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203DAY -月を想う-

 月は古来より人々の心に刻まれ続けている。「竹取物語」が月を物語に書き、阿倍仲麻呂が百人一首に月の歌を詠み、中島敦が月を見て変身する虎を小説にしたように、月はもはや人々に欠かせないアクセント、そして物理学的な面においても地球に多大なる影響を与えている。

 自分は最近の国語の授業で、「人間と自然の関係を通して考える」という評論をやっているのだが、その中に月に関する興味深い記述があった。

 「月の探査機が打ち上げられた時、それは科学にとって大きな進歩であった。科学の視点に立つ限り、私もそれを否定しようとは思わない。だがこの出来事によって、『竹取物語』を生み出したような、月をめぐる人間の想像力によって作り出される文化が、大きく後退し始めたことも確かだった。」
 内山節 〜自然と人間の関係を通して考える〜より抜粋

 自分はこの文章を読んだ時、深く考えさせられた。つまるところ、「思想が実験を生み出すべきか、実験が思想を導くべきか」という問いに対する一つの答えになりうる事象が書かれていたのである。即ち、人間が月に対する思想を古来より考えてきたことで、アポロ計画という壮大な実験が行われ、その壮大な実験が成功を収めたことでまた新たなる月に対する思想が芽生え始めたということである。従って、この問いの答えは、「どちらでもある」ということだ。

 これらの考察は一旦自分の個人的な領域に入るのでここでは伏せるが、自分はこの文章で気付かされたことがもう一つある。それは、「あなたはまだ月でウサギが餅をついている事を本気で信じているのか?」ということである。おそらくアポロ計画を含む人類の月探査が始まるまでは、月がどういった存在なのかを科学的に説明できるまでは、信じていた人がいるのではないだろうか。だが、長年の人類の非情な月探査によって、このウサギが月で餅をつくという行為が科学的に不可能であると証明されたことは明白だ。

 しかしながら人々は、幼稚園や小学校、果ては親族のおじいちゃんやおばあちゃんから、月ではウサギが餅をついているという物語を聞き、そして語り継いでいる。自分も小学生の頃にそういった話を聞いた。そしてただの岩石の塊にすぎない天体を月見という形で祈りや鑑賞の対象にする文化も、名も無き人が「竹取物語」を書き、アームストロングが偉大な一歩を記してからもいまだに現在に残り続けている。こうした月を想う文化は、たとえ月における思想の自由度が科学の発達で減っていくとしても、決して消え去ることはない。言い換えれば、どんな想像力の余地が減るような発見があっても、人々はそれを受け入れることができるのだろうということに気付かされたのである。そして自分はその人間の月に対する思い、そしてしぶとさにいささかの感動すら覚えた。

 皆さんは今夜、月を眺めただろうか。何故そんな事を聞いたのかは説明するまでもない、今日9月10日が中秋の名月、月見の日だからである。今夜の東京は程よく晴れ、月も良く見え、住宅街の屋根を淡く照らしていた。

 月は一年に4cmほど、地球から遠ざかっているという。それもまた、人々の思いを打ち壊すような無情な発見であろう。だがそうしたことも人々は受け止め続ける。そして心の中に理想の月を思い描きながら、これからも孤独にかがやくあの星を眺め続ける。




追伸 
 上の写真今日のじゃないです。今日撮ったんですけどあまりにも写り悪かったです。(陳謝)

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