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ひとりでもお客さんが来てくれる限り- JR東日本唯一の立ち売り駅に響く、1回30秒の餅売りの声 -

福島と山形を結ぶ奥羽山脈の難所、板谷峠。1899年に鉄道が開通したこの区間に、蒸気機関車の峠越えを支えるためだけに作られた駅がある。その名は「峠」。

一昔前、駅のホームで「駅弁、えきべーん」という売り子の掛け声とともに、立ち売り、ドア越し販売が行われていたが、東日本で唯一、今もその姿を見ることができるのがここ峠駅。乗降客は限りなくゼロに近いこの無人駅で売られているのは「峠の力餅」だ。1901年に「峠の茶屋」初代が売り始めたお餅を木箱に入れ、現在は5代目の小杉大典さんが駅に立つ。

これは、峠に生まれ、峠に生きる5代目の物語だ。


#1 なにもないところにある駅


その場所を前にしたとき、本当にここは駅なのか、と不安が湧いてきた。

人の往来がない。耳に入ってくるのは、音程やリズムが違う鳥のさえずりとセミの鳴声だけ。線路の位置からおそらくここが駅だろうと思われる倉庫のような建物は、車が停まっていなければ廃墟にしか見えない。

中に入ろうかと考えたものの、看板がない。私有地では?という疑念を捨てきれず、まずは建物の横の細道へと足を向ける。この先に「the駅前」という景色が現れるのでは......そんな雨粒ほどの期待は、かすりもせずに大きく空振った。

左手には雨風に晒された年月を感じさせる木製の壁、右手には何年も美容院に行っていない髪の毛のようにもっさりたっぷり成長した植物たちの藪。目の前に伸びるのは、とても駅に続く道とは思えない。

壁の終点にある「穴」から内側を覗いたとき、ようやくこわばっていた肩甲骨の筋肉が緩んだ。線路がある。ホームがある。自分が「駅はこういうものだ」と思っているイメージからはだいぶ離れているけれど、ここは目指してきた場所で間違いない。駅だ。

目的地が確認できたところで、今度は来た道を折り返す。もう一つ訪れたい場所、「峠の茶屋」に向かった。

迷うことはない。なんせ、駅前には人が住んでいそうな建物は2軒しかないのだから。

#2 急勾配の峠を越えるために

なぜ、こんな山奥に駅と茶屋があるのか。その理由は、明治時代に遡る。

明治初頭、「富国強兵」をスローガンに近代化を推し進めていた明治政府は日本の隅々まで鉄道網を拡大し、奥羽山脈を貫いて太平洋側と日本海側を結ぶ鉄道を敷く計画を立てた。

ここで大きな壁として立ちはだかったのが、福島と山形県・米沢の間にある板谷峠。最大約38メートルある峠の高低差が、蒸気機関車の性能の限界を超えていたのだ。そこで急勾配を克服するために、スイッチバック方式が採用された。

スイッチバックとは、ジグザグに走行し登坂する方法。列車は平らな場所に設置した駅に本線から入り、燃料を補給した後はバックして引き込み線に入る。平坦なところで再発車して加速をつけてから、上り坂に挑むというものだ。

スイッチバックの仕組み (小杉大典さん提供)
峠駅構内に残る、スイッチバック引き込み線の遺構

羽州街道沿いの板谷宿・大沢宿にスイッチバック方式の鉄道駅を設けることが決まったものの、まだ問題は残った。当時の蒸気機関車は馬力が小さく燃費が悪かったため、板谷・大沢の間にある峠を一気に越えることができない。中間地点に石炭と水を補給する駅が必要だということになった。

駅の立地に選ばれたのは、標高622メートルの峠の頂上で給水可能な谷筋の一角。周りには当然民家などないため、地名も存在しない。補給基地として建てられたその駅は、ずばり「峠」と名づけられた。

#3 乗客の休息のお供・峠の力餅

「当店の初代にあたる人は、参勤交代の街道沿いで峠の茶屋を切り盛りしていました。一念発起して奥羽本線鉄道工事に従事するかたわら、茶屋自慢の大福餅を人足たちに振舞っていたそうです」

そう語るのは峠の茶屋5代目の小杉大典さん。

鉄道開通後、話を聞いた初代峠駅長に「乗客に売ったらいいんじゃないか」と言われ、駅構内で列車の窓越しに餅を販売したのが、今のスタイルのはじまりだという。

「蒸気機関車での峠越えはトラブルと隣り合わせで、乗客は駅に着くたびほっと一息。峠の力餅は、石炭と水を補給して列車が発車するまでの、つかの間の休息のお供となったと聞いています」

緊張しながら峠を越えたあと、口いっぱいに頬張る甘くて柔らかい大福は、どんなにか旅人の気持ちをほぐしたことだろう。「ちから〜もち〜」という売り子の声を聞くのを楽しみにしていた人も多かったはずだ。

現在売られている力餅、ひと箱8個入り1000円

しかし、峠駅での情緒ある立ち売り販売は、時代の流れとともに姿を変えていく。

1949年、福島〜米沢間の電化により蒸気機関車が電気機関車に替わり、馬力がある急行列車や夜行列車は峠駅に停車する必要がなくなった。普通列車はその後もスイッチバックで板谷峠を越え、鉄道名所のひとつとなっていたが、1992年に山形新幹線が開業したことが大きな転機となる。新幹線を走らせるために路線改良が行われ、在来線も新幹線と同じ線路を走ることになったため、スイッチバックが不要になったのだ。

峠駅に停車する電車は現在上り6本、下り6本。山登りのシーズンは峠駅南方にある2つの秘湯へ向かうお客さんが利用するが、乗降客がほぼいないことも多い。停車時間は短く、立ち売りでの販売が可能な時間は約30秒。乗客と会話をしながら餅を売っていた情緒あふれる光景は失われてしまった。

「ちから~もち〜」と声を上げると同時に、お客さんにドア越しに商品を渡してお金を受け取る。5代目の駅立ち売り販売は時間との戦いである。

電車の到着時間に合わせて、力餅が入った木箱を背に駅に向かう
電車が停止したらすぐに販売ができるよう、駅の定位置で電車を待ち構える
ドア越しに数秒でお餅とお金を交換する

#4 総世帯数3軒の集落で生まれ育って

小杉大典さんは1976年、峠の茶屋4代目夫婦の長男として生まれた。

現在2世帯が住む峠集落は、小杉さんが生まれた当時でも3世帯。最盛期には鉄道関係者や鉱山関係者、温泉に荷を運ぶ人足などで80世帯が住んでいたこともあるという風景を想像させるのは、朽ちたまま放置されている住居群だけだ。

「もともと集落がある所にできた駅ではないので、過疎といわれてもピンとこないんですよ。生まれたときから、この環境を当たり前と思って育ちましたから」

家族は自宅に併設した茶屋の経営と駅での餅売りで忙しく、小杉さんは弟・妹が生まれるまではひとりで遊ぶことが多かった。周囲には遊びに行く友だちの家もない。

ある日、茶屋にあった大きな五玉そろばんでガチャガチャ遊んでいた小杉さんは、3代目に「そんなことしないでちゃんと使え!」と怒られた。外出の機会があると書籍コーナーに向かうのを楽しみにしていた小杉さんは、そこで見つけたソロバンの実用書に探求心をくすぐられる。キラキラとしたダイヤ型の玉の動きの図解を見ながらソロバンを覚え、小学校低学年の頃にはお店に立つようになった。お客さんにお餅を「どうぞ」と渡しては、ソロバンをはじいてお釣りを受け取っていたそうだ。

「それほど面白くないけれど、選択肢が少ないなかでは楽しかったんでしょうね。家業を手伝っているという意識はなかったなぁ」と小杉さんは懐かしそうに語った。

とはいえ小杉さんは幼い頃から父親に「大典は跡継ぎだ!」と言われて育ったという。7人兄弟の末っ子にも拘わらず兄姉が次々と家を出たために後を継いだ4代目は、ことあるごとに「後継ぎの使命」を小杉さんに刷り込んだ。

小杉さんは24歳の時に、峠の茶屋と力餅の駅売り販売を生涯の仕事にしようと決めた。ただそれは父親に言われたからではない。「後を継ごうと思える理由」が小杉さんの胸のうちにあったからだ。

#5 通学電車で見続けたお客さんの姿

3世帯だけの峠集落には、当然ながら学校はない。小杉さんは5歳から電車で通園、通学した。

幼稚園は山形方面の米沢へ。ひとつ手前の集落である板谷にも幼稚園がなかったため、板谷の子どもたちを引率して通学する先生に一緒に連れていってもらった。小学校は板谷に通ったが、これも、米沢から来る先生と落ち合って一緒に電車に乗った。

峠の茶屋の入口に残されている、昔の駅看板

小杉さんが通学するとき、ご両親は立ち売り販売に向かう。学校から帰って峠駅に着くと、ご両親は餅を売るために待機していて、販売が終わったら一緒に茶屋兼自宅に戻った。

板谷から峠まで1駅5分。毎日学校から帰る電車のなかで、小杉さんはドキドキしていたという。お餅を欲しがるお客さんが、峠駅に近づくとドアに寄っていく。「そわそわするお客さんの背中を見ながら、『立ち売りが出ていなかったらどうしよう』と気になって仕方がありませんでした」と当時を振り返る。

日中の電車の停車時は基本的に立ち売りに出るとはいえ、ご両親にも事情がある。待っているお客さんがいるのに販売に出ていないのを見たときは、申し訳なく思ったという。

小杉さんは家業を継ぐことを決めた。親の背中ではなく、お客さんの背中を見て。

「親の背中だけを見ていたら『継ぎたくない』と思うことがあったかもしれません。ただ、自分は幼い頃からお客さんの背中だけを見ているので、家業を継ぐことに対して抵抗はありませんでした」

後を継ぎたくないと思ったことは一度もないと、小杉さんは何度も繰り返した。

「こんなところで商売しているからどうしてと思われるのかもしれませんが、自分のなかでは自然な流れでした。要するに、逆らうほどの強い意志がなかったんでしょうね」と微笑みながら。

幼い頃は背中を見ていたお客さんに、今は正面からお餅をお渡しする

#6 頑張れば頑張るほど空回り

中学・高校は電車で米沢に通い、高校卒業後に社会勉強として米沢市内のレストランで6年ほど働いた後、小杉さんは峠の茶屋に戻ってきた。

小杉さん曰く「遊び人」だった先代は、小杉さんが家に帰ってきた途端、「なかのことはぜんぶ任せた、俺は外で庭いじりをする」と、茶屋の前の庭園造りに精を出すようになった。先代は油絵も嗜んだので、峠の茶屋の店内には先代の作品がずらっと並び、お客さんは先代の絵を「すごいなぁ」と褒めたたえた。とにかくおしゃべりが好きだった先代は、蒸気機関車時代の話をはじめ、お客さんとよく昔話をしていたという。

「先代は先代なりに『盛り上げよう』と頑張っていたんでしょうね」と小杉さん。一方、当時まだ20代半ばの若者は、街に出て調理の勉強をした経験を活かそうと、やる気に溢れていた。

茶屋の前にある、4代目監修の立派な石庭

「ホームページを立ち上げたり、茶屋のメニューを増やしたりと、新しいアイデアを色々試した」と小杉さんは語る。ただ、峠を盛り上げたいと頑張れば頑張るほど、うまくいかない。勢い込んであれを売ろうこれを売ろうとすればするほど、自分が空回りしていると痛感させられたという。

「自分がどんなに新しいことをやりたいと思っても、お客さんが求めているものは違う。峠に来られる方は、街中のように新商品が次々と出るお店だから足を運ぶのではなく、峠の静かな空間を楽しみにくるのだと気づきました」と、小杉さんは苦笑いした。

峠の茶屋の前にある渓谷から湧き出る「力水」と、板谷峠の山並み

#7 心の無いロボット

「いろいろ試してダメだったときが、一番きつかったですよね。鬱状態になりましたから」

自分のアイデアが通じないとわかったとき、小杉さんがぶつかった壁は「承認欲求」だった。

先代は、お客さんと話すことで、庭を作ることで、絵を描くことで「自分」を表現していた。しかし、小杉さんには表現する自分がなかった。

「跡を継ぐことに抵抗はありませんでしたが、そこには『個』がありませんでした。『小杉大典だからこういうことをやるんだぞ』っていうのがまったくなくて。自分がないということは、要するに『心の無いロボット』ということですよね」

日々、茶屋の店頭と駅のホームに立つ小杉さんの心の中では、「作るものを作って売っていれば、小杉大典じゃなくてもいいんだ」という思いが暗い影を落としていた。

出口が見えなかった時期を思い返しながら、小杉さんは続ける。

「自分は社交的ではないので、他人に相談することはありませんでした。いまのようにインターネットで簡単に情報を得られる時代でもなかったし。最低限のことをやって、とりあえず毎日をなんとかやり過ごしていたんです」

「自分がなぜここにいるのか」、答えを見つけるのは簡単ではなかった。ただ、自身を「そんぴん(米沢方言で頑固者、ひねくれ者)」と称する小杉さんの胸の内には、「自分で答えを出したい」という気持ちがあった。

「極端なことをいえば、『ここに住んでいるから鬱になるんじゃないの』という答えだってありうる。『だったら街に出ろ』という選択肢が心をよぎったこともありました。実際、小学校に通っていた頃は200世帯ぐらいあった隣の板谷は、人がどんどん出て行って急速にさびれてしまったし。ただ自分は、峠を出て違う仕事をしたいという気持ちにはならなかったんです」

峠で生きていきながら鬱状態から脱却する、というのが小杉さんの最終的な目的地。そこに至るまでには長い時間が必要だった。

#8 細く長く

鬱から抜け出すために、小杉さんは自分を主張することをなくしていった。

「先代は絵を描いて庭を作って周りから『すごい』と言われると、気分が高揚する性格でした。ただ自分は違う。だったら、悩む自分ごと消してしまったほうがいいんじゃないか」と考えた小杉さんは、「俺が俺が」と尖ろうとするのを止めた。そうすることで、3年ほど続いた鬱状態は少しずつ落ち着いていった。

30歳前に仏門に入ったかのような境地に達した息子に、先代は「面白味がますますなくなった」と口にしたという。

峠の茶屋の店内

「昔祖母に言われたんですよ、『商売は牛の涎だ』って。牛の涎ってダラーっと長く伸びるのに切れない。商売を太くしたいなら、売り上げを伸ばして支店を持とうとか考えるでしょうけど、自分が目指すのは、細く長く、切れずに続いていく牛の涎のような存在。いまは大量にお土産を買う時代でもないですし。家族が食べていけるだけの売り上げがあって、駅で立ち売りを続けるために元気でいられれば。願うのは、それだけです」

小杉さんには二人の息子がいる。後を継いでほしいと思うか聞いてみたところ「それは難しい問題ですね」という答えが返ってきた。家業だけを見れば続けていけるかもしれないが、小杉さんが気にしているのは「集落としての限界」だ。

「子供たちが成人に達する頃には、おそらく峠集落にはこの家しかなくなります。頼れる人が周囲にいなくなり、ぜんぶ自分でやらなくちゃいけない。こんな家の跡継ぎにはさせたくないって気持ちがあるんですよ」

#9 周りが変わっても変わらないこと

山形新幹線が開業して30年以上が経過した。峠に遊びに来る子供たちはもちろん、彼らの親もスイッチバックを知らない世代である。

「父親と同じように、自分も昔話の語り部をする年齢になっちゃいましたね」と、小杉さんは苦笑する。

逆に、20年ぶり30年ぶりというお客さんもよく来るという。電車のなかから「覚えているか」と名前を呼ばれて、会ったのは小杉さんが子ども頃ということも。「僕は覚えていないんですけど、向こうはよく僕だってわかりますよね」と小杉さんは笑う。

峠駅に駅員がいた時代はもう40年も前なのに、「ここで仕事していたんだ」という80歳以上の方が訪ねてくることもあるという。

かつては、山に登るため、温泉に行くためという理由で峠の茶屋に立ち寄る人がほとんどだったが、気づけば客層も変わった。

峠駅のなかに車を停めて自撮りした写真をSNSで拡散したり、コスプレイヤーが駅で撮影をしたり、映画のロケのように駅周辺の場所を借りに来る人たちを見ると、「若い世代の考え方、遊び方は違うんだな」と新鮮に感じるという。

お店の軒先にあるロボットは、小杉さんの奥さんがお客さんに遊んでもらうために準備したもの。中に入って写真も撮れる

以前は自らホームページで発信をしてお客さんを呼んでいたが、スマホが普及してからは、訪れてくれた人が自ら情報を発信してくれるようになった。小杉さん自身、立ち売りの際はいつも、電車のなかから、ホームからカメラを向けられる。

「自分は昔から続く家業を変わらずやっているだけなのですが、周りからの見方が、古いんじゃなくて珍しい、に変わっていきましたね。ただそれが寂しいわけじゃなく、珍獣のように思われても、来てくれるお客さんがいなければ、自分の商売は立ち行かない。なにかしら心の琴線に引っかかって、峠の力餅・峠の茶屋が面白いと思って、なおかつ実際にこの山の中に足を運んでくれるお客さんには、感謝しかない」と小杉さんは言う。

周囲の環境・状況がどんどん変わり、期せずして「東日本で唯一の駅立ち売り販売」という看板を背負うことになったいまでも、小杉さんは幼い頃と変わっていない。ただ、楽しみにしてくれるお客さんをガッカリさせたくないのだ。

「ここに自分が居続ける理由は、むしろそれだけですね」

自然条件や野生動物との衝突など、課題の多い山形新幹線の福島〜米沢間。ここに全長約23キロの「米沢トンネル(仮称)」を作ろうという計画が持ち上がっている。トンネルが開通すれば、峠駅は消滅する。

それでも、峠駅に電車が停まり、ひとりでもふたりでも力餅を欲しいというお客さんがいる限り、小杉さんの声は、ホームに響き続けるだろう。

「ちから~もち~」

取材・文・写真/ロマーノ尚美

峠の力餅「峠の茶屋」公式ホームページ

【JR峠駅での立ち売り販売について】
・販売可能時間は約30秒
・売り子の立つ位置は電車最後尾の乗降口前
・電車によっては予約が可能(詳しくは公式HPを参照)
※多くの方がスムーズに購入いただけるよう、ご協力ください。


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