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幸せと感謝


ありがとうの語源

感謝の言葉とされる「ありがとう」は本来「有り難い」という意味です。
反対後は「当たり前」

つまり、ありがとうとは「滅多に味わえない感動をくれて感謝」ということです。

皆さんは日頃感謝できていますか。お金払っているから当然の権利!とかになっていませんか。

例えば今生きている、呼吸ができていることにも感謝できていますか?そこまでいくと哲学の気が出てきますが、泰然としている人は生きていることに対して喜びを感じている気がします。
感謝と喜びは似たようなものである気がします。

感謝の成り立ち

感謝という言葉が生まれたのは古代ギリシャだったようです。「グラティア」(現在のスペイン語の「グラシアス」)が人類初?の言語化された感謝だったようです。

しかし、言語化される前にも感謝は絶対あったはずです。
例えば先史の狩猟採集の時代、獲物を獲れた場合には自然に喜びを伝え、感謝したのではないでしょうか。そして獲物の一部を神に捧げて感謝を示していたと思います。やはり、感謝とは「喜び」とつながるものはありますよね。

日本語のありがとうは元々は「有難し(仏教用語)」で「滅多に味わえない感動をくれてうれしい」だったことはお伝えしました。そしてそれが、日常の会話になっていますね。そこに関してはどうこう言うつもりはありません。今日でもそうですが、臨機応変に他所から入ってきたものを上手にリープフロッグし、改造までしてきたのが昔から日本人であります。平仮名・カタカナだって中国からの漢字(表意文字)を表音文字化したものです。まぁ壊しすぎるのもよくはないですが(汗)

ただ、ありがとうという言葉は「感謝」の意味を持ちます。そこには「滅多に味わえない感動をくれてうれしい」という意味が漢字として残っています。
特に「感」です。
感とは心を動かすことだそうです。よくフィーリングとか五感を研ぎ澄ますとか言いますね。あれも心が動いているようです。
そして「謝」です。
私は常々亡き父と話がしたいと思ってました。昨日、父の墓参りに行ったときに「天啓」がありました。

その天啓とは「射」=「(感)謝」ではないか?ということです。
帰宅してすぐに調べました。びっくりしました。

謝は「言」と「射」でできています。「射」は矢を放つことであり、その結果、弓の緊張が解けることを意味するのですね。言葉に出すことにより、心の緊張が解けること。ということは、「感謝」とは、物事に接して、深く心が動いたことに対して、言葉を射る=発するということです。

田巻華月HPより引用

現代人の感覚ではなかなか射が「感謝」には繋がらないと思います。しかし、そのことに気付けたことは一生忘れられません。

天啓

私は最近、人を「超越するもの」(=神・鬼・先祖etc…)とつながることを勉強してきました。それが儒教の六教です。目的は当然、亡き父と話したいからです。

六教は「礼」「楽」「射」「御」「数」「書」です。その中で最初の2つは帝王学です。一般人が学ぶとなると「御」と「射」です。最近はその「御」と「射」を突き詰めていました。
本来の「射」とは文字通り弓道です。
具体的には的は襲って来ませんので、じっくりと時間を使い呼吸を整えて身体との対話することです。
そしてこれは私の解釈ですが「自分の精神」から見ると異世界である「肉体」と繋がるものが「射」という認識です。
繰り返しますが、儒教の六教は異世界や「超越するもの」とつながるためのものです。そして突き詰めた結果、私は「御」と「射」を極めた「那須与一」とつながることができました。

私は先日屋島に行った際に「御」と「射」を実践し、屋島から見える五剣山に雲がたなびくという神秘的体験をしました。
そのことを亡き父の墓前に報告し、「那須与一とつながれたよ、おもしろい体験させてくれてありがとう、もっと話がしたい」と伝えました。
そしてお墓から家に帰る道中に降ってきた天啓が先ほど述べた「射」=「感謝」です。
この天啓は「感謝」を人生訓にしろという「父」からのメッセージでもあると思ってます。
幸いにも私の行動指針に入っていました。「素直・感謝・笑顔」です。

まぁ入れたのは最近です。
今までを振り返ると「人に求めすぎてたなぁ」と改めて思います。そこには「感謝」や「尊敬」という概念はありません。自分としての正義を「他人にに押し付けていた」んだなぁと気づかせてもらいました。

中村天風は「静寂を聞く」ことで悟りを開きました。
私は「射」という自分との対話で天啓を聞くことができました。
そして中村天風と私の場合は言語野の働きが働かない状態(左脳が働いていない)だったのではないか?と思います。

さすが孔子です。
異世界とつながるためと言いながら「感謝」を入れてくる辺り天才的です。
孔子様ありがとう。
やはり私も父と話せた「喜び」が感謝になっています。
つまりは幸せを増やせば「感謝」が増えるということだと思います。
幸せを増やしていきましょう。
あ、父の名前は「幸せが一番」の「幸一」でした。

皆様も天啓が降ってくることをお祈りいたします。
ありがとうございました。



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