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【ふしぎ旅】井随の大蛇地蔵

 新潟県新潟市南区に伝わる話である

 嵐潟の傍らに立っている大きな柳の下に、それこそ巨大な大蛇が住んでいて、田畑を荒らしまわっていた。
 宝暦3(1753)年、稲穂が出そろう9月ごろ、ひと月も続く雨で、水があふれて、潟が出来、大いに困った。
 これでは収穫がなくなると心配していると、大蛇が稲穂の上を大波を立たせて、踊るように尾を振ってやってきた。
 村の幡本嘉左衛門という人が、かねて用意のたらい(盥)をかぶり、鉄砲で大蛇の口にねらいをつけると、大蛇は赤い口をあけて嘉左衛門を一気飲みにしようと襲ってきた。
 嘉左衛門が大蛇の顎をねらって撃つと、まさしく命中した。のたうちまわる大蛇に、さらに一発命中させた。
 血潮は田圃に散って、血の海となり、大蛇は死んだ。
 嘉左衛門は、自分が締めていた一丈褌(1丈は約3m)を大蛇の首に縛り付け、火葬場まで引きずって行き焼いた。
 大蛇の骨は俵に5俵あったという。
 この報告を受けると領主も喜び「褒美は何がよいか」と聞いた、
 すかさず嘉左衛門が「1年分の村普請をただにしてほしい」と申し上げると、その通りになった。
 大蛇の骨は、村はずれの道端に葬られ、そこに地蔵が建立された。
これが井随の大蛇地蔵である。

(佐藤和彦・高橋郁子『新潟歴史双書1 新潟市の伝説』)
大蛇地蔵

大蛇伝説は数多くあるが、ここまで詳しく語られている話は、それほど多くないだろう。
 詳しい年代まで分かり、大蛇を鉄砲で退治したということ、退治した者の名前、そして、わざわざ火葬場で焼いて、その骨まで拾ってきているのだ。
 現代ならば、大きくUMA事件として取り扱われることだろう。

 おそらくは「1年分の村普請をただにする」ために、事細かに大蛇がいたということを事件として報告する必要があったのではないだろうか。
 ただの不作ということであれば、自分たちが生活できないほどの年貢を納めなければいけなくなるかも知れない。ならば大蛇が荒らしたということにして、やり過ごそうとしたのではないだろうか。
 そう考えると大蛇の骨を俵に詰めたのも想像がつく。
 おそらく納められる年貢米が5俵ほどしかなかったのだと。
 
 少ないながらも納める米を、大蛇退治の証として、大蛇の遺骨だと言って納める。
 もちろん想像でしかないが、もし本当にそうであるなら、大蛇を仕立てた村人たちも、その話を認めて村普請をタダにした役人も粋なものである。

 とは、言えこの伝承とは全く異なった話も伝えられている。

  昔、木滑と井随のさかいのあいだに梁のような大蛇がいた。
ある月夜の晩に木滑の佐助ろんの爺やが大きな水音に気づき外に出てみると、橋のあたりで大蛇が騒いでいた。水煙をあげて上の方へ行っては川を下っていた。
 その頃、たんぼや沼に鴨がたくさんいたが、大蛇が鴨をとり、猟師も困っていた。井随の重右衛どんの直という人が大原のあらしというところで土手の葦を刈り寄せて山にし、その中にかくれていたところ、大蛇が川をのぼってきたので、近づいたときにズドンとうつと、大蛇が鎌首をもたげて睨みつけたが、力が尽きて倒れた。村人は稲積舟に乗せて大蛇を運び、焼いたところ舟いっぱいになった。それを焼いたところが骨が俵に一つになった。
 この話を聞いた新発田の殿さまは重右どんの直を「蛇は神さまのお使いだというのに、どうして殺してしまったのか」と叱った。大蛇の骨は井随の神明様の前の地蔵さまのところへ埋められた。

高橋 郁丸 協力研究員/新潟県民俗学会『潟の伝承・書籍調査報告2』

 ここでは、大蛇は神の使いとされ、殺したことを責められている。 
 また、骨も俵に一つほどだ。
 鉄砲で仕留められたというところは同じであるのは、蛇は金物、火薬が苦手で大蛇を仕留めるのならば鉄砲とされていたのであろう。あるいは大きな音がしたということだったのかもしれない。

 たとえば、大蛇とはあふれた川の比喩で、洪水を防ぐために川の流れを変える大きな工事をしたことを大蛇退治と言い換えたのかもしれない。
 そうすると、治水と水の利権に関して、役人に咎められたというのも納得出来ることではある。
 話自体としては、前者の伝説の方が、分かりやすくて面白くはあるが。

大蛇地蔵

 大蛇地蔵は訪れてみると、集落の外れ、忠魂碑が立っている土地の道を挟んで真向かいに会社があるのだが、その会社の敷地を不自然にえぐるようにして、小さなお地蔵さまが祀られている。
 無下に扱ったり、移動したりすることが出来ないあらわれだろう。

大蛇地蔵

 ただ、この地蔵。かなり新しく見える。
 平成17年に撮影されたという写真と比べても、明らかに違う形である。
 老朽化や事故などで壊れたとも考えられるのであるが、それにしても不自然な程変わっている。
 いったい、何があったのだろう?

大蛇地蔵付近 忠魂碑

 ともかくも、地蔵様本体をとり変えたのであれば、地蔵様というよりは、この小さな土地にこそ、なにかしらの因縁がありそうなものである。
 向かいに忠魂碑があることからも、このあたり一帯が集落の神域であるのだろう。

大蛇地蔵付近忠魂碑

 伝説にもあるように、この辺り一帯は、大規模な干拓が行われる以前は田圃と”潟”と呼ばれる小沼、それに付随する湿地から出来上がっていた。
 ジメジメしているから蛇などが絶えずおり、それが大蛇伝説にもつながったのだろう。
 潟に雨が降ると、流れ出るところのないまま溜まり水となっており、大雨の時などは田畑まで溜水が流れ出し作物に大きな被害をもたらしたので「悪水」などと呼ばれた。
 この悪水が「大蛇」のことなのだろう。
 であれば、この悪水を避ける場所(丘や高台)などが、この辺だったのかもしれない。
 
 また古地図を見ると、この辺りは幕領と長岡藩、新発田藩、それぞれの領地に近い。
 伝説によって大蛇退治の扱いが違う(一方では褒美をとらせ、一方では責める)のも、その辺りが関連してくるのかもしれない

 とすると、この小さな地蔵さまが、土地がどの領地のものなのか象徴していたのかもしれない。
 そのような土地の記憶が、このように不自然な祀られ方をするに至ったのだろうか。

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