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~ある女の子の被爆体験記12/50~    現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。”川で見たもの”

ようやく稲荷橋を見つけた。しかし、毎日路面電車に乗って通る、慣れ親しんだ稲荷橋とはまるで違うものだった。橋の上を通る路面電車の線路は、鉄の線となり、飴細工のようにうねっていた。枕木は焼けこげ、焼け落ちた隙間から、見たくなくても真下の川が目に入る。


真下では、お腹がふくれた遺体が2、3体、折り重なるように流されていく。口を大きく開けて苦しそうにこちらを見ている男性と、ノブコは目が合った。ドキリとしたが、口も目も見開いたままのその男性はすでに絶命しており、顔を半分川に浸したまま流されていった。
ノブコは怖さで足に力が入らなくなった。四つん這いになり、両手をついて川を覗く姿勢になった。 そして、川へ落ちないようにとしっかりと鉄の線路を掴むのだが、線路は熱を帯びていて熱かった。しかたなく残っている枕木を握ったが、焦げた枕木は今にも落ちそうで恐ろしかった。
怖かった。無数の死体に、自分が下から見上げられているような気がした。死体の目を見ないようにしていても、四つん這いの目の下には、恐ろしい光景が広がっていた。無惨な死体を正面に見据えながら、ノブコは前に進まなければならなかった。

川に浮かぶご遺体は、本当に沢山あったようだ。多くの被爆者の証言に残っている。
被曝して苦しくなった被爆者が、やけどのためか、のどの渇きか、川へ体ごと入った。被爆者は川の中で息絶えたあと、急激に熱された体内の腸内のガスが膨張したためかと考えられる。また、熱を持った体内で、細菌が繁殖し、ガスを発生したため、時間の経過とともにお腹の膨張が激しくなっていった。お腹の圧が強く、腸管が肛門から出ている状態のご遺体もあった。また、ご遺体は水を吸収し、皮膚がパンパンに腫れてしまっていた。人を見分けることが難しい状態だったと考えられる。


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