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ご挨拶と自己紹介

皆様こんにちは。Dee-Sで御座います。東京生まれ東京育ち、DJの世界に魅了され気が付けば35年以上、DJやパーティーの運営、はたまた楽曲制作や執筆活動なんかも過去にやっていた限界オジサンDJで御座います。70年代から80年代のDiscoから派生したHouseという音楽ジャンルを主軸にし、毎年プレイスタイルが微妙に変化するスタイルで現在も細々と活動をしております。どうぞよろしくお願い致します。

幼少期から思春期

自分は決して裕福な家庭で生まれ育った訳ではなく、オギャーと生まれた頃には既に父親のギャンブル癖による借金が原因で両親は離婚、親権を持つ母親に育てられました。母子家庭の産まれです。その代わり、父親代わりに献身的に自分の面倒を見てくれたのは父親の親である爺さんでした。

今を思えば凄くオシャレな爺さんで、趣味は写真、音楽鑑賞、盆栽、温泉旅行と明治生まれの爺さんにしてはエラい多趣味な方でした。自分が子供の頃の過ごし方は平日は母親と過ごし、土日は爺さんの家に預けられて寝食を共にしていました。また爺さんの趣味である温泉旅行が割と頻繁で月イチペースで週末は関東近郊の温泉巡りをする環境で育ちました。

また、爺さんの家はハイエンドオーディオに囲まれ、家に行けば爺さんが好きだったジャズ、フュージョン、ロックなどを聴きながら過ごしていて、レコードを買いに一緒に秋葉原に行ったり、高級オーディオを物色したり、と今を思えば英才教育を受けていたのかな?と勘違いするレベルで音楽が日常生活に溶け込んだ幼少期を過ごしました。

爺さんが特にお気に入りで自分が印象に残っている作品はHerb Alpert - Rise、Alan Parsons Project - Eye In The Sky、YMO - Solid State Survivor辺りです。もうこの時点でハイカラな爺さんだったことが伺えます。爺さんは洋楽メインで聴き漁っていましたが、邦楽も良いものは良い、みたいな視点を持っていたのかもしれません。

中学生になると、まぁ自分が生まれ育った土地が結構荒れていて不良だらけでした。漏れなく自分もいつの間にかグレていて、よその中学と喧嘩ばかりしていましたが、喧嘩した後は結構仲良くなってることも多く、気が付けば沢山の中学のワルいヤツは大体友達、みたいな立ち位置。でも優等生クラスの友達も仲良しだったので、この時点から特に分け隔てなく人付き合いをすることに違和感を感じていなかったのかもしれません。

丁度その頃、世間では空前のバンドブーム夜明け前、というタイミングでしたが東京では幸運なことに深夜番組でMTVが放映されていました。同時にBeat UKも民放でやっていたので、最新の洋楽をチェックできる良き時代でした。そこで偶然見たHip Hop楽曲のMVを観て「何これ?超かっこいい!」となったのがDJの世界に踏み込む第一歩でした。

もうそこからはレンタルレコード友&愛に通い詰めてダンスミュージックのコンピレーションアルバムを聴きつつTower Record、Wave、HMV、Cisco等の輸入レコード店で12インチシングルをお小遣い握りしめて買えるだけ買う生活が始まりました。そして周りの友人がバンドブームに乗っかってバンドを結成するなか、自分はDJを目指すようになりました。

当時、中学生だった自分は当然カネも無く、テクニクスのターンテーブル2台を自宅に揃えることが出来ませんでしたが幸い爺さんからピッチコントロール可能なターンテーブル(ベルトドライブ)を譲ってもらい、もう一台は近所の電気屋が粗大ごみで回収したであろうターンテーブルを夜中に拾ってきて何とかターンテーブルを調達、ミキサーはおもちゃみたいにチャチなものを貯金していたお年玉で買ってDJの練習に明け暮れていました。

高校生になると既に都心のClubに入り浸るようになりました(もう時効だしIDチェックなんかも殆ど無い時代だったので敢えて記載しています)。実は自分には歳の離れた姉が居まして、この姉がまたド不良だったので自分が中学時代には何故か一緒に連れまわされ地元近くのレゲエバーや新宿ツバキハウスも知ったのは中学生から高校生になる辺り。只のマセガキで年上のお姉さんから凄く可愛がられてました。

姉とは別行動で自分がよく遊びに行っていたのが当時だと渋谷Cave、芝浦Gold、飯倉End Maxでした。90年代初期は特に自分にとっては刺激的でHip HopもHouseもTechnoもすべてが新鮮で、益々クラブミュージックにのめり込み、地元の先輩がサーフィン好きでDiscoでもDJしていた人がやたら多かったので、DJもそこから学びました。

その後は学生パーティーでDJをやる機会も増え、プロを目指していた自分はクラブでレギュラーが欲しかったので、高校生だった自分は年齢をごまかして業界入り。この当時のDJは大体そんな感じで年齢詐称してお店の人やブッキング担当と何とか仲良くなってデモテープを渡して気に入って貰えれば「じゃ、この日やる?」みたいなことで潜り込んでました。もう今となっては自分も店も完全にアウトですが。

西麻布Yellow丁稚時代

高校時代のクラブ遊び仲間を通じて、西麻布Yellowで海外アーティスト招聘やイベント企画をしている方を紹介してもらい、気が付けばアテンドのお手伝いやパーティーのお手伝いをするようになりました。(そのお手伝いは当時無報酬だったので敢えて丁稚と記載しています。)結局その方は日頃からシャブ漬けで接し方にメチャ苦労しまして、すぐ音信不通になるし、言ってる事とやってる事が日替わりでコロコロ変わるので、もう振り回されっぱなしの毎日でした。

それでも我慢してお手伝いをした結果、凄く自分にとっては良い体験をすることが出来ました。その時代にアテンドのお手伝いをした海外DJのプレイ中にDJブース内でしっかりとプレイを目と耳に焼き付ける事ができたので。その当時お手伝いさせていただいたのはFrankie Knuckles、David Morales、Kerri Chandler、Joey Negro(現Dave Lee)、Walter Gibbonsなどの今となっては伝説級の方々。LiveではInner Cityで関わらせていただきました。

辛かった20代の業界の洗礼

20代になりレギュラーもそこそこ獲得でき、名前は伏せますが大箱でのResident DJの話が自分のところに舞い込みました。が、その噂を聞きつけた現行Resident DJに再三に渡る嫌がらせ、罵倒を受ける日々が始まりました。「お前になんか絶対にResidentの座は渡さない」「まだ早い」などの言葉でネチネチと言われ、その頃は自分もかなり尖っていたので、殴り合い寸前まで揉めに揉めた結果、Resident DJの話は流れてしまいました。

そして90年代はDJやってる方も大体チンピラ崩れというかガラがお世辞にも良くない方が数多くいた時代。ちょっと新しい箱が出来て挨拶に伺えば後日お世話にもなっていない年上DJから「俺のシマでDJなんかやらせない、ふざけんなお前」みたいな事を言われるのも日常茶飯事。ただのヤクザのシマ争いみたいな光景に日を追うごとにウンザリしてしまいました。

もうこのまま日本でDJ活動するのアホらしい…水商売の出来損ないみたいな世界の何が「クラブカルチャー」とか言ってんの?俺がやりたいのは、もっとクリエイティブなDJで刺激的な夜を作りたいのに…と悶々とする日々を過ごすのが全く建設的ではないと判断して、一旦日本のクラブ業界から離れ単身渡英を決意しました。

何もかもが刺激的過ぎたイギリス

時は94年。取り敢えずイギリスに留学していた友人を訪ねて観光ビザで滞在できる限界まで滞在して現地のパーティーで散々遊ぼう、と計画。丁度その頃のイギリスはCriminal Justice Act施行のタイミングでRave衰退期に突入。高校生の時にイギリスに交換留学で夏休みに短期滞在し非合法Raveを体験済だったので、少しガッカリするも新しいストリートムーヴメントが起きていて何もかもが刺激的でした。

丁度その時代はJungleからDnBが誕生。そしてCriminal Justice Act施行後はライセンスをキチンと取得したパーティーが次々と産まれ一大産業が出来上がるかもしれない、という時期でした。とにかく何処のクラブに行っても人だかり、日本では体験することが出来ない強烈な空気を感じ取ることが出来たし、自分の居場所はココかもしれない、と大いなる勘違いをするレベルで衝撃を受けたのを記憶しています。

このイギリスの体験を出来る限り自分のDJに落とし込み、世界レベルのDJになりたい、と感じるようになったのがこの頃。そして一人の天才DJのプレイで自分のDJ観が一変することとなりました。そのDJは本名Alexander CoeことSashaでした。彼のプレイを初めて聴いた時、それまでNY系のHouse DJとはまた違う独特の世界観で、あたかも映画を観ているような壮大かつ感動的な展開に「これが自分の目指す表現だ」と覚醒したのです。

Progressive Houseに魅せられて

SashaのDJプレイを真似することは出来ても、それではオリジナリティの無いDJに成り下がってしまう。どうしたら彼とは別の世界観でオリジナリティを構築することが出来るのか?について考える日々を過ごしました。そもそも日本ではProgressive Houseと言っても「は⁉ 何それ?」とか「Sasha?誰よそれ。HouseはNYが至高だろ、イギリスのHouseをプレイとか邪道だろ」とか日本の知り合いDJの殆どに言われる始末。心の中で「ダメだこりゃ、話にならんし会話にならん」なんて思いながら、20代半ばはひたすら耐えに耐える日々でした。

それでも自分が信じて疑わないProgressive Houseの豊かな表現を何とか日本のクラバーに届けたい、という一心で研究に研究を重ねた結果、複数ジャンル横断系の原型ともいえるプレイスタイルを確立したのが96年。丁度この頃は日本だとNY Hard HouseやHandbag系が流行していて自分はその辺りの音があまり馴染めず、代わりに水面下で94年頃からムーヴメントになるかならないかの境界線に居たTranceを追いかけるようになりました。レーベルで言うとHooj Choons、Perfect Fluoro、Bonzai辺りですね。

97年位になると、Tranceがメインストリームに躍り出て98年、99年には日本でもTranceのパーティーが大きな箱でも開催されるようになりリスナー人口も爆発的に増加。その一方でメインストリームとは対極的なDeep Tranceも産声を上げイギリスでは第2次Progressive Houseムーヴメントが始まってSasha & John Digweedが爆発的な人気を獲得。自分も漏れなくそのムーヴメントに乗っかるような形でProgressive House中心の選曲で徐々にファンを増やすことが出来ました。

とは言っても、お客様の半分は日本人以外の外国勢。やはり未だProgressive Houseの魅力に多くの日本人は気が付いていない、という現実を目の当たりにします。悶々とする日々が続いたけど、きっと自分は日の目を見ることが出来ると信じて続けていました。日本のレコード屋もProgressive House作品を取り扱うようになったので、日本でもきっと近い将来にこのムーヴメントは起きる、と確信していました。

運命のミックステープ

98年には自分のDJでProgressive Houseの魅力に気が付いた仲間が少しづつ増えて自分のDJを口コミで「あいつは本場のProgressive Houseをキチンと出来る日本でも稀なDJだ」と紹介してくれていました。ホント有りがたい話で、その一番のフォロワーが紹介してくれたアメリカ人の友人が「自分のDJmixテープが欲しい」と頼まれて彼の誕生日プレゼントで渾身のDJmix 120分のテープを渡しました。彼は凄く嬉しがっていて「マジ最高。これだよ!」とコメントしてくれて「あぁ、喜んでくれて良かった」と当時素直に喜んでいました。

そしてそのミックステープが思いもよらぬ人間の手に渡りました。そのミックスを聴いたのは名前は伏せますがUKはLiverpoolのクラブNationで開催されていた「Cream」を日本で開催することを計画していた人物でした。その方は実はYellow時代からの知り合い。世間は狭いなぁ…なんて思いましたが、そのミックステープを聴いて現地の企画陣営に「こいつを日本のResident DJにする」と交渉した結果、OKが出てまさかの抜擢。コレは本当に当時ビックリしたし、人生のターニングポイントになりました。

そして「他にあと1名、Resident DJを決めたいんだけど候補者居るか?」と自分に打診があったので、この人なら絶対にいい仕事をするであろう、と真っ先に頭に浮かんだのが当時渋谷DMRのHouseバイヤーで公私ともに仲良くしていたYoshiを推薦。「お前が言うなら、それでいこう」という事でUKでも当時老舗級のパーティーが日本上陸、という今考えるとトンでもない企画が動き始めました。そして当時、UKの有名パーティーで日本人DJがResident DJに抜擢されるのは快挙でした。

Y2K Cream上陸

時は2000年、開催タイミングを見計らい機は熟した。遂にProgressive HouseがUKのメインストリームに躍り出た頃に西麻布Yellowで「Cream In Tokyo」が開催。上陸記念パーティーは2Days開催で初日はGuestでJustin Robertson、2日目は当時BBC Radio1の人気パーソナリティーでSpot Onレーベル主宰のSeb Fontaineが来日。特に2日目が平日開催だったにも関わらずトンデモない集客記録で西麻布Yellowで結構パンパン、と思える人数が700人くらいだったんですが、何と蓋を開けてみれば1600人超え。入場制限が最長2時間半待ち、おまけにBBC Radio1のスタッフも取材に駆け付け現場はタバコを点けるライターの火が着かない酸欠寸前の状態。

熱狂的なクラバーが噂を聞きつけ、DJブースから見渡す光景は人、人、人で感動のあまりプレイ前に自分もウルっと来たのを記憶しています。ようやくスタートラインに立てた…今日のために集まってくれた方に誰とも分からない自分のDJを聴いてもらって、ありきたりな海外DJのサポートDJレベルではない異次元レベルのプレイをしてみんなの記憶に残したい、という思いで無我夢中で自分が出来る最高の仕事をした結果、オーガナイザー経由で「お前のプレイ凄すぎて、Dee-Sって何者なんだ⁉って問い合わせ凄いぞ!!」と激励されて思わず涙ぐんだのは良き思い出。

その後は毎月、当時DJmagのTop DJ 100に選出される海外アーティストと共演し、西麻布Yellowでのレギュラー開催最終日にHernan Cattaneoを招聘した際にアルゼンチン大使館に招待され、自分の夢だった「大使館でDJ」を達成することが出来ました。それこそ東京23区の端っこでやさぐれていた不良が親善大使扱いで大使館でDJするとか個人的にはサクセスストーリー過ぎて今でも笑える出来事でした。

燃え尽き症候群から再スタート

Cream In Tokyoを終えたのは2002年。DJとして目標を達成してしまったので、燃え尽き症候群に発症。DJすることが出来なくなっていました。自宅のDJブースを目の前にしても、レコードに針を落とすことが出来ない。モチベーションが上がらない。何を聴いても反応できない。いよいよ自分はコレで人々から忘れ去られるんだろう、なんて考える時間ばかり過ごして仕事も業界をまるっと変えて第二の人生を模索します。

そして気が付けば社畜状態。休日にDJ活動とか考える余裕すらなく精神はどんどん蝕まれていき、DJ時代によく遊んでいた仲間とも疎遠になり精神的には暗黒の時期を過ごす事になりました。とにかく仕事から終わった後の自分の顔を見ても死んだ魚のような眼をしていて自分の顔すらまともに直視できない、かなりヤバい精神状態に追い込まれていました。

契機は2006年、昔からのDJ仲間と久し振りに会うと全員が「Dee-Sさん、絶対勿体ないから再スタートすべきだ」という意見しか言わないので、仕事環境も最悪で退職を考えていた時期でもあり、やはり自分が自分らしく生きるにはDJをする事で何とか正気を保てるんじゃないか?と考えた結果、細々とDJ活動を再開することに。先ずはクラブでのDJではなくネットラジオ、ブログからの再スタートでした。

Paradise Garage Bot 制作

2006年を振り返ると、Mixi以降のSNS時代へ突入。Facebook、Twitterが話題になり次世代コミュニケーションツールとして爆発的な普及をしたのがこの頃。特に自分もTwitterの可能性に魅力を感じた一人でした。そしてTwitterで「コレは面白いかも!」と思ったのがbotの存在でした。任意のタイミングで定型文を投稿する仕組みを確認して、もしかしたらアカデミックな使い方で面白いことが出来るんじゃないか?と考えた結果、自分が大好きなGarage Classics作品をDiscogs(過去にリリースされた作品のデータベースサイト)のリンクを自動投稿するbotを制作する作業を行いました。

Larry Levanが愛してやまなかった作品、Paradise Garageでプレイした作品を徹底的に調べ上げてリスト化し、botを発表したのが2010年の8月。その名も「paradise_garage_bot」です。このbotをリリースしたら直ぐに反応があり、このbotを最初に話題にしてくれたのがRon Trentで、更に拡散してくれたのがシンガーのJody Watleyでした。更に海外メディアもこのbotの存在を確認し記事にもなりました。

God Bless the Paradise Garage Bot

現在進行形の自分の姿

DJ/Producer以外の活動もボチボチやって、今現在の自分はクラブ以外の施設(Cafe,Bar)で細々とDJをする限界オジサンDJでロードバイクやランニングを愛する市民アスリートという感じですが、次世代に何か残せないか?次世代に引き継いでほしい事があるんじゃないか?という自問自答の結果、このNoteでタイミングで書き記していこう、と思い久し振りにカタカタとキーボードと格闘することにしました。

もし、この自己紹介をみて「Dee-Sさん、こういうトピックで見解を教えて欲しい」とか「DJについて色々知りたい事があるので教えて欲しい」とか有りましたらtwitter(現・X)でリクエスト頂けたら幸いです。また、自分からも役に立ちそうなDJ tipsや面白いかも?というトピックを立てて発表出来ればと考えております。初っ端から長々と読んでいただきまして誠にありがとうございます。引き続きよろしくお願い致します。

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