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私がクリスチャンになった訳[2章:初めてのGood News]

  ヨーロッパでは観光目的で多くの教会や大聖堂に入り、祈りを捧げた。神は一つだから、どこで祈っていても同じという多神教的な思いが私の中ではあり躊躇せず他宗教施設に入ることができていた。ただ不思議とキリスト教の教会に入る度に、心の平穏を強く感じ、あの時から私は聖霊様に既に導かれ包まれていたのだろうと思っている。ある大学都市の小さな聖堂で祈りを捧げていた時、十字架の隣に Good News と書かれたバナーが貼られてあり、その文字に、きっと何か私にもこの地で良いことが訪れるのかなあと思ったことが今でも忘れられない。Good Newsー福音を理解する前に自分の罪の自覚が避けられない、苦しい試練が待っていたことをその時は知る由もなかったが、あの時、私は心の奥底でずっと求めていた本物の神様に初めて出逢ったような気がしてならない。あの頃の自分は新宗教の教えに心が救われていると思っていた反面、心は100%満たされていなかった。幼い時父親に棄てられた(これは事実ではなく、母親によって事実が歪められていたのだが)ということが心の傷として残っていたことも大きな要因の一つであったかもしれない。私の心は常に乾いており、求めるべき何かが他にあるといつも重たい空虚な心を抱えながら彷徨うような気持ちで生きていた。後に聖書を真剣に読むようになってから、山上の垂訓の「心の貧しい人々は、幸いである。」(マタイによる福音書6:20) という言葉に出逢い、この御言葉に出逢うために私は生き、乾き続けてきたのだろうと感じた。そして新宗教で教えられたように自分で我が心を“陽気な状態“に直すことをしなくても良いのだと思い、安堵したのであった。
   1年目のヨーロッパ滞在ではボランティアホリデーというプログラムに参加し、現地の福祉施設で働いていた。同僚のクリスチャンに誘われ、毎週日曜日に教会へ通い、その同僚の友人宅でサンデーローストをご馳走になったり、マーケットへ買い物に連れていってもらったりした。頭の中で「あくまでも神は一つ、私の信仰する新宗教を広めるために他宗教と文化の勉強をしているに過ぎない」という論理を持ちつつも、教会で讃美歌を歌い、牧師の説教を聞き、クリスチャンの人々と触れ合う中で、心が洗われるような気持ちになるのを否定することはできなかった。しかし、私は毎晩、部屋に戻ると一人で新宗教の祈りの儀式を捧げることを忘れなかった。滞在国を去るとき、同僚の友人が日本語の新約聖書をわざわざ注文し、私にプレゼントしてくれた。これが私の一番最初の聖書となった。しかし、その聖書を開き読もうという気持ちになったのはもう少し後のことだった。もうあの時の教会の人たちとは連絡が途切れてしまい、私がクリスチャンになったことをご報告できずに残念な気持ちでいる。(続く)

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