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【悼むとは】 ラビットホール

正しく悲しんでないって、言われてるようで

丁寧に丁寧に、悲しみに寄り添うような2時間半だった。

何かを押し付けるでもなく、何かの正解を振りかざすでもなく、ましてや説教や講釈を垂れるのでもなく、ただただ、家族の日常が描かれていく。

実際、我々の日常会話なんて、整理されていることはほぼ皆無だし、全てに明快な意味があるわけでもない。本心をそのまま言っているわけでもない。

感情だって、一色じゃない。色んな色が混じった結果、名前がない色まであって、しかもそれらの境界線すら曖昧だ。

でも、その会話を通じて人は癒されていく、こともある、と信じたい。

そんな希望や優しさが、そこかしこに滲んでいた。

世の中には、理由のない、理不尽な悲しみが沢山ある。「死」だってそう。その悲しみを乗り越えるやり方は、人それぞれだ。

神様にすがる人、運命のせいにする人、どうにかして加害者を見つけ出そうとする人、陰謀論にまとめようとする人。

でも、度合いは違うだろうけれど、どこかで自分を責め続ける人が殆どなのではなかろうか。

あの時、自分が電話をしていなかったら。あの時、鍵を閉めておけば。あの時、あの時、あの時、と後悔しては自分を責め立てる人の、なんと多いことか。

「自分を押し潰していた悲しみが、少し軽くなる。這い出せるくらいになる。そのうち、自分のポケットに入れられるくらいの重さになる。消えはしないけど。」

ベッカとハウイーの、悲しみへの対処の仕方が全く違うのも、相手を思う優しさが故にすれ違っていく様も、少しだけ悲しみの重さが持ち運べるようになるタイミングが違うのも、とてもリアルだった。

明快な線引きはない。ただ、ふとある日、気づいたら、少し笑えるようになっていた、みたいな感じ。

とても悲しい出来事を取り扱っているのだけれど、喜劇のようだった。普通の会話って、なんて愛おしいんだろう。

「加害者」のジェイソンの異質さもまた、リアルだった。引きずっているかと思いきや全然そうでもなく、彼の人生は進んでいる。卒業記念のプロムにだって、友達と馬鹿騒ぎしながら行っていいのだ。

冒頭、地球みたいな青い球体が、少しずつ下降して来る。涙の一雫のようだな、と思っていたら、そのまま階段をポンポンポン、と落ちていった。あああ、これは、きっと子どものおもちゃだって、すっと思えた。その演出にゾクゾクした。

舞台面も広くて、大道具もとてもリアルで、子供部屋の「登場」も効果的で、隅から隅まで美しかった。

登場人物たったの5人で、しかも同時に5人出る場面は皆無なのに、目が足りない、視覚の角度が足りない、今だけ昆虫みたいな目になりたい!と思ったのは初めてかも知れない。

まだポケットの中に入れたままの、コロナ禍で亡くなった祖母への悲しみを指で確かめながら、帰った。

見られて良かった。

明日も良い日に。

追記:ベッカが、一生懸命いいお母さんになろうとして、おやつも全部手作りにするくらい生真面目な人なのが、何の説明も無いのに分かるってすごい。レモンスクエア、食べたい。

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