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~ある女の子の被爆体験記44/50~現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。”人を助ける勇気、アルペ神父。広島の被曝者を救護した医師を忘れない"



スペインの医師/イエズス会のアルペ神父

アルペ神父は、マドリード大学で医学を勉強した医師だった。1945年8月6日、ペドロ・アルペ神父は爆心地から5.5kmの長束修練院(安佐南区)で被曝したが、広島の被曝者を、原爆投下直後から治療し、看病した。

アルペ神父をふくむ、イエズス会の外国人神父・修道士は合計16人が広島で被爆していた。広島市内の2つの教会のドイツ人神父5人、アルペ神父と朝鮮人修道士2人を含む11人が長束修練院で被曝した。

感謝

私の伯母や母は、アルペ神父や同僚の神父さんたちが、リヤカーに病人を乗せて運んだ話を今もする。神父さんたちの同僚の方々も重傷を負っていた中、沢山の被爆者たちをささえて働かれていたことは、日本人として感謝し、人として希望を感じる。外国人で、敵と見なされるかもしれないリスクを負いながらも、人とを助けることに献身された事実は、忘れてはならない希望の記録である。

被曝した伯母や、戦後、山口の教会に通った母は、いまも神父さんたちが被曝した人々を救護してくれたことを、とても感謝して当時のことを語る。

敵と間違われるリスクがあっても、人を助ける勇気

アルペ神父と数人の同僚たちは、広島へ入って救護活動をすることを決めたが、それは当時、大変危険なことだった。家族を失い怪我をした人々が、外国人を見たら、敵やスパイだと疑い、襲われてもおかしくない。また熱がこもって柔らかくなったアスファルトの道路は歩くことすら困難だった。瀕死の人々を助け、また助けられないことに心を痛めた。

異常な症状に気づいていた

ある火傷の患者が言った。

「私は明るい閃光を見て、爆発音をききました。しかし、自分には何も起こらなかった。すると30分ぐらいして、皮膚の表面に水膨れができ、4−5時間すると体に大きな火傷が現れ、それはすぐに化膿してきました。しかし火はありませんでした(火にまかれたことはなかった)」(P130)

新型爆弾に放射線が含まれていることなどアルペ神父は知る由もない。しかし、異常な症状には気づいていた。

上記の症状、やけどが後から出てくる症状は、今では赤外線を含む放射線が組織や筋肉組織を障害したためだと理解できるが、当時はアルペ神父だけでなく、多くの医師が困惑した、熱傷の経過である。

 

瀕死の人々への献身的な治療

原爆投下直後のやけど、けが。それは言葉に表すことがはばかれるような悲惨さだった。瀕死の人々が、建物が崩れていない長束修練院へと向かってやってきた。

アルペ神父は、すぐに、長束修練院を仮の病院として200人以上の治療にあたった。数少ない医療薬品の中で、ホウ酸と水を混ぜて包帯を浸し、それを火傷の箇所へ巻いた。痛み止めもなく、ほかにできることは水で傷を洗うことしかできなかったが、諦めずに治療することが、患者をも勇気づけるものであったことは間違いない。現在ではホウ酸は治療に使わないかもしれないが、アルペ神父は、やけどや外傷を感染から防ぐように必死に考えて治療されたことが容易に想像でき、それを読んで医師として、胸が熱くなる。


私は、こう思います。

•“違いに見えさせられているもの”は、人間としての違いではない。宗教や人種など、違って見える物も、人間として違っていることを示しているのではないのだなぁ、と。

•同じ人間として助けることができるか。人間だからそれができるではないか。助け合うことができる、それが人間なのではないか。

•どんな生き物中でも、人間だけは平和を維持できる生き物である。“人間だからこそ、力を合わせて平和を作っていける”のではないでしょうか。




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