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『穏やかなゴースト』に宮沢賢治の面影 

 予告しておいた良書、村岡俊也著『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』は、25歳で夭折した中園孔二の伝記とその思想について考察した芸術論である。芸術家というと、とかくピリピリした神経過敏な人物を天才として思い浮かべがちだが、本書によれば、中園君は実に愛すべき人柄で、作風も柔らかい。しかしその根底には確かにぐつぐつと渦巻く怒りや焦燥があって、それが鋭く尖って表に現れないところが、何やら宮沢賢治に似ている。読めば読むほど宮沢賢治が頭をよぎる。偶然にも同時に宮沢賢治の実弟・清六の回顧録『兄のトランク』を併読していたのだが、これって本当に偶然なのか? 何か見えない手による作為を感じる宇宙人。
 宇宙人にとって宮沢賢治の作品は、童話ならどうにか話が見えるが、詩集ともなるともう何を言っているのかさっぱり判らない謎の塊で、何度か手に取っては投げ出して来た。しかし『兄のトランク』では清六氏が難解な賢治語を現代人にも判るように翻訳してくれたので、ようやく「こういう意味であったか!」と得心することしきりであった。まあありていに言って、宇宙人は詩を鑑賞できるほどの感性は持ち合わせていないということだ。トホホ。しかしその宮沢賢治にかぶって見える中園君の残した言葉や態度は、清六氏の翻訳のように、感性の乏しい現代人にもよく理解できるのである。以下、宇宙人の瞠目ポイントを引用するので、皆さんの感性がどの程度のものか、鋭いのか、それとも全然備わってさえいないのか、見定めてくれなのだ。※印は宇宙人の合いの手。

――(中園の友人が、中園の夭折の画家としての側面を強調して曰く)「優れたアーティストが長生きをすると、生きてきた時間を整理してしまう。時に堕落してしまった自分が過去を振り返って『青臭い作品だね』とか言いながら、初期の作品を整理してしまうんです。でも本当はその時期に物凄くいい作品があって、そこで時間がぶつっと切れてしまえば残る。人間ってダラダラ生きたら、みんな薄まってしまうんです。でも若くて本当に才能のある人は、濃いままにあるわけです。…夭折の画家っていうものが普通の輪郭と違う形で見えてくる。」…短いがゆえの現在形という印象が強い。初期衝動に常に戻ることができるため、「圧倒的に現在」であり、その描写法も「演奏に近い」。――

――(知人曰く)「絵というものには良い絵とか悪い絵とかなくて、怖い絵も楽しい絵もなくて、私たちのところにヴィセラル(直感・本能的)に、内臓に突き刺さるようにやってくるかどうかだと思います。忘れられないかどうかだけなんです。世の中はすぐに忘れ去られるもので溢れています。でも中園さんの絵は忘れられないですよね?――
(※まったく、世の中はすぐに忘れ去られるものばかりで、しかも忘れ去られる前にそれを使って如何に効率よく稼ぐかという浅ましい考えに誰もが翻弄されている。中園君とその周辺にはこうした世の風潮を厳しく批判する空気が流れていたことが嬉しい宇宙人。)

――(中園との思い出として)「殺虫剤の効果的な使い方って知ってます?」と(中園が)訊き、噴射しながらライターで火をつけて壁に向け、「壁って燃えないんですよ」と真面目な顔で話していた。――
(※このエピソード、好きだなあ。)

――(同級生だった画家曰く)「僕は今、絵を描きながら宮沢賢治の研究もしています。…中園の描く絵は詩集『春と修羅』の世界観と酷似している。宮沢賢治は『四次元中』とか『本当の本当の世界』みたいな表現をしていますけど、それは中園がインタビューで答えていた『見たかった景色』と同じ意味なのかなって。…中園の絵は、自己表現ではなかったのが大きいんじゃないかな。世界との交わりによって絵を描いている。…だいたい自己表現しようとするから描けなくなって、よくわからなくなって、題材に悩むっていうのが藝大生のお決まりのパターンですから。でも中園は外の世界に興味がある。…自分の探求のために絵を描いたっていう人もいるけど、中園に輪郭を強化する意志なんて全くなかったと思う。――
(※「自己表現」ってもともと日本語ではないよね。英語の翻訳だよね。だから宇宙人はこの言葉が世に出回り始めた頃から違和感があった。自己表現ってそんなに大事ですか? 自我に縛られた欧米人には大事かもしれないが、一人称を省いて成立する言語で文化を構築してきた日本人には要らぬ概念というか、随分レベルの低い話だ。レベルの高い話とは、次元の高い話であり、その究極は宇宙とその外側の世界なのだよ。皆さんもそう思うから、土星の裏側を覗いているのであろう?)

――(作家仲間の言として)中園君が何より大事にしていたのは集中力なんじゃないかな。感覚を研ぎ澄ますことへの愛情というか、自分の作品を大事にしつつ、自身の経験とか好奇心を優先していたんだと思う。そもそも作品だけを大事にしている人だったら、海で溺れないですよ。命や名声が大事だから。いっぱいいるじゃないですか、そういう作家。名前とこれからの未来が大事な作家って。――
(※つまりこういう作家らは「本当の本当の」作家ではないということなのだ。)

――(中園の)藝大を卒業後も危険で自由奔放な振る舞いが、精神を安定させるために必要だったのではないか。――
(※『兄のトランク』を読むと、あの温厚で純真な宮沢賢治でさえ、心にとぐろを巻いた闇を抱えていたことが知れる。でもそれを安易に露出することはしない。中園君もしない。両者とも作品の中に昇華させる。宇宙人は、こうした心の闇や鬱屈を昇華できずに安易に露出するしかない人間が、昨今流行りの一連の「私はこんな被害を被った。皆さん、加害者を断罪してくれ運動」をやるのだと冷ややかに考えている。宇宙人が好きなアニメ『化物語』に出てくるセリフ、「被害者ヅラが気に食わない」。算命学からすれば、被害者にも問題があるからね。それが道義的な落ち度でなくとも。)

――(中園のノートより)絵はうそをつかない。考えるべきを、疲れたので明日考えることにしようという一日があった場合、そのことがそのまま絵に現れる。もし現れないとすれば、その絵は絵ではない。この本を読んだことがある、この音楽を聴いたことがある、ということが絵に現れる。もう何も聴かない、今までのもので十分、新しいことを知らなくてよい、という心の場合、それが現れる。悪いのは、自分の外側だと断定している場合そのことが絵に現れる。自分が変わる以外に方法がないと決意し自分の外側を一度、ゆるせた場合、それが現れる。絵は、自分自身の片方である。――
(※ただただ喝采なのだ! 中園君、宇宙人は生前の君とお友達になりたかったよ!)

――(中園のノートより)ダイレクトに伝わってこない美術は好きじゃない。コンセプトや美術的教養のようなものを踏まえた上でしか理解できない美術って、僕の中ではなんか違う。…原発って言って、震災のことをテーマにあげて展覧会を開いたり、制作のテーマや動機にしたりしているアーティストが沢山いるけど、なんだかそれって違うなって思った。表面的。殺人事件があって人を殺した犯人だけを指さして責めていることのおかしさに似てる気がする。もっと深いところにある根っこの部分をみてない。――
(※喝采あるのみ!)

――(中園に好かれた友人の)伊勢によれば、中園は面白いと思う話を聞いている時には、瞳が燦燦と輝き、興味の有無がすぐにわかったという。「彼とは違うアプローチで似たような解に辿り着いて、抽象度の高いところで遊ぶっていう感じでした」。二人の絵に対する思考は「何が描かれているかが重要ではない」という点において一致していた。…中園はいつも好きな場所に好きな人を連れて行く。――

――中園のノートには、母を大衆の代表として見ているような記述がある。テレビでSMAPの歌を聴いている母を見て、自分は歌そのものを聴いて判断するが、「顔が整い、ドラマに出演し、良い役をもらっている。その人が適当なメロディーに乗り、何か歌のようなものを口ずさめばそれでいいのだ。母親のような人間にとっては、それで十分なのだ。(略)必要なのは極めて表面的なその場限りの“快楽”だ」と書いている。――

――「中園さんは泣くことがありますか?」との問いに、「あるよ。古い手すりを見て、泣くことがあるよ。この手すりを作った人、最初に作った時はみんなに感謝されるんだろうけど、その人がいなくなった後、手すりだけ残って、修理もされずにボロボロになって、やがてみんなに忘れられちゃうんだろうなって。ふっるーいボロボロの手すりとか見るとね、そんなこと考えて泣ける」――
(※宇宙人はそんな中園君を想像して泣けてくるよ。)

――(友人の言として)「中園君を通じて出会う何かがたくさんあって、彼と一緒にいると何かいいことが起きるんです」
(※人間は、こういう人物を目指して生きていくべきではないのか。親御さんは子供たちに「こういう大人になってほしい」と育てたり諭したりすべきではないのか。単に「いい人」とか、「尊敬される人」とか目指しても、いつの間にやら「誰かにとって都合のいい人」や「見かけや財布の中身だけが尊敬される人」にすり替わっているではないか。皆さんはどうですか。「この人と一緒にいると何かいいことが起きる」人にちゃんと出会ってきましたか。)

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