バレエ・ヤマカイ氏とヒューマ氏の問題について考える

youtubeを観ていて偶然、この動画にたどりついた。

10代バレエダンサーの真剣な思い

ざっとかいつまむと19歳の気鋭の舞踏手がバレエ系youtuberの先駆者であるヤマカイ氏に対し苦言を呈した動画である。
かなり強い口調で批判、非難している。

それに対してヤマカイ氏は指摘された内容ひとつひとつに釈明、反論した。

悲しい.. 実はバレエ界の敵になっていたらしい

この二つの動画を見て幾つか思うことがあったので書いてみたい。

もともとこうした対立はおそらくすべての文化に存在している。
仏教においても、修行したい人が集まって追求すればいいじゃない、という小乗仏教と、いや、坊さんだけで集まっていてもしょうがない、仏教に縁の遠い人にこそ救いは必要なんだから広めなければいけないという大乗仏教がある。そして小乗仏教には小乗仏教の悪さ、選民意識による増上慢や、オウム真理教のようなカルト化の危うさがあり、一方、大乗にも大乗の悪さがある。コマーシャリズムと商業主義に流されたり、説く僧侶自身の修行不足からくる悟りの説得力の無さであったり。

普及ということを考えると小乗と大乗は両輪であり、イチローや羽生選手、将棋の藤井くんのような人間の可能性の凄さを見せてくれる突き抜けた存在も必要だろう。
かといって業界はスター選手だけいても回らないし、スターが生まれる土台には競技人口の厚みが必要になる。こうした問題はヘッセの『ガラス玉演戯』でも主題となっている。

ヤマカイ氏は「なぜバレエを広めるという大義名分なのにバレエ以外のことばかりやるのか」という批判に対し「バレエに関心のない人はバレエをそもそも見ない。まず人に関心を持ってもらう必要があるのだ」といっている。また、能と歌舞伎の関係に言及している。能は庶民には冗長で退屈だから娯楽として歌舞伎が生まれた。能は能として保存するとして、時代に合わせて変化は必要なのではないかと。

まあこれはちょっと誤認で能は能、歌舞伎は歌舞伎で別の歴史があり、歌舞伎は能から派生した訳じゃないので微妙なたとえ(能のテンポと形式でしか成しえない表現世界もあるし、むしろバレエで先鋭化された演目、ボレロなどは歌舞伎より能・神楽に近い)だったが、これも危ういのは、その理屈でいくと歌舞伎が能にとどめを刺してしまう可能性があるということだろう。
ヤマカイ氏がバレエ普及のために出す動画が面白く人目を惹くほどに、バレエよりこっちの方が面白いわ、バレエはいらないから面白いことやってよ、というリアクションも生まれてしまう。

私の職業フィールドである武術の世界と重ねても他人事ではない。
今ではyoutubeで今まで武術に関心のなかった層やライト層に働きかけて認知されようとする先生が多くいる。それは地方修行者などにはありがたいことだ。
しかし一方で、視聴者が武術をむさぼって食べ散らかし、もっと何か面白いものみせて、もっともっと、他にないの? 飽きたわ、つまんねえな、というようなモニターの向こうにある暇つぶしの受動型コンテンツとして消費されていき、結果として文化寿命を縮める危険性もある。
そしてyoutubeで有名な先生のところに入会したら、その人気で人があふれていて全く直接指導してもらえなかったので辞めました、という話も聞いてしまい、つくづく普及というものは難しいと思った。
これは指導者のキャパシティを超えて人を集めてしまう問題もあるが、その先生ではなく道場の先輩が初心の指導をしてくれるということに意義を見出せない、つまりそれこそコンテンツの内容ではなく人についてきてしまったことの弊害も感じる。

私個人としては万人が理解者になってくれる必要はないが、武術と巡り合うことを必要としている人のところに情報が届くことが一番最優先に思う。
とはいえ、社会から排斥されるようなものではないという安全性はまず認知されないと困る。余談だが、そういう理由で実戦性や武勇伝などオラついたことを前面に押し出すことがブランドイメージや武術文化を守ることだと思っている層に対しては距離を置いているし、巻き込まないでくれと願っている。武術は暴力を内包する文化なので、一歩間違えばパブリックエネミー、反社会的集団として石を投げられる可能性が常にある。余談終わり。

この論争に関するTwitterの検索をしてみると、youtuberとしてのヤマカイ氏を擁護、支持する人ほど、バレエそのものは嫌いになった、ヒューマの踊り見たけどつまらないじゃん、バレエだけではだめなんだよ、というような、ヤマカイ氏のバレエ普及の志とは相反する感想を口にしている。
あまつさえヒューマ氏の所属する団体に抗議しよう、クロアチアのバレエ団は最悪だ、というような所属する一個人の思想信条をとってカンパニーに責任追及しようとするような正義をはきちがえた私刑に走る部外者が暴走している。
生まれてこのかたバレエ一筋で生きてきたヒューマ氏が十年以上かけて努力で正当に手に入れてきたものを部外者の野次馬がやめさせようとする権利などないし、それはヤマカイ氏も願ってはないだろう。

両者の意見は頷けるものもあれば、そうとも言い切れないものもあり、どちらも分かるし間違っていないが立ち位置が違いすぎて正解のないもののように思えた。

が、である。

実は私としてはここからが本題なのだが、ヒューマ氏のこの動画を見て、ちょっと全体の印象が変わってしまった。この話は職業的、芸術的価値観の相違というだけの話ではないのかもしれない。

こんな僕のバレエへの想いを話す真剣な動画です。

これはヒューマ氏が克明に幼稚園から今までのバレエ歴を説明した動画なのだが、見終わった後、言いようのない恐怖を感じた。
まず、タイトルと内容の乖離で、ヒューマ氏のバレエへの想いとはなんなのか、というと「ない」のだ。
幼稚園の時、姉と共にバレエをはじめた。練習はまったく楽しくなかった。しかし、始めたときから、いや、始める前から召命の直観があり、自分は職業舞踏手として生きていくんだなと分かった。だからバレエは好きではないし、楽しくもなかったが、それが理由で辞めるという姉が理解できなかった。なぜならバレエは趣味ではなく宿命だから。

普及とは、バレエを選ぶ人を増やすということだろう。しかし、それは彼にはそもそも理解できない概念なのだ。バレエに選ばれた人間だから。

ヤマカイ氏はヒューマ氏に「怪我だけはしないようにやっていってほしいですね」と言っている。なぜか? ヤマカイ氏はもし靭帯を切ったり踊れなくなっても生きていけるのだ。バレエを通してパートナーと出会い、愛をはぐくみ、それ以外にも社会性がある。指導者にもなれるし、バレエがヤマカイ氏の人生にもたらした豊かさとはそうした部分にもある。

が、ヒューマ氏は家族とバレエという二つの場所しかない。それは年齢によるものではない。多分この人は一生こうだし、友人と語らい、酒を酌み交わしたり、恋をしたり、といった時間は練習を削られる時間の無駄、苦痛と感じるのではないだろうか?

ヒューマ氏はヤマカイ氏を猥褻と断じたが、ヒューマ氏は上の動画でお母さんが作った無添加の食事にまっすぐに感謝をのべている。お母さん、お母さんを連呼して。いい息子、自慢の息子だろう。
しかし、あまりにも健全すぎる。健全すぎて歪つに感じる。そこにはベッドの下のエロ本やババア、ノックしろと言ってんだろ! 的なやり取りの気配が微塵もない。ひょっとしたらそういう欲望が存在しないように見える。
だとすれば人の持つ業や葛藤は理解できないだろうし、外側は同じ人間のハードでも使っているOSが違うのだから、対話で理解しあおうというヤマカイ氏の呼びかけは難しいだろう。

この動画に恐怖、ショックを感じたのはなぜだろう?
常々、武術をやるということは武術そのものになること、人格や社会の制約から離れ自由になること、武術で得られるものは武術自体でそれ以外はノイズ。だからこそいいんだよ、と説いてきた。
しかし、常時、そちら側にいるのが当たり前という「彼岸の人」は、凡夫とコミュニケーションがとれなくなるということをまざまざと見せつけられたからだろう。芸術は人間をつまらない社会的制約から解放してくれる。しかし、そちら側だけで生きる存在は社会と相容れなくなる。

誰もいない古刹で仏像と対峙すると恐怖を感じることがある。
そこに石油ストーブや賽銭箱、社務所など、若干、俗なものがあるとくつろげるのだが、むき出しの仏単体は人に似た人でない何かだ。生老病死や人間関係の愚痴といった人間臭い悩みが一切ない存在から向けられるまなざしはこちらを戦慄させる。
その峻厳さが息をするのも瞬きも忘れて食い入るような、踊り手に意識を重ねて作品世界に没入させる入神の芸を生み出しているのも確かだろう。それは娯楽や受動的コンテンツではなく、受け止めるチャンネルがある人とない人がいるというヒューマ氏の主張もわかる。

だが私の専門である武術、特に出家を前提とする少林拳などの外家拳ではない、道教を旨とする内家拳は生活と不可分なので、芸術的霊性を生きることと社会の中で人間的幸福を得ること。稽古で純粋な運動原理そのものになり一個人の人格としての自我から解放されることと稽古後にだらだら酒を飲んでしょうもない話をすることは等しく大事になる。
そして稽古を共有してない相手との酒の話は深みに乏しく、酒を飲んで話しているうちに新しい技術の発見がある場合もある。

指導者、武術家としては世界と社会の境界的存在、シャーマンとして、橋渡しをしていくことが使命かもしれないな、と思った。おわり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?