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私は、猫だ

 私は、猫だ。
 名前は、もう、ない。

 飼い主はいなくなった。
 飼い主を含めた人間たちは全ていなくなった。
 私も長く生きたので、そこそこ人間の言葉が分かった。

「この星はもうだめだ」
「旅立たなければ」
「ペットを連れてはいけない」
 人間たちがこの星からいなくなる前、断片的にそんな声が聞こえてきた。

 私の飼い主は、この星がだめになる前に、この世からいなくなった。
 いつも胃が痛い胃が痛いと言い、常にくしゃみで歪んだような、苦しげな表情をしていた。
 小難しいことを考え、先生扱いされてはいても、ああまで苦しんで生き続けることになるのなら、私などは適当なところでくたばろう、そう思っていた。
 ある夜、飼い主は酔っ払い、枯井戸の蓋をずらして飛び込んだ。
 致命傷を負ってはいたが、死ぬまでは少し時間があった。
 私は井戸の底を覗き込みながら、飼い主の世迷い言を聞いていた。

「広すぎる世界について考えることには疲れた。
 始めからこのような、小さく切り取られた空の下だけで生きるべきだった。
 本なら一冊あればいい。
 ペンは一本でいい。
 妻も、子も。
 俺が書くべき小説など、一編だけで良かったのだ」

 言うべきことを言った後も、バツが悪そうに飼い主は束の間、生きた。
 私は彼の言うことを肯定する気はない。
 食べれる時に食べ、眠れる時に眠る。
 私にとって生きるとは、それだけだ。
 私は、猫だ。

 今や地球そのものが、使われなくなった井戸だ。
 もうそろそろ地上に私の食べられるものがなくなってきた。
 海へ。
 海へ。
 川をたどり、海へ。
 そこにはもう、何もいなかった。
 川に泳ぐ魚がいないことからも気付いていた。
 海に入ると私は眠った。
 上も下もすぐに分からなくなった。
 一編の小説など書けなくてもいい。
 最後に魚が食べたかった。
 食べるものがなくなったので、後は眠るだけだ。

入院費用にあてさせていただきます。