読みたかったのは私だけではなかったーミニ読書感想『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆さん)
書評家・三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年4月22日初版発行)が面白かったです。これほど心に刺さるタイトルもありません。ほんとに、なぜ?なぜ仕事を一生懸命やって、こんなに頑張っているのに、大好きな本を読めないのだろう。本書は、本好きにとって切実な問いに、真摯に向き合ってくれる。悩む私と同じように向き合ってくれるから勇気が湧く。
「そんなの、仕事で疲れるからでしょ?」で世間的に終わらせられそうなテーマ。でも、疲れていても、好きなものは楽しめるはずでないのか。なぜ楽しいはずの読書が楽しくなるのか、それが問題なわけです。音楽な好きな人は読書を音楽に、演劇が好きや人は演劇に置き換えても構わない。
著者は「読書とはノイズである」と説く。スマホをスクロールして出てくるショート動画や、コタツ記事との違い。それは、読書が単なる情報ではなく、さまざまなノイズを含んでいるのだと。
ノイズとは何か。さまざまな説明が可能ですが、私は特に著者が「未知」という言葉で説明した部分が胸に残りました。
本には、未知が詰まっている。私たちは本を読んでみてはじめて「ああ、自分はこれが気になっていたのか」「こういう言葉をかけてほしかったんだ」と気付く。たしかにこれこそが、本を読む醍醐味です。読んでみないと分からない。読むことで広がる読書世界、読後に空を見上げた感じ。
でも、だからこそ本を読むことは「重い」。未知であること、予想がつかないことは、ある種の危険を伴う。その未知によって自分が揺さぶられてしまうからです。
思い浮かべたのは、千葉雅也さんの『勉強の哲学』でした。千葉さんは、学ぶことは自分自身に違和感を持つことだと説きました。学ぶことは、無限に近い知的世界に向かっていくことであり、固定された世界が崩れることだと。
人が読書を愛するのは、こうした変革を待ち望んでいるから。だけど、同時に疲れた人が読めないのは、変革がしんどいからである。「読書はノイズである」というスコープが解き明かすのは、いかに現代人が変わりたくないかです。世界があまりに混沌として、自分の足場を動かすのが怖いかです。
ああ、私は変わることが怖いんだな。「読めないのは忙しいから」と言われるよりもしっくりくる、自分の内心を発見しました。
面白いのは、「読書はノイズである」と説く本書自身が、たくさんのノイズを含んでいる点です。本書は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いを、わざわざ読書史と労働史を明治時代まで遡って考えるのです。
これがすこぶる面白かった!何が面白いかと言えば、それぞれの時代に、私と同様に読めない人がいるのです。悩みながら、揺さぶられながら、少しずつ読んでいる人がいたのです。
たとえば大正時代は、谷崎潤一郎の『痴人の愛』がヒットしました。『痴人の愛』は新聞連載され、当時のサラリーマン男性の夢(カフェで知り合った幼い女性を自分好みに育てる)を具体化したものだったと言います。つまり、当時のサラリーマンにとって「これなら読みやすい」という中身にした、谷崎のサービス精神の賜物だったといいます。
1970年代に流行ったのは司馬遼太郎作品。このうち『竜馬がゆく』について、著者はこんなふうに分析します。
上司のおぼえや、なんとなくの社内評価が自分の会社員生活を左右する。どうすれば会社人生を生き抜けるのか、当時のサラリーマンは司馬作品の竜馬に答えを探していたんだな。
『痴人の愛』を読んでいいなぁ、と白昼夢を抱く大正時代のサラリーマン。『竜馬がゆく』に勇気をもらう1970年代のサラリーマン。そんな読者たちが、今の自分につながります。きっと、他にも読みたい本はあったろう。でも、ベストセラーを読まないと話についていけないから、これらを読んでいたのかもしれない。何度も座席で寝落ちして、一向に読み進まなかったのかもしれない。
過去・歴史上の読者と連なる。彼らとの文脈を共有する。それだけでこんなにも勇気が湧いてくるから不思議です。読めないのは私だけではない。読みたかったのは私だけではない。
たぶん著者の説くノイズの豊かさは、こういうことなんだと思います。自分だけではない感覚。いま、ここだけが全てではない事実。それを知ることで、人生の視界はぐっとひらけてくる。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を、遠回りして考えることで、明治以来の読者史と接続する。新たな文脈が心に芽生える。なんだか不思議ですが、私は本書を読んだことで、今日よりも少し、明日は本が読めそうな気がしたのでした。
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