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小説は「在るのに見えていない現実」を可視化するーミニ読書感想「文学は予言する」(鴻巣友季子さん)

翻訳家、鴻巣友季子さんの「文学は予言する」(新潮選書、2022年12月20日初版発行)が面白く、刺激的でした。タイトル通り、数々の小説が今の社会(未来)を「予言」してきたこと、なぜそのようなことが可能なのか?について、無数の作品を紐解きながら解説してくれます。特に、「ディストピア」「ウーマンフッド(シスターフッド)」「他者」という三つのキーワードを提起し、物語と現実を呼応して楽しむ方法を教えてくれます。

最も胸に残ったのは、「小説は現実を可視化する装置」だという一文。そこにたしかに在るのに、曇った眼差しのせいで見えていない現実を、小説は可視化してくれるということです。


「小説は可視化装置」というパンチラインを改めて引用します。「はじめに」で登場します。

わたしたちの予想や予測をつぎつぎと越える現実世界の展開に、文学の方がリアルに追い抜かれそうな印象すらあるかもしれない。しかし文学には、いま起きていることはすでに書かれていた。文学ははるか以前に「予言」していたのだ。ディストピア小説だけでなく、すべての小説は、すでに起きていながら多くの人の目に見えていないことを時空をずらして可視化する装置なのだ。そのことをこれから見ていこうと思う。
「文学は予言する」p7

タイトルは「文学は予言する」となっていますが、著者はここで「予言」とカッコ付きで使用していることに注目しましょう。つまり、予言は字句通りの予言=未来の出来事を予め言明すること、とは少し異なる。超能力的な予知とは異なる。では、なんなのか?

ここでの「予言」とは、小説が現実の中に埋もれた未来へのヒント・萌芽を「先取り」して物語化していることを指します。それが著者の言う「すでに起きていながら多くの人の目に見えていないこと」でしょう。

つまり小説家は、誰よりも現実を見ていると言えます。その中から優れた感性で、ただ生きているだけでは見えない側面を取り出してくれている。我々読者は忙しい日々の中で小説家の「異視点」を追体験する。これが「予言」を味わう楽しみです。

予言ではなく「予言」である。現実の可視化である。このことは、本書で中心的に取り上げられるマーガレット・アトウッド氏の次のような言葉と呼応しています。

「自分は予言者ではない。歴史上にも現状にも起きたことのない事柄は一度も書いたことがない」
「文学は予言する」p46

アトウッド氏は1984年執筆の「侍女の物語」でトランプ政権の登場を予見したと言われています。「侍女の物語」では米国とみられる国が超保守的で男尊女卑的な政権支配に移り、特定の女性が出産の道具として利用され、虐げられる社会を描きました。

しかしアトウッド氏は、これは予言ではなかったという。「文学は予言する」によると、実は執筆当時、こうしたグロテスクな男尊女卑システムを持つ宗教団体が米国に存在し、アトウッド氏はそれを物語の下敷の一つにしていたといいます。

現実を透徹した目で見る作家の言葉は、時に予言と見分けがつかない。アトウッド氏の一例から、この現象が手触りを持って理解できました。

本書は、星の数ほどの作品を取り上げ、こうした「予言」を味わう機会を与えてくれます。「予言」をどのように受け止め、現実とリンクさせればよいのか、読者と一緒に考えてくれます。

読了後、著者を小説の「予言」を受け取る「師匠」と呼びたくなります。鴻巣友季子さんを私淑していこうと決意したくなるくらいです。

鴻巣流の読解術は、横に広く読み、縦に深く読むこと。月並みに聞こえてしまうかもしれませんが、これです。たくさんの本を読みつつ、ディストピア小説におけるマーガレット・アトウッド氏など、「これ」と決めた作品を深掘りする。縦にも横にも強度がある読みだからこそ、作品間のつながりや、現実とのリンクを鮮やかに描き出せるのだと思いました。

トートーロジーかもしれませんが、小説を「より良く」読むためには、小説を「とにかく」読むしかない。なるべく多様な作家に出会い、そして鍵となる作家に親しむ。その訓練の先にようやく、小説が示す「予言」を深く味わうことができるのだと思いました。

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