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聞くのが「しんどい」授業

先日、ゼミが少し早く終わった後、学生が次の授業の教室になかなか行こうとしないので、「どうしたの?」と尋ねると、「次の授業がしんどい」とのこと。

少し時間があったので、そもそも「しんどい授業ってどんな授業なの?」と聞いた結果をX(旧:Twitter)に書いたら、共感する部分が多かったのか、それなりの反応がありました。(下記画像)

最後の部分はしょうがないのよ・・・

リプライには上記の事柄に加えて、

  • 配布した資料をそのまましゃべるだけ

  • 雑談が一切ない

  • フィラーが多い

などの意見がありました。

多くの大学教員は教授法に関する知識やスキルを有しているわけではなく、教育のプロではないので、しょうがない部分もあるのですが、高い学費をいただいて、かつ長時間拘束している以上、少しでもわかりやすく、魅力的な授業をしなければならないと自戒の念を込めて思います。

ただ一方で、学生の授業に対する要望が年々高まっているようにも感じています。コロナによってオンライン授業が始まったこともあって、さながら教員にYoutuberのような役割を求めているのではと感じることもしばしばです。

学生の話やXでのやり取りを見ながら思い出したのは、玄田有史(2005)「働く過剰―大人のための若者読本」です。

この中に大学の授業に関するこんな文章があります。

 今、圧倒的に評価される授業とは「わかりやすい授業」である。
反対にわかりにくい授業の評判は、本当に悪い。確かに教壇に立つ側が、自分の講義内容に陶酔し、自己満足に浸りきっているような講義も、実際にはある。聴講する学生の視線に一度も目をやることなく、ひたすら90分間、自分用の講義ノートとだけ対面しているような講義が、学生にとってわかり良いはずがない。
 大学の授業も基本的にはサービス業であるということをまったく無視して、ただ自分のためだけに進められている講義に何ら疑問を持たない大学教員はその職を去るべきなのだろう。義務教育や高校教育で問題教師といわれる人たちがその職を失う時代に、大学教員だけが特別でいられるわけがない。
 ただここに一つの葛藤がある。学生にわかりやすい授業が評価される一方で、大学の教育というのは、脳に汗をかくような経験を必要とせず、内容のすべてをやすやすと理解できる講義が本来の姿ではないことも、また事実だからである。大学の本当に良い講義とは、学生にとって「よくわからないこと」をできるだけ「わかりやすく」伝えていくことなのだ。
 自分自身が一生かけて取り組んでいる研究の内容、現在の自分自身でさえ完全には理解できていない内容を、知識を持たない学生に簡単に理解させることなどできるはずがない。しかし、そこで何が自分にもわからず、だからこそ何に向かって本気で自分が取り組んでいるかを、できる限り学生に伝えようと必死になる姿こそが、本来の大学で教えるべき人間の姿ではないだろうか。

玄田有史(2005)「働く過剰―大人のための若者読本」

だいぶ前の本ですが、今でこそ読まれる文章なのではないかと思います。

大学教員がこのような態度で授業をすることはもちろん必要ですし、まずは教員がその努力をしなければならないのはもちろんなのですが、一方で、昨今の学生が求める授業の内容そのものが、本来の大学の授業の在り方として正しいのかということも併せて考えていかないといけないのでは、と本を読み直して改めて思ったりしたのでした。


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