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【ふしぎ旅】石の木塚

 石川県白山市に石の木塚と呼ばれる奇妙な遺跡がある。
 現地の看板は、以下のように、この遺跡を伝える。

 石の木塚は、5基の四角柱状に加工された凝灰岩の立石により構成され、最大の立石を中心にほぼ東西南北に配置されています。
 石立町の町名の由来ともなっており。「遊行上人縁起絵」正応4年(1291)の記述に「石立」の名があることから、この頃には既に存在していたと考えられます。
 石の木塚は、その性格については不明とされながらも、古来より広く奇石として知られ、浦島太郎や武蔵坊弁慶にまつわるものや、石の根が能登石動山まで続いているなど多くの説話や信仰の対象となりながら、現在まで変わらぬ姿で保存されて続けている貴重な遺跡として高く評価されています。
 平成5年(1993)に中心石の南西の試掘調査が実施されており10世紀後半~11世紀前半の土器が出土しています。
また造立後40~50cmの土の堆積があり、本来の中心石の高さは217cmもあったことが分かりました。
 立石が10世紀代に造立されたとすれば水陸交通の要衝であった「比楽駅(ひらかえき)」、加賀の国津「比楽湊(ひらかみなと)」に近接して存在した古代交通路関連の遺跡であった可能性が高いと考えられます。

『石の木説明看板』
石の木塚 説明看板

浦島太郎伝説に関しては、竜宮城から戻ってきた浦島太郎の話として以下のように伝えられている。

 地上の生活に戻り、気が付かないうちに年を取ってしまった浦島だが、やがてその現実にも慣れ、平穏に暮らし始めた、
 その浦島だが、実は竜宮城で乙姫との間にちゃっかりと5人もの子供をもうけていたのだった。
 帰ってこない浦島の様子を見に陸にあがった乙姫と子供たちは、そんな薄情な浦島の姿を見て泣き伏し、5人の子供は、ついには石になってしまったのだという。


「日本の謎と不思議大全 東日本編」、人文社.
石の木塚

また弁慶にまつわる伝説は以下の通りだ。

 ここを通りかかった弁慶が、村人にこの石はなんだと聞いたところ、竜宮と結びついている石だと答えた。
 真偽を確かめようと弁慶が、持ち前の怪力で石を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。
 そのため幾つかの石の表面には、弁慶がつかんだ手形が残されていると言う。

「日本の謎と不思議大全 東日本編」、人文社
石の木塚

 浦島伝説に弁慶伝説が残る謎の古代遺跡などというと、これはオーパーツだなどと言うものが出そうだが、そこまではメジャーな遺跡では無いようで、そのような説は皆無である。
 実際に訪れてみると、壮大な伝説には似つかわしくなく、住宅街の一角にひっそりとあり、それ目当てで行かなければ、まずたどり着くことはないだろう。

石の木塚がある公園

 訪れてみても小さな公園で伝説の通り、子供くらいの大きさの石が5つある。
 説明看板にもあるが、一番大きな石を中心に四方に配置され、ほぼ東西南北の方角であるそうだ。
 大きな石の中心には四角形のくぼみがあり、何かがはめ込まれていたようだ。(弁慶の足跡という伝説もある)

真ん中の大きな石のくぼみ

 その他の、比較的小さな岩には、弁慶の手形だと言われるくぼみもある石がある。

弁慶の手形といわれる石

 中央の石に関しては、実際には看板にもあるように50cm程度埋まっておいるようだが、竜宮につながっている、あるいは直線距離で70キロほど離れた石動山にもつながっているという伝説もある。
 つい、私は勘違いして同じ能登にある石仏山の巨石祭祀群につながっていると思ったのだが、石”動”山だった。もっとも石動山には、石の遺跡は無いようなので、話としては、石仏山で勘違いした方が面白いとも思う。

石仏山祭祀群

 それにしても、遺跡として見ているので、感慨深く見るが、表示看板など何も情報がないと、おそらくどこぞの家の庭石として見てしまうだろう。
 そこまでに、こじんまりとしているのである。
 ありふれた日常の中で、そこだけが古代の風景を残しているのではあるが、異様な形ではなく、風景の一部となっているので、そこまで不思議な感じはしない。
 白石市の神石「白石」が雰囲気が似ているが、住宅街にある分、こちらの方がより自然で、公園のオブジェ感が感じられる。

石の木塚

 説明看板にもあるが、謎の遺跡とされてはいるが。おそらくは海路陸路の交通拠点を定めたもので、だからこそ四方の石がほぼ東西南北に配置されているのだろう。
 当時としては、今のように建築物などは周囲には無く、何かの目印であったろうことは想像出来る。
 霊峰白山や聖地能登にも近いので、何かしらの祭祀遺跡とも考えられる。 

モーゼの墓と呼ばれる宝達志水の三つ子山古墳

 オカルト好きならば、近くの羽咋市のUFO伝説や、宝達志水の三つ子山古墳(モーゼの墓)あたりとも関連付けたいところではあろうが、おそらくは解説看板にあるように古代交通路関連の遺跡、現在で言うなら”道の駅”的なものか、あるいは風や潮の流れを見るためのものだったのだろうとは思う。
 石のくぼみに水を入れたり、旗を立てたりなどということが出来そうではないか。
 
 とは言え、800年ほど前から奇石として知られたその存在が、地震などの災害の被害にあわず、住宅地の一角という現代の日常風景に取り残されたように存在している、その景色は、一見の価値があると言えるだろう。

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