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「ありのまま」をもう一度考える。〜本当の願いと、2023年の目標の提案①〜

2022年もいよいよ終わりを迎えようとしています。
今年1年を振り返り、来年の目標を立てている方も多いのではないでしょうか。

実を言うと、年末年始がちょっぴり苦手です。
人混みが苦手で初売りもあまり楽しめず、
何よりも、
「さあ!新しい1年だ!去年は結局何もできなかった・・・今年はこれを達成しなきゃ。完璧で、でも実践可能な目標を立てて、今年こそは変化の年にするぞ!」と、
どこかで自分を追い込んでしまいがちなところがあるからです。

今日は、今までずっと考え続けてきた大きなトピック
「ありのまま」についてnoteにまとめるとともに、
お読みいただいている皆さんに、
全く新しい「来年の目標」のアイディアを提案したいと思います。


ありのままって、結局どういうこと?なんで大切なの?

「ありのままの私で、生きていく」

胸をくすぐるフレーズです。
ガチガチに鎧を着こんで生きていくことに疲れた人たちが、
今、こぞって、「ありのまま」を求めています。
自己啓発書でも人生哲学の本でもスピリチュアルな教えでも、
「ありのままで生きる」ことが盛んにすすめられています。

でも、「ありのまま」って、結局、なんなのでしょうか?
どうして「ありのまま」でいる必要があるのでしょうか?
「ありのまま」になろうとしているのに、
時々、その考えすら苦しいことがあるのは、なぜなのでしょうか?

人生で切望しているもの。それは…

「ありのまま」を考える前に、
私たちが人生で求めているものが何なのか、考えてみましょう。

  • 自分ビジネスで起業して、お金を得たい

  • パートナーを見つけて、結婚したい

  • 家の35年ローンを無理なく払いながらも、年に2回は海外旅行に行ける経済状態を保ちたい

  • 子どもが欲しい。子どもに幸せになって欲しい。

  • スピリチュアルな学びを続けて、真の幸福を手に入れたい

  • とにかく幸せになりたい、安心したい

人によって、人生で得たいものは様々です。
けれど、ひとつ一つを突き詰めるとたどり着くのは、
「つながりや愛」だと、私は思います。

「つながりや愛」というと、
他者との関係の中だけの話に思われがちですが、
自分自身との愛や、慈愛に満ちたつながりも含まれます。

例えば、『自分ビジネスで起業して、お金を得たい』
——これも結局は、雇われる形の仕事を辞めて、自分をいたわりたい、
自分と(もしくは大切なひとと)つながる時間をもっと確保したい、
通勤などの自分にとっての不快な状況を脱したいという、
愛から生まれる願いの一つかもしれません。

もしくは、自分が生み出した商品で人に喜んでもらい、
顧客とのつながりを感じたい。
必要とされていることを実感したい、というケースもありそうです。

手段や、やり方は様々であるものの、
どんな願いも、深掘りして突き詰めると、
自分または他者との愛やつながりを願う気持ちから生じているのかもしれません。

これまでの仮説「努力しろ、そうすればいつか愛される」


私たちが根源的に求めているもの。
それは「つながりや愛」である、ということを前提としたとき、
これまでの社会で信じられてきた仮説は、こうです。

「私たちは、いまのこの姿では愛やつながりに値しない。
自らを矯正し、みんなや社会にとって好ましい、 
"あるべき姿" になる必要がある。
そうすればいつか、愛やつながりに値する存在になり、
求めていたものが手に入り、永遠に安心できる」

ちょっと周囲を見渡せば、この仮説に基づいた世界が構築されていることに気づきます。


自分を、"あるべき姿" に近づけてくれるアイテムが売れます。
もしくは、「私はすでに "あるべき姿"に到達しましたよ」ということを誇示できるグッズも売れますし、
人にそう思ってもらうために、大金を払う人もいます。

自覚的にしろ、そうでないにしろ、
愛やつながりが欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。
ひとときのつながりを感じるため、大して必要じゃないものを買う。
 "あるべき姿" に近づくために自分を矯正する。
何かやっていれば、買っていれば、
少なくとも「より良い自分になるために行動している」と、
安心できるから。だからまだ頑張る。がんばらないといけない。
いつか、愛やつながりを得られるのであれば、何だってする——

そんな、切羽詰まった人が多いのではないでしょうか。


限界が来ると、おこること(心と体の不調)


仮面や鎧をつけて生き続けていても、
表面上の愛やつながりは得られるかもしれません。
ただし、そこには大きな代償が伴います。

「もっと頑張れ。調子に乗らず、身の程をわきまえ、さらに努力しろ」というアタマの声に、カラダとココロが反発します。
あまりにも酷な生き方だからです。

私たちという生命は、自分に鞭打ち、辛辣な言葉を浴びせ、絶え間ない「学び」「矯正」を続けられるようには、できていません。
容量的にも、そもそものプログラム的にも、無茶な状況です。

憂鬱な気分になることが増え、
ふとした瞬間に虚無感や、漠然とした不安を抱きます。
常に、他人の目に自分がどう映っているのかが気になります。

それでも「鎧のくらし」を続けると——これは私も経験したことですが、
体調を崩します。めまい、胃痛、耳鳴りや腹痛、生理不順、不正出血など、一つ一つをあげれば、キリがありません。

病院に行くと、それなりの病名はつきます。
例えばめまいは「自律神経失調症」だったし、胃痛は「機能性ディスペシア」。
心の中では、わかっています。無理な生き方が原因だと。
(注:これらの症状が全て、生き方やストレスに原因があるとは思いません。体に不調がある場合は、必ず信頼できるお医者さんの診察を受けてください)

でも、それを認めるのが怖くて、できないのです。
「認めたところで、仕事や生活を変えられない。
  今は我慢してお金を稼がなきゃ。そのうち、いつか休もう」
「この程度で体調を崩すなんて、私は弱すぎる」
「もっと心を鍛えなきゃ」と、悪循環に陥ることもあります。



"あるべき姿" になろう、あり続けようと自分を責め立てるうちに、
いのちが持つ本来の姿が歪み、
ココロかカラダの不調として出現する。

こんなのは、(悲しいですが)あまりにもよく聞く話です。
あまりにもよく聞くから、
いつしかそれが普通のことだとして受け流されがちですが、
私たちはそろそろ、
「努力をすれば、いつか愛に値する存在になり、永遠のつながりと安らぎが得られる」という、
立証できない仮説に基づいたくらしを、終わりにする必要があります。
別の仮説を設けて、それを検証していくタイミングなのかもしれません。

では、どんなふうに生きればいいのでしょうか?
私たちみんなが納得できて、
そしてそれを立証する過程が苦痛に満ちたものではない、
新たな仮説は、存在するのでしょうか?


②に続きます

お読みいただき、ありがとうございました。わたしという大地で収穫した「ことばや絵」というヘンテコな農産物🍎🍏をこれからも出荷していきます。サポートという形で貿易をしてくれる方がいれば、とても嬉しいです。