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自分を愛して願望実現?


SNSやスピリチュアルな本で目にする、
「自分を愛しましょう!」
「もっと自分を大切に!」というワード。

その通りなんだけど、言われれば言われるほど、
苦しくなったりしませんか。
「自分を愛せない自分」を責めたり、
変わらない現実を見て「まだ足りない」と焦ったり。
過去の私の姿そのものですが、同じことで苦しむ方々に向けて、書いてみました。

願望実現のファーストステップ



願いを叶えたり、
望むものを引き寄せたり、
思考を「現実化」するタイプのスピリチュアルな本には、
たいていこう書いてあります。
「幸せになるためには、まず自分を大切にしましょう」
「自分を愛しましょう」
「自己批判せずに、ありのままの自分を受け入れましょう」
それが、願望実現の第一歩だと。

けれども、具体的に自分を愛する方法として、
「自分を褒めましょう」
「自分を批判せず、良い面を見ましょう」
「毎日鏡の中の自分に愛していると言いましょう」みたいなことがサラッと書いてあるだけだと、
突き放されたような気持ちになりました。

ひそかに、「それができれば、こんな本買ってないよ」と毒づいたものです。

願望実現のファーストステップである、
「自分を愛する」や「自分を肯定する」。
その部分につまづいた私は、あらゆる本、ブログ、ワークやメソッドなどを渡り歩くことになります。

どうやったら自分を愛せるんだろう?自分を愛するってなんだろう?
自分=宇宙だから、宇宙を愛するってこと?
他者を愛するってこと?やっぱり感謝日記が基本?
結局、いい気分でいるっていうことが自分への愛?
メンタルブロックや潜在意識が原因?
どうやったら解除できるんだろう?
早く自分を愛せるようにならなきゃ。
早く効果を出さなきゃ。
…そんなふうに、焦り、苛立ち、自分に鞭打つ日々が続きます。

「自分を愛する」は手段じゃなかった

そして何年も経った後、いよいよ疲れ果て、お手上げ状態になったとき、ようやく気づきました。

"ファーストステップ" だと思っていた、
「自分を愛したい」「自分を大切にしたい」こそ、
叶えたい望み——人生を費やして切望しているもの、
それそのものだったのです。

他の望みを叶えるための、「手段」ではありませんでした。

よくよく考えてみると、
私が表面上抱いていた「願望」も、その理由を突き詰めると、
「これさえ叶えば、今度こそ自分を愛せる。大切にできる」という類のものばかりでした。

「大きな家が欲しい(そういう家に住んでいる自分だったら認められるから)
「莫大な資産が欲しい(そうすれば会社を辞められて、自分を大切にできるから)
「パートナーが欲しい(誰かに愛してもらえれば、自分が愛に値する存在なんだと思えるから)
「綺麗になりたい(美しい自分であれば愛せるから)
「平日の昼間から、高級ホテルのロビーで優雅にコーヒーを飲みたい(そういうステータスの自分だったら誇れるから)


愛がベースにあるか、目標にあるか


そして、どうやら、世の中には、「自分を愛して大切にする」ということを、
それほど悩まずにすぐに実行できる人もいるのだと気づいたのも、この頃でした。
そういう人たちにしてみたら、引き寄せや願望実現の第一段階として、
「いつもより、さらに自分を大切にしようね」という”ファーストステップ”は、確かに、難しいものではないのでしょう。
「最近忙しくて自分を労われていなかったけど、もっと大事にしてあげよう」と、
心と体をやすめ、自分という存在に対して、慈しみの眼差しを向けることができる人。そういう人って、いるんです。

彼らにとって、自分への愛や思いやりは、ベースに存在します。
一方、私たち(あえて、 "私たち" と書きます!)にとっては、自分への愛や思いやりこそ、切望しているものです。
彼らと私たちとでは、願いの構造が、全く違いました。



「それができれば、こんな本買ってないよ」というのは、ある意味、真理だったのかもしれません。
この構造の違いに気づいたのは、私にとって、とても大きなシフトでした。
「なんだ、最初から違かったんじゃん」とちょっぴりガッカリもしましたが、
自分の「ほんとうの望み」と、
なぜ今までうまくいかなかったのかの理由が分かり、
ホッとしたのも事実です。

愛がベースにない自分は劣ってる?


「本来ベースにあるはずの自分への愛が欠如していて、それが目標になっているなんて、自分はダメなやつだ」とは、
どうか思わないでください。(思いがち!!!)
赤ちゃんの頃、
私たちの誰一人として、自分を「お世話してもらうに値しない存在」だとは、思っていませんでした。
きっと、子どもの頃から今に至るまでの、
人間関係や社会の歪みの中で、
「自分は愛に値しないんだ、だからもっと頑張らないと」と思わなければ生きていけない場面に何度も遭遇してきました。

どんな時に痛みや苦しみを感じるかは人それぞれです。
例え全く同じ環境で育っても、自分への愛を育める人と、そうでない人に分かれるのだと思います。
そしてそれはもう、「多様性」なのでしょう。
「なぜ自分はこんなに傷つきやすいんだ」と、原因追及したところで、なんの意味もないように思います。

どこで読んだのか忘れてしまいましたが、
こんなニュアンスの言葉を見かけたことがあります。
「バケツ一杯の愛で満足できる子もいれば、25mプール満タンの愛でも足りないと思う子もいる」
私たちは後者なのかもしれません。
それって、欲張りで、ワガママで、手のかかる子どもなのでしょうか?

いいえ、私たちはただ、「愛が大好き」なだけなんだと思います。
カメラが大好き。映画が大好き。パクチーが大好き。スコットランド民謡が大好き。
あらゆる「好き」が許容されているこの世界の中で、
愛が(特別)大好き、というのも、頷ける気がしませんか?

生まれながらに、愛が大好きだった。
それゆえに、求めるものも人一倍、大きかった。
愛の言葉、身体的な接触(ハグや手を繋ぐ)、いつも見ているよ、という優しい眼差し——
そういうもので、くらしをいっぱいにしたかった。

けれど幼い頃、たまたま、いろいろな事情や理由で、
周囲にいる大人たちに、愛を注ぐだけの能力やエネルギーや時間がないと、
大好きなものが得られない悲しみにパニックになった小さな私たちは、
「欲しいものが、手に入らない。きっと、私が悪いんだ。私が愛に値しないんだ」と結論づけます。
(幼い子どもにとって、それくらいしか納得のいく理由は思いつかないものです)


愛が大好きだった、あなたへ。


「自分を愛せないから、引き寄せられない!」
「ありのままの自分を肯定できないから、現実が変わらない!」

そんなふうに、自分を愛せない自分を責めるのをやめませんか。
落ち着いて、ほんとうに欲しいものを考えてみませんか。
ただ、自分を愛したかった。
だから、「私は愛に値する」と思えるためのアイテムやステータスを求めていた。
そのことを理解したら、
一旦、そのアイテムやステータスを求め、願い、現実化させようと躍起になるのを、お休みしませんか。


私たちにとっての「自分を愛する」は、きっと、そこから始まるんだと思います。



読んでくれてありがとう!
ドリゼラ
@drizella_jpn
〜スピリチュアル、セルフラブ、願望実現に疲れたあなたに徹底的に寄り添うヘンな人〜


お読みいただき、ありがとうございました。わたしという大地で収穫した「ことばや絵」というヘンテコな農産物🍎🍏をこれからも出荷していきます。サポートという形で貿易をしてくれる方がいれば、とても嬉しいです。