし
今でもこの時の気持ちを
リアルに感じる事が出来るほど。

しかし、出会いと別れは
それから何度となく
繰り返し経験する事になります。
私自身の友人も
子どもたちのクラスメイトたちも。

コロナ・夫と離れた生活

コロナになり直ぐに、シンガポールは
国境閉鎖になりました。
ビザ保有者以外の来星が
出来なくなり
私たちも、日本に帰ったが
最後戻る事は不可能な状態に。
旅行者として帰って来ていた夫と
2年弱離れた生活を
強いられる事になりました。

学校は直ぐにオンラインに
切り替わり2人の授業を
私1人で見る事に。
ITが大の苦手、英語の先生からの
指示もよく分からない。

オンラインの日々を少しでも楽しくとの試み
crazy hairstyle DAY


最初の1週間でグッタリしてきた
母に反比例して、こどもたちは
どんどんやり方を覚えていき
当時1年生だった
長女は誰の助けも借りず
課題をこなしていきました。
逆境は人を強くする
強く思った瞬間です。

本帰国への流れと
今の私を形造ったものたち

2022春。コロナで家族が離れた生活を
強いられた事がきっかけで
7年になるシンガポール生活を
そろそろ卒業しようかと
話が出ました。

新しい国としてスペインが
候補にあがり夏休みに下見として
こどもたちのサマースクールを
予約したり準備を整えていた
ある日。
夫の予定が突然都合がつかなくなり
急遽母子で2カ月の
夏休みを過ごす事に。

楽しみにしていたし
またか…という
落胆した気持ちも相まって
私は半分ヤケになって
予定を埋めていきました。
自営業な夫の急な
スケジュール変更は
よくある事。

母子で海外よりも
日本の田舎に行こう。
のんびりしよう。
普段は実家のある東京しか
帰る事がなかったけど
地方に住んでいる友人たちに
久しぶりに会いに行こう。

シンガポールから羽田へ
空港から20分で帰れる
実家にも寄らずそのまま
宮崎空港へ。
ここ、宮崎で泊まった
エアビーの居心地の良さ。
当時心身共に疲れていた
私の心を少しづつ
癒してくれた場所。

心をほぐしてくれた景色


この景色をぼーっと眺めながら
日本に住むのもありだなぁと
思いました。
そして、この地に住み
私の理解者である友人
(17年を海外で過ごし
大好きな料理の仕事をして
人生謳歌している)と話し
その気持ちは徐々に
固まっていきました。

決断   

日本での夏休みを過ごし
シンガポールの日常生活へと
戻った様に見えたけど
私の中で今までに無い
大きな変化がありました。

それは、経済的な自立。
専業主婦としての10年間。
2人のこどもたちの
成長を楽しめる程は
余裕のある生活。
お互い助けあえる
友人たちにも恵まれて
特に不自由なく
生活してきました。

でも、薄々と気がついていた
娘2人の精神的な自立。
思ったよりずっと早い
親離れと子離れ。
相変わらず仕事中心な夫との生活。

どんどん成長するこどもたち

10年後、なにしてるかな?

家族のためだけに費やした時間は
2度と私に返ってくる事はない。
今準備しておかないと

何も選択肢を持ってない自分が
リアルに描けて怖くなりました。

教えるを仕事にしたい

1年ほど前から
毎月定期的にケーキを
オーダーしてくれる
友人がいました。

話を聞く限りそこまで
甘い物が好きなわけではない。
少なくとも
定期購入する程では絶対にない。

それでも毎月ふんわりとした
希望はありつつ
お任せで頼んでくれる
そんな友人でした。
今思えば、
私の色々な事を知ってる
彼女からの応援だったんだなと
受け止めています。

しばらくして、その友人の友人と
少しづつ口コミでオーダーの数も
増えていき
頻繁ではないけど
自分のお菓子で人が
喜んでくれる幸せ
を思い出していました。 

オンライン講座

ケーキを作って人に喜んでもらいたい。
日々気持ちが強くなる。でも、
引っ越しの多い私に
どんな道があるのだろう。
考えても自分だけでは
出せない答えを
何年もぼんやり考えていたある日。
オンラインで料理系の
集客を発信している
Instagramアカウントに
出会いました。

オンラインでお菓子を教える?

今まで自分にはなかった発想が
頭の中に入った瞬間でした。
すごい。
これなら私にも出来るかも
しれない。

そこから毎日、時間さえあれば
アカウントのライブを
聴き続けました。
発信されてる全てのメッセージが
私個人のために
向けられてるんじゃないかと
思うほど刺さる言葉たち。

半年の講座があると知って
すぐに申し込もうと決めていました。

仲間の存在

待ちに待った講座が
始まるタイミングは
7年間のシンガポール生活を
引き上げ日本に本帰国した
タイミングでした。

帰国して2週間後
第一回講座が開催。
椅子もダイニングテーブルも
無いキッチンも使えない
が家はある、そんな状態。
しかも、小学生の娘2人の
3ヶ月という長過ぎる
夏休み真っ最中でした。

講座参加者はほぼ皆が
既に何かしらの
教室の先生、もしくは
活動されている人ばかり。
ただでさえ遅れを取っていながら
まだ思う様に動けない状況に
完全な引け目を感じての
スタートでした。

それでも、2ヶ月が経った今
モチベーションをしっかりと
保ちながら、不安な気持ちにならず
むしろ、どんどん楽しみに
なってるのは他でもない
講座の先生方と
受講生である仲間の存在です。

1人だったら、確実にここまで
来れなかったと断言出来ます。
それぞれの教室に向かって
試行錯誤しながら
お互いの成長を
喜び、励ましあえる仲間が
正直、出来ると
思っていませんでした。

この"はじめまして"を書いてる現在
まだ絶賛夏休み中。
移動の多い旅行の
移動時間に
少しづつ書き進めています。
第4回の講座も後日の
アーカイブ受講になります。

家族時間と、将来に向けた
自分時間。
バランス取るのは
簡単ではないけど
不可能ではない。

ゴールに辿り着くまで
動き続ける。
不安になったら
動き続ける。

やりたいと思えることがあるなら
やってみる。
いつだって、あなたの人生は
あなたが主役です。
お母さんになって一時は
家族のために自分の時間のほぼ
全てを費やす時期が
あるかもしれない。

それでも戻りたいと思った時が
戻る時。自分の中の好きに
素直に進んで欲しい。

私は人生の全ての時期を
お菓子作りと共に進んできました。
それは他でもない
人を喜ばせる事が
私の喜びになるから。

これからは"お菓子作りを伝える"
をキーワードに進んでゆきたい
自分で作れる喜び、を
一緒に味わってもらいたい

新たな挑戦に今から
ワクワクしています。











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